エッセイ 矛盾

素敵な物語は、読み進めることをためらう。いつまでも終わらなければいいのにと思う。


何度も本を閉じて、表紙を眺め、背表紙を撫でる。


今まで読んでいた内容がどんな物語であったか、どんなキャラクターが好きか、イメージできた情景は自分の生活に身近な世界であったか。


私は何度も何度も思い出す。


物語は、書いている作家の思う情景が浮かぶものだが、読み手は自然と自分の世界に変換するものだ。


その世界が私にとってどれだけ大切な世界であったか物語を通して知ることになる。


今読んでいる物語も、ピアノのコンクールのお話。


幼稚園から小学校低学年までピアノに触れることはあったが、そのあとは音楽に触れることはなかった。


私の音楽の世界はとても狭い。だから読んでいてもわからないことだらけだろうと思っていたのだ。


しかし、どうしてだろうか、自然とコンクールの会場の雰囲気や、ピアノに向き合う人の目や、指の動き、華やかなドレスや、ピアノを弾き始める瞬間の緊張感を知っている。


私自信楽器に触れあうことはなかったものの、私の周りには音楽を愛する人が少なからずいたことに気が付いた。


ピアノ、エレクトーン、ヴァイオリン、トランペット、ギター。


音楽のジャンルは?と聞かれればさらに疎いために、どれも同じように感じてしまうのは申し訳ないが、どの楽器に触れている人も、どんなステージに立っている人も、私には違って映っていた。


作曲家の思うように弾きたいと学び続ける姿勢や、観客に届けたいという音色はどれも美しいものだった。


そんな人たちの横で音楽を聴くことができた私は、普通に音楽と触れ合う生活をしていない人の中でも幸せに値するのかもしれない。


物語の中で、評価されるに値するかしないか、賛否両論を巻き起こすキャラクターがいる。


独創的、奇抜的、そんな風に言われる彼だが、その彼の音楽の世界観は、美しいと感じる。


ホールの外に音楽を連れ出したい。


そんな世界観は、私たちを柔らかい生き物に買えるのではないだろうか。


閉塞的、普遍的な生き方を選ぶのではなく、広大で、異質的で天真爛漫な生き方。そんな生き方を示されているようだった。


ここに閉じこもっているのは音だけではなく、自分たちも同じである。


養蜂家の子供として、各地を転々としながら生活しているこのピアニストにとって、舞台はホールのライトアップされたところに限らないのだと私は教えられた。


今まで何も感じず閉じこもる生活を普通にしていた私たちは、どんなふうに世界を広げることができるだろうか。


もう、自分探しの旅に出るだけでは足りないのかもしれない。


私が思う物語の中で、読み進めたくない物語は、終わりを知りたくないと思えるもの。


この物語の終わりを知ってしまえば、私たちの閉塞的、普遍的な生活を否定されるのだ。


私は、それだけが怖い。


けれど、その分だけ、高揚感がある。緊張感がある。


どんなふうに人は開放的な世界へ羽を広げるんだろうか。私はそんな世界も知ってみたいと思うのだ。


私の世界は閉塞的だ。


同じことを繰り返し、何の結果も得ることができず、こんなことしていていいのだろうか。こんな生き方でいいのだろうかと思う日々だ。


それでも、大きく変わろうとすれば何かが違うと感じてしまう。


普遍的な生活を続けていくうえで、見つけられる小さなきっかけは踏み外さずに、それが違うと思えば、また普遍的な生活に戻る。


人はいつもきっかけを探しつつ、気が付けば閉塞的な生き方をしてしまっているのかもしれないと感じた。


まだまだゴールは見えないこの物語。


私は結末を知ることも怖い、そして、結末を見たいとも思うのだ。


複雑な感情が入り混じっている。

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エッセイ集 衣紅 @hoyotama

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