第10話 降圧剤の効果と商売上手な中国人

第10話 降圧剤の効果と商売上手な中国人


 相変わらず、円陣を組んで5人の医者たちが話を続けていたが、その時、私の体の中から何かがすっと抜け行くような感じを覚えた。

 そこで、手を動かしててみると手が動き、足を動かしてみると足が動くではないか!

 先ず、横たわっていたベッドから、半身をゆっくりと起こしてみると、ベッドに座ることができるようになり、またゆっくりとベッドから足を下ろすと、何と立ち上がることもできるではないか!

 医者たちが真剣に話を続けている真後ろで、手を伸ばしてみたり、足の屈伸運動をしてみると、これもできるようになった。

 頭のふらつきも、どうもないようである(その日の朝、飲んでいた降圧剤が効いてきたとしか考えられなかった)。

 医者達は、私の動きに全く気がつかずに、相変わらず真剣に話し合いを続けている。

 「ーーーーーーー?----?--------?」

 「ーーーーー!-----!--!」

 「ーーー?---?」

 「ーー!--!」

 そこで私は、その中の1人の医者の肩を軽くとんとんと叩いてみた。

 すると、話し合いの邪魔をするなといわんばかりに、私の手を振り払うではないか!

 そこで、今度はもっと強く彼の肩を叩いてみた。

 やっと彼は、振り向いてくれたが、私を見るや否や、彼の顔の形相がみるみるうちに驚きの表情に変わっていき、そして彼は叫んだ!

 「シャマー!(何だ!)シャマー!ザマラー!(どうした!)」

 円陣を組んで話し合っていた医者達が全員、私の方へ顔を一斉に向けて、彼と同じように叫んだ!

 「シャマー!シャマー!」

 私は、落ち着き払って言った。

 「ウオーハオラー!(私は、良くなりました!)」

 「ショーシェマー?(何と言った?)」

 「ウオーハオラー!」

 段々と彼らも冷静になってきて、全く信じられないと言う表情は変えなかったが、血圧を測定したり、私の目を調べたりと、通常の検査をテキパキとこなし、そして言った。

 「チエン ハオラー!(本当に良くなった!)」

 それでも、信じられないと言う様子であったが、私は言った。

 「ウオーフイチャー!ハオプーハオ?(帰っていいですか?)」

 「ハオ!ハオ!(いいですよ!) チン マン ツオー!(気を付けて、帰って下さい!)」

 所定の手続を済ませ、何事もなかったように、1人で悠然と歩いて第一病院の隣にある私の家へ向かったのであったが、それはそれは気持ちの良い一時であった。

 帰宅後、事の顛末をベターに話したが、当然の事ながら、とても吃驚しながらも、私が無事であったことを喜んでくれたのであった。

 それから2週間位、授業を休んで休養をとったが(休んだ授業の補講は、不要とのことであった)、その後、私自身が一番、驚いたことは、気がついてみると今の今まで真っ黒であった頭髪が、ほとんど真っ白になっていることであったが、それだけショックが大きかったと言うことであろう。

 勿論、その後もほとんど真っ白な頭髪には、全く変化の兆しはなく、真っ黒に染めることも考えたが、「あるがままに」をモットーにしていたが故に、そうすることはやめたが、余りにもお爺さんぽかったために、ベターの了解をとって、私の人生、始まって以来、初めてのパーマをかけることになったが、これは、多くの人から大好評を得て、大成功であった(口々に、日本のベートーベンとか、バッハとか、またショパンとか呼ばれたが、帰国後も、すっかりパーマの虜となってしまい、年に2回から3回もパーマをかけるようになってしまった)。

 それから2ヵ月後に、本学の当時の理事長や学長がT大を訪問し、姉妹校提携の調印式が挙行されたが、私も同席を許され、そこまでに到る過去が思い出され、まさに命を懸けた行動?が脳裏をよぎる度に、感無量の境地になった。

さて、その後の私の行動であるが、体調もすっかり回復し、普通の体になってくると、むくむくと何かやってみたいと言う虫がまた動き出し始め、それで着手したのが、新華書店と言う中国では最大の中国書の書店で見つけた「大連40年」と「大連風物伝説」と言う2冊の本の翻訳であった。

 内容的にも、なかなかにうまく纏められ、大連の歴史を詳細に記したものが前者であり、やはり大連で古くから伝承された昔話を収集したものが後者であったが、これを見て、翻訳すると日本で売れるのではないかと直感的に判断(残念ながら、結果的には大きな誤算であったが)し、早速ながら前者の主編者である、大連市では有名人であると聞いているD氏へ連絡をとり、彼と会うことになったのであった。

 当日は、私の家(大連に赴任して半年も経っていたその頃には、T大の新築したばかりの建物の最上階の3階の2室が我々の部屋であった)で会うことになっていたが、定刻に現れた人物は、にこやかな笑みが顔全体に広がっているような長身で恰幅の良い60歳を超えたばかりの人であった。

勿論、重要な話し合いでもあったので、中国人の友人に通訳として同席してもらい、いよいよ話し合いが始まった。

 「どうも、初めまして!私は、K大のYと申します。今日は、お忙しい所、わざわざ遠い私の家まで来て頂き、有難うございます。」

 「こちらこそ、初めまして!大連市の対外文化交流協会副会長をしておりますDです。どうぞ宜しくお願いします。」

 「早速ながら、用件に入らせて頂きますが、先日、新華書店で、先生が主編者になっている大連40年と言う本を読ませて頂きましたが、大連のこれまでの40年の歴史が、多方面から考察されており、許可を頂けるならば、翻訳して日本での出版を考えていますが、如何でしょうか?」

