四 炎(ほむら)

 嘉緑かろく十二年卯月廿日申の刻。


 綺堂きどう重豊しげとよ配下の中村なかむら七兵衛しちべえ河野こうの充房みつふさ久下くげ宣伴のりとも率いる騎馬隊千二百騎が、猪狩領内の村落に火をかけながら攻め上り、戸田山城に奇襲をかけた。


 村々の焼き討ちの炎を櫓から察知した能十光春は、奇襲に待ち伏せで対抗すべく城外に千の兵を出して山中のごうに伏せ、山肌を攻め上がってくるはずの敵を待った。


 兵の数はそれほど変わらぬ。間中に援軍要請の使者は出してある。ほどなく五千の兵が本陣に着く手はずじゃ。それまで地の利がある我らが、綺堂の足を止めればよい。

 能十軍の参謀を務めていた金山かなやま尊臣たかおみの進言を光春が容れたのである。それは決して愚策ではなかったが、光春は綺堂の智謀を甘く見過ぎていた。


 鉄心和尚が述懐したが如く、綺堂の攻めは迅く、苛烈。それは攻めに容赦がないということだけではない。短時間で戦利が上がるよう、事前に周到な作戦が立てられて

いるということなのである。


 攻め寄せた千二百騎は、寄せる勢いで山を駆け上がると思いきや、足を止めて山裾で仮の陣を張った。山中の兵はいぶかった。なぜ攻め上がって来ぬのじゃ、と。


 その時。山頂の本陣から突如火の手が上がった。


 綺堂は戸田山を攻めるにあたり、能十の動きを間者に入念に探らせていた。見張り櫓を立てて本陣を守るために、近隣の村々から駆り出された百姓と雑兵たち。綺堂はその中に、自軍の兵を何人も紛れ込ませていたのである。彼らの目的はただ一つ、櫓を焼き落とすことであった。櫓を失えば、攻め上がる兵の様子を確かめられず、城から打って出た兵への指令も出せなくなる。


 数少ない精鋭を城外に出していた本陣は、城壁の守備兵と城内の重臣以外ほとんど人がおらず、警備が手薄になっていて、櫓は無防備だった。火を放つことなど、赤子の手を捻るより容易たやすかったのである。


 突如炎上した櫓を見て、待ち伏せしていた兵に一斉に動揺が走った。命令通りに待つべきか、本陣に戻って城を守るべきか。実戦経験の乏しい田舎侍たちには、その心理的重圧が強すぎた。彼らは壕を出て、城へ戻ろうと一斉に山を駆け上がり始めた。


 下からその様子をほくそ笑んで見ていた先遣隊の中村が、ときの声を上げた。


「討ち漏らすな! 一人残らず斬り捨ていっ!」


 怒濤の如く攻め上がる騎馬隊。背を見せた城外の兵は、刃を合わせる間もなく一人残らず無駄死にすることとなった。


 城内も突然上がった火の手に大混乱していた。


「なぜじゃ! なぜ、櫓が焼け落ちるのじゃあっ!」


 光春が絶叫するが、もうどうにもならない。炎の柱と化した櫓は火種を四方に撒き散らし、陣中のあらゆるところから新たな炎が立ち上がった。城の中では混乱が混乱を呼び、指揮が届かなくなった兵が勝手に逃亡を始めた。


「うぬぬ、もはやここまでか」


 光春も、城を落ち延びるために母のおゆうを伴って城の裏門を出た。間中に使者を出してからすでに数刻経っている。そろそろ本隊が援軍に来るであろう。合流さえ出来れば命は助かる。


 しかし。


 裏門を出た光春たちが目にしたもの。それは、無惨に切り捨てられた使者の姿であった。まざまざと見せつけるように、裏門の真ん前に投げ出されているしかばね


溝鼠どぶねずみめが。こそこそと」


 光春たちの眼前に、くろがねの鎧で全身を固めた数騎の騎馬武者が現れた。


「恥を知れい!」


 吐き捨てた男が、光春を、おゆうの方を、従者たちを、こともなげに斬り捨てていった。


 わずか。わずか半時たらずの間のことであった。


 軍馬のいななきが遠ざかった後。戸田山の陣には、むくろだけがうずたかく積み重なっていた。急を知った間中の本隊が到着した時。すでに、綺堂軍の姿はどこにもなかったのである。


