四 炎(ほむら)
村々の焼き討ちの炎を櫓から察知した能十光春は、奇襲に待ち伏せで対抗すべく城外に千の兵を出して山中の
兵の数はそれほど変わらぬ。間中に援軍要請の使者は出してある。ほどなく五千の兵が本陣に着く手はずじゃ。それまで地の利がある我らが、綺堂の足を止めればよい。
能十軍の参謀を務めていた
鉄心和尚が述懐したが如く、綺堂の攻めは迅く、苛烈。それは攻めに容赦がないということだけではない。短時間で戦利が上がるよう、事前に周到な作戦が立てられて
いるということなのである。
攻め寄せた千二百騎は、寄せる勢いで山を駆け上がると思いきや、足を止めて山裾で仮の陣を張った。山中の兵は
その時。山頂の本陣から突如火の手が上がった。
綺堂は戸田山を攻めるにあたり、能十の動きを間者に入念に探らせていた。見張り櫓を立てて本陣を守るために、近隣の村々から駆り出された百姓と雑兵たち。綺堂はその中に、自軍の兵を何人も紛れ込ませていたのである。彼らの目的はただ一つ、櫓を焼き落とすことであった。櫓を失えば、攻め上がる兵の様子を確かめられず、城から打って出た兵への指令も出せなくなる。
数少ない精鋭を城外に出していた本陣は、城壁の守備兵と城内の重臣以外ほとんど人がおらず、警備が手薄になっていて、櫓は無防備だった。火を放つことなど、赤子の手を捻るより
突如炎上した櫓を見て、待ち伏せしていた兵に一斉に動揺が走った。命令通りに待つべきか、本陣に戻って城を守るべきか。実戦経験の乏しい田舎侍たちには、その心理的重圧が強すぎた。彼らは壕を出て、城へ戻ろうと一斉に山を駆け上がり始めた。
下からその様子をほくそ笑んで見ていた先遣隊の中村が、
「討ち漏らすな! 一人残らず斬り捨ていっ!」
怒濤の如く攻め上がる騎馬隊。背を見せた城外の兵は、刃を合わせる間もなく一人残らず無駄死にすることとなった。
城内も突然上がった火の手に大混乱していた。
「なぜじゃ! なぜ、櫓が焼け落ちるのじゃあっ!」
光春が絶叫するが、もうどうにもならない。炎の柱と化した櫓は火種を四方に撒き散らし、陣中のあらゆるところから新たな炎が立ち上がった。城の中では混乱が混乱を呼び、指揮が届かなくなった兵が勝手に逃亡を始めた。
「うぬぬ、もはやここまでか」
光春も、城を落ち延びるために母のおゆうを伴って城の裏門を出た。間中に使者を出してからすでに数刻経っている。そろそろ本隊が援軍に来るであろう。合流さえ出来れば命は助かる。
しかし。
裏門を出た光春たちが目にしたもの。それは、無惨に切り捨てられた使者の姿であった。まざまざと見せつけるように、裏門の真ん前に投げ出されている
「
光春たちの眼前に、
「恥を知れい!」
吐き捨てた男が、光春を、おゆうの方を、従者たちを、こともなげに斬り捨てていった。
わずか。わずか半時たらずの間のことであった。
軍馬の
◇ ◇ ◇
「やはりか」
夕暮れ迫る中。庵の縁側に出て、火の手が上がった山頂を見やる。
戸田山が如き小城に、綺堂が大軍を向けるはずはない。奇襲の才のある猛将に騎馬を預けて、能うる限り早く落とそうとするじゃろう。能十は、まんまとその策にはまったということじゃ。
いかに戸田山が小城といえども、備えのある城を正面から攻めれば、落とすには時を要する。内応するものがおったか、間者が潜り込んでいたのであろう。阿呆の光春では、それは読めなかったであろうな。
「能十は絶えるか」
人心を失った愚かな領主の末期と言えば、それまでじゃ。じゃが、綺堂もそれと何も変わらぬ。武器を持たぬ臣民を虫けらのように殺めながら国を盗る。いずれ、その酬いを受けることになるじゃろうて。
縁側を降りて、ゆっくりと道に出る。山裾にも、ところどころに火が見える。儀助の屋敷も、洗月院の庵も。すでに火を放たれ、焼け落ちていることじゃろう。皆無事に逃れておればいいのじゃが。きゃつらがなぜこの寺を見逃したのか。それは儂には分からぬ。
儂は。かほどに長生きはしたくなかったのう。弔うのが坊主の仕事とは言え、儂は仏にはなれぬ。決してなりえぬ。命をつなぐのが人としての営みであろうに。なぜ、かように無益な殺生を繰り返さねばならぬのか。
金剛杖を持って立ち上がる。勤めじゃ。儂はここを出て、村々の民を弔っていかねばならぬ。もともとこの庵とて、この世の仮の宿じゃ。捨て置くに未練はない。行脚の中途で、どこぞに知念を預けることにしようぞ。それにしても、知念は何をしておる。竃から煙が上がっておらぬゆえ、納屋にでもおるのか?
「これ、知念!」
大声で呼ぶが、返事がない。はて?
「知念! どこにおる!」
儂は庵室を出て、本堂に足を向けた。襖はなぜか開いておった。暗がりの中に何か
儂はそれに駆け寄った。
「知念!」
仏像を磨く布を手に握りしめたまま。知念が血の海の中に倒れておった。
「知念! 知念! どうした?! 誰にかようなっ!」
かき寄せて抱くが、すでに体は冷えていた。首を真横に掻き斬られ、
こんな非道なことをしよるのは、綺堂か? おゆうの方か? そんなことはどうでもよい。なぜ知念なのじゃ! なぜ儂ではないのじゃ!
なぜ命を仏に返すことを心待ちにしておる儂を残して、年端も行かぬ知念に手をかけるのじゃ! 鬼畜め! 人でなしめ!
儂は振り返って仏像を睨んだ。
「御主も所詮人の作りし
喚いても、何をしても。知念は戻らぬ。還らぬ。仏像の細い目の奥から、儂の心を貫くかのように視線が落ちた。
「のう、知念。冷たいのう。儂ももう
やんぬるかな。儂はすでに冷え固まって石と化しておる。儂の涙はもうとうに枯れ果てておる。何も御主にしてやれぬ。儂は知念を横たえて手を組ませ、その前で座禅を組んだ。
めらめらっ。
ふふふ。左様か。儂から全てを取り上げるために仕組んだか。
じゃがな、おゆう。そなたも最後の最後まで阿呆じゃったな。無駄じゃ。儂はすでに何も持たぬ。無一物じゃ。悲しみも。慈しみの心も、何もかもな。
「知念。一人では行かせぬ。伴がないと、旅はおもしろうなかろうて。待っておれ」
本堂から、赤々と炎を吹き上げる櫓がくっきりと見ゆる。横に、櫓から弾け出たかのように赤い月がのっそりと座っておる。遠くの炎と呼び合うが如く、堂内に火が回り始めた。儂はひたすら経を読みながら、成仏の時を待った。
ばりばりと大きな音を立てて、焼けた梁が頭上に落ちて来た。儂はそれに打ちのめされて、知念の横に倒れ伏す。
気が遠のく。じゃが、儂は笑いが止まらなかった。
これでよい。
「はっはっは。
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