(4)



「何だか恥ずかしいね」

「こんなの貰ったの初めてだわ」


 すっかり暗くなった帰り道。ヒューズが好意で貸してくれたランプ片手に、村の終わりを告げる柵を通り抜けた二人は、ミューズが描いてくれたアズウとシエラの絵を見てしみじみと語った。柵を抜ければ村外れの位置にあるアズウの一軒家まで一本道だ。

 そこに来るまでシエラはずっとその絵を見ていた。

 アズウとシエラが仲良く手を繋いで楽しそうに笑っている姿だった。

 その上の方に一生懸命に書いた「ありがとう」の五文字。

 シエラはとても嬉しそうに眺めていた。


 そんなシエラを見て、アズウは胸が温かくなった。初めて出逢ったとき、シエラは死のうとしていた。思いつめた顔をして、全てを拒絶するような眼をしていた。それが今、自分の隣で嬉しそうに、幸せそうに微笑んでいる。生きる希望を見つけた。とまではいかないまでも、生きていることによって得られる喜びを知ってくれたのが嬉しかった。

 そして、そんなシエラを見ていられることが、アズウにとってとても幸せなことだった。


 ふと見上げれば、空には半月に近い月があった。

 シエラと初めて出逢ったときのような満月ではなかったが、月の優しい光が、まるで自分たちのことを微笑んで祝福しているようにアズウには思えた。星々が綺麗だった。


 原因不明の微熱が続き、その後に発疹が出る病が出始めた。初めはとても恐ろしかったが、今となっては、油断は出来ないまでも、特効薬もある。後は帰って、今日取ったメモをまとめて、病の発症原因を突き止めれば、防止することも可能なはずだ。


 アズウは幸せで堪らなかった。それこそ背中に羽が生えて、飛べるのではないかと思うほど、自分の心が弾んでいることを自覚していた。今までも十分に幸せだった。だが、シエラが来てからもっと幸せだと思った。自分のその幸せを、シエラにも分けてあげて、そうしたらもっともっと二人で幸せになれるような気がした。刹那、脳裏を『結婚』の二文字が過ぎり、アズウはようやく我に返って慌てて頭を振り、少しばかりはしゃぎ過ぎている自分を戒めた。


「どうしたの? アズウ?」

 横で、怪訝そうなシエラの声が上がったが、まさかシエラとの結婚のことを考えていたとは口が裂けても言えず、アズウは声を上擦らせてはぐらかした。

「な、何でもないよ。ほら、もう少しで家だし。この辺から道凸凹してくるから、そろそろ絵から眼を離した方がいいよ」

 と、慌てて説得すると、初めは呆気に取られた様子で、次は少し可笑しそうに微笑まれ、そうかと思った次の瞬間には、警戒の表情を前方に向けて、シエラは足を止めた。


 唐突なその変化に、反射的にアズウも家の方へ振り返る。

 ランプを掲げる。緩やかな坂になっている頂上付近。いつも洗濯を干すためのロープを張る樹の傍に、一人の男が立っていた。


「誰ですか?」

 問い掛けるアズウの声が硬かった。無意識に左腕を横に伸ばしてシエラを庇う。

 年の頃は二十代の後半から三十前後。短めの黒髪に黒い瞳。丸い眼鏡をかけた整った顔立ちの男だった。着ている物も黒で、それこそ闇に紛れるための姿と言われても仕方がないようないでたちだった。

 男は一歩アズウたちの方へ踏み出すと、

「あの、あなたが錬金術師のアズウさんと言う方ですか?」

 不安そうな表情を浮かべて尋ねて来た。

 一瞬、アズウは否定するべきかどうか迷った。迷った末、肯定した。

「だったら何ですか? そう言うあなたはどなたですか? こんな夜更けに何の用です?」

 すると男はいきなり地面に膝を突き、「助けて下さい!」と頭を下げて来た。

 これにはアズウも驚いた。慌てて駆け寄り自身も片膝を突いて目線を合わせると、

「いきなり何をするんですか? そんなことされては困ります。どうぞ立って下さい。中で事情は聞きますから。シエラ。先に行って何か温かい飲み物を。この方寒くて震えている」

