第二話

「それは大変でしたねぇ」

「はは、慣れっこですから」


 クラスでの挨拶を終えて空き時間。理事長に校内を案内してもらう。

 とはいっても、実際は先日、既に案内してもらったので、散歩がてらの雑談といったところ。


「でも初日から質問攻めだなんて、しっかり生徒の心を掴んでますよ」

「えー、そうですか? ただの物珍しさだと思いますよ」

「それでもですよ。先生が親しみやすい証拠。ふふ、やっぱり私の目に狂いはありませんでしたね」

「そう言ってもらえると恐縮です」

「期待に応えてくださいね」

「はい!」


 かなりの老齢だというのに、まっすぐな背筋としっかりした足取り。白髪をおだんごにした髪型にも隙がない。

 実のところ、理事長とは子供の頃からの知り合いだけど、初めて出会った時も今も、そんなに変わった気がしない。そんな理事長は朝方の僕と同じく、窓の外を見上げながら柔らかく微笑んだ。


「こう言っては何だけど、本当のところ、ちょうど良かったって思ってるんですよ」

「え? 僕のことですか?」

「そう。また募集かけるの、大変でしょう?」


 今回、ここ『桜乃宮女子学園』に僕が採用されたのは、ちょうど教員に空きが出来たからだった。何でも前任の国語科の先生は寿退社でやめたらしい。


「いきなり担任持って、部活動まで任されるなんて、ちょっと大変だとは思いますけど……」


 前任の先生が受け持っていたクラス2-Aと天文部。それを担当するのが後任である僕の役目。


「あはは、大丈夫ですよ。担任も部活動も、前の職場で受け持ってましたし」

「だったらいいのだけど……負担になるようだったら言ってくださいね」

「はい」


 昔から全く変わらない優しい微笑みを見せてくれる理事長。

 正直なところ、僕から見たら『理事長』というより『遠山のおばあちゃん』と言った方がしっくりくる。それは多分、理事長も同じで、


「それにしても……卯月ちゃん、本当に大きくなったわねぇ。出会った頃はこんなに小さかったのに」


 嬉しそうに言いながら、自分の膝くらいの高さを手のひらで指す。初めて出会った時の僕だって、もう少し大きかったような気はするけど。


「みなさんのおかげです。今回だって、こうして採用してもらっちゃって……」

「いいのよ。卯月ちゃんのお父さんには色々とお世話になったんだから」

「昔の話じゃないですか」

「昔の話でも恩は恩よ。何年経っても忘れていいものじゃないの」


 二人で廊下の角を曲がりながら『遠山のおばあちゃん』の顔で諭してくれる。だから僕は素直に感謝して、素直に頭を下げた。


「じゃ、僕もこのご恩は忘れません。一生懸命頑張ります」

「ふふ、頼もしいわ」


 角を曲がった先にあるのは、ホールの吹き抜けを上下する大きな螺旋階段。天井にある大きなシャンデリアは色温度の低い灯りで辺りを柔らかく照らし、この光景も女子校ならではだと思う。

