六 黙(もく)

「うむ」


 ベッドの上で座禅を組んでお経を唱えていた鉄心さんが、降りて窓を開けようとした。


「あ、鉄心さん。今日は雨降りで、雨が吹き込んじゃうから窓は開けないで」

益体やくたいのないことじゃの」


 別に文句を言い続けるという風でもなく。表情を変えずに、鉄心さんがベッドの上に戻った。体温計を渡して、自分で熱を測ってもらう。わたしは脈だけ取る。


「ちゃんとお薬飲んでくださいね。この前みたいにこっそり捨てちゃだめですよ」

「儂にはもうどこにも痛むところはない。薬など要らぬ」

「鉄心さんはよくても、わたしが困るんですっ!」


 そう。鉄心さんは、とっても強情なんだよね。何かを命じてもお願いしても、それが鉄心さんの意に沿わないと、頑として人の言うことを聞かなくなる。わがままはお年寄りにはよくあることだから、わたしたちも慣れてはいるんだけど、鉄心さんのは筋金が入ってるみたいで始末に負えない。


 鉄心さんは、声を荒げたり、暴れたりということは一切ない。だけど口を利かなくなり、一切こっちの要求に応えなくなる。まるで仏像に化けてるみたいに、ベッドの上で目を瞑って座禅を組んだまま動かなくなってしまう。


 鉄心さんに何かしてもらおうとするなら、それをしてもらわないとわたしが困る、叱られるという言い方しか効果がない。それでなぜ言うことを聞いてくれるのかが、わたしには分かんないんだけど。


 会話を交わせるようになったとは言っても、その相手はわたしだけに限られていて、先生の問診やわたし以外の看護師のお世話の時には、ほとんど口を開かなかった。婦長にはどういう手を使ったのかって聞かれたけど、そんなのわたしに分かるわけはない。


 病院の関係者に対してさえそうなんだから、警察や行政関係者の事情聴取にはずっと無言を貫いた。どうにもならない。もっとも、記憶を失っている患者さんから何かを聞き出そうとすること自体に無理がある。それは病院側から説明し、身元を割り出すことに全力を挙げてもらうことにした。警察の話では、家出人や失踪者の中には今のところ該当しそうな人はいないそうだ。


 黙って体温計をわたしに手渡した鉄心さんが、雨に煙る山をじっと見遣る。


◇ ◇ ◇


 病院では、鉄心さんの扱いを決めかねていた。ケガや火傷の回復は順調で、それ以外に体の異常はない。もう退院して、生活補助のプランを行政担当者と話し合わなければならないんだけど。身元も分からなければ、意思疎通も困難。相談どころの話じゃないんだよね。鉄心さんも、出てけと言われたらふいっと本当に出て行ってしまうような雰囲気を持ってて、うかつなことを言えない。

 とにかく。鉄心さんが、本当に欠片でいいから身元につながる記憶を取り戻して欲しい。それがケアスタッフ全員の総意だった。


 しかし、鉄心さんの無関心は、度を越していた。ものや人に興味を示すということが全くない。それは傍で見ていていらいらするくらい徹底していた。記憶がないということに対して苛立ちや喪失感を全く示さないのも、そこから来ているのかもしれないなと思う。


 入院されるお年寄りは、テレビにかじりつくことが多い。認知症が進み始めた人でも、テレビにだけは関心を示す。視聴者に何かを伝えようと、変わりゆく音と映像。テレビは、見る者に常に能動的に働きかけ続ける。テレビがありながらそれを完全に無視するということは、なかなか難しいことだと思う。でも鉄心さんはテレビに見向きもしなかった。報道、バラエティ、歌番組、お笑い。こっそりとチャンネルを変え、一部ビデオとかも流して反応を見たんだけど。まるっきり無視。しかも、少し大きめに鳴っていてもうるさいと文句を付けない。それが風のざわめきと同じ扱いになっているような感じがする。


 夜の巡回で、休まれてる鉄心さんの横でテレビがぼーっと光ってるのは無気味な光景だった。わたしは溜息をつきながら、その電源を切る。


「あれ?」


 ポケットライトを当てて、テレビの液晶画面を確かめる。指紋が付いてる。


 ……。もしかして。画像が何かを確かめたんだろうか?


