十一 寂(じゃく)

 落雷があった日の翌日。わたしの懸念はずばり当たった。鉄心さんは、わたしたちの制御や説得を一切聞かなくなった。これまで辛うじて聞いてくれていたわたしの諌めも効果がなくなった。


 まず。朝食は摂らなかった。わたしたちが検温し、脈を取るのも拒否された。会話も途絶した。いつもなら文机に向かって墨を擦る鉄心さんが、何度もベッドを下りて水を飲みに行き、そしてトイレにこもった。


「鉄心さん、お腹壊したの?」


 聞いてみたけど返事はない。


 鉄心さんがばたばたと何度も病室を出入りするので、同室の患者さんが落ち着かなくなった。病院側で案じて、同室の患者さんを他の部屋に移した。丸一日そういう行動をし続けた鉄心さんは、就寝時間になっても、床に入ろうとしなかった。ベッドの上で座禅を組んだまま、ずっとお経を唱え続けた。


 この時になって初めて、わたしは鉄心さんの意図に気付いた。


◇ ◇ ◇


 ナースステーションで、内科の先生を交えて緊急のスタッフ会議を行う。婦長が、深刻な表情でこぼした。


「説得は無理そうね」

「はい。わたしでだめなものは、たぶんどなたがやられても」


 スタッフは、わたしがずっと鉄心さんとのパイプ役を務めてきたことをよく知ってる。そのわたしのアクセスですら遮断しているのだから、もう会話での説得やコミュニケーションは難しい。内科の瀬戸先生が頭を抱える。


「ううう。経口で栄養摂取させられないとなると、輸液しかないんだけど、本人が絶対にうんと言わないよなあ」

「トライしてみます?」


 婦長が聞き返す。


「やってみるか。それでだめなら、本人が意識を失ったタイミングですかさず輸液するしかないね」


 全員で、肩を落として溜息をついた。


◇ ◇ ◇


 翌朝。一睡もせず、鉄心さんは目を半分瞑って読経していた。もちろん、わたしや他のスタッフの話し掛けには一切答えなかった。間違いない。鉄心さんは、断食行に入ったんだろう。修行だから、普通はそれが明ければ食事を摂る。


 だけど、鉄心さんの最後のセリフ。身を浄めて返す……それが意味することは命を絶つということ。自身の穢れを全て祓った上で、命を返す。即身仏。その身を以て仏となすこと。でも、きっと鉄心さんにそんな意識は微塵もないのだと思う。

 あの夜鉄心さんが語った、守られてない約束。それを一刻も早く果たすために。身を傷付けて穢す自殺ではなく、修行の延長上にある尊厳死を目指して。どこまでも固い決意の上に、鉄心さんの行は始められている。


 だけど、わたしたちはおいそれとそれを認めるわけにはいかなかった。わたしたちの職務は人命を助けることだ。その相手が鉄心さんであっても、絶対にその原則を曲げるわけにはいかないんだ。わたしたちは、二日間説得を続けた。でも、それはことごとく徒労に終わった。仕方がない。鉄心さんの意識が薄れて来たタイミングを見計らって、輸液をする方針に切り替える。


 鉄心さんは、見る見る痩せ始めた。もともとしわの多かった皮膚は張りを失って土気色になり、浮き出ていた血管も萎んで、見えにくくなってきた。眼窩が落ち窪み、頬はげっそりこけ、手足が木の枝のようになってきた。座禅を組んでいる姿勢のままで筋肉が凝り固まり、まるで木彫りの座像のような姿になってきた。


 三日目の夕刻。読経の声が小さくなってきたタイミングを逃がさず瀬戸先生からゴーサインが出た。わたしたち女性ではなく、男性の看護師スタッフが鉄心さんの腕を取って、輸液の準備に入ろうとしたその途端。ほとんど意識がないと思っていた鉄心さんの口から、恐ろしい叫び声が響いた。


「邪魔立てするなっ! 行を妨げるもの、一切容赦せぬ!」


 白く乾き始めていた目をがっと見開き、鉄心さんはわたしたちを喝破した。わたしたちは、その目の奥の黒い炎に恐れをなした。人としての業を煮詰めたような、どす黒い瘴気しょうき。それまで目を半分閉じて読経していた鉄心さんは、その目をもう閉じなくなった。わたしたちの動きを監視するかのように。


 それは、わたしたちの想像を絶する凄まじい念。御仏に近付くためではない。自身を滅却しようとする壮絶な意志。


 催眠ガスの導入なども考えられたけど、それで絶命する危険があるということで、どうにもならなかった。加療出来ないということを信じてもらうために警察官にも来

てもらったけど、彼らも見守ることしかできなかった。もう……わたしたちに打てる手はなくなった。


 五日目。下血あり。処置出来ず。

 六日目。肌に紫斑が広がる。何も出来ない無力感で息が詰まる。


 そして、七日目の朝。小さい声ながらずっと途切れずに続いていた読経の声が、ぴ

たりと途絶えた。


 もうほとんどからからにひからびていた眼窩をわずかに潤すように。残っていた僅かな情を全部そこに溜めてあったかのように。涙がにじみ出た。


 そして……口がわずかに動いた。


「ち……ねん」


 それが……鉄心さんの最期の言葉だった。

 六月六日、午前七時。鉄心さんは。


 ……入寂した。


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