1-2

 僕らは新宿区を歩いていた。目的地であるホテルはその大きさのおかげでもう目視ができるところまで迫っていた。そこまで長い時間や距離を歩いたわけでもないがとても疲れた。なぜなら、この真琴という女子と全く会話ができていないからだ。きっかけはいくらでもあったが、この強気な雰囲気に飲み込まれて一つもものにできていない。

 今もこうして真琴が僕の数歩後ろを歩いているという状況ができてしまっている。もう姿は見えているので「あそこだよ」と伝えて公園に戻るのもやぶさかでない。それでも言えていないは、やはり怖いからだ。

 美雲が話し上手のが実感できた。

 加えて数分、歩くと目的地のホテルはもう目の前に迫っていた。ホテルとは縁遠い生活を送っている僕でもこのホテルの存在は知っていた。数年前に建て替えし、元々一つだったタワーはツインになった。二つのタワーを行き来できるようにタワー中心辺りに橋がそれぞれを貫いている。今は昼なので分からないが、夜には鮮やかなグリーンのライトがタワ―一面を照らし出す。

 ここまでは何かと各種メディアで見る光景だった。違ったのは異様な雰囲気と人だかりだ。人ごみで何が起こっているのか分からないが、何かが起こっているみたいだった。このざわつき具合からみると、あまりいい事でなさそうだ。

「入り辛いな」

 真琴が腰に手を当て、ため息をつく。何かあったことには真琴も気づいているはずだ。それなのにまだこのホテルに泊まる気なのだろうか。なかなか剛気なことだ。

「何かあったみたいだから泊まるのは無理なんじゃないかな?」

「ん、ああ泊まる気はない。人と待ち合わせているだけだ」

 そうだったのか。ホテルイコール泊まるという考えが居着いてしまっていた。

「……それにしても何があったんだろうね?」

 ホテルの前の人だかりは減りそうにない。それどころか人ごみを見た人々が砂糖にたかる蟻のようにさらに集まっていた。

「行くぞ」

 真琴は僕の腕を取り、引っ張る。真琴が人ごみをかき分けながら進み、僕は満員電車のように右に左にぶつかりながら謝りながら進まされた。

 人だかりの最前線に到達すると、そこには日本語と英語で立入禁止と書かれた黄色いテープの境界線があった。境界線の向こう側では、多くの警察官達が右に左に動き回っていた。

 まさか警察が出張っているとは思わなかった。あったとしても変人奇人がロビーで当人にとっては常識的かつ世間で言う頭のネジが足りない行動をしていると思っていた。だが違った。これでは今日一日、まともに客を入れることもできないのではないだろうか。

「こ、これは中にも入れないんじゃないかな?」

 真琴を見ると、やすやすと境界線を超えかかっていた。当人は至極当然という顔だった。他のどこでもない、ここに頭のネジが足りない変人奇人がいた。唖然としていると、近くの警察官がすぐに気づいて「そこの君止まりなさい!」とどこかで訊いたことあるような台詞で制止をかけた。

「君、この線越えちゃ駄目でしょ」

 若い警察官は困ったように、でも優しく注意する。これが僕なら高圧的態度だったはずだ。

「真琴、今日は無理らしいからその相手に連絡していったん戻ろうよ」

「案ずるな」

 真琴はポケットから一つの手帳を出した。それは黒く、表面には一つ輝く星が付いていた。

「私は関係者だ」

 若い警察官は目を丸くする。いや、警察官だけではなかった。このやり取りを見ていたこの一帯の人は皆、同じように目を丸くした。僕も例に漏れなかった。

「あ、あの中身拝見させて貰っても構いませんか?」

 事態が飲み込めない若い警察官はえらく低姿勢になっていた。

 真琴は警察手帳を開いてみせる。僕ら側には見えなかったが、尋ねた当人が「すみませんでした」と謝ったということは中身は正しかったのだろう。

 真琴が振り返る。

「お前、名前はなんだ?」

 そういえば真琴には名乗っていなかった。名乗ろうと思った。周りの野次馬たちの視線が全て僕へ集まっていることに気付く。喉元で言葉が詰まる。無理に振り絞った。周りのざわつきがまた大きくなった。心を読むまでもない。男なのに女の名前とか偽名とか、キモいとか聞き間違いとかそれ系統の心ないものばかりだ。

