(2)



「フッ………ふふふ」

「もう、また笑ってる」

 二人はアズウの住む家に向かって森の中を歩いていた。そしてシエラは、何度目かの思い出し笑いを堪え切れずに吹き出していた。その度に、前を行くアズウが振り返って、恥ずかしそうに怒ってみせる。だからシエラは何度目かになる同じ言葉を繰り返すのだった。

「ご、ごめんなさい。だって、あのときのあなたがあまりにも間抜けていたから……」

「だからあれは、自分の発言が誤解を招いてると思ったから……」

「はいはい。分かってるわ。何度も聞いたもの。でも、やっぱりおかしくて」


 それはシエラがアズウの手を取り、アズウの申し出を受け入れたときに起こった。

 それまで嬉しそうな表情を浮かべていたアズウが、いきなり表情を強張らせたのだ。

 一体何がアズウにそんな顔をさせたのかと不安になったシエラが、どうしたのかと訊ねると、アズウは困ったような慌てた様子で理由を説明した。


「いや、あの、君を死なせたくなくて思わず僕のお手伝いさんに誘ってしまったわけだけど、良く考えたら……というか、良く考えなくてもはっきりと分かっていたことなんだけど、僕は一人暮らしで。そして、当然のことだけど、僕は男で。で、君は女性で。勿論、さっきも言った通りどこか別なところに住んで、通いで僕のところに来てもらっても構わないんだけど、でももし、僕の家に住み込みで……ってなると、その……べ、別に僕は変なことはしないけど! 本当に、月夜に誓って絶対変なことはしないけど! でも、周りからみたらどんな誤解をされるか分からないわけで、だから……、もしもそう言うのが嫌なら無理して僕のところへ来なくても……って思ったり……でも、来てくれるとやっぱり嬉しかったり……と思ったり」


 その今更のしどろもどろ気味な理由に、シエラは思いっきり呆れて唖然としてしまった。

 人を半ば強引に誘うだけ誘っておいて、今更断ってもいいよも何もあったものではない。

 人を説得するときは恥ずかしげもなく恥ずかしいことを口走っておきながら、後から我に返るのは反則だとシエラは思った。

 どれだけ天然な人なの?! と、呆れ果てた。

 呆れ果てると、また笑いが込み上げて来た。

 だが、本気で自分の発言に自己嫌悪を覚えたように項垂れているアズウを見てしまえば、笑いは苦笑に変わった。だからシエラは言った。


「大丈夫。私はあなたを信じます。あなたがそう言ったのよ? 最後にもう一度だけ信じてみろって」

「!」

 シエラが言うと、アズウは母親の機嫌を窺う子供のような顔を向けて来た。


 これじゃあ、どっちが慰めて助けられたのか分かったもんじゃないわね……。


 と、内心で思いながらも、シエラは続けた。アズウの手をしっかりと握って、

「私を独りにさせないと言ったのはあなたよ、アズウ? だったら一緒に住まなきゃ。宜しく。アズウ」

 そう言うと、雲間から差し込む陽の光のように輝く笑顔を浮かべてアズウは力強く「うん」と頷くと、

「じゃ、気が変わらないうちに行こう」

 シエラの荷物を持って、森の方へと足を向けた。

 そのとき、シエラは初めてアズウが竹篭を背負っていることに気が付いた。

 何故竹篭? とも思ったし、竹篭を背負ったままあんな無自覚な口説き文句や説得をされていたのかと想像すると、そこはかとなく間の抜けたシチュエーションのような気がして来て、何かが酷く滑稽に思われた。


 そんなやり取りを思い出す度に、シエラは吹き出してしまうのだった。

 他人と一緒にいてこんなにも楽しい気分になるのはいつ以来なのか、自分でも分からないほど遠い過去。アズウを見ていると、まるで自分までも子供に戻ったような感覚を抱かされた。