◇ ◇ ◇


 新聞や雑誌、書物と言ったものも置いてみた。しかし、それにも関心は示さなかった。


 鉄心さんが起きている間、鉄心さんはお経を読んでいるか、黙想してるか、景色を見ている。ほとんど言葉を発することがない。ある意味、とても大人しい患者さんだ。病院側では、鉄心さんの特別扱いを止めて本来の四人部屋に戻すことを決めた。経営的な判断もあったけど、それより他者との関わりの中から記憶の断片を引き出すきっかけが得られるのじゃないかという期待の方が大きかったと思う。


 でも鉄心さんは、同室の患者さんと会話を交わすことは全くなかった。まるで視聴覚障害者であるかのように、誰の働きかけに対しても無言無反応を貫いた。その独特の雰囲気を恐れて、他の患者さんも鉄心さんにはアプローチしなかった。出来なかった。まるで、四つあるベッドの一つだけに仏像が置いてあるような。そういう感覚。唯一わたしが巡回して検温やお薬のことで話をする時だけ、鉄心さんの人としての顔が見えた。それだって、とても普通の会話とは言えないんだけど……。


 そして。今日も、鉄心さんはベッドの上で座禅を組んで、窓の外を見ている。


「おはようございます、鉄心さん。検温お願いしますね」


 体温計を渡す。鉄心さんは、無言でそれを受け取って脇の下に挟む。時事ネタで会話できないから、なかなか話しかけるきっかけが掴めない。わたしは思わず溜息をつく。


「南どの」


 お? 珍しい。向こうから働きかけがあった。


「なんですか? 鉄心さん」

「所望したいものがあるのじゃが、聞き入れてもらえぬかの?」


 え? 初めてリクエストが出た。びっくりする。


「えと。なんでしょう?」

「紙、硯、墨、筆、水滴」


 うーと。お習字の道具よね。でもシーツとか、墨こぼすと取れないんだよね。クリーニング屋さんが嫌がるだろなあ。


「鉛筆やボールペンじゃだめなんですか?」

「南どのの使うておる棒切れは、儂には扱えぬ」


 棒切れですか。ま、確かに見た目はそうなんだけどね。


「聞いてみますね」

「相済まぬな」


 わたしは、鉄心さんから一風変わったリクエストがあったことを婦長に伝えた。


「へえー。紙と筆、かあ。何にするのかしら」

「字を書くんじゃないんですか?」

「そうだけどさ。何のために?」


 うーん……。


「まあ、いいわ。ほとんど動かない、無関心無感動の鉄心さんが何かしようとしてる。それだけでも進歩だから」

「そうですよね」


◇ ◇ ◇


 ベッドの上は柔らかすぎて、硯をきちんと置くことができないし、布団や毛布を墨で汚されてはかなわないので、ベッドの横に小さな文机と椅子を置いた。鉄心さんは椅子に座るのが嫌いなようで、その上に正座した。そして、ほぼ半日かけて黙々と墨をすった。


「ええっ!?」


 婦長が仰天している。


「朝からずーっと墨擦ってんの?!」

「そうなんですよー」

「ひええ。食事は?」

「摂ってくれないです。もうそれにしか目が行ってないって感じで」

「うわあ……」

「わたしが小言を言える雰囲気じゃないです。見てもらえれば分かると思いますけどぉ」


 婦長を連れて病室をこっそり覗く。鉄心さんは、まだ黙々と手を動かしていた。


「うーん、気合い入れて擦ってるって感じでもないのね」

「はい。お経を読む代わりに手を動かしてるっていうのか」


 笑い声を漏らしそうになった婦長が、慌てて自分の手で口を塞いだ。


「まあ、成り行きに任せるしかないわね。時々様子を見てあげて」

「はい。分かりました」


 ふう……。


 わたしはもう一度鉄心さんに目をやる。確か墨を擦るって、書く前の精神統一とか集中とかに関わってるんだっけ。わたしはよく分からないけど。


 昼ご飯が終わった頃。鉄心さんは、やっと墨を擦る手を止めた。結局、朝昼のご飯を食べなかったことになる。お腹空かないんだろうか? わたしは気になって、巡回の合間を見て何度か病室を覗きに行った。


 最初、目の前に置いた半紙をじっと見つめていた鉄心さんが、筆に墨をためて、すうっとそれを動かした。


 おっと、いけない。自分の仕事をこなさなきゃ。わたしは鉄心さんが何を書いたのか気になったけど、病室をそっと離れた。


◇ ◇ ◇


 三時過ぎに病室を見回った時には、鉄心さんはさすがに疲れたのか、ベッドで横になって眠っていた。文机の上には、毛筆で何か書かれた何枚かの紙がきちんと重ねられていた。一番上の紙を見る。


「うーん、これって」


 読めない。ってか、わたしには単に上から下にすうっと線を引き下ろしたようにしか見えない。重ねられている他の紙も見たけど、書かれているのはみんな同じだった。試し書き? 字を忘れたのかしら? でも、文字はなんらかの形で毎日見てるよねえ。


 まだ何も分からない。でも思い出すためか、何かを書き残すためか。いずれにしても、鉄心さんはアクションを起こした。問題は、わたしたちがそれを読めるかどうかよねえ。


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