月と鉄塔

水円 岳

壱 春(はる)

「……鉄心さま」


 ん?


「鉄心さま、そろそろお起きくださいませ」

「ああ、知念か。済まぬ。寝過ごしたわ」


 すでに知念がふすまやら障子しょうじを開け放って、いおりの中の空気を朝風に入れ替えている。


 わしは夜具を畳んで部屋の隅に押しやり、ぼりぼりと腹を掻いた。ぼろぼろの袈裟けさを羽織り、草鞋わらじを履いて庭に降りる。


「ひぐしっ!」


 昨晩は冷え込んだからのう。儂ははなをすすって、もう一度くさめをした。


「ひぐしっ!」


 知念が出てこぬということは、儀助から供物くもつがあったということじゃな。振り返って離れを見た。かまどから薄い煙が流れている。


「ほっほっほ。知念も、こういうことにだけは熱心じゃの」


 まあ、仕方あるまい。あの年頃は腹が減ってどうにもならぬものじゃ。坊主の食事では、勤行ごんぎょうもままならぬじゃろうて。


 もう一度辺りを見回す。


「春の気配けわいがするの」


 谷筋の沸き出しのすぐ側に建つ襤褸ぼろ寺。里よりは、山の息吹が近い。柳の花はもうそろそろ終いじゃの。木五倍子きぶしがぼつぼつ咲き出すじゃろう。百姓も、忙しうなってくるの。


 まだ人気の少ない田畑を見遣りながら、儂はもう一度くさめをした。


「ひぐしっ!」


◇ ◇ ◇


 山間やまあいの庵で、坊主の真似事をしてもう三十年になる。


 その間。病を得ることもなければ、衣食が絶えることもなく。ただひたすら経を読み、御仏の慈悲に護られて、儂はこうして生き延びてきた。よわい七十を越してなお。


 知念が儂のところに来るまでは、寝たい時に寝、起きたい時に起き、食らいたい時に食らう気ままな暮らしじゃったな。まさに乞食坊主よ。何方いずかたまでも気楽な暮らしで、そのまま朽ちるように成仏したかったのじゃが、勤めを果たせと御仏の思し召し。致し方あるまい。


 知念は、寺の門の前に捨て去られていた赤子じゃった。儀助の娘に乳母を頼んだが、儂は親代わりらしきことは何一つせず、勝手に大きくさせてきた。


 わしは何も躾けておらぬのに、いつの間にやらどこぞの女房のような世話焼きを覚えよってのう。気が利くのはよいが、儂よりも細かいことに気を遣る。口喧くちやかましい坊主なぞ、聞いたことがないわ。


 それにしても、知念ももう十をいくつか過ぎた。儂はいつ墓に足を突っ込んでも構わぬが、そろそろあやつの行く末を考えねばならんの。還俗げんぞくして何かするもよかろう。坊主を続けるのなら、一度この寺を出して修行させねばならぬ。どちらにしても、親でもないのに親の真似事をせねばならぬ。厄介なことじゃ。


「鉄心さま。朝餉あさげが整いました」

「む。朝の勤行を果たそうか」

「はい」


 経を読み、御仏の汚れを拭って、朝餉あさげをとる。


「鉄心さまは、このあとどうなさいます?」

「ああ、儀助に礼を言わねばならぬ。ちと邪魔して、ついでに四方山よもやま話でも散らかしてくるわい。おぬしも来るか?」

「いえ、わたくしは洗月院せんげついんさまのところに伺おうと思います」

「そうか。好きにするがよい」

「はい」


 妙円みょうえんも余計なことをしよる。田舎坊主にはふさわしゅうない言葉遣いと世話焼きを仕込んだのはあやつじゃな。まあ、母のない知念にとっては母代わりじゃ。それを儂が取り上げる道理はない。


 さて。出るかの。


◇ ◇ ◇


「儀助」

「ああ、和尚。また何か壊れましたかい?」


 気の利く儀助は、何かと儂を気遣うてくれる。ありがたいことじゃ。


「いやいや、今朝の供物の礼をな。いつも相済まぬな。儂は托鉢の手間が省けて楽じゃが、お主にはいつも世話ばかりかけてしもうてな」

「薪を採りに入るついでですけ」


 鍬の刃を研いでいた儀助が手を止めた。二人で山の端を見る。


「ようやくぬくうなってきましたの」

「そうよの。おぬしらもそろそろ忙しくなってこよう?」

「畑打ちに追われるのはありがたいこってさ」


 儀助が山の頂を指差した。


「新田の方じゃあ、男衆おとこしぞろっと駆り出されて、やぐらぁ組まされてるって聞いてやす。難儀なこった」


 べこのように首を振った儀助が顔をしかめる。


 目を凝らして頂を見た。確かにぼんやりとした山に似つかわぬ櫓が、角のように何本も立ち上がっておった。


「ねえ、和尚。あんなもん、なんにするんですかい?」

「さあな。儂のような老いぼれ坊主には、とんと分からぬわ」

「また、戦なんですかねえ」


 儀助のような百姓にも、あれが酔狂で作られたものでないことは分かるのじゃろう。


「阿呆どもが何をしでかそうが、儂の知ったことではない。儂のお勤めが増えるだけじゃ」

「和尚もはっきりしてなさる」

「坊主はそんなものよ」

「ははは」


 長居して、畑仕事の邪魔をするのもなんだ。どれ。久しぶりに妙円の庵にでも顔を出すか。


「儀助、邪魔したの。済まぬ」


 浮かぬ顔で儂を見送る儀助を残して、畦道を里の方へ下る。


 菜花が咲いて、静かに揺れる。途中、地蔵尊で立ち止まって読経。次いで、川縁の五輪の前で読経。ゆっくりゆっくりと。儂を取り崩すようにして、春は過ぎる。それを背の日差しに感じながら。金剛杖を鳴らして、儂は歩く。


 りん! しゃりん!


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