五 忘(ぼう)
「南さーん」
婦長の津野さんがわたしを呼び止めた。
「はい?」
「鉄心さんのところは、変化なし?」
「ええ、今のところは」
「なんか変わった人よねえ」
「そうなんですよー」
そのおじいさんが、わたしの勤めている病院に運ばれて来たのは、先週のことだった。体のあちこちに火傷を負い、いくつか打撲の跡があったけれど、もともと体がお丈夫な方だったようで生命に別状はなかった。発見者の話だと、村道に裸で血だらけで倒れていたそうだ。でも出血の割には怪我は軽度で、火傷の方がひどかった。でも、その辺りで火事があったという話もなく。焼身自殺にしては油の臭いとかもない。
警察はひき逃げの線も探ったけど、そもそも裸なのはおかしいし、細い村道は普段から車なんか通らないところで、おじいさんが倒れていた辺りにもぶつかった形跡はなかった。しかも、地元の方はそのおじいさんを誰も知らないと言う。警察では、どうしたものやらって感じだったらしい。本人の回復を待って、身元や事情を確認しようということになったんだけど、鉄心さんは意識が戻った後も自分の名前以外何もしゃべらなかった。
わたしは、治療が済んで目を開いた鉄心さんと最初に交わした会話を鮮明に思い出す。
「ここは……どこじゃ」
「病院ですよ」
「びょう……いん? 極楽ではないのか?」
「あなたはまだ生きてるから、極楽じゃないでしょうねえ」
ゆっくり辺りを見回していた鉄心さんが、ひどく落胆した表情を見せたことが忘れられない。わたしは、やっぱり自殺未遂者なのかなあと思ったの。
その後鉄心さんは、わたしたちの問いかけに何一つ答えなかった。固く目をつぶり、ひたすら何かをぶつぶつと呟き続けた。
でも、昨日あたりからちょっと変化が見える。
治療後の回復が順調なので、鉄心さんを個室から四人部屋に移すことになった。鉄心さんは、わたしたちが用意した車椅子に乗ることを拒否し、自力でのしのしと新しい部屋に歩いて行った。
四人部屋と言っても、看護師のわたしたちとすら意思疎通できていない鉄心さんを、いきなり他の患者さんと同室にするわけにはいかない。実質は個室と変わらなくて、窓際の景色のよく見えるところにベッドを移しただけってのに近いかもしれない。それでも。窓の外に目をやるようになった鉄心さんは、その頑さを少しだけ緩めたように見える。
わたしの勤めてる病院は、町中じゃなくて郊外にある。その窓からは、桜が終わって新緑が動き出した里山の風情を間近にほっこりと味わうことができる。通勤にはちょっと不便なんだけど、わたしはそういう環境の中で仕事できることを楽しんでいた。
わたしは、窓から見える山里の春景色にちらっと目をやって、これまでと同じように鉄心さんに声をかけた。
「鉄心さん、体温と脈を計らせてくださいねー」
何も言わないのかなーと思ってたんだけど、わたしと同じように窓の外を見つめていた鉄心さんが、ぼそっと言った。
「もう桜は散ったか」
おや? 独り言なのか、それともわたしに向かってしゃべったのか。
「そうですねえ。終わっちゃいましたね。でも、もう少ししたら、今度はつつじが咲き出しますよ」
窓の外をじいっと見ていた鉄心さんが、わたしの方に向き直って何かを指差した。
「あれは、なんじゃ」
なんだろ? その指差す先を目を凝らして確かめる。
「えーと。どれですか?」
「あの、ぬっと立っておるやつじゃ。櫓か?」
ああ、あれかー。
「あれは送電鉄塔ですね。確かに、のどかな山の景色にあのごっつい鉄塔はちょっと似合わないわよねえ」
「てっとう?」
「ええ」
「あれは…、なんのために建てたのじゃ?」
この時初めて、わたしは鉄心さんの異常に気が付いた。これまで鉄心さんとコミュニケーションが取れなかったこと。それは、鉄心さんの心の有りようから来てるんだと思ってたけど、もしかしたら違うのかもしれない。
「電気を送るのに使うの」
「でんき?」
鉄心さんが、首を傾げた。
「なんじゃ、それは?」
それをわたしに説明させないでよう。と言うか、それくらいのことはお年寄りでも知ってると思うんだけど。わたしの困った顔を見て、気を利かせてくれたのかもしれない。鉄心さんはまた窓の外に顔を向けて。
黙した。
わたしも何も言わずに鉄心さんの熱を測り、脈を取って、記録用紙にそれを書き込んだ。
そう、もしかしたら。鉄心さんは記憶をなくしてるんじゃないだろうかと。わたしは、そう思ったの。
◇ ◇ ◇
