サイドストーリー 彼我の鏡
ひどく寂れた寒村の、そのまた村外れの人気のない川沿いに、一件のあばら家が立っていた。
屋根は傾き、壁は剥がれ、戸口には
そこは……鋳掛け屋の小屋だった。竃の前には初老の男が一人。
がりがりに痩せ、目玉だけがぎょろりと飛び出し、髪も髭も伸び放題で、着ているものはそれが何の布か判別出来ないほどぼろぼろだった。しかし男には一切頽廃感がなく、手にしている円盤形の金属塊をじっと見据えていた。
「首尾はどうじゃ?」
初老の男に声を掛けたのは、白尽くめの衣装に身を包んだ男。白頭巾で顔を覆い、
「暫く
「
依頼者である白尽くめの男は、鏡がまだ未完であることを確かめると干し飯の入った袋を放り、何処にか姿を消した。男は手にした金属片を何度も引っくり返し、鋳造の出来を確かめた。
「
完全に日が落ちるのを待って、男が鏡の磨ぎを始めた。
すりっ。すりっ。すりっ。すりっ。
規則正しい摩擦音が間断なく続く。淡い月明かりの下、男は小さな炭の板を水に浸し、金属片の上で単純な往復運動をひたすら繰り返した。
「砂取りの鋳型では、初めにしっかり削り込まぬとまともな鏡面にならぬ。仕上げの磨きまでにはまだまだ日が要るな」
滴る汗をものともせず、鋳掛け屋は一心不乱に鏡面を磨いでいった。
◇ ◇ ◇
男は希代の鏡師であった。都では男に鏡の鋳造を依頼する貴人が引きも切らず、幸運にも鏡を入手した人々はその出来映えに驚嘆し、褒めそやした。だが男は根っからの職人であり、富や名声には全く興味がなかった。依頼を受けるかどうかも、男がそれを是とするかどうかに依っていた。
希少性も手伝い、噂が噂を呼んで風聞が膨らんだ。彼の人の鏡は、
鏡は穢れなき神器。鏡面に一点の曇りも許されぬ。男の真摯な姿勢は、鏡を女を口説く玩具と看做す依頼者の不遜な魂胆とは全く相容れなかった。神器以外の依頼を拒み続けた鏡師は、それを逆恨みした貴族の
男は追放先の村で鋳掛け屋として生計を立て、それ以来鏡を作ることはなかったのだ。男にとって、都での鏡師としての暮らしと村での鋳掛け屋としての暮らしとどちらが幸せであったかは分からない。だが、一職人として生を全うするはずであった男の運命は、
男の住む村で病が猛威を振るった時、男は妻と子を失った。いや、それだけではない。村に住まう者の誰も彼もがばたばたと病の餌食になり、死に絶えて行ったのだ。病を避けようと、村を捨てて逃げ出す者も後を絶たなかった。しかし、それらの村人は都への病の拡大を恐れる帝の命によって、
皮肉なことに。村が全滅したのち、今度は都に病が飛び火した。それは帝の愛妾の命を奪い、悲嘆に暮れた帝は愛妾を黄泉から呼び戻すべく
如何に帝の命とは言え、そんな無体な命は飲めぬ。しかし術は出来ぬと拒めば、すぐに粛殺されるだろう。悩んだ挙げ句に、呪師は責任を鏡師に押し付けることを思い付いた。術には特殊な鏡が要る。その鏡がなければ術が成り立たぬ。……そんな風に。
しかし、都の鏡師には制作を打診出来なかった。どこかで企みが漏れれば、即座に身の破滅になるからだ。呪師はかつての名鏡師が帝の不興を買って流罪になっていることを知り、術を使ってその男の生死を確かめた。
男は生きていた。
男のいる村は病で全滅したことになっている。その男が生きていることを知る者は誰もいない。口封じには打ってつけだ。いかに
呪師はほくそ笑んだ。
◇ ◇ ◇
「首尾はどうじゃ?」
何度目かの訪問の後。鋳掛け屋の男は、一点の曇りもなく隅々まで磨き上げられた
鏡を呪師に手渡した。受け取った呪師は、その鏡面を覗いて恐れ
「こ、これは……」
「御主の望み通りの鏡であろう?」
己の顔が映るはずの鏡には、無数の亡者が
「それは彼我の鏡。彼岸と此岸を隔てる壁に
「なに……ゆえ」
「斯様に穢れた物を作る、か?」
「ああ」
「御主らは、儂が精魂込めて作った鏡を一つ残らず曇らせた。だが儂は、手を離れた鏡に二度と触ることが出来ぬ。口惜しいことじゃ!」
吐き捨てた鋳掛け屋は、呪師の持った鏡を指差した。
「その鏡は瑕付かぬ。決して曇らぬ。それだけよ」
◇ ◇ ◇
計画通り、守秘のために鋳掛け屋を斬り殺した呪師は、持ち帰った鏡を帝に見せ、亡者となっていた帝の愛妾を招魂術を用いて鏡に呼び寄せた。反魂が出来ないことを言い訳するよりも、愛妾が変わり果てた亡者となっているところを見せた方が、帝が納得して諦めるだろうと考えたのだ。だが愛妾に再会した帝は感極まり、姿を見ただけでは満足しなかった。
「
「そ、それは……」
目を血走らせた帝に刀を突き付けられた呪師には、もはや
……はずだった。
帝から逃れようとした呪師は、確かに鏡の向こうに行けたのだが、それは亡者としてであった。肉体を失った呪師の魂は無数の亡者に足を引かれ、為す術なく黄泉に堕ちていった。
そして。
呼び戻された愛妾は術師の体に入り、肉体を得た。だが、それをいくら帝に訴えても帝は怒り狂うばかり。
「
剣を振りかざして迫る帝の姿を見て、愛妾は絶望した。今際の際に帝が必ず呼び戻すと誓ったのは、所詮口から出任せの嘘だったのか、と。
呪師の体に入った愛妾の魂は怒りを煮えたぎらせ、次の瞬間悪鬼と化した。尋常ならざる速さで剣を
◇ ◇ ◇
都では、まだ流行病が猛威を振るっていた。帝が変死したのはその病のせいとされ、崩御の真実が明かされることはなかった。
彼我の鏡は、本来打ち壊されるべきもの。しかし誰もが祟りを恐れ、その破壊作業を拒んだ。鏡は、都から遠く離れた名も知れぬ社にひっそりと奉じられ。
……長い長い眠りにつくことになった。
【 了 】 (ETW 0628)
ハイキングに行こう 水円 岳 @mizomer
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