七 解(げ)
鉄心さんが筆を持った翌日。初日はただの棒だった線に変化が現れた。
昨日と同じように半日かけて墨を擦った鉄心さんは、昼過ぎに何枚かの半紙を文字で埋めた。正確に言えば、そのようにわたしには見えた。昨日はただ真っ直ぐ伸びてたウナギがのたくったって言うか。それが何を意味するのか、わたしにはさっぱり分からない。手も足も出ないってのは、こういうことを言うのね。
でも、ほとんど言葉を発しない鉄心さんの内心を知る数少ない材料だ。無駄にするわけにはいかない。わたしは筆を置いた鉄心さんに確かめた。
「鉄心さん、その半紙は入り用なの?」
「要らぬよ。じゃが、反故は焚き付けにするゆえ手元に置いてあるだけじゃ」
今時、紙くずで火を熾すことはないよねえ。でも、それを言ってへそを曲げられても困る。
「じゃあ、わたしの方でまとめて係の者に渡してもいいですか?」
「ああ、構わぬ」
鉄心さんは、書き終わったものには興味がないようだった。わたしは、何事か書かれた半紙をささっと束ねて、それを病室から持ち出した。
◇ ◇ ◇
「降参だわ。絶対に読めないわよ、こんなの」
婦長が万歳してる。
「たぶん、草書よね。お習字の先生か誰かに見てもらわないと、わたしらではどうにもならないと思う」
「そうですよねー。津野さん、どなたかご存じありません?」
「うーん。お茶とかお華の先生は知ってるんだけどなあ」
廊下でそんな立ち話をしていたら、高橋先生が寄って来た。
「津野さん、どうしたい?」
「いえね、鉄心さんが何か書き始めたっていうから、判読できる人を探してるんですけど」
「実は日本人じゃなかったってオチかい?」
「勝手にオトさないでくださいっ!」
ぷっとむくれた婦長が、手にした半紙を見せた。納得する先生。
「ああ、この手のは俺にもどうにもならないなあ。うちの子が習字習いに行ってるから、その先生に聞いてみようか?」
お! ラッキー!
「若い方なんですか?」
婦長が、半紙を眺めながら先生に聞いた。
「いやあ、ばあちゃん先生だよ。がみがみ怒らないのんびりした先生だから、こらえ性のないうちの子もなんとか続いてる。ちっともうまくはならんけどな。はっはっはー」
年輩の人なら、書いてる内容についても何かヒントをもらえるかもしれない。確かめよう。
「先生、なんという方なんですか?」
「
「じゃあ、わたしがこれ持って伺ってもいいでしょうか?」
先生は、婦長じゃなくてわたしがそう言ったことにちょっと驚いてたけど。
「構わないよ。じゃあ、俺の方でご都合を聞いておこう。南さんは、今日は通常勤務かい?」
「はい」
「じゃあ、勤務明けに寄れるかどうかを先方に確認して、後で津野さんに伝えとく。よろしくな」
「はい、分かりました」
◇ ◇ ◇
今日はお習字の塾は休みだったようで、志野原さんはわたしの不躾な訪問を快く受け入れてくれた。
「まあまあ、ようこそ。汚いところですけど、上がってくださいな」
人の良さそうな上品なおばあちゃんだ。確かに、こどもに好かれそう。
「すみません、突然変なお願いをして」
「構わないですよ。草書は慣れないと読めないでしょうからねえ」
慣れの問題ではないと思うんだけど……。
広い教室とはアンバランスな、質素で狭い居間に上がる。きれいにしておられるけど、時代の匂いがする。わたしとは違う時を過ごして来たって言うか。そう。なんとなく、鉄心さんが抱えているものと共通したクウキ。それを、この小さな空間に感じて、わたしは思わず息を飲んだ。
「何か珍しいものでもございます?」
わたしがきょろきょろ見回していたのが気になったのか、そう聞かれた。
いけない、いけない。
「ごめんなさい。これを書かれた方もご高齢なので、わたしとは違う時の中にいるんだなあと思いまして」
「まあ、ほほほ。あなたも、詩的なセンスをお持ちねえ」
「え? そうですか?」
「そうよ。普通の方は、おばあちゃんの部屋をそういう言い方はしないでしょ」
うひー。思わず赤面してしまう。あ、いけない。お夕飯前だし、あまりお時間を取らせるわけにはいかない。わたしはバッグから、鉄心さんがなにかを書いた半紙を取り出して、座卓の上に並べた。
「あの、これなんですけど」
「拝見しますね」
志野原さんがそれを手に取って、順繰りに眺めて行く。
「あらあ。達筆ねえ」
「そうなんですか?」
「書き方に迷いがないの。本当に毎日書かれてる方の筆ね」
へえー。
「趣味で習っておられるという感じじゃないわ。これがお仕事っていう方の筆致ね」
「その方は、記憶をなくされているので身元が分からないんです。言葉でのコミュニケーションがとても難しいので、どうしたものかと思っていたんですが、昨日から筆と墨と紙が欲しいと言い出されて、それを」
「ふむ。なるほど」
志野原さんが、じっとその紙片を見つめる。
「お坊様?」
え? なんで分かるんだろう?