「南さん」
「ああ、津野さん、鉄心さんのことでしょ? どう思います?」
「あなたの見立て、当たってるかも」
「やっぱり?」
「うん、さっき佐田ちゃんにも行ってもらったんだけどさ。昔話とか、そういうの振っても一切乗ってこないの。無関心って言うか。声は前より出てるみたいなんだけど」
「うん、知ってることがすごく限られてる感じがするんですよー」
「そうそう」
「でも、普通の記憶喪失とはちょっと違う気がするんですけど」
「どういうこと?」
「記憶がないことに焦りがないっていうか。自分がどこで何やってたか思い出せないって、普通すんごいストレスだと思うんですけど、そういうのがないですよね」
「確かにそうねー」
婦長が腕組みしてうなる。
「ううー」
「それに、思い出したくないこととか、そういうのを忘れる記憶障害みたいのと違って、ぜえんぶ忘れちゃってるっていうか」
「記憶喪失じゃなくて、認知症?」
「うーん、分かんないです。津野さんはどう思います?」
「わたしも分かんないわよ。でも火傷の方が回復してきたんなら、脳神経外科の高橋先生にでも診てもらった方がいいわね。今のままじゃ、事情を聞くこともできないわ」
「ええ、そうですよね」
◇ ◇ ◇
その日の午後。鉄心さんはベッドの上でなぜか座禅を組み、病室の窓を全開にして、外をじっと見つめていた。
一昨日から、栄養摂取が輸液から経口食に切り替わってる。食事のトレイをチェックすると、ご飯やお味噌汁はきれいに食べているのに、お魚やお肉には箸がついていない。またかあ。お嫌いなのかしら。一応、立場もあるのでお小言を言う。
「鉄心さん、お食事は残さず全部食べてくださいね。きちんと食べないとケガがよくなりませんよ」
こちらを振り向いた鉄心さんが、表情を変えずにさらりと答えた。
「済まぬ。儂は坊主ゆえ戒律があってな。殺生で得たものは口に出来ぬ」
あ! そうか。名前も変だなあと思ったんだけど、お坊さんだったんだあ。そう考えると、ベッドの上の座禅とか、納得できる。ぶつぶつ言ってるのは、きっとお経だな。
「思い出したんですか?」
単刀直入に聞いてみる。
「儂が坊主だと言うことは分かる。経もそらで唱えられる故な。じゃが、それ以外は何も思い出せぬ」
やっぱり、記憶喪失かあ。まあ、ここから先は看護師の領域じゃない。婦長に報告して、今後の対応を練ることにしよう。
「じゃあ、ゆっくり休んでくださいね。なにかあったら、ナースコール押して呼んでください」
「なんじゃ、それは?」
「そこにあるボタンですよ。それを押すとナースステーションにつながります。わたしが様子を伺いに参りますので」
なんか、わたしの説明はかなり聞き流されてる。いや、そうじゃないな。鉄心さんは、わたしの説明を丸っきり理解できてないんじゃないかな? でも、納得するまでわたしに聞き質そうという気もないようだ。
「もし」
病室を出ようとしたわたしに、鉄心さんが何事か話しかけた。小声だったのでよく聞こえなかった。
「え? なんですか?」
引き返して、もう一度側に寄る。
「済まぬ。御主の名を教えてもらえぬか? 名を知らぬと不便でかなわぬ」
おかしいなあ。わたしは、胸に名前の入った名札を付けてる。それが読めないはずはないと思うんだけど。まあ、いいや。
「わたしは
「南どの、か」
うーん。『殿』はわたし的にはなんとなくやーな感じなんだけど。患者さんがそれが呼びやすいと言うなら、しょうがないか。
「世話をかけて済まぬな」
「いえ。それがわたしたちの仕事ですから」
ここでも。鉄心さんは、不思議そうな表情を見せた。
「それじゃ、失礼しますね」
廊下に出たわたしは、安堵と不安を両方感じた。
安堵。鉄心さんが、わたしたちと意思疎通しようという姿勢を見せ始めたこと。これでわたしたちは、もっときめの細かいケアができる。
不安。鉄心さんが失っている記憶は、わたしたちが思っている以上に大きいんじゃないんだろうかということ。鉄心さんが何を覚えているのかが、わたしたちからは探りようがない。
まあ、急いでも仕方ないよね。鉄心さんの回復が進めば、先生や警察の聞き取りに答えられるようになるかもしれない。わたしたちは、それをサポートするしかないのだから。
◇ ◇ ◇
それから。わたしと鉄心さんとの、一風変わった交流が始まった。
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