6

 無言のまま廊下を引きずられて行くことに耐えきれなくなった夏妃は、ちょうどよく差し掛かった庭に続くガラス扉を指して、声を上げた。

「あ! 陽が射してるよ、やっと晴れたんだね! ねえ、気持ちよさそうだし庭に出ない?」

 多少なりと気を逸らせないかと彼の顔を窺うと、ウィルは庭の方に目をやって少し考え込んだ。続いて頷いてくれたので、心底ほっとする。緩んだ彼の手から逃れてガラス扉を開けると、少し冷たいが澄んだ風が夏妃の髪を揺らした。

 整備された芝生のあちこちには大きな水たまりができ、まだ灰色の雲を残す空が映りこんでいる。青く明るい空の色がひどく懐かしく思えた。

 庭に降りると正面が開けていて、庭のはしでは眼下を一望できる。ちょっとした展望台だ。遠くの山には黒い雲がかかり、薄暗く霞んで見えた。あそこではまだ強い雨が降っているのだろう。

 庭には木の葉や枝が落ちているし嵐の名残は残っているが、呑気な小鳥のさえずりも聞こえてきて平和そのものだ。

 飛び石を伝って庭の端の手すりに辿り着いた夏妃は、弾んだ気分のままにウィルを呼んだ。

「ねえ見て、虹が出てるよ。おっきい!」

 くっきりと浮かぶ七色の帯は、灰色の雲をスクリーンにして城下町の端から伸びている。

 今すぐあの場所に駆けつけたら、虹に触れられそうだ。逃げ水と同じ実体のない幻だと知っていても、そう信じられそうなくらいにリアルな光の橋だった。

 後からやって来て夏妃に並んだウィルは、目を細めて微笑んだ。

「うん、綺麗な虹龍だね」

「こうりゅう?」

 訊ねると、虹を示して彼が説明してくれた。

「虹をそう呼ぶんだ。昔、長雨が続いて洪水や不作が国を襲った時に、身を賭して雨を払い力尽きた青龍が姿を変えたものだ、っていう言い伝えもある」

 そういえば、虹の漢字が虫偏なのは、虹を龍の一種だとみなす中国の風習から来ているらしい、となにかのテレビ番組で見た。こちらの世界にも通じるものがあるようだ。

 その話をすると、手すりにもたれたウィルが目を丸くした。

「へえ。似たようなことを考えるんだなあ。でもまあ、この話はこっちでも言い伝えの域を出ないよ。黒龍伝説と違ってそんな青龍がいたという信頼できる記録もないし、知っている長老もいない」

「ふうん……。あ、雨を止めたってことは、青龍は水を操れるの? コルナリナさんみたいに」

 赤い色彩を持つコルナリナは、炎を自在に操っていた。あれは、彼女が赤龍だからなのではないだろうか。

「大まかにはその通りなんだけど、うちの母は特別と言うか、規格外なんだよ。前にも少し話したけど、龍の力と言うのはそんなに大したものじゃない。周りの環境からほんの少し力を借りて、こちらからも少し返して、一番いい状態に保つ。赤龍で言ったら、おこした火がずっと絶えないように調節するくらいのことしかできないはずなんだ」

 いくらでも応用の仕方はあるけどね、というウィルの言葉通りだとすれば、確かに規格外だ。ウィオラを相手にした立ち回りを見せた時のコルナリナの能力は、そんなレベルではなかった。

「お母さん、武者修行してるって言ってたけど。修行したらできるようになるものなの?」

「いや、城を去る前からあんな感じで、化け物じみたひとだったよ。昔から、ごくまれに属性とすごく相性の良い龍の仔が生まれることはあったらしいから、ないことではないんだろうけどね」

 へええ、と気の抜けた相槌をして、コルナリナを思い浮かべた。思わず見惚れる騎士のような立ち居振る舞いや、自信に満ちた強い印象の表情が似合う精悍な女性だ。考えてみたら、ウィルとはあまり似ていない。

「ウィルってお父さん似?」

 訊ねると、その意味を悟ったらしく苦笑された。

「まあ、わかりやすいよね。属性が違うのに加えて、俺は母に対して腰が引けてるし、あっちの方が性根が男前だし」

 もしかして、あんまり触れてほしくない部分だったのだろうか。

 でも、全く似ていないこともないと思う。機嫌が悪い時の近づきがたい雰囲気とか。……口にするのは怖いので胸にしまっておくけれど。

 そういえばここへ来たのは不機嫌な彼の気を逸らすためだったのに、すっかり忘れて本気ではしゃいでしまっていたことにはたと気づく。いや、彼は当初のもくろみ通り普段通りに戻っているし、結果オーライか?

