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 一瞬、思考停止していたかもしれない。宰相閣下の寒い視線で我に返った夏妃は、慌てて頭を下げた。

「い、いえ、とんでもない。ええと、お目にかかれて光栄です」

「私もねえ、話を聞いてから楽しみにしてたんだよ~。会ってみたら可愛いし、息子と年の頃も合いそうだ。どうだい、息子の嫁さんになる気はない?」

 想像していたよりもフレンドリーに接してくれるのはとても嬉しいが、さっきから振られる話題がことごとく返答に困るものばかりだ。社交辞令とはいえ頷くわけにもいかず、かといってはっきり断るのも角が立つ。曖昧に笑うほかない。

「その、息子さんにも選ぶ権利がありますからね。今私がどうこう言うことは出来かねます」

 なんとか話をうやむやにしようと試みるが、陛下はふむと頷くとにっこりした。

「じゃあ、息子が君を気に入れば前向きに考えてくれるということかな?」

 あれ、墓穴掘った?

たわむれはそのくらいにしてくださいませ」

 わざとらしい咳払いで遮ってくれた宰相閣下が、救世主に見えた。陛下は「つまんない」と言わんばかりに眉を下げて彼を見た。

「まったく、お堅いなあ。あ、なっちゃん。これは宰相のヴェレだよ。優秀なんだけどこの通りの石頭だから、もしよそでいじめられたら言いなさいね」

「陛下、議事が滞っております」

 重ねて言われると、はいはい、と頷いて玉座に戻る。大きな椅子に座ると、夏妃の位置からは陛下がぷらぷらさせている足しか目に入らず、微笑ましい気分になる。それが顔に出たわけでもないだろうが、宰相閣下ことヴェレに灰色の眼で冷たく睨まれた。

「もうよい、元の位置に戻れ」

 仔犬か何かのように手であしらわれ、玉座に向かって一礼してからウィルのところまで戻る。近づく夏妃を見て、彼は心底安堵した顔をした。

 次いで、陛下の声が彼を呼ぶ。

「そこの若者はエルヴァの村の子だったね。君が彼女を見つけたんだって?」

 ウィルは再び深く正式な礼をしてから、それに答えた。

「その通りでございます。私は村の自警団に属しておりまして、その朝の巡回の途中で彼女を見つけ、保護いたしました。ふた月と少し前のことです」

 ふんふん、と相槌を打つ陛下の姿はやはりここからではよく見えない。申し訳程度に白髪が見えるか見えないか、といったところだ。

 陛下は続いて、もうひとりの証言者に視線を向けたようだった。

「それで、彼女は長の目から見てどうだい、エルヴァ」

 夏妃から見て左手のテーブルから、聞きなじんだ深みのある声が答える。

「礼儀正しく、素直な子ですよ。まだ未熟な面もありますが、それを自覚し改めようと努力する賢さもある。彼女の正体が何であれ、龍にあだなす者だとは思いません」

 きっぱりと言い切って、穏やかな視線を向けてくれるエルヴァの姿を見て心底ほっとした。夏妃のしたことを知りながらそう言ってくれる彼にも、ウィルにも、いくら感謝してもし足りない。

 陛下はなるほど、と嬉しそうに言った。

「間近で彼女を見てきたふたりは、受け入れに賛成のようだよ。どうかな、ヴェレ」

 彼は鼻を鳴らし、一蹴する。

「信用に足る事実かどうか、疑問ですね。皆を騙しおおせているのかもしれないし、あるいはふたりが娘の協力者となって陛下の目を欺こうとしているのかもしれない」

 いったい、彼の中ではどんな悪女設定になっているんだ。

 自分のことに関しては呆れこそすれ、腹は立たない。でも、さすがにウィルやエルヴァまで疑われているとなれば黙ってはいられない。

 しかし、結果的には夏妃が反論する必要はなかった。テーブルに着いたお歴々の中から、彼らを擁護する声があがったのだ。

「ヴェレ殿、その言いようには同意できぬ。エルヴァは陛下の信も厚い男だ。我々とて彼にはいくつも恩があり、信頼している。そのエルヴァが陛下を裏切るような真似をするとは思えない」

「俺も、赤の村長殿と同意見だ。智将と謳われたエルヴァ殿やその信用がある若者を、幼い娘が騙しおおせているというのも考えにくいだろう」

「だが、得体の知れぬ娘だということも事実ぞ。無条件に受け入れるわけにもいくまい」

「英雄と同じ『黒色』だ。無下に扱っていいものかどうか」

 そのまま喧々けんけんと議論に移りそうになったが、静かに、という陛下の大きくはない一言でぴたりと声が鎮まる。

 エルヴァと龍の王の人望の厚さを肌身で感じて、感嘆の息がこぼれた。彼らにはそれだけの功績と実力があるのだ。途方もないことに思えた。

 やがて、顔色一つ変えずに聞いていたエルヴァが、涼しい顔で口を開いた。

「それぞれに意見があるでしょうし、今結論を出せることでもないでしょう。ただ、彼女はこの私の保護下にあるということだけは、承知しておいていただきたい」

 つまりは、夏妃に危害を加えることはエルヴァに喧嘩を売るも同然だよ、と。穏やかながらもはっきりと、そう宣言してくれたということだ。

 お歴々は戸惑った表情ながらも、エルヴァがそう言うのなら……という雰囲気になりつつある。

 しかし、そこに突然若い声が割り込んできた。

「ではそこに、私の名も加えておいてもらおう」

 天井に反響する朗々たる声には聞き覚えがあった。

 がたん、と乱暴な音とともに、玉座に近い前方で開いたガラス窓が窓枠で跳ね返る。あんな馬鹿でかいガラスが割れたら相当お金がかかりそうだ、とずれたことを考えている間に、そこから侵入した人物が身軽に床に着地した。

