九 覚(がく)

 志野原さんが来られた後も、やはり鉄心さんには何の変化も見られなかった。生活のパターンも。書かれる短歌の内容も。そして……その態度も。


 変わっていったのは季節だった。桜が散ったばかりだった頃に病院に来て、もう五月が終わろうとしている。山の緑は逞しくなり、時折梅雨の前兆を思わせるような分厚い雨雲が湧くようになってきた。


 今日は珍しく鉄心さんが墨を摺る手を止めて、真っ黒になっている空とその下の田んぼを交互に見渡している。


「もうすぐ梅雨に入るんですねえ」


 わたしが呟いた言葉に全く反応せず、鉄心さんは外を見続けた。やれやれ。今日はだんまりの日かあ。


◇ ◇ ◇


 昼食後、いつものように半紙に向かって黙々と何事か書き続ける鉄心さん。


 ただ、いつもとは少し様子が違っていた。外の様子が気になるのか、時折手を止めてじっと窓の外を見やっている。明らかに集中力が落ちてる。確かに、今日の空模様はいつもと違う。これまでも雨降りの日はあったけど、こんな空全体が真っ暗になるほどの雲に覆われた日はなかった。


「うーん。雷雲かみなりぐもが出来ちゃったのかなあ。イヤだなあ」


 病院には患者さんの体調を維持するのに必要な、重要な電子機器がいくつもある。落雷でそれらがダメージを受けたら生命の危機に直結してしまう。もちろん非常用の自家発電装置が備えられていて、停電した時はそれで遅滞なくカバーできるようになってるけど。それでも気分のいいものじゃない。


 雨が降っているわけじゃなかったので、病室の窓は開いてる。他の患者さんが静かに休まれてる中、鉄心さんは少し顔をしかめて外を見続けていた。


 午後五時過ぎ。窓から吹き込む風の匂いが変わった。それまでの青葉を感じさせる爽やかな匂いから、きな臭さが漂う匂いに。そして、空気がにわかに湿り始めた。

 雨が降るな。わたしが窓を閉めようと、窓際に近付くよりも一瞬早く。遠雷の音とともに滝のような雨が降り始めた。風で吹き込んだ大粒の雨が硯に落ちて、ぽちゃんと音を立てた。飛び散る墨。わたしは慌てて窓を閉める。閉めた窓の向こうが見えなくなるくらいの激しい勢いで、雨が降り注いだ。


 がらがらがら……がらがらがらがらがら……。


 ひっきりなしに雷鳴が響き続ける。空に亀裂が入るように、黒雲の中を稲妻が走っているのが垣間見える。鉄心さんは手を止めて、ひたすら驟雨しゅううを見続けていた。わたしは鉄心さんを残して病室を出た。あとで、床に散っちゃった墨汁を拭き取っておかなきゃ。


◇ ◇ ◇


 わたしが他の病室を回って、もう一度鉄心さんのところに戻って来たのは、それから三十分くらいしてからだった。


 時間的にはまだ夕闇が来る前だと言うのに、空はまだびっしり厚い雷雲に覆われて夜のように暗く、稲妻が時々横走りしている。ただ、さっき激しい雨を落とした分、少し身軽になったのか、雲の切れ端から茜空が。そして、わずかにではあるけれど月が覗いてる。


「このまま大人しくなってくれるといいんだけどなあ」


 わたしは独り言を漏らしながら、さっき鉄心さんの硯から床に散った墨を濡れ雑巾で拭き取った。文机からベッドの上に戻っていた鉄心さんは、わたしには返事をしないで、じっと分厚い雷雲とその裂け目から覗く月を見つめていた。


 かっ!

 突然、すさまじい光が室内一杯に差し込んだ。その次の瞬間、大音響が響いた。


 どがあん!!!


 病室の灯りがふっと消えた。やばっ! どっか電気関係のところに落ちたっ!


 すぐに、うーんと唸るような音が階下から響いてきた。非常用の発電機が回り始めたんだろう。医療設備への給電が先だから、部屋の灯りは後回しで消えたままだ。わたしは真っ暗な中、懐中電灯を出して、病室を見て回った。具合を悪くされている方はいないか、接続されている機器類は無事か。婦長に点検報告して、もう一度鉄心さんの病室に戻った。


 その時だった。部屋に踏み込んだわたしを吹き飛ばすような閃光が窓一杯に広がったかと思うと、先ほどよりももっと大きな音を立てて、再び落雷があった。


 ががあーーーーーん!!