 そんな螺旋階段を上りながら、話題は唯一の妹のことへと移った。


「それで、葉月ちゃんのことはどうしたの? なんだったら私からみなさんに伝えてもいいけど?」

「あ、一応、隠しておくことにしました。何となくですけど、葉月が言われたくなさそうだったので」

「難しい年頃ですものね」

「僕は単純でしたけどね」


 自分の高校時代を思い出して少しだけ苦笑。やっぱり女子の方が心は複雑らしい。しかしこれから毎日同じ学園に通う身。そういつまでも隠し通せるとも思えない。


「あの……出来るだけ知られないようにはしますけど、でもその……万が一の時には……」

「あら、私は気にしませんよ。むしろ胸を張って言ってもらっちゃってもいいくらい」

「そんなことしたら、ますます葉月に怒られちゃいますよ」

「ふふ、葉月ちゃんの怒った顔、可愛いのよねぇ。見たいわ」

「それを聞かれてもまた怒りますよ」


 葉月には申し訳ないけど、その『可愛い怒り顔』を想像して、二人で笑う。そのまま一つ上の階、三年生のクラスが並ぶ廊下を歩いた。


「じゃ、そこは『大葉先生』にお任せするわ。特に隠す必要も無いと思うけど、確かに積極的に言うことでもありませんね」


 これで葉月との関係に関しては一軒落着。現に美子ちゃんや南野さんには、もう知られているわけだし。

 並んで廊下を歩きながら、何となく二人で窓の外を見る。不意に理事長が小さく息をついた。


「本当に……時間が経つのは早いものね」


 独り言のように呟きながら向けた視線の先には区役所の新庁舎。出来たばかりの大きな建物を見上げて、確かに時間はあっという間だなぁ……なんて思う。


「池袋も昔と今じゃ大違い」

「そうですね。でも、変わらない物もたくさんありますよ。遠山のおばあちゃんだって」

「あら……ふふっ、ありがとう。卯月ちゃんもね」

「あはは、僕、成長してなかったらマズいじゃないですか」


 そう言って二人で笑い合う。子供の頃、葉月と二人で遠山のおばあちゃんの家でご馳走になった時のことをふと思い出した。思えば僕は、この街で多くの人に助けられて成長してきたなぁ……なんて。

 感慨に浸りつつ、また歩みを進めていくと、ちょうど授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。教室から続々と三年生が出てくる。多くの生徒が出てきたというのに、みんな、僕たちとすれ違う度にきちんと挨拶を交わしていく。


「こんにちは」

「ええ、こんにちは」


 たおやかに頭を下げていく様子に、またもや驚いてしまった。女子校ってしっかりしてるんだなぁ。こういうこと、葉月もちゃんとやれてるのかな?


(あんまり想像出来ないんだよね、葉月のそういう姿)

「あ、大葉先生」

「はい?」


 ぼんやり考え事をしていた僕の肩を理事長がぽんと叩く。そうして向こうから歩いてくる一人の生徒に視線を向けた。


「理事長先生、こんにちは」

「こんにちは、玉置さん。今、ちょっとだけ大丈夫かしら?」

「はい? なんでしょう?」


 他の娘と同じように挨拶してきた生徒を呼び止め、僕の前へと通す。それから理事長が僕を指し示した。


「こちら、新しく入られた大葉先生。天文部の顧問になる先生ですよ。そして大葉先生、こちら、生徒会副会長で天文部部長の玉置倫さん」


 なるほど、それでわざわざ紹介してくれたらしい。

 流れるような長い黒髪に、眼鏡の奥できりっとした瞳が光る。まさに生徒会をやっている生徒……というイメージ。きっと成績もすごく良いんだと思う。そんな玉置さんに向かって、ぺこりと頭を下げる。


「初めまして。大葉卯月と申します。天文部のことは……まだまだ分からないことも多いかと思いますが、よろしくお願いします」

「こ、こちらこそ。どうぞよろしくお願いします」


 僕が頭を下げたことが意外だったのか、ちょっとだけ驚いた様子で返事をしてくれる。教師と生徒とはいえ、新参者は僕の方なわけで。そういうところ、学生時代に運動部所属だった僕は、多少人よりも細かいかもしれない。


「玉置さん、大葉先生はこう言ってますけど、本当は結構詳しいんですよ」

「え? そうなんですか?」


 理事長の言葉を聞いて、引き締まっていた表情がぱぁっと明るくなる。それだけで玉置さんがどれほど星好きなのかが分かってしまった。


「やだなぁ、理事長、プレッシャーかけないでくださいよー。ごめんね玉置さん、ただ、ちょっとプラネタリウムが好きなだけなんだ」


 慌てて付け加えつつ、ちょっとだけ苦笑い。実際のところ、プラネタリウムによく行っていたのは本当だけど、別段、星に詳しいわけじゃない。ただ純粋にあの雰囲気とか空間が好きなだけだ。


「プラネタリウム、いいですよね。私も好きです。部活動でもたまに行きますよ」

「あ、そうなんだ」


 確かに、この大都会の下で、そうそう天体観測なんて出来るはずもない。調べ物以外でやることと言えば、自然とプラネタリウムに落ち着くのかも。最近はあんまり行ってないし、またのんびり鑑賞出来るなら嬉しいな。


「それじゃ今度、部員みんなで一緒に行こう」

「はい」


 僕の提案に今度は嬉しそうな微笑みを添えて頷いてくれる玉置さん。ここであっさり顧問と部長の間で約束が成立してしまった。それから顔を上げて、もう一度ぺこりと頭を下げる。