「はい。ご本人がそれだけ覚えておられて。お経が読めるからそうなんだろうって感じですけど」
「やっぱり。お経の一部を書いておられるみたいです。でも、漢字も梵字も使ってなくて、かな書きね。一部だけですし、これは練習なのかしら」
うわ、やっぱり読めるんだ。すごいなー。
丁寧に文字を目で追っていた志野原さんが、一枚の紙片を抜いてわたしの前に置いた。
「これだけが、ちょっと違うわね。これがその方の雑感なのか何かの訴えなのかは、わたしには分からないですけど」
「なんて書いてあるんですか?」
志野原さんは、生徒を教える時に使う朱墨の瓶の蓋を開けると、細い筆で空いたスペースにさらさらと何かを書いた。そして、半紙をぐるりと回した。
きれいな楷書で書かれたひらがな。朱色が眩しい。濡れた墨の匂いが鼻腔をくすぐる。ええと……。
『みほとけのこころもしらでけふもある
くらくなけれはことのはもなし』
うん。字は分かった。でも、意味が分かんない。うーん、これってやっぱり短歌なんだろうか?
「志野原さん、これは短歌ですか?」
「そのようですね」
「その、わたしこういうの苦手で。なんて書いてあるんでしょう?」
苦笑いしたおばあちゃんが、もう一度半紙を手元に引き寄せて朱書きを足した。
『御仏の心も知らで今日も在る
苦楽なければ言の葉もなし』
あ、くらくなけれはって、暗くないってことじゃないのね。自分の無知が恥ずかしくて、顔が火照る。
志野原さんの書いてくれたのを、もう一度じっと見る。今度は、なんとなくその意味が浮かび上がってくる。
「仏様の心も分からないまま、今日もわたしはここにいる。辛いことも楽しいこともないから、それを言葉にすることも出来ない」
志野原さんが、うんうんと頷いた。
「わたしも、その意味でいいと思います。でも」
「はい?」
「ちょっと、お坊様の書かれる歌には思えない感じよねえ」
うん。わたしもそう思った。
「悟っているわけでもなく、不平不満や窮状を訴えるわけでもない。ただ淡々と、自分がどうなのかを書き綴ってるだけだというか」
「すねてるというのとは違います?」
志野原さんが手を組んで、じっと紙面を見つめる。
「わたしには、そうは読めないわねえ。強いて言えば」
「はい」
固唾を飲んで、次の言葉を待った。
「自分がなぜここにいるのか分からない。そんな感じかしら」
いや、それが現状だから確かにそうなんだけど。わたしはちょっとがっかりした。わたしの表情を読んだのか、おばあちゃんが微かに笑った。
「ねえ、南さん。あなたがもしいきなり記憶をなくしたら、どうなさいます?」
あ! それ、わたしが最初に考えてたことじゃないか。すっかり忘れちゃってる。
「うん、それを取り戻そうとしますよね」
「でしょう? それが自然だと思います。そういう方がこんな歌を書くかしらね」
確かにそうだ。わたしが最初に抱いた違和感そのものだ。
「もし思い出したくない辛いこととかがあって、それが記憶を取り戻すのを邪魔しているのなら、そもそもこうやって書き記すなんて行動は起こさないわよね」
「そうですね。確かに、変」
歌をじっと見ていた志野原さんが、ふっと顔を上げてわたしを見つめた。
「これからも、その方が何かを書かれるのなら、どうかそれをわたしに見せてくださいませんか?」
「お手数かけちゃいますけど、いいんですか?」
「構わないわ。そのうち直接お会いしてお話してみたいです」
志野原さんが、何を気にして何を決意したのか分からないけど、ともかくわたしは鉄心さんが書くものの解読コードを入手できただけでほっとした。
「突然伺って、申し訳ありませんでした」
「いいえ、何もお構いせず済みません」
◇ ◇ ◇
志野原さんのお宅を出て、バス停まで歩く道すがら。わたしは頭上の月を仰ぐ。まだ薄紅掛かる青い闇を縫って、柔らかい光が差し掛かる。わたしは足を止めて、月を見上げた。
もし月が何かをわたしに語っていても、わたしが月の言葉を解さなければ、それを知ることはできない。そういう意味では、鉄心さんはわたしにとっての
鉄心さんが使う言葉。それには二種類ある。一つは生活のために仕方なく使う言葉。もう一つは。こころ、だ。わたしは、それを直接解することが出来ない。それが。そのことがとても……もどかしい。
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