「ナツキ。言っておくけど全部顔に出てるからね?」

 呆れ声で言われて慌てて顔を引き締めるが、今さら百面相は取り消せない。ウィルは声に出して笑って、小さく頭を振った。

「ほんと、不思議だよね。ナツキを見てると、自分がごちゃごちゃ悩んでることがどうでもいいことに思えてくる」

 それは何か。夏妃が見る者を気抜けさせるほどの能天気だと、そういうことか。

 だが実際に、たった今目的を忘れてはしゃぐという醜態をさらしたばかりなので、言い返す言葉に詰まる。

「これが、――」

 反論できずにいる夏妃の頭を撫でて、ウィルが嘆息と共に呟いた。

 あまりに小さくて聞き取れなかったので聞き返すと、彼は笑みに紛らせてしまう。不満を込めて睨みつけると、ふと思い出したみたいに彼が懐を探って言った。

「そうだ、預かっていたものを返さないと」

 ウィルが手のひらを開いて見せたのは、部屋の鍵と銀のコインが下がった首飾りだ。ああ、と頷いて手を出すと、彼はそれを遠ざけてしまう。

「つけてあげる。後ろ向いて」

「え?」

 紐の部分は長いし、頭から被れば済むことなのに。しかし、彼は有無を言わさず夏妃の肩を掴んで反転させ、留め具を外した首飾りを前に回してしまった。こうなると逃げ場はない。

 基本的に礼儀正しいくせに、たまのこの押しの強さは何なんだろう。ため息をつきたい気分になりながら、ウィルの声を聞いた。

「そういえば伝言、ありがとう。正直言って助かったよ。おおよその見当はついてたんだけど、俺も村長も憶測で城を動き回るわけにはいかなかったし。ナツキが残した手がかりのおかげで、王に直談判できたんだ」

 驚いて振り向きたくなったが、今は無理だ。我慢して、首を振った。

「お礼を言うのは私の方だよ。ウィルたちが来てくれなかったら、どうにもならなかったし。でも、そういえばどうやって変化の許可をもらったの?」

 そこのところを教えてもらっていなかった。

「伝言と手がかりを見せた村長が、すぐに事情を察したんだよ。ガルデニアと言えば過去の王妃の名で、その名を冠する部屋もある。そして、そんなことを賊が知るはずもないし、手がかりを寄越す意味もない。だから、すべては王と王妃の自作自演だと言うわけだ」

 そこまでひと目で見抜いてしまったのか。さすがはエルヴァだ、と思うと同時に肩を落とす。

 先に彼に話していれば、ユウや王妃を危険にさらすこともなかった。やはり、自分は考えが足りないのだ。

「正直、俺も最初は信じられなかったけど。とにかく王のところに行って突き付けたら、あっさり白状されてさ。怒る気も失せたね」

 エルヴァが気の毒になってくる。あんなに顔色が悪くなるほど奔走したのに、真相は主に裏切られていたようなものだったのだ。どれだけ気落ちしただろうかと思うと、王たちのやり方は正しくなかったのだと責めたい気分になる。

 夏妃は、でも、と首を傾げた。

「そんなにすぐエルヴァさんが見抜いた割には、タイミングがぴったりだったよね」

 夏妃とユウが辿り着く前に、とっくに王妃は見つかっていたはずなのに。すると、ウィルは何故か後ろめたそうに口ごもった。

「もちろんすぐに計画を止めるよう進言したんだけど……。陛下が、賊が紛れてるのは間違いないのだから、姿を現すまでは続けると仰って……」

 お、囮捜査と言うんじゃないのかそれは! 王様のくせに違法な手を使うなんて、不届き千万。実際のところ、龍の国で違法かどうかはわからないけれど。それでもどうなんだ人道、いや龍道的に。

 拳を震わせる夏妃の不穏な空気を感じ取ったのか、ウィルがとりなすように付け足した。

「陛下を説得は出来なかったけど、龍騎士ともども包囲のために変化の許可は出してくれてね。騎士でもない俺のことも急遽加えてくれたし、すべての責任を負う覚悟はしていらしたんだろう。賊を逃がせば今後の国内の情勢不安にもつながるし、やむを得なかったんだとも思う」