「それでは……すみません、次の授業が移動教室なので……」

「あら、ごめんなさい。引き留めて悪かったわね」

「いえ、ご挨拶出来て嬉しかったです。では先生、また部活の時に」

「うん、またね」


 そこから更に頭を下げて、僕らに背を向ける。何度も何度も頭を下げる礼儀正しい様子と、意志が強そうな凛とした態度。


「いい子でしょう。成績もトップクラスなんですよ」

「やっぱり。あんなにしっかりした子が部長だなんて……あはは、僕、ラッキーですね」

「ふふっ、そうねぇ。天文部は手が掛からない部活ですよ。ちょっと部員が少ないのが寂しいんですけどね」


 言いながら、また三年生の教室前廊下を歩いて行く。どこもかしこもぴかぴかでゴミ一つ落ちていない。それどころか、割と古い校舎だというのに、壁にしろ、窓にしろ、しっかり手入れが行き届いていた。それだけで生徒から愛されている学校なんだと分かる。

 そのまま突き当たりにある角を曲がり、今度は普通の学校にもあるような一般的な階段へ。ここを上れば主に職員が利用している階へと行ける。その階段に足を掛けながら、ふと理事長が振り返った。


「そういえば先生。どうして朝の職員会議の時は『あのこと』を言わなかったの?」


 特に深い含みもなく言われて、すぐに同性愛のことだと分かる。理事長はずいぶん前からその事実を知っているし、ありがたいことに、それに関して偏見も持っていない。


「あぁ、本当はみなさんにきちんと打ち明けたかったんですけど、ちょっと時間がなくて……簡単な挨拶だけで終わってしまいました」

「ごめんなさいね。今朝に限って、思ったよりも連絡事項が多くて……もう少し早くに自己紹介の時間を取ってあげられれば良かったわね」

「わわ、そんな気にしないでください。でもいいんですか? 先生達にまで打ち明けても……」

「もちろんよ。それも含めて卯月ちゃん、でしょ?」

「理事長……」


 優しく微笑まれて思わず心の中がじわっと温まる。

 理事長のような人がいてくれるからこそ、もともと弱い僕でも、強く心を保っていられるんだと切に実感した。

 もちろん、僕自身、自分がマイノリティであることは十二分に分かっているし、それが大多数の人からどういう目で見られるかということも知っている。

 痛いほど知っている。

 でも、いくつかの理由から、僕は決してその部分を隠したくないと強く心に決めていた。遠山のおばあちゃんが言ってくれる通り、それも含めて『僕』なんだ。


「それじゃ、週明けの学年担任会議の時にでもカミングアウトします」

「そうね。でもカミングアウトだなんて……そんな大層なことじゃないわ。自己紹介の一環でしょう?」

「はい、ありがとうございます」


 こういう言葉が一番嬉しい。ただただごく自然にさらりと流れるような言葉。特別視でも何でもなく、当たり前に受け止めてくれる言葉だ。

 理事長に対する感謝の気持ちでいっぱいになりながら、その後ろ姿へ小さく頭を下げる。やっぱり僕は色んな人に支えられて生きているんだと再認識。

 そうして職員階の廊下を歩いて、突き当たりの理事長室へと向かう。すると理事長室の前に一人の人影が見えた。


「おお、理事長、待っとりましたぞ。校舎改築の件、今日も議論しましょう」

「全く……結果は同じだと、いつも言っているじゃないですか。それにかこつけて、お茶でも飲みに来ているだけでしょう?」

「これは手厳しい」


 一本取られた、という調子で、完全に髪がなくなってしまったつるつるの頭をぺしりと叩く。理事長に負けず劣らず老齢なこの人こそ、この学園の教育部門トップ、大岡校長だ。僕もまだ数回しか会ったことがないけれど、それだけでも十分に頑固な人だと分かる表情としゃがれた声。

 その大岡校長は僕の存在に気づいた後、自分を叩いた手をそのまま左右に揺らし、つるつるの頭を撫で始めた。


「やや、大葉先生も一緒だったのかね。理事長直々に校舎案内ですか?」

「ええ、そうですよ。なんせ彼は期待の新人ですから」

「はっはっは、理事長に期待されとるとなると、色々大変そうですな」


 大声で笑いながら、僕の肩をがしっと掴む。年齢のせいか、細さのせいか、それほど力はない。驚く僕へと向かって真っ直ぐな瞳を向け、頑固ながらも優しそうな眼差しでのぞき込まれる。


