八 和(わ)

 午前中に書の時間を取るようになってから、鉄心さんは、ほんの少しだけ口数が増えた。今までのように最低限の返事だけというわけではなく、花鳥風月と食べ物の話にだけは少し乗ってくれるようになった。そうは言っても、時事ネタに全く関心を示してくれないから会話が弾むということはない。せいぜい二言三言のやり取りなのだけど。それでも、少しだけ鉄心さんに外界を見る気持ちが生まれたってことなのかなと。わたしはそう解釈することにした。


 変わらないのは、鉄心さんが書く短歌の内容だった。一見心が解れて、人当たりが柔らかくなったように見える鉄心さんの芯が、実は何も変化していないことが見て取れた。それは極度の無常観でも、悟りでも、怨念でもないけど。奇妙に醒めていて、落ち着かなくて、物悲しい。


『はたうてどあらくさはかりうかれきて

  あがせおこしてたなひくいまよ

(畑打てど雑草ばかり浮かれ来て

  吾が背を越して棚引く今世)』


『たのみどりあせてはじめてみのりくる

  うせてえるものげにぞかなしき

(田の緑褪せて初めて稔り来る

  失せて得るものげにぞ哀しき)』


『やまやくとみせてはなさくやまつつじ

  たくものなけれあがこころには

(山焼くと見せて花咲くやまつつじ

  焚くものなけれ吾が心には)』


 共通しているのは、田畑と山河を素材にしているものが多いことだった。そこには記憶が失われる前の鉄心さんの暮らしぶりが、なんとなく透けて見えた。そして歌の中には、本当に頑固なくらいわたしたちや病院のことが何も、何一つ出て来なかった。


◇ ◇ ◇


 病院側では、いつまでも身元の分からない鉄心さんをどこかの介護施設に移そうと、自治体の福祉担当者との協議を加速させることにした。でも、協議は難航したまま遅々として進まなかった。ネックになっていたのは鉄心さんの態度だった。


 記憶は失っていても、知能や判断力はわたしたちとなんら変わらない。火傷や怪我はすっかり癒えている。とても健康。重病や老齢のために介護が必要なお年寄りとは違う。ちゃんと自力で生活を立てられる素養は備えてる。でも鉄心さんには社会に順応しようという姿勢がかけらも見られない。有り体に言えば、浮き世離れしてしまっている。周囲の人とコミュニケーションを取ろうとする自発的な姿勢が微塵もないことで、全ての企てが頓挫してしまう。


 相変わらずわたし以外の病院スタッフとはほとんど意思疎通できていない。特に医師の診察を拒絶されることが、病院側の苛立ちのタネになっていた。本当なら、あんたは元気なんだからとっとと出て行ってくれと言いたいところなんだろう。


 科長や院長の巡回も何度かあった。トップ自ら出張ることで、鉄心さんに暗にプレッシャーをかけたいという意図もあったのかもしれない。しかし鉄心さんには、診察はおろか会話すら拒絶された。取りつく島もない。温厚な院長が、後で珍しく声を荒げてまくしたてたらしい。何様のつもりだ、と。


 ふう……。でもそのどたばたの間に、わたしにはなんとなく鉄心さんの基本線が見えてきた。


 無一物。鉄心さんにはなくて困るというものがない。自分が執着する対象がなにもない。まるで、生きるということすら余録のような。そういう感覚なんだろうと。物に対してだけでなく、人に対してもそうなんだろう。自分は何も変えられない。だから自分も変わらない。今在るが全て。


 でもよーく見ると、その姿勢の見せ方は相手やものによって微妙に違ってる。

 同室の患者さんは、ほとんどものと同じ扱いだ。相手がものだから接点持ちようがないだろって言うか。病院側のスタッフのうち、わたしを含めた看護師に対しては辛うじて窓が開いてる。最低限だけど。先生たちや院長に対しては、無視が強固な意思に基づいている。あえて無視、なんだよね。


 どうしてなのか、いろいろ考えてみたけど。一つ思い付くのは、階級だ。わたしたちは、医師の指示に従って行動しなければならない。裏返せば、医師や院長はわたしたちの生殺与奪の力を持っているように見える。そこには、小さいけれど権力者と被支配者との関係を示す序列ヒエラルキーがある。鉄心さんが示す敵意に近い無視は、そこから来ているように見える。

 その態度は、福祉課の市職員が来ている時も同じだ。職員は鉄心さんに『してあげる』立場の人。上位になる。それに対して、静かだけれど決然とした拒絶を示しているのかもしれない。


 そう考えれば、わたしが鉄心さんに何かお願いする時の言い方に対する反応の差も理解できる。わたしが困る、怒られるっていうのは、わたしよりも上の権力者の叱責が、鉄心さんにではなくわたしに下るということ。鉄心さんには、それが不本意なんだろう。


 うーん。もしかして、失ってる記憶の中にパワハラ関係のことでもあるのかなあと。変なことを想像したりする。お坊さんとパワハラって、なんか結びつかないけどなあ。それとも仕事してる時にすっごいイヤなことがあって、全部捨てて出家したとか。うん、それは、なんかありそう。

 でも、どんなにそんなことを思い巡らせてみても、鉄心さんの口から何も語られない限り、それはわたしの無責任な妄想に過ぎない。わたしの溜息の回数は……増えるばかりだ。


◇ ◇ ◇


 鉄心さんの周辺が慌ただしくなってきても、鉄心さん自身はその行動パターンを何一つ変えなかった。朝起きて、座禅を組んでお経を唱えて、朝食を摂る。それから時間をかけて墨を摺り、午後三時くらいまでは書く作業に没頭する。お昼ご飯はほとんど摂らない。午睡し、そのあと読経と瞑想を繰り返して、夕飯を摂ったら就寝。


