第一章 新しい朝、日本晴れ

第一話

 ぴかぴかに磨き上げられたリノリウムの床を歩きながら、窓の外へと目を向ける。東京では割と多い日本晴れの空。ビルとビルの間に突き抜けるような青空を見上げて、一度だけ大きく深呼吸する。

 今日からいよいよ新しい生活の始まりだ。


 下見の際に見せてもらった教室の前で立ち止まり、もう一度だけクラスプレートを確認。

 2-A。

 うん、間違いなく、これから僕が担当するクラス。

 そうして今度は空を見上げることなく深呼吸。新しいクラスの扉は床と同じくぴかぴかで、それだけで気分が晴れ渡りそうなほど。


(よし、頑張るぞ)


 一人、心の中で気合いを入れ、そのぴかぴかの扉を開ける。


「おはようございます!」


 教室に入るやいなや、開口一番、朝の挨拶からスタート。何事も最初が肝心。元気よくいかなきゃね。


「……あれ」


 あまりの反応の薄さについ口が開いてしまった。同時に、僕へと注がれる数多の視線。まぁ、その視線自体は慣れているんだけど……前の職場とのあまりの違いに、呆気にとられてしまう。


(女子ってこんな感じなの?)


 そこそこ広い教室を見渡せば、前情報通り42人の生徒がいる。全員がこちらを向いて、明らかに僕の次の言葉を待っている様子。

 さぁ、どうする? 挨拶の次は何も考えていないんだけど。

 とはいえ、何も言わないという選択肢はないわけで……。ひとまず全員の視線を浴びたまま、教壇の中央へと移動した。


(おお、僕の移動に合わせて視線も動いた!)


 当たり前と言えば当たり前なんだけど、こうやって注目してくれるのも女子ならでは。前の所は、初日からもう、それはそれは煩くて。


(なんて考えてる場合じゃなかった)


 教壇の中央に立って、本日三回目の深呼吸。

 少しだけ気持ちも落ち着いたのか、ようやくまともに生徒達の顔を見ることが出来た。


(すごい! 本当に女の子しかいない!)


 女子校だもんね。そんな当然のことに軽く感動しつつ、窓際の席から全員のことをゆっくりと眺めていく。あ、もちろん笑顔は忘れずに。


(いろんな娘がいるなぁ)


 ちょっと緊張した面持ちの娘から、きりっとした表情の娘、柔らかな笑顔で見つめてくれたり、中には恥ずかしいのか、視線を机へと落としている娘もいる。そんな生徒達の中、何故か一人だけムスッとした表情で僕を見つめてくる娘。


(ああ、いたいた)

「ふんっ!」


 目配せを送ったのに、唇をとがらせてそっぽを向いてしまった。長い黒髪がふわりと揺れる。女の子なんだからいつも笑顔でいなさいって、小さい頃からあんなに言ってきたのに。

 その少女——まぁ、僕の妹なんだけれど——『葉月』はそっぽを向いたまま、右手の中指で自分の唇を撫でる。手持ち無沙汰な時についやってしまう、葉月の癖だ。子供の頃から全く変わらないその癖に和みつつ、もう一度クラスを見回す。


「ふふっ、先生ー」


 小声で小さく手を振ってくれているのは、同じく小さな頃から知っている葉月の幼なじみ『美子ちゃん』だ。

 読唇術じゃないと分からないくらいの小声で囁きつつ、注視しないと分からないくらい控えめに手を振る。ふわっとゆるっとした亜麻色の髪が、手の動きと同じく控えめに揺れる。

 あともう一人、何度か家に来たことがある『南野さん』は……。


「先生ーっ! おはようございまーすっ! 南野遥、出席してまーすっ!」


 目が合った瞬間、唐突に自分から名乗り出てくれた。

 小さな赤毛ツインテールをちょこんと揺らしつつ、手を上げながら派手に起立。相変わらずの元気っぷりに、またもや僕の緊張がほぐれる。

 同時に、南野さんの暴挙にも近い挨拶のおかげで、クラス自体の空気も幾分柔らかくなった。


「遥、やめなさいよ、初日から」

「そうよ、まだどんな人だか分からないんだから」

「えへへー。そうだねー」


 両隣の生徒からたしなめられつつ、今度は大人しく着席。みんな小声で言ってるつもりなんだろうけど、残念ながら全部筒抜けです。

 そうして一通りクラスを見回して、全員が出席していることを確認。今度は僕自身が自分のことを伝える番だ。


(理事長からは大丈夫だって言われたけど……やっぱりちょっと緊張するな)


 笑顔は絶やさないまま、今日五回目の深呼吸。あれ、四回目だっけ?

