(2)


「!」

 これだったのか! と、シエラは思った。衝撃がシエラの中を突き抜けた。目の前が暗くなる。自分の冷たい手が好きだと言ったミューズを思い出す。自分のことを好きだと言ってくれたときの笑顔を思い出す。自分のために一生懸命描いてくれた絵のことを思い出す。恥ずかしそうに、嬉しそうに、その絵を手渡してくれたことを思い出す。

 ついこの前のことだ。今度一緒に遊ぶ約束もした。一番初めに病を発症して、だが、一番初めに完治した。元気に笑って、嬉しそうに笑って、自分たちのために食事を作る手伝いまでして、大きくなったらアズウのお嫁さんになりたいと言ってアズウを困らせ、両親を困らせ、だから自分とも仲良く三人で暮らそうと誘われて、まるで本当の家族のようになれるかもしれないと想像させてくれたミューズが死んだ。

 何かの間違いだと思った。間違いでなければ夢だと思った。ミューズは子供なのだ。これからなのだ。これから成長して、好きな相手を見つけて、一緒になって、子供を生んで、好きな人と一緒に年を取って、一緒に死ぬ。楽しいことも嫌なことも、嬉しいことも幸せなことも、これからどんどん体験するはずだったのだ。しなければならないのだ。それが全て奪われた。


 おかしいことだと思った。死にたくても死ねず。死ぬことしか考えていない自分が生かされ続け、生きて色んなことをやりたいと言っていたミューズが死ぬなどと、あってはならないことだった。理不尽なことだった。認めたくないことだった。


「嘘よ」


 口を吐いた声が、自分でも驚くほど小さく、ひび割れ、掠れていた。だが、動き出す分には十分だった。

「嘘よ!」

 シエラはアズウに駆け寄った。アズウの隣に座り込み、アズウから強引にミューズを引っ手繰るようにして抱き寄せる。毛布から除いたその顔は真っ白だった。苦しんだのだろう。少し眉間に皺が寄っていた。恐る恐る震える手でミューズの顔を触ったなら、冷たいシエラの手よりも冷たかった。


 何で?


 頭の中は真っ白になっていた。思考回路が止まっていた。

 何も考えられず、ただ、「何故」という単語だけが頭の中を埋め尽くしていた。その単語が頭の中を突き抜けたとき、


「何で?! 何故ミューズは死んだの?! 何があったの?!」

 軽くなってしまったミューズを力強く抱き、シエラは涙を溢れさせて叫ぶように問い掛けた。

 アズウは戸惑いの表情を貼り付けさせたまま、腕の中のミューズの顔があった場所を見ているだけで硬直していた。アズウ自身もミューズの死を受け切れないでいるようだった。


「今朝、玄関先にこれが置いてあった」

 涙を拭い、そう言ってヒューズが差し出してきたのは茶色の小瓶だった。

 アズウはそれを見ようともせず、代わりにシエラが促した。

「それが何なの?」

「薬だと書いてあった。この瓶で押さえられていた紙には」

「薬?」

「変だと思ったんだ。玄関先に薬だなんて。本当ならすぐに処分したんだ。でも、その紙にはある人の名前が書いてあった。だから何で玄関先に置いたのか尋ねてからにしようと思って、薬をメモごとテーブルの上に置いておいたんだ。そしたら、ミューズの奴が勝手に呑んでいて、気がついたら……テーブルの下で……。