「いい名前だな」

 有象無象の声の中で凛とした声が聞こえた。

「八月一日秋穂、あとで力を借りるかもしれないからそこで待っていろ」

 僕の返事も聞かず真琴はホテルの中へと消えていってしまった。その場に残された僕は帰っていいのかここで待っていなければならないのか悩む羽目になった。頭のネジが足りないまではいかないまでも、少々緩んではいそうだ。

 結局、周囲から注がれる視線に耐えられず僕は人ごみから離れた。人ごみ近くの等間隔の植えられている木の前で待つことにした。その最先端、ホテルの一番近くに立つ。ここなら、たいして距離もないから少し探せばすぐに気付くだろう。

 それにしても僕の力を借りるとは一体どういうことなんだろう。超能力ぐらいしか取り柄がない僕に頼むとするならばやはりそれ関係だろう。けれど警察内にいる超能力者を使えばいいだけの話だ。

 たいしてよくない頭を働かせてみたが、やはり超能力だけが僕にできそうなことだった。

 少しすると人ごみの中から真琴が出てきた。その後ろには男性がついてきていた。その男性はラインの入ったブランドものらしき黒いスーツを纏っていた。若々しい顔つきで年齢が見ただけでは判断しにくかったが、おそらく二十代後半に差し掛かっているあたりだろう。細身で丸メガネをかけており、短い茶髪が特徴的だった。そして、何故か腕に白衣をかけていた。

「そこで待っていろと言っただろう」

 真琴が口を尖らせた。

 男性が一歩出る。

「どうせあなたのことですから、一方的に言い残して来たんでしょう。私の部下がすみませんでした」

「あ、いえこちらこそ何かお手間を取らせたみたいですみません」

 折り目正しい言葉使いで萎縮してしまいそうだ。

「いえいえ、一般市民の方にお力添えを頼むのですから少しの手間は構いませんよ」

 男性は、胸元から名刺入れを取りだす。

「私はこういうものです」

 その中から一枚を取りだし、僕に両手で渡した。そこには『警察庁警備局超能力管理第二課 室長 里中翔一』と書かれていた。警察の階級を全く知らない僕でも、この人はお偉いさんなのだと理解できた。まだまだ若そうなのに凄い。僕とは違って明るそうな未来が待っているのだろう。

「そんなまどろっこしいやりとりはいい。さっさと連れてくぞ」

 真琴が僕の腕を掴んで連れていこうとするが、室長に軽く頭へ手刀をおろされた。

「少しは落ち着きを持ってください。見た目だけは落ち着いているように見えなくもないんですから」

「私は私の思ったままに行動する」

 室長は深いため息をついた。

「だから二課に異動されたということを反省してください」

 ついさっきまで関心していたのだが、今の話を聞くと左遷先なのだろうか。

「まあいいでしょう」

 室長が仕切りなおす。

「ここではちょっとお話しにくいことですので、どうぞこちらへ」

 僕を黄色の境界線の内側へと促した。境界線を越える際、室長が「飛ばされるという考え方は間違ってますが、追い出されたという考え方なら概ね合っていますよ」と思考を見え透いたようなことを言ってきて度肝を抜かされた。「テレパシーか何かですか?」と尋ねてみても、「さあどうでしょうね」とお茶を濁された。

 テープの内側へと入ると見える景色が一変した。見る側から見られる側へと変わった。テープを潜ると、野次馬らは一斉に僕らに視線を刺し出した。右に左に逃げ場のない視線は僕の体を石のように硬直させた。体は動かせない癖に視線だけがキョロキョロと動き出す。見えたものは人、人、人だった。

 先が見えない未来とは思ってはいたが、誰がこんなことになると予想できただろうが。まともな人づきあいすらできなかった十数年を舐めるなよ、と自分の人生を設計した神にでも文句を叩きつけたい。乗り越えられる試練とでも言い出したら右頬をビンタして、ついでに差し出す前の左頬にも喰らわしてやろう。