 遅れてやって来たシエラに指示を出し、シエラが家の中へ入って明かりを点けるのを確かめて、アズウは男を立たせた。


 男の名前はケルンと言った。隣村の医師をしていると言う。

 入り口側の椅子にケルンを座らせ、その向かいに座ったアズウは、寒さで小刻みに震えているケルンから簡単に自己紹介された。

 いったいいつから家の前にいたものか、明かりの下で見たケルンの顔は血の気が引き、唇は紫色がかっていた。厚手の外套が必要というわけではないが、日中はともかく、夜ともなれば今はまだそれなりに冷える。アズウたちでさえ、ヒューズの家で食事を摂り、暖かな場所にいたものの、家に辿り着く頃には少々寒さを覚えていたというのに、この来訪者はどこかで時間を潰すことなくずっと外にいたらしい。


「それで、どうして隣町の医師であるあなたが、僕に会いに来たりしたんですか?」

 やって来られる理由がまったく想像出来なかった。隣村の医師と言えば、ミューズが嫌っていた医師だろう。だが、ミューズやヒューズが話していたときにイメージした人物像と、実際目の前にしたケルンでは合致(がっち)しないことが多かった。

 アズウはケルンのことを、もっと棘(とげ)のある、人を寄せ付けない神経質な人間だと思っていたのだが、どうにも目の前のケルンは気の弱そうな印象を受けた。

「あ、どうも、ありがとうございます」

 シエラがホットココアを作ってケルンの前に置くと、毛布を肩から掛けたケルンがぎこちなく感謝の言葉を述べ、そっと両手でコップを包み込んだ。

 氷が解けるように、ケルンの顔にも赤味が差し、表情の強張りも緩んだ。

 その表情はとても柔らかいとアズウは思った。

 そんなことを考えながら見ているアズウの目の前で、ケルンはココアを口に運ぶと一口含み、その暖かさを味わうようにして飲み下し、コップを置いてアズウを見た。


「実は、あなたに助けてもらいたいことがありまして」

「何ですか?」

「もうご存知かと思われますが、今この周辺でおかしな病が発生しています」

「おかしな病……」

「微熱が続き、それが過ぎると発疹が出るようになるのです」

「…………」

「どうやら、微熱が続いていたのを無理矢理熱冷ましなどの薬で下げてしまった人間だけが、後に発疹と高熱に襲われるということまでは突き止めたのですが、問題はその後だったのです。自然に熱が下がるのを待っていた人間はいいとして、熱冷ましを使ってしまったがために重症化させてしまった患者たちを治すための薬がないのです。そんなとき、隣村であるここでも同じ病が発症し、しかも、その症状を改善させるための薬があると言う噂を聞きました。それを聞いた瞬間、村人たちを救うにはその薬を作った人間に会うしかないと思い、急いで来たしだいなのですが……」

「タイミング悪く、僕たちが留守にしていたというわけですね?」

「はい。いえ、勿論連絡もなしに突然来た私が悪いのです。でも、私はどうしても薬を持って帰らなければならないのです。お願いします! どうか私に薬を譲ってはもらえませんか?!」


 そのために暖をとることもなく、明かりもない夜に、一人寒さに震えながら自分たちを待っていたのだと聞かされたなら、アズウにはケルンが患者思いの優しい医師のように思えて仕方がなかった。いったい何がミューズたちに気に入られていないのだろうかと思った。もしかしたら、隣村は隣村でも、位置的に違う村の医師なのではないかと思えてさえ来る。

 と考えて、問題はそこではないと思う。てっきりこの村の中だけで起こっていたことなのだと思っていたのが違ったのだ。いったいどれだけの人間がこの病に罹っているのかと考えると、背中が薄ら寒くなった。

 同時に、良かれと思って渡した熱冷ましが、症状を悪化させた原因だと知って後悔に襲われる。きっとシエラにそのことを話せば、医師でも分からなかったのだから仕方がないと言ってくれるかもしれない。もしかしたら、それでもアズウは自分で特効薬を作って皆を治したのだから自分を責める必要なんてないと言ってくれるかもしれない。

 だとしても、それはただの願望に過ぎず、事実は事実として受け止めなければならない。そして、他にも多くの人たちが同じ病で苦しんでいるのだとしたら、それを助けないわけにはいかない。


「分かりました。薬はお渡しします。一緒に薬の調合レシピもつけます。お医者様であるあなたなら、専用に薬を提供してくれる薬師がいるはずですよね? その人に渡してもらえば、薬に関しては大丈夫だと思います」

 そう言うと、ケルンは勢い良く頭を下げ、感謝の言葉を口にした。アズウはすぐに薬の半分と、調合用レシピ、処方の際の注意事項を書いた紙をケルンに持たせた。ケルンは何度も何度も頭を下げて、アズウの許を後にした。

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