 そんなことも分からないくらい、良い緊張感を感じつつ、自己紹介を始めた。


「今日から2年A組の担任になった『大葉卯月』です」


 言いながら、一度だけみんなに背を向け、黒板に名前を書く。珍しい漢字があるわけでもないし、すぐに覚えてもらえると思うけど。

 そこまで言ったところで、少しだけクラスがざわついた。葉月と同じ名字なんだから、気にする娘は気にするんだと思う。


「もしかして大葉さんの親戚とか?」

「そうよね、卯月って名前だし……大葉さん、葉月ちゃんだし」


 そんな想像を巡らせる生徒達に答えるべきかどうか、一瞬悩んでしまった僕の背後で、聞き慣れた葉月の声が響いた。


「そんなわけないでしょ。たまたまよ」


 あえて大きく声を出したのは、僕に釘を刺したんだと思う。僕らが兄妹だってこと、一応、理事長からは隠す必要ないって言われてるんだけど……。


(まぁ、色々事情があるのは事実だし、とりあえずここは隠しておいてあげた方がいいか)


 そう考えて、生徒達の質問はわざと聞こえなかったふりをする。初日からちょっとだけインパクトが強すぎたかもしれない。

 葉月が嫌な思いをしないよう、気にしてあげなきゃ。


「担当の教科は国語です。みんなには現代国語を教えることになると思うけど、よろしくね」

「わたし、国語は苦手です!」


 またもや手を上げて返事をしてくれたのは南野さん。手を上げただけでは飽き足らず、そのまま左右にぶんぶんと振る。


「遥が得意な科目なんて体育しかないでしょ!」

「えへへー、残念ながらそうでした」


 隣の生徒に突っ込まれつつ苦笑い。いつも通りの光景なのか、クラスから小さな笑い声が起こった。南野さんに感謝。


「じゃ、もしも国語で分からないところがあったら、いつでも遠慮なく聞いてね」

「はーい!」

「あ、みんなも……授業に限らず、何か聞きたいこととかあったら、どんなことでもいいから質問してくださいね。こう見えても担任なんだし……。うん、頑張って担任やりますので」


 そこまで言うと、ようやくクラスのあちこちから返事が返ってきた。この社交性の高さはさすが女子校だと思う。相変わらず、葉月はそっぽを向いてるけど。

 そうやって次の言葉を続けようとした時、一人の生徒から質問が飛んできた。


「先生は結婚してるんですか?」

「え?」


 不意打ちで聞かれた質問につい変な声を上げてしまう。まぁ、こういう質問も想定済みなんだけど。もちろん素直に答えるに限る。


「いえいえ、まだ独身なんです」


 僕の答えを聞いて、クラス中から声が上がる。どういう反応なのかはイマイチ分からないけど、相変わらず葉月はそっぽを向いたまま。

 するとまた別の生徒から質問が投げかけられた。


「それじゃそれじゃ、彼女とかはいるんですか?」

「あはは、悲しいかな、それもいませんねぇ」


 またもやクラスから声が上がる。で、葉月はそっぽを向いたまま。美子ちゃんはにこにこしてるし、南野さんは目を輝かせてこちらを見つめている。

 うん、やっぱり何でも素直に話すに限るよね。自分が担当するクラスの子達なんだし、隠し事なんてするべきじゃない。


「えー、ちなみに、先生からみんなに一つだけ伝えておきたいことがあります」


 そう言うだけで静かになってくれるのは、やっぱり女子校ならでは。みんなしっかりしてるなぁ……なんて思いつつ、また大きく深呼吸。あれ、何度目だっけ?

 そうやって少しだけ静けさを取り戻した教室へ向けて、笑顔のまま、はっきりと言葉を紡いだ。


「先生ね……実はゲイなんだ、ははは」


 静まりかえった教室に僕の笑い声が響く。そうして一瞬だけ静寂が訪れた後、


「ええええぇーっ!?」


 クラス中から沸き上がる驚嘆の声。うん、そうなると思った。

 いたるところから『ゲイ』だの『ホモ』だの声が聞こえてきて、まぁ、別にそれ自体は悪いことじゃない。

 やっぱり伝えて良かったなと思いつつ、葉月の方へと視線を向けると……良かった、もうそっぽは向いていない。


「んぐぐ……!」

(鬼のような形相だけど!)

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