「さっさといくぞ」

 真琴が僕の腕を引いた。

 情けないが、やはり誰かに手を引いてもらうのが一番だった。自分じゃ何もできない。しようと思っても何かにつけて世間様がそれを許さない。それに順応してしまった僕自身が許せない。野次馬の目が届かない所まで移動すると、僕の体もだいぶ自由が利くようになった。

「頼みというのは、ある人から情報を得て欲しいということです」

 室長が話を切り出した。

「情報?」

「ええ、サイコメトリーで読んで欲しいのです。私たちの課の心理干渉系の超能力者は今、他の事件で駆り出されていましてしばらく帰って来ないんです。それに今回の事件は――私のカンですが大事になりそうな気がしてまして、できるだけ早く情報を得たいんです」

 真琴が割って入る。

「その前に超能力管理課ってどんなことやるか知ってるか?」

「え、とまったく」

「私らの課は平たく言えば超能力を使って事件を解決したり、超能力者が問題を起こしたら解決するいわば何でも屋みたいな課だ」

 得意げな真琴の説明を受けて事情はなんとなく察した。だが、そんな刑事のカンで一般市民に協力を仰いでもいいのだろうか。それも内部情報に関するものをだ。

「心配しなくても大丈夫ですよ。責任は全て私が持ちますから」

 室長は微笑で自身の胸に手を添えた。心配が顔に出てたのか安心させるような口調だった。またはさっきみたいに僕の思考をそのまま読みとったのか。

 しかし、そこまで言われたら断るに断れない。もともとここまで連れてこられて、断れたかどうかは別にして。

「分かりました。協力します」

「よし、じゃあさっさと連れてくぞ」

 真琴が意気込むのと少し遅れてに室長が咳払いをする。

「もう理解してくださっていると思いますが他言無用でお願いします。……私の首が飛びますから。それはもうサクッと」

 ……冗談なんだろう。本日付けで首を綺麗サッパリ切られた僕にとっては笑えない冗談だった。この人の場合、心を読んで言っていそうだから質が悪い。

「では移動しましょう。その対象は今、ここに居ませんから車で移動しましょう」

「ちょっと待て」

 真琴が移動しかけた僕らを止める。

「あの美雲という女性に事情を話しとくべきじゃないか?」

 そういえばそうだ。あの公園で待っていると言っていた。久しぶりに優しくしてくれた子を無視するのは良心が痛む。

「あ、あの先にそちらへ説明しに行ってもいいですか?」

「ええ、構いませんよ。それでその方はどちらにいるのですか?」

「この近くの公園です」

「なら、途中にありますから寄って行きましょう」

 室長のあとに続いて、駐車場までやって来た。室長が乗り込むよう指示した車は、黒塗りのセダンだった。車のことはよく知らないが、『いかにも』な高級感を発していた。僕と真琴は後部座席に乗り込むと、車は柔らかく発車した。それから五分もしないうちに公園に到着した。公園前の道路に駐車し、僕と真琴は車内に室長を残して美雲に伝えに出た。しかし、ベンチがあった場所には美雲の姿は見えなかった。あの柊二という男性の姿もなかった。二人してどこかに向かったのだろうか。

「あいつらデートにでも行ったわけじゃないだろうな」

 真琴が腕を組み訝しむ。

 あの二人の関係は僕らもよく分かっていない。わざわざ二人で会おうとしていたんだ、違うと言っていてもそういう関係であっても不思議ではない。または、柊二さんの一方的な片思いで今日この公園で告白しようと呼び出していたのかもしれない。