 あの川原にやって来るまでは、心が沈み、通った森は暗くて、先が見えなくて、絶望に向かってあらゆるものが手招きしているように思えたというのに、今は全く逆だった。目の前には、あまりにも自分が笑うものだから半ば不貞腐れてしまったアズウがいる。それでもシエラが歩き易いように木々を払ったり、草木を寄せたり、躓)かないように足元をランプで照らして気遣ってくれたなら、ランプよりも何よりもアズウ自身がシエラにとっての光だった。一緒にいると、絶望という名の闇が光に怯えて逃げて行くようだった。


 ずっとずっと昔、まだ自分が小さかった頃の肝試し大会のことを思い出した。そのときも、何が飛び出して来るか分からない恐怖と、全く逆の期待にも似た感情が同時に起こっていた。今も同じだった。

 この先にアズウの家がある。自分を信じろと言った男の家。独りにしないと誓ったアズウの家がある。本当にアズウは自分を裏切らないのか? 本当にアズウは誓いを守り続けてくれることが出来るのか?

 不安と期待が入り混じった。自分の行き着く先に何があるのか? 考えるまでもなく今までと同じ結果があるのかもしれない。だが、今度こそ違う結果があるかもしれない。


 また期待しているな……と、思った。

 また痛い目を見るかもしれないのに……と、思った。


 それでも、約束したのだ。最後にもう一度だけ信じると。

 そうしてみたい雰囲気がアズウにはあった。何かが今までと違うのだと、直感めいたものが働いた。それが吉と出るか凶と出るか。そんなことはすぐに分かると、シエラは思った。


 そして、すぐに凶だとシエラは思った。

 二人は狼に出会うこともなく、木の根に足を取られて転ぶことなく、無事にアズウの住む家にまで辿り着いた。

「ここが僕の家だよ」

 そう言って、アズウが先に家の中へ入り、明かりを点け、

「少し散らかってはいるけど、気にしないで」

 と言って招いた家に入ったなら、シエラは思った。その惨状を見て。

「何……これ」

 入ってすぐ、目の前には食事するための長方形の木で出来たテーブル。その四辺に木で出来た椅子が辺の短い方に一脚ずつ、辺の長い方には二脚ずつ。テーブルの奥は一応玄関からすぐに見えるからか特に何も置かれておらず、奥へもう一部屋あることは分かるが、問題は、テーブルの上だった。広げられたり丸まったままの設計図らしきものたち。

 そして右奥を見てみれば、それより酷い洗濯物が洗濯籠から溢れた状態。その上、流し台からもはみ出している食器類の数々。いくら男の一人暮らしだからといって、もう少し綺麗にしていてもいいのではないかと思われる、点々とごみが落ちている床。

 シエラは一瞬眩暈を覚えた。だが、そんなことに気が付かないアズウは「今荷物置いて来るから少し待ってて」と言い残して左の方へ入って行く。

 思わずその後を追うシエラ。そして、まるで爆発でもあったかのように本やら紙やらが散乱している現状を目の当たりにして、とうとう叫んでいた。

「ちょっと、一体どういう生活しているの?!」

「!?」

 その、いきなり後ろから上がった怒鳴り声に、篭を下ろしたアズウはビクリと肩を震わせて、慌ててシエラに向き直ると、

「いや、これは、ちょっと、今朝調合に失敗して……。これでも一応ざっと片付けたんだけど、途中で材料が無いこと思い出して後回しにした結果で、でも、普段は綺麗に片付けてるんだよ?」

 と、慌てて弁解を述べて来るが、シエラは部屋の中をざっと一瞥したなら、腰に手を当て仁王立ちの姿勢からきっぱりと断言した。

「あのね、あなたのそれは片付けたんじゃなくて、単に隅に押しやっただけって言うの!

