鬼負ヒ
天音メグル
第1話 洞
その子どもの背には、ぽっかりと穴が開いておりました。
背といっても、体にではありません。頭上の宙空に、くるりと描いた輪のように、洞が丸く口を開いておりました。
子どもの名は、ソウヤと言いました。
これは、都という、人がたくさん住んでいる街が長岡という所にあった頃の、未だこの国が二局に分けられる前、長じて
ソウヤが、この穴に気づいたのは3つくらいの時でした。生まれて
穴は水のように透けていて、朝露のように虹色に輝いてとても綺麗でしたので、ソウヤはそれを眺めているのが好きでした。触ろうと手を伸ばしても触れられず、掴もうとしても掴めず、けれど消えて無くなる事はなく、揺れてあぶくのように万変万化する色が楽しくて、飽きることなくいつもいつも眺めていました。
水を張ったような表面は、鏡のようでもありました。色は常に定めず、くるくると水をかき混ぜたように回っていて、その中に魚でも居るかのようでした。
たくさんある穴の中でも、たった一つ、いつもソウヤの側にある穴がありました。どれも同じような形をしていましたが、ソレがソウヤの後を追い、くっついてきているのが、彼にはなぜだかわかっていました。何だかソレはソウヤにとって特別な穴のようでした。
三つになったばかりの頃のことでした。
いつものようにソウヤがぼんやりと近くの穴を眺めていると、その中で何かが動いたように見えました。こんな事は初めてでしたので、ソウヤは不思議に思って近づいてみました。
穴を覗き込んで、途端にソウヤは後ろに飛び退きました。虹色の光の中で、こちらを見ているちろりと動く二つの目と、目が合ったように思ったからです。
こんな事は、今までありませんでした。だからソウヤは驚いて、覚えたての言葉で指さしながら、そばにいた母にこう聞きました。
「
すると、虹色の穴はぶるぶると震えてびゆんと伸びて、すぽりと母を呑み込んでしまいました。そしてそのすぐ後には何もなかったように、穴は澄ましかえっています。
驚いたソウヤは外にいる父の所へ駈けていき、同じように父にも尋ねました。
「
すると、またもや穴は焼いた餅のようにぷぅと伸びると、ぺろんと父も呑み込んでしまいました。
こうして、ソウヤは独りぼっちになってしまいました。
山には、龍が棲むといいます。
龍とは、東を護るという四霊の一つで、蛇のような形で角と鋭い爪を持ち、雲を呼び、雨を降らせる力を持った幻の獣の事です。
空を行くとても大きな動物で、隆々とした山々が連なるのを見て、昔の人々はそれを地に伏せる龍の背だと思いました。山の頂がうねりながら続くのは、龍が蹲っている姿のように見えます。それで、山には龍が棲むというのです。
この国はたくさんの山々に囲まれていますので、龍の国だという人もいます。
龍は不思議な力を持った生き物ですので、その吐く息にさえ、力が宿ると思われていました。大きな山と山に挟まれた谷には、龍の力が流れているといわれます。
ソウヤは両親と三人で暮らしていました。ソウヤたちの住む
けれど、邑の子どもたちはそれとは違うことを言いました。彼らはソウヤを、親を追い出した親追い子と後ろ指を指しました。ソウヤは黙ったまま、一言も言い返しませんでした。なぜなら子どもたちがいうのは半分当たっていたからです。
もちろん、父やも母やもソウヤが追い出した訳ではありませんが、ソウヤのせいで父やも母やも穴に呑み込まれてしまったのですから、やはり自分に責任があるように思っていました。それで、身寄りのないソウヤは、遠縁の邑長の家に預けられることになりましたが、誰とも遊ばず、誰とも口をきかず、じっと静かに暮らしていました。
何故なら、ソウヤが出水の家を出ても、父やと母やを呑み込んだ穴は、ソウヤの後を追うようにくっついて来ていたからです。父やを呑み込んだ後、ソウヤの前の方にあった穴は、ぐるんと回って彼の背後へと回り込み、彼の行く所へは何処にでも、一時も離れることなく、ぴったりとくっついてくるようになりました。