◇ ◇ ◇


「やはりか」


 夕暮れ迫る中。庵の縁側に出て、火の手が上がった山頂を見やる。


 戸田山が如き小城に、綺堂が大軍を向けるはずはない。奇襲の才のある猛将に騎馬を預けて、能うる限り早く落とそうとするじゃろう。能十は、まんまとその策にはまったということじゃ。


 いかに戸田山が小城といえども、備えのある城を正面から攻めれば、落とすには時を要する。内応するものがおったか、間者が潜り込んでいたのであろう。阿呆の光春では、それは読めなかったであろうな。


「能十は絶えるか」


 人心を失った愚かな領主の末期と言えば、それまでじゃ。じゃが、綺堂もそれと何も変わらぬ。武器を持たぬ臣民を虫けらのように殺めながら国を盗る。いずれ、その酬いを受けることになるじゃろうて。


 縁側を降りて、ゆっくりと道に出る。山裾にも、ところどころに火が見える。儀助の屋敷も、洗月院の庵も。すでに火を放たれ、焼け落ちていることじゃろう。皆無事に逃れておればいいのじゃが。きゃつらがなぜこの寺を見逃したのか。それは儂には分からぬ。


 儂は。かほどに長生きはしたくなかったのう。弔うのが坊主の仕事とは言え、儂は仏にはなれぬ。決してなりえぬ。命をつなぐのが人としての営みであろうに。なぜ、かように無益な殺生を繰り返さねばならぬのか。


 金剛杖を持って立ち上がる。勤めじゃ。儂はここを出て、村々の民を弔っていかねばならぬ。もともとこの庵とて、この世の仮の宿じゃ。捨て置くに未練はない。行脚の中途で、どこぞに知念を預けることにしようぞ。それにしても、知念は何をしておる。竃から煙が上がっておらぬゆえ、納屋にでもおるのか?


「これ、知念!」


 大声で呼ぶが、返事がない。はて?


「知念! どこにおる!」


 儂は庵室を出て、本堂に足を向けた。襖はなぜか開いておった。暗がりの中に何かうずくまっておる。


 儂はそれに駆け寄った。


「知念!」


 仏像を磨く布を手に握りしめたまま。知念が血の海の中に倒れておった。


「知念! 知念! どうした?! 誰にかようなっ!」


 かき寄せて抱くが、すでに体は冷えていた。首を真横に掻き斬られ、まなこは開いたままであった。


 こんな非道なことをしよるのは、綺堂か? おゆうの方か? そんなことはどうでもよい。なぜ知念なのじゃ! なぜ儂ではないのじゃ!


 なぜ命を仏に返すことを心待ちにしておる儂を残して、年端も行かぬ知念に手をかけるのじゃ! 鬼畜め! 人でなしめ!


 儂は振り返って仏像を睨んだ。


「御主も所詮人の作りし似非物えせものか! 見据えているだけが御主の所作かっ!」


 喚いても、何をしても。知念は戻らぬ。還らぬ。仏像の細い目の奥から、儂の心を貫くかのように視線が落ちた。


「のう、知念。冷たいのう。儂ももうぬくくはならぬ。御主を抱いても温くはできぬ」


 やんぬるかな。儂はすでに冷え固まって石と化しておる。儂の涙はもうとうに枯れ果てておる。何も御主にしてやれぬ。儂は知念を横たえて手を組ませ、その前で座禅を組んだ。


 めらめらっ。れた障子紙が突然炎を上げ始めた。さっと何者かが飛び退って遠ざかる気配があった。おゆうに付き添うていた忍びであろう。


 ふふふ。左様か。儂から全てを取り上げるために仕組んだか。


 じゃがな、おゆう。そなたも最後の最後まで阿呆じゃったな。無駄じゃ。儂はすでに何も持たぬ。無一物じゃ。悲しみも。慈しみの心も、何もかもな。


「知念。一人では行かせぬ。伴がないと、旅はおもしろうなかろうて。待っておれ」


 本堂から、赤々と炎を吹き上げる櫓がくっきりと見ゆる。横に、櫓から弾け出たかのように赤い月がのっそりと座っておる。遠くの炎と呼び合うが如く、堂内に火が回り始めた。儂はひたすら経を読みながら、成仏の時を待った。


 ばりばりと大きな音を立てて、焼けた梁が頭上に落ちて来た。儂はそれに打ちのめされて、知念の横に倒れ伏す。


 気が遠のく。じゃが、儂は笑いが止まらなかった。


 これでよい。


「はっはっは。荼毘だびの手間が省けたわい」


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