エッセイ 物語と人生

この物語、終わる気がしない。


そんな風に思った作品に巡り合えた時、私は幸せだなと感じる。


不思議なことだが、物語は自然と終わりを迎えるのであって、それがハッピーなものか、アンハッピーなものかは、その物語を生み出した作家にしかわからないものである。


自分の人生と混ざり合わない物語の世界の中にのめりこみ、登場人物の悩み葛藤や、生き方に共感し、幸せだと感じれば、自分も涙するほど幸せになったり、悲しいと思えば、心がえぐられるような虚無感に襲われる。


そんな物語に巡り合えて私はとても幸せだ。


虚構と現実に迷うことがある。


そんなことを聞くことがあるが、今現実だと思っていることも虚構かもしれないのに、何を言うかと思うのが私と言う人間である。


私は私の物語を書いているわけだ。


それは、他人様にとっては虚構で、現実味がないことばかりである。


自分自身が感じるからこそそれを「現実」と表現できるだけであるのだから、誰に何を入れようと、迷うことはない。


物語に終わりが見えないように、人生にも終わりが見えないことを知る。


どんな風なエンドを迎えるのか、想像してみても、それが本当に起きるわけではないし、それを無理やり現実にしようとするとうまくいかないことが多い。




人の一生を物語にしたら、どれだけのページを彩ることができるのだろうか。


自分で自分自身のことを一生描くことは難しい。


生まれたときの感想や、死ぬ瞬間の想いなんて残せるのだろうか。


誰かの想いを想像することはできても、それを自分自身の言葉で残すすべを持たない私たちは、人生と言う物語を書く作家なのだ。


現実味あふれる作品になるのはもちろんのこと、読者は自分だけ、だって、始まりも終わりも知っているのは自分だけなのだから。


私が生きている世界には「作り物」があふれている。


それに対して嫌悪感を抱くことはない。想像し、それが現実であってほしいと思うことはないといったら嘘になるからだ。


私は文章と言う形で表現することが多い。


会話の中で表現するというのはとても苦手だ、一瞬で入ってくる相手の感情や思想、考えを頭の中でまとめている間に、私の感情があふれ出すからだ。


私は素直に出る感情を押し殺すことはしたくない。


それを感じたことで文章に表現できるからだ。


何で泣くんだ。こんなことで泣くんじゃない。いい年して泣くなと言われたり、女は泣けばいいってもんじゃないと、たしなめられたりもするが。


そんな理由で泣くか。


と心の中で思っている。


人の言葉からまっすぐに入ってきた感情に自分が素直に反応しているだけだ。


抑える必要のない涙なら流すべきだ。


抑える必要のある涙なら見せないところで流すだけだ。


そんな風に感情の波を抑えることはしない。それだけ、ぶつける場所を探してしまう。


そうして表現することで、自分がどんな人間で、人はどんな人間であったかを理解する。


物語の描き方は人それぞれで、私はこんな風にしか描けないけれど、歌だったり、言葉だったり、ファッションだったり、運動だったりと様々だ。


生きている限り、その人なりの表現の仕方で物語を紡いでいると考えれば、その人の生き方一つ一つを否定する余裕はないのかもしれない。


人に反発するという力を人に対して出したとき、たぶん私は冷静ではなかった。迷い、苦しい中で表現の方法を間違えた。人に対しても自分に対しても。


私の物語の中でその行動がどんな彩りを添えたかは終わりにならないとわからないが。


今は真っ黒かもしれない。


本にされたらそのページだけを引き裂いて燃やしてしまっている。


けれど、それがなかったら、私のゴールは私らしくないのかもしれないから、今はちょっとだけ踏ん張って破かないでいる。


人はいつでも物語を作っている。


その物語の始まりを知るのも、終わりを知るのもその作家だけだ。


誰かに私の物語を読んでもらえのであれば、どんな醜い自分ですら描いていることを後悔するかもしれないが、それでも自分自身こうして文章を残すことを辞められないのである。




今読んでいる物語は、終わる気がしない。


どこへ向かっているのかわからない人生のように、いつまでも続いてほしいと思えるほど、私の心を締め付けて離さないのである。


ゆっくりと、終わりに向かいたいものだ。それがどんな未来だとしても。

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