弐 兆(きざし)

「ほほほほほ」


 朗らかな笑い声に混じって、知念の甲高いはしゃいだ声が響いてくる。まったく。浮かれよってからに。


「御免」


 権左ごんざが、ゆっくり顔を出した。


「おや、和尚。今日はどうなさいました?」

「いや、知念が邪魔をしておるゆえ、引取りに来ただけじゃ」

「また和尚は邪魔なぞと」

「いやいや、小坊主が御方様を再々煩わすのはいかなこと。少々釘を刺しておかぬとな」


 やれやれという顔で、権左が儂を案内あないする。


「妙円さま。鉄心和尚が見えてますが」

「あら、珍しいこと。お通ししてください」


 さらりと襖が開く音がして、薄墨の袈裟に身を包んだ妙円がにこにこと儂を手招きする。


「これ知念、御方様の庵には本来男は出入り出来ぬ。大概にせぬか」


 知念が、萎れてこうべを垂れた。


「まあまあ、鉄心さま。それを言うたら、そなたとて同じこと。片田舎の崩れそうな庵にたれが出入りしたとて、見咎める者などおりますまい」

「まあな」


 儂は知念の隣に腰を下ろす。


「じゃがの。知念もそろそろ道を決めねばならぬ年じゃ。いつまでも母恋いに浸られては敵わぬ」


 知念が、驚いたように顔を上げた。


「あ、あの……」

「なんじゃ?」

「わたしは庵を出ねばならないのでしょうか?」

「何をたわけたことを言うておる。儂の年を考えてみるがよい。近々儂は土塊つちくれに戻る。おぬしはおぬしで生き方を考えよ」

「わたしは……鉄心さまのお側に居とうございます」

「困ったやつじゃ」


 妙円が、薄く笑みを浮かべて儂らの様子を見遣っている。


「鉄心さま。辛うございますね」

「何を言う。儂は元々乞食坊主じゃ。何がどうあろうと儂は変わらぬ。儂も何かを変えるつもりはない。全ては御仏の思し召し」


 儂は知念に言い渡す。


「これは儂の生き方じゃ。儂が選び、儂が決めた。おぬしもそうするがよい」


 知念は、無言で俯いた。


「時に鉄心さま」


 妙円がふっと笑みを消した。


「なんじゃ」

「また、戦でしょうか」

「そのようじゃな。無益な殺生を繰り返す阿呆どものなんと多いことよ。勝手にするがよい」

「……」

「儂らは御仏に体を返すだけじゃ。何があっても困らぬ。困るのは、日々を暮らす民草よ」

「さようですね」


 沈黙の中。鶯の遠鳴きが届いてくる。


「さて。世話をかけて相済まぬな。知念、戻るぞ」

「は、はい」

「鉄心さま」


 妙円が、半分目を閉じ、呟くように言うた。


「なんじゃ」

「ご無事で」

「御方様もな」


◇ ◇ ◇


 とんとんと藁を叩いていた音が途絶えた。


 儂は裸足で一向に構わぬのじゃが、知念がそれを気にしよる。くたびれた草鞋を作り直しているのじゃろう。あやつも、儀助に教わって草鞋やら傘やら蓑やら器用に作りよる。あれだけまめならば、どこにおろうが食うには困らぬな。


 真新しい草鞋をいくつかぶら下げて、知念が小走りに本堂に戻ってきた。


「知念。もう手もとが暗かろう? 終いにせい」

「はい、そういたします」

「権左から飯をもろうた。湯だけ沸かしてくれい」

「はい」


 儂は軒に出て、外を眺める。つるべ落としに日が落ち、暮れなずむ山の端が見飽きた形に浮き上がる。それはいつもと変わらぬはずじゃった。


 む。

 盆に湯飲みと刻んだ塩菜を乗せて戻った知念が、儂の横につくねんと座る。


「鉄心さま。あれは」


 知念が指差した先。暮れて形を失っていく山に、昼に儀助と見た時よりも禍々しく、高い櫓がぬっと突き出しておる。その櫓の上にゆらゆらとわずかに灯っておるのは、松明か。まるで鬼火のようじゃの。


「あれは、なんでしょうか?」

「さあのう」


 知念にあれを説いたところで始まらぬ。儂は目を逸らした。山の端に転がり落ちるようにして、赤い月がかかっておる。


「月が赤いの」

「気味が悪いですね」

「ほほ。そう思うのはおぬしだけじゃ」

「さようですか?」


 少しく不服そうに眉を寄せて、知念が儂の顔を見た。


「月はおぬしのことなぞ知らぬ。月は月じゃ」

「あ……」

「欠けておろうが、満ちておろうが。赤かろうが、白かろうが。月は月じゃ。儂らのことなど塵芥ちりあくたほどにしか見なさぬ」


 むすっと塞ぎ込んだ知念に、もう一つ謎をかける。


「おぬしは月が欲しいか?」

「はい?」


 何を訊くのだろうとばかりに首を傾げる。


「どうじゃ?」

「いえ、あれは取れませぬゆえ」

「そうじゃな。だから月じゃ」

「はい」

現世うつしよのもの。全てを手にすることは誰にも出来ぬ。さりとて、全てを捨て去ることもできぬ。月に近付こうとも。遠ざかろうとも。月は月じゃ。そこにある。難儀なことよ。月がそこにある故、な」


 ゆっくりと立って、ぼりぼりと尻を掻く。


 儂も、妙円も。知念に全てを与うることはできぬ。さりとて、全て取り上げることもできぬ。儂らにとって、知念は月じゃ。儂らは永劫、いつになることは叶わぬ。


 まったく、難儀なことじゃ。


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