 いつもは勝手につまみ食いなどしないのに。ミューズも字は読める。だから、この薬の差出人の名前を見て、安心して勝手に呑んだんだろう。それがこんな……」

「いったい誰の名前が書いてあったと言うの?」

 そいつがミューズを殺した。絶対に許されないことをした。

 シエラはその人間に対して憎しみを抱いた。だから、怒りを込めて尋ねたなら、ヒューズの答えは更に衝撃的なものだった。ヒューズは言った。

「あんただよ。アズウさん」

『!!』

 アズウが泣き出しそうな顔を弾かれたように上げた。シエラはゆっくりと首を振った。

 あり得ないことだった。


「うそ……。嘘よ! アズウって、アズウが何でミューズを! それは何かの間違いよ!」

「こっちだってそう思いたい。でも、こうやって書いてあるんだから仕方がないだろ!」

 そう言って、突き出して来たメモをひったくるようにして奪い取り、シエラは文字に眼を走らせた。紛れもなくアズウの名前が書いてあることを確認した上で、否定する。

「これは罠よ! 私の命を賭けてもいい! アズウはこんなものを出しに行ったりしていない! アズウはミューズを殺していない!」

 対してヒューズは言った。

「ああ。分かっている」

 辛く、あらゆる感情を押し殺した声だった。シエラの思ってもいなかった言葉だった。


 てっきりヒューズはアズウを責めに来たのだと思ったのだが、違った。

 ヒューズは震える声で続けた。

「私だってアズウさんがこんなことをする人じゃないということぐらいは分かっている。

 もし、追加で薬が必要なら、必ずドアを叩いて、必ず私たちと顔を合わせて、薬の説明と注意を教えて行く。誰もいないのにメモと薬だけを置いて行くなんてことは絶対にしない。私が夕べ帰って来たときはなかった。早朝出掛けようとしたら置いてあった。つまり、その間に誰かが置いたってことは分かる。でも、その時間帯なら私たちが家にいることはアズウさんにも分かっているはずだ。それなのに声も掛けずに置いて行くなんておかしいじゃないか。だから私はそのことを確かめてからミューズに呑ませてやろうと思っていたんだ。それなのに……。

 私も悪かったのかもしれない。朝も早くてミューズはまだ起きて来ないと思ってテーブルに置いたまま水遣りをしに行っていたんだから。眼の届かない場所に置いて置けばよかったんだ。あの子はアズウさんを信頼していた。だから、アズウさんの名前を見て、呑まなければならない薬なんだと信じて呑んでしまったんだろう」

「そんな……」

 それだとまるで、アズウを責めているようにシエラには聞こえた。

 アズウが信用に値する人だったからこそ起きた悲劇だと言っているように聞こえた。


「僕の……せい?」


 呟くようなアズウの声に、シエラは反射的に否定していた。

「違う! アズウの所為じゃない。アズウは悪くない!」


 悪いのだとしたら私だ!


 シエラは内心で付け足した。かつてシエラは熱と発疹で苦しんでいるミューズよりも、無理をして体を壊すのではないかと思い、薬作りを休めばいいとアズウの身を案じた。

 言い換えれば、ミューズよりもアズウの命を選んだのだ。

 そのときの自分の心情に素直に従った結果の選択だった。だが、それが今現実のものとなって目の前に突き付けられたなら、自分が呪いを掛けたような後悔に襲われた。


 アズウは悪くない。アズウは何もしていない。アズウはミューズを助けた。村人たちを助けた。アズウは悪くない!

「アズウはミューズを助けた。そうでしょ?!」

 呆然としているアズウを見て、その痛々しさにシエラは胸が痛くなった。ヒューズに「そうだ」と言ってもらいたくて、反射的に問いただしたなら、ヒューズは言った。シエラからそっとミューズを引き取り、胸に抱いて、

「アズウさん。私はあなたに命の恩がある。だから言わせてもらいたいことがある」

 静かな前振りだった。アズウは悲しそうに眼を閉じて、静かに頷き促した。

「すぐにでも、荷物をまとめてここを出て行った方がいい」

 え? 

 シエラは自分の耳を疑った。ヒューズは何を言っているのだろうと思った。

 対してアズウは答えた。眼を開けて、悲しみとショックを取り除き、真っ直ぐにヒューズの眼を見て、

「ええ。そうします」

 シエラには理解できなかった。どうしてアズウが出て行かなければならないのか。

 逃げるのは罪を犯したものだけだ。何も罪など犯していないアズウが逃げる必要などどこにもないと思った。だが、そんなシエラの思いをよそに、二人の中で話はついていた。

「今まで世話になったな」

「いえ。こちらこそありがとうございました。それはそうと、一つだけいいですか?」

「ああ」

「奥様は大丈夫ですか?」

「ああ。うちの奴は俺より強い。あんたの名前が書いてあるにも拘らず、これはあんたが置いて行った物じゃない。こんな物をミューズの眼の届くところに置いたあんたが悪い! って俺をどやしつけて、あんたをここから逃がした方がいいから忠告しに行って来い。って、涙だけ流しながらきっぱりと言い切ってた」

「そうですか……」

「それから、あんたから貰った結婚記念日のブローチは一生大事にするって言っていたよ」

「そうですか。では、色々とありがとうございましたとお伝え下さい。そして、長く居過ぎてすみませんでしたと」

「わかった。じゃあ、気をつけてな」

「はい」

 その返事の後、ヒューズはミューズを連れて出て行った。

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