 できたよ、と言われて視線を落とすと、胸元に銀守りが下がっている。礼を言って、ウィルに向き直った。

「ありがとう、ウィル。ウィルにこれを託して、よかった」

 眩しい木漏れ日の下で、ウィルが笑う。風にかきまぜられる髪も、穏やかな目も、褒めてもらった子どもみたいな表情も、なんだか動揺してしまうくらいに綺麗だった。

「俺の方こそ、ありがとう。ナツキに頼ってもらえて嬉しかったよ」

 その台詞はなんか、照れるな。と、視線を外した一瞬の間に、額が彼のシャツの胸元にくっついていた。首の後ろに回された両腕の体温に、動揺が倍増した。

「でも、やっぱり姿が見えないのは不安だった。心臓に悪い」

「……過保護」

 かろうじて文句を挟むと、彼は小さく笑う。その体の振動が夏妃にも伝わってきた。

「がんばって探しに行きたいのを我慢したんだから、褒めてほしいな」

 心配をかけたのはわかっているから、強くは言えずに声を小さくする。

「それは、感謝してる。……ありがとう、信じてくれて。私もウィルを信じてた」

 一瞬、回されたウィルの腕の力が強くなって、すぐに体を離した。見上げた顔は、少し困ったような表情をしていた。

「ウィル?」

「いや。信じてもらえるっていうのも善し悪しだなと、今再認識したところ」

「え?」

 わけがわからないことを言っておいて、ウィルは説明する気はないらしく、ただ笑う。そして、答えの代わりに彼の顔が近づいた。

 額に降ってきた軽い感触にぽかんとする。その意味を理解するなり、眩暈を感じた。

「……………………うぃ、ウィルさん?」

 動揺のあまり声がひっくり返った。

 だって、キスって。……キスって!! 何このいきなりの暴挙。

 大混乱しつつ後ろ向きに距離を取って、面白そうに観察しているウィルを信じられない思いで見た。

「ちょっと、何するのいきなり!」

「何って?」

「だから、額にキ、キ……っ、っていうか、ごまかすなー!」

 わめく夏妃とは対照的な、涼しい顔が腹立たしい。行儀は悪いが構うものかと、ウィルの顔をびしっと指差した。

「そういうの、よくないよ!」

「え?」

「あのね、ウィルが子ども扱いするのは慣れたけど、そりゃまあ国によっては挨拶だってこともあるのは知ってるけど、純日本人的な私からしてみればやっぱりそういうことは簡単には納得できないというか、さらっと流すには経験値が足りないというか!」

 混乱と羞恥に任せて長口上を披露していると、彼は首を傾げて言った。

「なんだかよくわからないけど。ナツキは、嫌だったの?」

 うまく頭が切り替わらずに、戸惑って口をつぐむ。彼の言葉の意味を考えてみた。

 嫌ってことは、ないけれども。ウィルは容姿も綺麗だしたまに怖いけど性格もいいと思うし、どっちかというと光栄ですが。

 と、そこまで考えて真顔のウィルと目が合って、一気に恥ずかしくなった。全身から汗がにじむような心地で、顔が熱い。今なら恥ずかしさで死ねるかもしれない。

「ナツキ?」

「う、うううー」

 とうとう顔を覆って悶えだした夏妃をなだめるように、耳慣れた穏やかな声が言う。

「じゃあ、考えておいてよ。俺も自分で向き合ってみる。いつか答えが出たら、ナツキが感じたことを教えて」

 今答えろと言われても絶対に無理な自信があったから、それはとても建設的な意見に聞こえた。顔を覆ったまま深く考えずに頷いて、内心ほっとした。

 じりじりと手を下げて、目元だけ出してウィルを見る。それからやっと、彼の言葉の細かい部分が脳に到達した。「向き合ってみる」とか「答え」って、どういうこと?

「あの……」

 聞きかけた夏妃の頭に手を乗せて、ウィルがわざとらしいくらい綺麗に微笑んだ。

「じゃあ、予定通り村長に会いに行こうか。俺の気も紛れたことだしね?」

 見透かしたようなその言葉に目を見開く暇もなく、また手を引かれて歩き出す。

 ……頷くのは早まったかもしれないな、という思いはたぶん今更だった。

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