十 決(けつ)

 消灯の後。わたしは鉄心さんの病室をこっそり見に行った。手に夜食を持って。


 鉄心さんは就寝せずに、ベッドの上で座禅を組んで窓の端にかかった月をじっと見つめていた。その顔からはさっきの憤怒の表情が消え、いつもの穏やかな表情に戻っている。わたしはそれを見て心底ほっとする。


 小声で話しかける。


「鉄心さん、お腹空いたでしょ。お夕食抜いてー。こっそりだけどお夜食持ってきたので、つないでください」


 鉄心さんはわたしに顔を向けると、きっぱりとそれを断った。


「要らぬ」

「ずっとお食事されてないでしょ? 体壊しますよ?」

「済まぬな。じゃが、要らぬ」


 鉄心さんはわたしから目を離すと、窓の端の月を指差して言った。


「南どの。御主は月が欲しいか?」


 いきなり何を聞くんだろう?


「いいえ。月はみんなのものですから、わたしが取っちゃったらみんな困るでしょ?」


 破顔一笑。含むようにして鉄心さんが笑った。初めて見る屈託のない笑顔。


「はっはっは。南どのらしいのぉ」

「そうですかあ?」

「そうじゃよ」


 鉄心さんは、その後こう言い継いだ。


「取れぬものを望んで、みな手を伸ばしよる。少しく近くと櫓を立てても月は取れぬ。取れぬことは承知の上じゃ。如かれどみな櫓を立てる」

「は?」

「水の上の月はそこにあるのに掬えぬ。窓の外の月はそこにあるのに手が届かぬ。取れぬがゆえ、みな手を伸ばす」


 鉄心さんは、その後じっと月を見据えた。その顔には、これまで一度も見たことのない悲哀の表情が浮かんでいた。


「のお、南どの」

「はい?」

「儂は、かような長生きはしとうなかったのう」

「……」

「儂の体は御仏からの借り物じゃ。いずれ返さねばならぬ。醜い老体ゆえさっさと返してしまいたかったが、なかなかに受け取ってもらえぬでな。不自由でかなわぬわ」


 ぽつんとそう言った鉄心さんが、月から目を離して俯いた。


「のう、南どの」

「はい」

「南どのは、娶られておるのか?」


 めとる? ああ、結婚してるかってことかなー。


「いえ、まだ独り身ですけど」

「左様か」


 鉄心さんは、顔にわずかに笑みを浮かべた。


「儂は坊主ゆえ、娶ることはできぬ。じゃが、人は子をなし、命を繋ぐことが生業なりわいじゃ。いくさなき世ならばなおさらのこと。人としての生を」


 鉄心さんが噛み締めるように言った。


「全うしてくれい。南どの」


 これまでほとんど話をしなかった鉄心さんが、突然何かを話し始めたこと。間違いない。鉄心さんの失われた記憶が戻ってるんだろう。


「鉄心さん。何か思い出したんですか?」


 わたしから顔を逸らし、また月の方に目を向けた鉄心さんが、投げ出すように答えた。


「ああ、全てな」


 しばらく沈黙が続いた。それから。鉄心さんが、やはり放り出すような口調で付け足した。


「儂は大事な約定を忘れておった。それは果たさねばならぬ」

「じゃあ、元気にならないと」


 わたしがそう励ますと、寂しそうに笑った。


「のう。儂ら順逆を選べれば、どんなによいことかのう」

「は?」


 それ以上。鉄心さんは何も言わなかった。鉄心さんがわたしに背を向けて寝る姿勢を見せたので、声を掛ける。


「今晩はしょうがないけど、明日はちゃんとお食事してくださいね。お休みなさい」


 わたしに背を向けたままで、鉄心さんが独り言のように言った。


「儂は、この身を御仏に返さねばならぬ。このまま受け取ってもらえぬのなら、浄めて捧げねばなるまい」


 ぞっとした。その意味すること。それは……。


◇ ◇ ◇


「津野さん、津野さん!」

「どしたの? 南さん、そんなに慌てて」

「やっぱり鉄心さん、今日の落雷がきっかけで記憶取り戻したみたいです。でも」

「なに?」

「どうも雰囲気が怪しいです。しばらく目を離さないようにしないと」

「自殺?」

「ええ、それが心配」

「分かったわ。わたしたちもこまめに見回って、様子を見ましょ。警備の人にも言っておくわね」

「お願いします」

「ふう。記憶が戻ったら戻ったで大変、か」

「お坊さんだから、自殺ってタブーのような気もするんですけど」

「でも、宗教や職業ってあくまでも建前だからね。それで人間の中身が決まるわけじゃない。厄介よ」

「そうですよね」


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