 鉄心さんが変わっているのは、外に出ようとしないことだ。どんなに天気がよくて気持ちよくても、病室から出るのはトイレと風呂の時だけで、病院の建物の外に出ようとは決してしない。そういう働きかけにも一切応じない。まるで病室に立てこもっちゃってるみたいだ。

 そう。鉄心さんの周りのごく狭い範囲に建ってる庵室。そこに住みついてるみたいに。病室の一角に、とても奇妙な空間が出来上がっていた。


◇ ◇ ◇


 そんな変わらない鉄心さんの生活に、今日は一つ変化が訪れる。わたしは、その結果がどうなるのかを注視している。いつものように墨をゆっくり摺っている鉄心さんに、声をかけた。


「おはようございます、鉄心さん。邪魔してごめんね。鉄心さんにお客さんがあったので、ご案内してきました」


 手を止めた鉄心さんが、ひどく驚いた顔をした。


「なに? 儂に客じゃと?」

「はい。いつも鉄心さんは熱心に書を書かれているでしょ? わたしたちは、鉄心さんが何を書かれているのかよく分からないの。それでね、このお近くにお住まいの書の先生に読んでいただいてたんですよ」


 志野原さんがゆっくりと鉄心さんの前に進み出て、静かに頭を下げた。


「初めまして。わたしは、こどもたちに習字を教えている志野原しのはら淑子としこと申します。雅号は妙苑みょうえんです」


 ぴくん。鉄心さんが、何かに反応した。


「みょう……えん?」

「ええ、妙なるそので、妙苑」


 じっと黙り込んだ鉄心さんに、構わず志野原さんが話し掛けた。


「とても達筆でいらっしゃいますのね? わたしも商売柄いろいろな方に書を教えて参りましたけど、ここまで淀みなく書かれる方にはまだお目にかかったことがございません」

「そうかの」


 え? ずっとだんまりかと思っていたら、鉄心さんが返事をした。ことりと墨を置いて、志野原さんの方に向き直る。それから低い声で、唱えるように言った。


「なにもかもわすれはててはとうことも

  こたうることもついぞあたわず」


 あ! 音読された歌は、なんとなく意味が分かる。


『何もかも忘れ果ててしまったから、何かを問うことも、問われたことに答えることもどうしてもできない』


 小さく頷いた志野原さんが目を瞑って黙した。それから、目を瞑ったまま歌を返した。


「おぼほゆることよりわするることおおし

  おいてみのたけちぢむがごとくに」


 ふふふ。さすが志野原さん、うまいなあ。これも音読されたから、なんとなく分かる。


『憶えておくことより忘れることの方が多いわ。それは年を取って丈が縮んじゃうみたいにね』


 返歌を聞いた鉄心さんが、ふっと笑みを浮かべた。それは、鉄心さんがここに来て初めて見せた笑みだった。嬉しかったっていうのとはちょっと違う。なんか、苦笑みたいな感じだったけど。


 すっと目を開けた志野原さんは、ゆっくりと会釈をして鉄心さんに声を掛けた。


「お邪魔して申し訳ありませんでした。どうぞ御身大切に」


 鉄心さんも、それにわずかに頭を下げて応えた。鉄心さんが、わたし以外の人に謝意を示すと言うのも初めてのことだった。うーん……。


 鉄心さんがまた黙々と墨を摺り始めたので、わたしは声を掛けずにそっと病室を出た。


◇ ◇ ◇


「あの、志野原さん、どうですか?」

「そうねえ。やはり不思議な人ね。年格好はわたしくらいだと思うんだけど、まるでわたしの祖父母と話してるみたい」


 あ……。


「今のお年寄りって言っても、みなさんそれぞれに興味を持っておられることがあって、決して自分の時代にばかり執着しないわ。もちろん、わたしもそう」


 志野原さんはそう言って、手元のバッグから携帯を出した。


「でも、鉄心さんの時間はわたしたちよりもずーっと前で止まってる感じがするの。それがお坊さんというお仕事のせいなのか、それ以外に何か依るものがあるのか、それはわたしには分からないけれど」

「そうですか」

「書にしても短歌にしても、今はプロ以外の方にとっては趣味でしょ? でも、鉄心さんにとってはたぶん現実的な手段なんでしょう。それがとても奇妙なの」


 うん。それはわたしが最初から持ってた違和感と一致する。浮き世離れ。


「また会われます?」

「いいえ」


 その返事は意外だった。


「え?」

「わたしがもっと若ければ、もう少し鉄心さんに関わろうという気力が湧いたかもしれないけれど。記憶をなくされている方の惑いの泥沼に足を突っ込むのはしんどいわ」

「惑い、ですか」

「そう。忘れたいのか、思い出したいのか。鉄心さんの真意が何も見えない中でもがくのは苦しいの。ごめんなさいね」

「いいえ、今日のような鉄心さんを見たのは初めてだったので、よかったです」


 それには答えずに、ふわっと会釈した志野原さんが病院を辞した。その背中を見送りながらふと思う。


 ほんの一時の和。たぶん、それが鉄心さんを変えることはないだろう。でも、わたしは鉄心さんの笑顔が見られてほっとしていた。


 本当に……良かった。


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