「八月一日秋穂、お前美雲の連絡先知らないのか?」

「ごめん、僕も今日知り合ったばっかで知らないんだ」

 三拍。

「それであのイチャつき具合か、やるな。実はジゴロか」

 真琴がニヤニヤと僕を見上げてきた。

「お、女の子と話したの久しぶりな僕がそんなわけないでしょ」

「ほう、天然物か。なおさら質が悪いな」

「もういいよ。それよりどうする? いないみたいだけど」

 真琴は辺りを見渡す。やはり美雲らの姿は見つけられなかった。

「そうだな、公園一周して見つからなかったら車に戻ろう。いつまでも探しているというわけにもいくまいしな」

 この公園はそこまで広くない。江東区にある木場公園などと比べると多少どころではなく見劣りする。見て回るのに長く見積もっても十分とかからない。そのため僕らはすぐに公園を見回り終えてしまった。来た道をそのまま戻ろうとすると、真琴がこっちからの方が早いと駐車場を突っ切るようなルートを示した。室長に無理を言って待たせているので、少しでも早く戻った方がいいとその案を受け入れた。

 駐車場を横切るには、アスファルトで舗装されていない場所を通る必要があった。そこは植木等が集中していて、ほとんどの時間日が当たることのない日陰ができていた。そのため土が乾きにくい場所だった。一度、バイトに遅れかけた際に通ったことがある。一目惚れし奮発して購入したばかりのスニーカーが悲惨なことになった。二度と通るもんかと心に決めた道だ。

 予想通り、僕のスニーカーはあの日同様悲惨なことになった。車に乗り込む前に泥を落とさなければ。真琴は気にしていないようすで前に進んでいく。アスファルトにようやく足を踏み入れてホッとしていると、何やら騒がしかった。大人数でなんやかんや騒いでいるのではなく、数人で揉めている様子の音だった。

 何かあったのだろうか。どうせ痴話喧嘩か何かだろう。

「また何かあったのかな?」

 真琴に尋ねてみた。間をもたせるために。

「さあどうだろうな」

 駐車場を進むと声はしなくなった。だが、やけに動く姿が見えた。何があったんだろうと、その姿を注視する。女性が男性に腕を取られていた。女性は大きく腕を上下に振っていた。しかし、男性はその手を離さない。よく見ると女性の口が塞がれていた。女性の左右に大きく揺れるポニーテールを見て、ようやく女性が美雲だということに気付いた。呆然としていると美雲が青いミニバンの車へ連れ込まれた。

 連れ込まれてようやく今、目の前で起きていることがなんなのか把握した。

 真琴も同じく今気づいたのか、アスファルトを思い切り蹴りだした。

 発車した車を猛追するが、追いつきそうになかった。

 真琴が腰に手を掛ける。あのホルスターに手を掛けていた。そこから流れるように何かを引き抜いた。それは棒状のもので、引きぬいたと同時に一メートルほどまで伸びた。それを思い切り振りかぶり、逃亡する車へ投擲する。

 不恰好な構えから放られたそれは大きく縦に回転しながらも逃亡車へ追いついていった。バックガラスに直撃した。ガラスは音をあげて粉々となったが、逃亡車は速さを緩めないで公園から飛び出していった。

 真琴が棒を拾い上げる。苦々しい顔をしていた。

 僕は事態を飲み込めてはいても、信じられないでいた。

 どうしてこんなことが起きたのだろうか。今日の予定といえば首になることだけ。他に強いて挙げるなら途方に暮れるだけだったはずだ。だが美雲と出会った。話をして、きっと僕は救われていた。真っ暗闇な先が見えない未来にかすかな光を見ることができた。超能力者とでも、こんな僕とでも、変に構えず接してくれた。また会いたいと初めて言ってくれた。初めて超能力者と分かっていながら友人と呼べる間柄になれる人物と知り合えたと思った。気がつけば戻るのを楽しみにしていた。それなのにそれなのに――。

「八月一日秋穂っ!」

 真琴に怒鳴られハッとした。

「な、な、何?」

「いいから来い」

 大急ぎで駆け寄った。真琴の右手には拾い上げた棒が握りしめられていた。それは黒く、金属製、いわゆる特殊警棒と言われるものだろう。一般的なものより長いそれは今、真琴の肩の上に乗っかっていた。その背後には、粉砕したバックガラスの破片が散らばっていた。