 地響きがして、患者さんが悲鳴を上げた。わたしは雷は怖くなかったはずなんだけど、思わずベッドの鉄柵にしがみついてしゃがんだ。


 黒雲を引き裂こうとして暴れ回る稲妻。音が凄まじかったから、落ちた場所はすぐ近くかと思ったけど、そうではなかったらしい。


 いかづちは、いつも鉄心さんが見遣っている鉄塔に落ちていた。


 ばちばちと放電し、その火花をまき散らしながら。青白く浮き上がった鉄塔は、燃え上がっているように見えた。まるで鬼火で焚かれたかのよう。


 そして……。鉄塔の肩にかかるように、大きくざっくりと裂けた雲の隙間から赤い月が顔を出し、怯えるように鉄塔を見下ろしている。


 それを見つめる鉄心さんは、先ほどまでとは全く形相が変わっていた。目をかっと見開き、口を真一文字に結び、額に血管をみりみりと浮かべ、憤怒ふんぬの表情をあらわにして。それは、ほとんど感情を露出させなかった鉄心さんの、初めての感情爆発だった。


 一言も言葉を伴わなかったけれど。ずっと鉄心さんを見ていたわたしには分かる。どこか、それがどこかは分からないけれど鉄心さんの記憶の扉が開いたんじゃないかと。鉄心さんは激しい怒りを隠さないまま、拳を握りしめて鉄塔をずっと睨み続けた。


 それは、わずか数分の出来事だったと思う。青白く炎上する鉄塔と赤い月。おそろしく幻想的な光景だったけれど、雲が吹き払われるように薄くなった後は、いつものぼやっとした無愛想な鉄塔の姿に戻った。月もその赤みを失い、まるで逃げるかのように少しずつ鉄塔から遠ざかっていく。


 ぱっ。


 落雷による給電トラブルが治まったんだろう。病室の灯りが一斉に点いて、患者さんたちのほーっという安堵の吐息が漏れた。でも。鉄心さんだけは、もう闇に塗りつぶされて見えなくなった鉄塔の方向を、いつまでも睨み続けていた。


◇ ◇ ◇


「津野さん」

「あ、南さん。どうしたの? 何か落雷でトラブルがあった?」

「いえ、鉄心さんなんですけど」

「え?」

「さっき、近くで大きな落雷が二回ありましたよね」

「そうね」

「その後から様子がおかしいんですよ」

「ええっ!?」


 婦長と一緒に、こっそり鉄心さんの病室を覗きに行く。


 鉄心さんは、配膳された夕食に全く手をつけていなかった。これまで書に集中するのに朝食、昼食を抜くことはあっても、夕食を食べなかったことは一度もない。


 窓の外を睨み付けている姿勢は、先ほどの落雷の時と何も変わっていなかった。あの時のまま。まるで座像のように。少し身を乗り出し、何かに挑みかかるような姿勢で。


「うーん」


 婦長がうなってしまう。


「とても声をかけられる雰囲気じゃないわね」

「そうなんですよー。どうしたものかなあと」

「とりあえず、消灯までは様子を見るしかないわね。夕飯は下げてもらって、代わりに何かお夜食を準備しておきましょ。ルール違反だけど、しょうがないわ」

「そうですよね」

「鉄心さん、あの落雷の後、なんか言ったの?」

「いえ、いつも通り。ずーっと無言です。ただ」

「なに?」

「あの反応って、何か思い出したんじゃないかなーと」

「あ!」


 婦長がさっと鉄心さんの方を見る。


「で、あの表情だから、思い出した中身が相当重いんじゃないかと思ったんです」

「そうね」


 ふうっ。婦長は大きな溜息をついた。


「でも、それがわたしたちに明かされることはあるかしら?」


 う。


「そうですね」

「まあ、気を付けて見てあげて。もし記憶を失ったきっかけが自殺未遂とかだと、また何か行動を起こしてしまうかもしれないし」

「はい」



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