 「大変、光栄な話で、嬉しく思います。私としましても、是非、そうして頂けるならば、中日の友好にもなるでしょうし、とても有難いお話です。」

 「有り難うございます。それで、訳書として出版するということになると、版権料の問題が発生してきます。先生は、どのように考えていますか?」

 「どのように考えているのかと言う意味は、版権料をどれぐらいと考えているのかと言うことですか?」

 「はい、そうです。」

 「先生のご提案は、中日の友好に大きく貢献することですから、私としましては、版権料を頂くなんて、全く想定しておりません。」

 「確かに、この仕事が中日の友好に大きな貢献を果たすことになることは、私も よく解っていますが、出版されると、当然のことながら日本で販売されますので、どれ位、日本で売れるかは、現在の所、全く見当がつきませんが、多くの日本人が、大連にとても関心をもっていますので、それなりに売れるのではないかと考えています。そうすると、利益も出てくるということになります。にもかかわらず、版権料は無料ということになれば、私としましても、当然、心苦しいのですが。」

 「何も、先生が心苦しく思われる心配は要りません。先生の仕事は、中日の友好に大きく貢献することになるわけですから、それで十分であると、私は考えます。版権料が無料であることは、両国人民の友好の広がりと比べれば、全く小さなことです。」

 ここで、私が有難く彼の好意を頂いておればよかったのであるが、このように言われると、引き下がれないのが多くの日本人のパターンではないだろうか?

 取引という意味では、彼の方が上手であり、日本人の行動パターンを熟知しており、私の返事もその通りになってしまった。

 「先生の考え方は、非常に素晴らしいと思いますが、やはり、私としましては、版権料を無料にしたままで、この仕事を引き受けることはできません。何がしかの版権料をお支払いしなければ、仕事自体の提案も引っ込めざるを得ません。如何ですか?」

 「解りました。そこまで先生がはっきり言われるのであれば、それでは、このようにしたら如何でしょうか?つまり、日本で出版されるわけですので、日本の相場で、かつまた日本円で版権料を支払うということにしたら如何でしょうか?」

 この提案には、流石の私も驚いてしまった。なぜならば、版権料は要らないと強く主張していた彼が、中国の一般的相場でならともかくも、およそその、当時、中国の物価水準の10倍以上であった日本の相場で、かつまた日本円での支払いを求めたからであり、それはそれは、極めてべらぼうな提案であったからである。

 しかしながら、そうはいっても、私が先にそれを許すような提案をしたが故に、そうなったのであるから、彼の提案を拒否することはできず、話を進めるより手は他にはなかった。

 「解りました。では、その方向で検討し、後日、先生には契約書を作成して送らせて頂きます。それで、宜しいでしょうか?」

 「はい、結構です !」

  私は、彼の、にこにこしながら帰っていく姿を見送りながら、まあー、何とかなるだろうと、いつもの楽天的な気持ちと、これは大変なことになってしまったという不安の交錯した気持ちであった。

 後日、双方で詳細な正式の契約書(日付は、1986年12月15日付であったが、その内容は、省略する。)を交わしたが、帰国後、付き合いのあった出版社の社長にみせると、出版する度に私の方が一方的に損をする内容になっており、信じられないとの社長の発言があったが、やはり倒れた後遺症が残っていたのであろうと考え、今更、契約の破棄・再交渉も恥だと思い、私1人でその翻訳を細々と続けることになった。

 3年以内の出版の約束で翻訳は開始されたが、何せ1人だけの翻訳作業のため、仕事の進みは悪く、その一方で、D氏は、3,4ヶ月に1回の頻度で、或る時は本人が、また或る時は彼の依頼人が日本を訪問し、そして必ず私の家へ電話し、仕事の進捗状況を尋ねてきたが、私の返事は常に、「申し訳ありませんが、思うようには進んでいません。直にスピードを上げますので!」の一点張りで、正直に言って非常に情けない気持ちになると同時に、この仕事を約束の期限内に完成させることはとても無理だと感じるようになっていったが、約束を守れなかった場合どうなるのか、例えば、新聞記事に、「日本人の大学教授、中国人に契約違反で訴えられる!」というようなことにもなるかも知れない、という更なる不安に怯えながら、仕事は続けざるを得なかった。

 その後、1989年の1月に、D氏より、①約束の12月までに出版が可能なのかどうか?②契約中の出版前の40パーセントの版権料(約30万円)を支払って欲しい。③契約が履行できなければ、現在、問い合わせのある別の日本人と契約したい、との手紙が届いたが、私としては、現状ではどうすることもできず、無責任にもつぃつい放置してしまった。

 それから暫くして、大連にいる中国人の友人から新聞をコピーしたファックスが届き、それには次のような記事が載っていた。つまり、「1988年11月、大連解放四十年市の邦訳、日本で出版!」と。

 その記事を見て勿論、非常に驚いたけれども、さらにまた、その日付にもびっくりしたが(つまり、D氏からの最後通牒よりも2ヶ月も前に日本で出版されていたということ)、どっちもどっちだという状況に安堵したことも事実であった。

 その後、何度か大連へは行っているが、D氏と会うこともなければ、あの翻訳についても誰からも何ら尋ねられたことはないが、参考までに、本学の社文研紀要に、「大連風物伝説」(14本)とともに、「大連40年」というタイトルで14本(未完)を記載しているので、興味のある方は読んで頂きたい。

 なかなか嵩山の少林寺へは、簡単には辿り着けませんが、次回は、大連市内にあったクラブのホステス9人と私の前代未聞の大乱闘について、恥ずかしながら紹介したい

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中国登封市嵩山にある少林寺の法師への里程 @yamashita

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