 だから積み重ねていたものが何かの拍子で崩れて、そういう風な散らかり方になってるのよ!」

「ご、ごめんなさい」

「ああああ、もういいわ。何だかここは作業場みたいだから? むやみに私が手を出しても駄目そうだし? 明日の朝から片付けるとして」

「本当?」

「言っておくけど、あなたも一緒に片付けるんですからね」

「あ……はい」

「先に台所を片付けるわよ。あなたはテーブルの上を片付けておいて頂戴。そして、床掃除もすること」

「え? これから?」

「当たり前です。歩く度に埃が入りそうな場所でご飯なんて食べられません」

 と不満を一刀両断した瞬間、

「本当?!」

 アズウの表情が輝いた。その急激な変化にシエラが戸惑うと、

「自分のために目の前で料理をしてくれるのを見るなんて、一体何年ぶりだろう? それまでもたまに村の人たちが作って持って来てくれてたけど、でもやっぱり自分のために作ってくれる人がいるなんて、やっぱり僕は幸せ者だね」

「なっ……」

 そのあまりにも屈託ない感想に、聴いているシエラの方が恥ずかしくなって言葉に詰まる。別に深い意味は何もなかったにも拘らず、そんな風に喜ばれたことのなかったシエラにしてみればただただ戸惑うばかりだった。実際、アズウの嬉しそうな笑顔を見ていれば、それが嘘やお世辞ではないと言うことが分かる。それが余計に恥ずかしさを募らせた。顔が赤くなっていくのが分かった。このままじゃ駄目だ! と思うが早いか、シエラは流し場へと身を翻すと、

「さ、早くやって下さい。綺麗になるまで食事は抜きです」

 顔を見られないように逃げた。その背中に、

「そうだね。じゃあ頑張らないといけないね」

 アズウの弾んだ声が向けられる。その時点で、シエラの顔は真っ赤になっていた。水を出し、たわしを手に取り、洗剤をつけて泡立たせる。洗う。半ば乱暴に。

 鼓動が嫌に耳についた。馬鹿みたいに大きな音に、聞こえるわけがないとは思いつつ、もしかしたら聞こえてしまうかもしれないと思った。その瞬間、益々顔が赤くなるのを感じる。絶対に後ろは振り向けなかった。後ろで自分の機嫌の良さを伝えるかのように鼻歌交じりにモップで床の水磨きをしているアズウがいる。


 アズウは言った。自分のために目の前で料理をしてくれる人を見るのは何年ぶりかと。

 だがそれは、シエラ自身にも言えた。自分が自分ではない他人のために料理を作るのは何十年ぶりだかわからない。

 誰かのために料理を作る。その忘れていた気持ちが恥ずかしくて仕方がなかった。

「ああああ、もう。何なのかしら? 何で私がこんな恥ずかしい思いをしなくちゃならないの?」

 自分の気持ちを少しでも軽くしたくて、シエラは小声で呟き続けた。

 まさか、何度でも死ぬ覚悟をしていた自分が、決心してからさほど時間がたっていないにも拘らず、こんな恥ずかしい思いをする羽目になるなど、全くと言っていいほど想像すらしなかった。別に、自分が人を結果的に殺してしまったことを忘れたわけではない。ただ、そのことが遥か昔のことのように思えていた。

 一体これは何なんだろう?

 何だかとても楽しいような気がした。


 その日の遅過ぎる夕食は、玉子焼きと野菜のサラダと簡単な焼きパンだった。床下の収納庫の中にキャベツしかなかったので、正確には千切りキャベツなのだが、アズウはサラダと卵をパンに挟んでソースを掛けて頬張ると、「とても美味しい」と喜んで食べていた。

 卵を焼いて、キャベツを切って、パンを焼いただけの簡単なものだ。誰が作っても同じ味だろう。それでもアズウはシエラを褒めた。本心なのか、お世辞なのか。おそらく本心のような気がしながらも、シエラはつくづく変わった人のところへ拾われたと思った。

 そして、この小さな喜びがずっと、出来る限り長く続いて欲しいと、アズウの笑顔に願った。

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