第7話『濡れ衣の先の逃亡』

(1)


「どうしたの? シエラ。何だかこの頃ボーっとしているよ?」

「え? ああ、うん。ごめんなさい」

 アズウに声を掛けられて、慌てて水道の蛇口を捻って水を止めるシエラ。洗い物などとっくの昔に終わっていた。

「どこか具合でも悪いの? まさか熱が?!」

 ハッとしたようにアズウが最悪の事態を想定してシエラの額に掌を当てると、シエラは力なく笑って「大丈夫」と答えた。

「ちょっと考え事をしていただけよ?」


 シエラは自分が病の類に罹らないことを知っていた。焼かれて灰になっても死なないのだ。病などに罹るわけがない。

 今となってはアズウに心配を掛ける心配がないため良かったと思えなくもないが、灰になっても生き返るなどと知られたら、今までのことが全て失われてしまうようで、シエラは怖かった。

 このことを隠し続けられている限り、今の幸せは逃げたりしない。幸せを維持するためには隠し続けなければならない。隠し事をしているのは辛いが、また一人になることを考えるとさほどのことでもなかった。だからと言って、シエラがボーとしていた理由がそのことを考えていたからというわけではない。もっと別のことだった。


「考え事?」

 アズウが不思議そうに尋ねて来る。

 シエラは言うべきか言わないでおくべきか迷った。確固たる根拠も確信もないことなのだ。

 その迷いが顔に出たのだろう。

「あ、言いにくいことだったら別に無理して言わなくてもいいんだよ。でも、誰かに話すと意外に簡単に解決出来たりすることもあるから……」

 と、アズウが苦笑を浮かべながら遠慮がちに促して来る。

 それを見るにつけ、アズウはどれだけ人がいいのだろうと、シエラは心の底から思った。無条件で信じることが出来る人だった。この人だからこそ、今の生活や今の自分がいるのだと思った。だからこそ、不安にさせたくなかったし、心配も掛けたくなかった。嫌われたくはなかった。自分が、三日前に来たケルンという男に不安を抱いているということを言うことは出来なかった。


 この人は、人を疑うということを知らない。


 シエラはアズウの長所であり短所をそう認識している。

 そんな人に根拠もなく「あの人嫌だ。何だか嫌な感じがする」などと言ったなら、少なからず不愉快な気持ちにさせてしまうだろう。それがそのまま、「人を見た目や直感だけで判断して悪く言う人だったんだな」と、認識されてしまえば、シエラはとても悲しい気持ちになるだろう。他の誰にそう思われても構わないが、アズウにだけは思われたくはなかった。

 だからシエラは誤魔化すことにした。


「この頃料理のレパートリーが増えなくて。昔はもっと何だかんだ作れたはずなのに。一人暮らしで手抜きしてたら作り方忘れちゃったみたい。何かとっても美味しい料理があったはずなのよ。でもその作り方が思い出せなくて、それで最近そのことだけ考えてたんだけど、そんなに私ってばボーとしてたのかしら?」

 するとアズウは、「何だ、そんなこと……」とホッとした様子で呟くと、

「シエラの料理は何でも美味しいよ。だから気にしなくても大丈夫。全然飽きてないし。僕はまた具合が悪いのかと思ったから心配したよ。でもそうじゃないなら良かった。安心した」

 と、満面の笑みを残して、念のために薬を沢山作っておくから。と仕事場へ籠もることを告げて行った。その後ろ姿を見て、シエラは言い知れぬ不安を拭い去ることが出来なかった。


 そもそも三日前の夜。ケルンという男を眼にしてから始まったことだった。見た瞬間、恐怖を感じた。背中を寒気が走り、一瞬息が詰まった。表現方法がおかしいと思うが、「敵」だと思った。さすがに初めは警戒心を持ってくれたアズウだが、ケルンが土下座した瞬間、警戒も何も関係なくあっさりと駆け寄ったとき、見ていたシエラは心臓が潰れるかと思った。

 シエラにはアズウが男に刺されて崩れ落ちたように見えたのだ。結果的にはそれはただの幻想……というよりも妄想でしかなかったのだが、何故かそのときは本気で刺されたと思った。


 悲鳴すら上げられなかった。それだけシエラにとって恐ろしいことだった。

 我に返ったのはアズウに指示されたとき。アズウと男を二人きりにすることには抵抗があったが、足は勝手に走り出していた。家の中に入れ、ホットココアを作って出したときも、アズウと二人でケルンの話を聞いていたときも、シエラは言い知れぬ不安を拭い去ることが出来なかった。何がそんなに自分でも不安なのか分からなかった。

 それでも、ケルンがアズウから薬を貰い何事もなく帰って行ったとき、もう二度とあの男は現れないのだから大丈夫だと思った。

 だが、実際は逆だった。一日、一日が過ぎるごとに、言い知れぬ不安は膨れ上がって行った。とにかく、嫌な予感がするのだ。何か、良くないことが起こる予感。


 やっぱり、アズウにも相談した方がいいかもしれない……


 一人で抱えているには重過ぎるほど、シエラの中で不安は膨れ上がっていた。だとしても、話したところで原因が分かるわけではない。悪戯にアズウに不安を押し付けてしまうだけになってしまうかもしれない。その繰り返しが、アズウの許へ行こうとして足を踏み出しては、思い止まって足を引く。という動作に繋がり、身動きが出来ず、考えも進まず、傍から見るとボーとしているように見えるという結果に繋がってしまっていた。

 だが、今回ばかりは本当に話した方がいいかもしれないとシエラは思った。

 占い師の勘。というわけではない。それよりももっと根源的な勘だった。命に関わるときに働く勘だ。

 そう思うと、不安はシエラの中で爆発した。言わずにはいられなくなり、シエラはアズウの許へ走り出した。それと同時のことだった。

「アズウさん!」

 悲鳴染みたヒューズの叫び声と、勢い良くドアが開かれた。

 異常を告げるヒューズの声は、シエラの足を床に縫い付けた。直後に、異変を聞きつけたアズウが部屋から飛び出して来る。

「シエラ、今ヒューズさんの声が……」

 と、尋ねながら居間へ出て来たアズウを見た瞬間、ヒューズは涙を溢れさせて言った。

「ミューズが……ミューズが」

 それ以上言葉にならないようだった。ヒューズはただ、毛布で包んでいた胸の中の物を見てくれと言わんばかりに差し出して来た。

 シエラの心臓が一際大きく高鳴った。膝が震えて、脳裏に過ぎったことを必死に無視した。

 アズウの顔から穏やかな表情が消えていた。動けずにいるシエラの目の前で、アズウはヒューズの前に座り、差し出された毛布に包まれた物を受け取る。

 アズウは大事にその包まれた物を抱き、震える手で毛布を除けたなら、ヒューズは告げた。誰もが聞きたくない言葉を。


「ミューズが――死んでしまった!」


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