「何?」

 ピシリと頬をはたかかれた。

 痛みはなかった。ただ、それによって目が覚めた。思考が晴れ渡った。

「大丈夫か?」

「うん、ありがとう」

 真琴にそう告げ、言葉を繋げる。

「真琴は室長を呼んで通報してきて、この場で通報するよりそっちの方が話が通りやすいと思うから。僕はこの場に残って破片から情報を得るから。それでいい?」

 今やれることをしよう。しなければ。

「お、おお。分かった。それで頼む」

 真琴が駆けてゆく。

 膝を折り、破片を一枚手に取った。

 意識を集中させる。

 物質を読み取るのは人から読み取るより困難だ。けれど、この小憎たらしい能力ばかりに才能の比重が大きかったらしく苦に感じたことはない。そのことを苦に感じたことは幾度と無くあった。だが、感謝したのは初めてだ。

 破片の情報を頭の中にとにかく流し込む。

 流れてきた情報を読み取る。

 ナンバーや運転手の人相を探した。だが、だがいらない情報ばかりだった。ナンバーだけはどうにか見つけることができた。ほとんどを読み飛ばしていく中、一つ異質なものが目に止まった。

 それを混濁した情報の溜まり場から引っ張り出し、深く読み取る。見えてきたのは、どこか薄暗い場所だった。二十人ほどの人らが固まって地べたに座っていた。彼らは皆、表情が恐怖に染まっていた。

 その世界の僕はどこの誰でもない幽霊みたいなものだった。動きに制限はない。肉体はあるが、その気になれば空だって飛べる。けれど、この空間内ではサイコメトリーは使えない。本当にこの情報が捜査に役立つか分からない。最悪、この空間は何かのお芝居だって可能性がある。犯罪だという証明、そして犯人への手がかりも手に入れなければ。時間が足りない。早くしなければ世界が閉じてしまう。もう一度、この情報を見ようとも混濁の彼方から探し当てれる気がしない。一発勝負に掛けるしかない。

 とにかく情報を一つでも得るために動かなければ。

 彼らのもとへと急いだ。彼らは腕を背中に回されていて、特殊な結び方で腕を固定されていた。中にはどうにか解こうとしたのか手首に紐が食い込んでいる人もいた。

 周りに目を向ける。

 薄暗いなか目を凝らすと、荷を運ぶ専用車があり、大量で巨大な荷物やら何やらで込み入っていた。運搬口と思われる扉の周辺以外はそれらが邪魔で見通せなかった。被害者らも運搬口周辺にいた。それを数人が取り囲んでいた。手には、拳銃が握られていた。その犯人だと思われる集団は、幸いにも顔を隠していなかった。今いるこの場からは見えないが近づけば十分に分かる距離だ。

 犯人に近づこうとした瞬間、世界が閉じた。

 いくらなんでも早いという疑問も持てないまま次の瞬間には、アスファルトに散らばったガラスの破片が目の前に見えた。

「八月一日さん、こんなところでうずくまってどうしたんですか?」

 背後から声が聞こえた。その声で初めて肩に手が置かれていることに気付いた。振り返ると柊二さんが腕と体の間に缶ジュースを四本抱えていた。

 ――ああ、肩に手を置かれたから元に戻ったのか。

「柊二さん――」

「ガラスの破片かな? 事故でもあったのかい?」

「いいえ、違います。美雲が攫われました」

 柊二さんは笑った。まともに取り合っていなかった。

「面白い冗談だね。でも早く帰って来ないと、せっかく買ったジュースがぬるくなるから降参してくれるとありがたいな」

「冗談じゃありません! 本当にあったんです!」

 声を荒げると、ようやく柊二さんの顔つきが変わった。

「本当かい?」

「本当です」

「……とにかく警察に連絡しよう」

 柊二さんが携帯を取り出した。抱えていた缶ジュースが零れ落ち、次々とアスファルトにぶつかり音を立てた。走り来る足音がその音と連なった。真琴が息を切らして、膝に手を当てていた。

