十二 月(つき)
鉄心さんが壮絶な最期を遂げてから、もう四か月が過ぎようとしている。鉄心さんが毎日見下ろしていた里山の木々にも、まだうっすらながら徐々に彩りが加わり始めた。
鉄心さんが使っていた文机も書道の道具もきれいに片付けられ、今はそのベッドにはおばあさんが休んでいる。わたしはその小さな寝息を聞きながら、病室の窓から鉄塔を。そして、それに掛かるように上がり始めた月を見遣る。
◇ ◇ ◇
あの落雷のあった日。鉄心さんは、そこに何を見たのだろう?
放電で青白く光る鉄塔と、それに掛かる赤い月。確かに恐ろしいほど鮮やかな対比だったけど、それ自体には何も意味はなかったはずだ。でも。わたしは鉄心さんがここに来てすぐ、鉄塔をひどく気にしていたことを思い出す。全てを忘れていたはずの鉄心さんの脳裏に焼き付いて、片時も離れなかったもの。それが鉄塔だったんだ。
そして鉄心さんが最後に流した涙と、『ちねん』という言葉。そこには、鉄心さんがどこまでも死に執着する理由が凝縮されていたんだろう。でも、それが何を意味するのかは、わたしには分からない。何も……分からない。
わたしの手元には、わたし宛てに
『みなみどの』
『うまれきてあがゆくまでのなかそらに
なすへきことのひとつもなしへづ
(生まれ来て吾が往くまでの中空に
為すべきことの一つも為し得ず)』
生まれてから死ぬまでの間に、自分がしなければならないことは何一つ出来なかった……かあ。
それは、とてつもない後悔。もしくは、自分にそうさせてくれなかった
「御仏に御身を返すって言って断食するお坊さんの辞世の句には思えないんですよねえ」
うん。確かにそうだ。そしてその謎は、わたしにはずっと解けないままなんだろう。
◇ ◇ ◇
静かに秋が深まる。空気が芯から澄んでいく。
病院から帰宅する途中で、ふと月の気配を感じて立ち止まった。まだ暮れ残る空の端をついばむように、少しへこんだ月が掛かっている。わたしはジャケットのポケットに手を突っ込み、少し首をすくめてそれを見上げた。そして、ほっと息をついた。
アパートの鍵を開けて、ジャケットを脱いでソファーに放る。しまってある鉄心さんの書をテーブルの上に広げ、肘を突いてぼんやりと見つめた。それから立ち上がって、窓を開けた。
月はさっきより冴えて、ひんやりとわたしを見下ろしている。わたしはそれに手を伸ばした。
「取れないよねえ」
どんなにわたしが手を伸ばしてもあの月が取れないように、わたしの心が鉄心さんに届くことは、ついになかった。そして鉄心さんもまた、どんなにその手を伸ばしても掴めなかったものがあったのだろう。
それでもわたしは手を伸ばす。月に向かって。……それが届かないと知りつつも。
鉄心さんも、そうだったんじゃないかなと思う。
何もかも忘れ果てていながら、月と鉄塔を忘れることは出来なかった。それが、無一物だった鉄心さんの脳裏に、唯一刻み付けられていたものだったんじゃないだろうか。
月に象徴されているのは、鉄心さんがどんなに望んでも決して手に入らないもの。でもそれを、鉄心さんは自分の命をかけて取りに行ったんだろう。その行為がどんなに愚かしく見えることであっても。
浮き世の穢れに交わることなく、月は青々と冴えわたる。わたしは、自ら塔となってそれに手を伸ばす。
お互い。何も言葉を交わすことなく。
……それでも何かを語り合おうとして。
【 完 】
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