「とはいえ、わしも期待しとりますよ」

「ありがとうございます。朝会の時はあまりお時間がなく……きちんとご挨拶出来ずにすみませんでした」

「気にせんでいい、気にせんでいい。あばうとでおけ」


 おそらく『アバウトでオーケー』と言いたかったんだと思う。気さくな様子に、ついこちらまでつられてほほえんでしまった。


「確か、早速担任を持たされたとか」

「はい! 高校の2-Aを担当させて頂きました!」

「新任早々、大変じゃろう? 何か困ったことがあったら、遠慮なく国語科の先生達に聞きなさい」

「あら、校長先生、ずいぶん人任せね。そこは『わしに聞きなさい』って言うところじゃないの? あなた、教員のトップでしょう?」

「わし、理科じゃもん」


 微妙に可愛く言おうとしたらしいんだけど、これまた微妙にどんな反応をしていいのか分からなくなる。この場合、科目は関係ないから、理事長が正しいとは思うけど。そんな僕の反応に気が付いたのか、また校長がしっかりとした顔つきへと戻った。


「しかし、クラス担任になることを厭わなかったのは立派じゃな。最近の教員どもは、どうもクラス担任を持ちたがらんからの」

「あぁ……そうですね。以前の勤務先でもそうでした」

「そうじゃろう。教科の研究が忙しいだの、部活動が忙しいだの、何だかんだ理由を付けて担任になろうとせん。全く何のために教員になったのやら、ぶつくさぶつくさ」


 実際のところ、クラス担任を持つとなると、それだけで仕事が大幅に増えるわけだし、出来れば持ちたくないって気持ちも分からなくはない。だけど僕としては、自分が担当するクラスを持つことこそが、教員の醍醐味だと思う。

 さすが校長先生、良いことを言うなぁと思いつつ、何度も頷いていると、理事長がくすくすと笑い出した。


「ふふっ、だったら校長、あなたこそ、どこかのクラスを担当すればいいじゃないですか」

「嫌じゃ、疲れる」

(簡単に本音が出た!)


 別に悪びれた様子もなくさらりと言ってのけて、また自分の頭を撫でる。

 一見するとわがままにも見えるけど、こういう取っ付きやすそうな部分も含めて、校長の人柄なんだと思う。理事長にしろ、校長にしろ、纏っている空気感は、人として見習うべきところが多い。僕もそんな人間にならないとね。


「さて、それじゃ私は校長とお茶でも飲みながら、改築の議論でもしましょう。結果は同じですけどね」

「さてさてそれはどうじゃろうな。大葉先生はこの後、どうするんじゃ?」

「国語科教員室に机を頂いたので、荷物の整理なんかをしようと思います」

「ああ、あそこなー。あそこは煩いから、わし嫌い」

「そうなんですか」

「そうじゃ。女三人寄れば姦しいって言うじゃろ?」

「三人?」


 確か国語科に女性の先生は一人しかいないはずだ。そう疑問に思っていると、もう一度校長が僕の肩を掴んできた。


「何にせよ、大葉先生ももう我が校の一員じゃ。我が校の人間なら、みな一蓮托生。真に困ったことがあったら、誰にでも相談しなさい。みな真摯に応えてくれるじゃろう。生徒に限らず教員も含めて、そういう校風こそ、我が桜乃宮女子学園じゃ。良いかね?」

「はい! これからよろしくお願いします」

「うむ。しっかりと頑張りなさい」

「はい」


 そうやって僕に話してくれる校長を微笑みと共に見つめる理事長。この理事長と校長がいればこそ、こういう校風になるんだろうなと再認識。新たな教員生活へ向けて、俄然やる気がみなぎってくる。


「さーて理事長。この間どっかから送られてきとった玉露を頂こうかの」

「やっぱりそれが目当てだったわね。他人様宛の荷物を一体どこから調べてくるの?」

「ふぉっふぉっふぉっ! では大葉先生、また週明けに」


 上機嫌で笑いつつ、理事長室へと入っていった。校長は相当な自由人らしい。


「……さて、それじゃ僕は国語科へ行こう」


 誰にともなく呟いて、あらかじめ教えてもらっていた国語科教員室へと向かった。

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