「連れてきたぞ」

 柊二さんも通報するために画面上を動かしていた指を止めて真琴が連れてきた男を見た。

 室長は僕らを一瞥する。

「何か読めましたか?」

 それは僕に向けて発していた。

「はい。でも、犯人に辿り着きそうな情報はないと思います」

 もう少しだった。あと少しで犯人の顔を見ることができた。いきなり時間切れにならなければ。

 柔らかい表情をされた。

「では教えて下さい。それらの情報の解析は私たちが責任を持ってやり遂げます。今はとにかく情報を集める必要がありますから」

 ナンバーと倉庫の情報を伝えると、室長は踵を返した。

「神子さん、二人を車へと案内してください。現場を引き渡したら向かいます」

「分かった」

 真琴は僕ら二人を先導して車へと向かった。

 帰り道は微妙に違っていた。真琴に尋ねると、パトロールしていた警官に違反切符を切られそうになったため室長が移動したという答えが返ってきた。そのせいで探す羽目になり、余計な手間がかかったと口を尖らせた。だが、幸いにもその警官がいたため数分で現場を引き渡せることができるみたいだ。

 僕らは車へと乗り込む。僕と柊二さんが後部座席、真琴が助手席に腰掛けた。チラリと柊二さんを一瞥すると、状況をもうすでに把握したのか落ち着き払っていた。どえらい胆力の持ち主だ。友人がさらわれたというのにもうすでに事態に馴染んでいる。真琴はこういう仕事に就いているから当然だが、僕らみたいな一般人は慌てふためくのが当然だ。しかし、この人はどういう行動するべきなのか分かっているように思える。必要最低限を尋ねると、柊二さんは口を閉じきった。

 柊二さんのような行動が迷惑をかけない最善な例なのだろう。

 でも僕はそれができなかった。

 外にいた時は大丈夫だった。車に乗り込むと何もしない分、余計なことを考えてしまう。

 もしも美雲が殺されていたりしたらと考えるだけでも血の気が引いてしまう。様々な『もし』が頭を駆け巡る。破片を読み取った際に見えた光景の中に美雲も混ざると思うといてもたってもいられない。

 だから色々と真琴に尋ねてしまっている。真琴だって、どうなっているのかよく分かっていないのを理解しながら。無事返ってくるという返答で恐怖を拭い去りたかった。けれど期待した答えは返ってくることはなかった。戻ってきた言葉は「覚悟はしといた方がいい」という切り捨るようなものだった。

 分かっている。

 真琴だって言いたくて言っているわけではないことを。美雲にまた会いたいと言われて笑っていたんだ。これは僕への優しさだ。どうなるか転ぶか分からない状況ならではの助言だ。

 腕が震え出した。

 寒気と憤りが混ざり、もう何がなんだか分からない。震える体を押さえつけるように自分を抱きしめるように手を回す。だが押さえつけようと力を入れれば入れるほど震えは大きくなった。

 肩に重さを感じた。

「大丈夫。心配ないよ。警察――それも超能力者の皆さんが動いてくれているんだからさ」

 柊二さんだった。あまりの情けなさに見かねたのだろう。

 バックミラーに映った僕はえらく情けなかった。結局、犯人へとまっすぐ繋がる情報は得られなかった。室長はああ言ってくれたが、失望しているはずだ。超能力を上手く使えない超能力者なんて誰からも必要とされない。今までだって困った時だけ友達面で呼び出されて、上手くいかなければそれまで以上の苦痛が待っていた。

「それに相手は身代金目的かもしれないじゃないか。人質を傷つけるような馬鹿な真似はしないはずだよ。だから大丈夫」

 なにが大丈夫なものか。身代金目的ならばあんなに大量の人質を誘拐したりなんかするわけがない。誘拐した人数を増やすことによって要求する身代金を高くする意図があったとしても、銃火器なんて物騒なものは必要ない。わざわざあんなものを手に入れることの方が遥かにリスクは高い。

 だとすれば、行き着く先は殺人しかない。

 考察した結果、ただの『もし』では済まなくなったことに一段と体は寒気を帯びた。バックミラーの僕と目があった。すぐに目を逸らしてしまった。

 イジメが一番ひどい時の目をした僕がそこにいた。

 未来なんて訪れなければ楽になれると願った僕がいた。

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