月と鉄塔
水円 岳
壱 春(はる)
「……鉄心さま」
ん?
「鉄心さま、そろそろお起きくださいませ」
「ああ、知念か。済まぬ。寝過ごしたわ」
すでに知念が
「ひぐしっ!」
昨晩は冷え込んだからのう。儂は
「ひぐしっ!」
知念が出てこぬということは、儀助から
「ほっほっほ。知念も、こういうことにだけは熱心じゃの」
まあ、仕方あるまい。あの年頃は腹が減ってどうにもならぬものじゃ。坊主の食事では、
もう一度辺りを見回す。
「春の
谷筋の沸き出しのすぐ側に建つ
まだ人気の少ない田畑を見遣りながら、儂はもう一度くさめをした。
「ひぐしっ!」
◇ ◇ ◇
その間。病を得ることもなければ、衣食が絶えることもなく。ただひたすら経を読み、御仏の慈悲に護られて、儂はこうして生き延びてきた。
知念が儂のところに来るまでは、寝たい時に寝、起きたい時に起き、食らいたい時に食らう気ままな暮らしじゃったな。まさに乞食坊主よ。
知念は、寺の門の前に捨て去られていた赤子じゃった。儀助の娘に乳母を頼んだが、儂は親代わりらしきことは何一つせず、勝手に大きくさせてきた。
わしは何も躾けておらぬのに、いつの間にやらどこぞの女房のような世話焼きを覚えよってのう。気が利くのはよいが、儂よりも細かいことに気を遣る。
それにしても、知念ももう十をいくつか過ぎた。儂はいつ墓に足を突っ込んでも構わぬが、そろそろあやつの行く末を考えねばならんの。
「鉄心さま。
「む。朝の勤行を果たそうか」
「はい」
経を読み、御仏の汚れを拭って、
「鉄心さまは、このあとどうなさいます?」
「ああ、儀助に礼を言わねばならぬ。ちと邪魔して、ついでに
「いえ、わたくしは
「そうか。好きにするがよい」
「はい」
さて。出るかの。
◇ ◇ ◇
「儀助」
「ああ、和尚。また何か壊れましたかい?」
気の利く儀助は、何かと儂を気遣うてくれる。ありがたいことじゃ。
「いやいや、今朝の供物の礼をな。いつも相済まぬな。儂は托鉢の手間が省けて楽じゃが、お主にはいつも世話ばかりかけてしもうてな」
「薪を採りに入るついでですけ」
鍬の刃を研いでいた儀助が手を止めた。二人で山の端を見る。
「ようやくぬくうなってきましたの」
「そうよの。おぬしらもそろそろ忙しくなってこよう?」
「畑打ちに追われるのはありがたいこってさ」
儀助が山の頂を指差した。
「新田の方じゃあ、
べこのように首を振った儀助が顔をしかめる。
目を凝らして頂を見た。確かにぼんやりとした山に似つかわぬ櫓が、角のように何本も立ち上がっておった。
「ねえ、和尚。あんなもん、なんにするんですかい?」
「さあな。儂のような老いぼれ坊主には、とんと分からぬわ」
「また、戦なんですかねえ」
儀助のような百姓にも、あれが酔狂で作られたものでないことは分かるのじゃろう。
「阿呆どもが何をしでかそうが、儂の知ったことではない。儂のお勤めが増えるだけじゃ」
「和尚もはっきりしてなさる」
「坊主はそんなものよ」
「ははは」
長居して、畑仕事の邪魔をするのもなんだ。どれ。久しぶりに妙円の庵にでも顔を出すか。
「儀助、邪魔したの。済まぬ」
浮かぬ顔で儂を見送る儀助を残して、畦道を里の方へ下る。
菜花が咲いて、静かに揺れる。途中、地蔵尊で立ち止まって読経。次いで、川縁の五輪の前で読経。ゆっくりゆっくりと。儂を取り崩すようにして、春は過ぎる。それを背の日差しに感じながら。金剛杖を鳴らして、儂は歩く。
りん! しゃりん!
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