風のように早く走っても、高いところから下へ飛び降りても、一またぎで小川を飛び越えても、それはソウヤが何をしても、どうやっても影のように離れませんでした。でも、不思議と気味が悪いとは思いませんでした。何故なら、その中には父やと母やが、居るからでした。あの時の姿のまま、かちんこちんに固まった父やと母やが、まるで大きな袋の中に放り込まれたようにして、そこにいるからでした。
ソウヤは、いつもじっとしていました。しゃがみこんで膝を抱え、縁側でただじっとして、空やら雲やらを眺めていました。
邑長の家には他にもたくさんの子どもがいましたが、一緒に遊ぶ事はしませんでした。どうしてかというと、走って回ってうっかりと、父やや母やが穴の中から転げ落ちでもしたら大変です。それに、返事もしないソウヤと一緒に遊んでくれる者など、居なかったからです。
ソウヤはあの時から一言も、喋りませんでした。両親が穴に呑み込まれたのは、自分が喋ったせいだと思っていたからです。だから誰も居ない山の中では草木や鳥を相手に話をしましたが、邑では貝のように口を噤んでいました。そんなソウヤを貝と囃す者もありました。それは酷い徒名でしたが、やはり黙って睨むだけで、ソウヤは何も言い返しませんでした。
口を開けば、またあの穴が増えるからです。
邑長の大きな家はがらんとしていて、昼間でも天井の隅には暗く薄い闇があるばかりでした。七色に輝く穴も、最初の頃は父やと母やを呑み込んだものが一つ付いてきただけで、他にはありませんでした。
それは、今までたくさんの穴に囲まれて育ってきたソウヤには、とても不思議な光景でした。邑長の家はとても大きくて、中には人が大勢暮らしていました。ソウヤは引き取ってくれた邑長の三番目の娘と一緒に寝起きすることになりました。娘の名はアキといい、ソウヤよりも九つ程年上でした。末の子でしたので、弟のように甲斐甲斐しく世話をしてくれました。
ソウヤはこのやさしい娘が好きでした。そのころのソウヤは、よく喋りました。3人で暮らしていた頃と違い、返事をするだけでもたくさん喋らなくてはなりません。がらんとしていた部屋が、そのうちあの虹色の穴でいっぱいになりました。ソウヤが喋れば喋っただけ、穴は増えていくように見えました。けれどそのことを不審に思うことはありませんでした。ソウヤにとって、特別な事には思えませんでしたから。
家の中、穴は幾つもいくつも浮いていて、体のあちこちがぶつかるのに、誰も痛そうにはしませんでした。しかも、誰も避けようともしません。それで、どうやら他の人には見えていないらしいことがわかりました。
そこで、ソウヤはアキに聞いてみる事にしました。
「アキには見えないの?」
年長の姉は、ソウヤの指し示す意味がわからず、首を傾げました。それで、ソウヤは重ねて尋ねました。
「ほら、たくさん浮いてるよ。きれいな色だよ」
やはり、アキの目はあらぬ方を彷徨い、穴を捉えてはいませんでした。ますます不思議で、ソウヤは指さして言いました。
「きらきらしてきれいだよ。たくさんあるのに、見えないの?」
困ったように笑うだけで、この心優しい姉はソウヤがみているモノと同じモノを見る事はできませんでした。けれどどうしても知って欲しくて、ソウヤは諦めずに指さして尋ねました。
「アキ、此れは何?」
その言葉がソウヤの口から零れ落ちた時、ソウヤの背でザワリと毛を逆撫でるような嫌な気配がしました。
この時を待っていたかのように、背後に影のようにつきまとっていた穴が、ソウヤの頭越しにひゅるんと伸びて、アキをその中に取り込んでしまいました。
こうして、ソウヤはまた独りぼっちになりました。
*続く*
鬼負ヒ 天音メグル @amanerice
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