 日差しにきらきら輝くプラチナブロンドが目を引くその姿は、どう見ても。

「あれ、ユウだ」

 思わず零れた呟きは、一拍遅れて広間に起こったざわめきにまぎれた。

「どうしてまた、そんなところからいらっしゃるのですか」

 苦虫を噛みつぶしたような顔のヴェレに睨まれても、どこ吹く風といった様子でひらひらと手を振ってみせる。

「まあ、気にするでない。こっちのほうが早かろう。あのような大仰な扉を開けるのは面倒なのでな」

 相変わらずの唯我独尊ぶりで、そのまま玉座の壇にひょいと飛び乗った。

「珍しいねえ、お前が会議に顔を出すなんて。いつもだったら王命だって言っても姿をくらましちゃうのに」

 こころなしか、陛下の声にも呆れが混じっている。

「会議には用などないぞ、父上。この場がまあ、一番都合が良かろうと思っただけだ」

 陛下相手にもこの偉そうな口調。ぐるりと広間を見渡したユウは、ぽかんと眺めるばかりの夏妃を見つけてにっと笑った。

 そして、不敵な表情で宣言した。

「よいか。シーナ・ナツキはユウェルロッツカステールジルヴァラヴルーヘルの名において、王家の保護下に置く。この命に背いた者は反逆罪に問われると思え」

「ユウェル様!!」

 ヴェレが赤いんだか青いんだかわからない顔色で叱責する。今にもぶっ倒れそうだった。

 混乱の極みでむしろしんと静まり返ってしまった広間の中に、陛下の忍び笑いが響く。

「これはこれは。どこで彼女と知り合ったんだい?」

「そんなことは問題ではない。ナツキは私の友人だから、私が保護するのだ」

 腰に手を当てふんぞり返る彼は、かなり子供っぽい。友人て。いつの間に?

「……どういうこと?」

 右斜め後ろから漂う絶対零度の冷気に寒気が走る。いやいやいやいや。それを聞きたいのはこっちの方だ。

 嫌な汗がにじむのを感じながら小刻みに首を振ることしかできず、遠く陛下の呑気な声を聞いた。

「なんだ、もうなっちゃんと友達になってたの? ずるいなあ、私も仲良しになってレグちゃんて呼んでほしいなあ」

 足をぷらぷらさせつつ口を尖らせる陛下が、見えなくても目に浮かんだ。しかし、その内容にはつい顔が引きつる。愛称にちゃん付け。ありえない。そんなことを実行しようものなら、宰相閣下に視線で殺されること請け合いだ。

 ユウが、ふふんと楽しげに胸を張る。

「私はもうユウと呼ばせているぞ。私の勝ちだな、父上」

 応戦しなくていいから。そして勝ちとか負けとかいう問題でもないから。

 緊張感などどこかに消え失せ、「もう部屋に帰りたい」と虚ろな気分で考え始めた夏妃に、陛下がそうそう、と思い出したように言った。

「なっちゃん、これがさっき言った私の息子、ゆーくんだよ。次期国王候補に加えて、将来有望な美人さんでしょ? いやー昔の私そっくり。どうどう?」

 どうと言われましても……。

 今までの会話でなんとなくわかってはいたけど、ユウは本物の王子様だったようだ。似合いすぎて驚く気にもなれない。会ったときからどこかで分かっていたような気さえした。

 それよりも、昔の陛下というのが気になる。昔から今のマスコットサイズだったわけではないのだろうか。

 ヴェレが陛下、と苛立つ声をはさむ。

「問題は殿下の仰ったことですよ。あれでは、あの娘を陛下の庇護下に置くも同然ではありませんか。即、却下なさってください」

「でもねえ、ヴェレ。何らかの暫定処置は必要でしょ。宙ぶらりんのまま放っておいたら、先走って彼女を傷つける輩が出るかもしれない。身内でそんなことが起こるのは本意じゃないでしょう。とりあえずは王子の友人で、【九頭龍ノウェム・カプト】の庇護者として保護する。妥当じゃない?」

 妥当じゃない!! とヴェレが思っていることは彼の表情にありありと表れていた。しかし、陛下の意志を覆すことはできないと考えたのか、それ以上は何も言わなかった。広間に集う長たちからもいなの声は上がらない。

 陛下は場の沈黙を同意とみなしたらしく、じゃあ決まりだね、と声を弾ませた。

「聞いた通り、シーナ・ナツキ嬢には龍の王子と【九頭龍ノウェム・カプト】の一翼が保護者として付く。その旨、心しておくように」

 御意、という声がぴたりと揃った。

 高い天井に反響する余韻を聴きながら、改めて事の大きさを感じて身震いしそうになった。いくつもの幸運が重なって、この暫定的な保護が取り付けられたのだ。どれが欠けてもこんな寛大な処置はあり得なかった。起こらなかった未来に、それでも胸が冷える心地がする。

 夏妃が心臓のあたりを押さえて息をついている間に、さて、と陛下が切り出した。

「今回の招集は急なことですまなかった。実は、各地の同胞をまとめる長の諸君に、話さなければならないことができてね」

 陛下の口調から軽い雰囲気が消え失せる。広間の全員の視線が玉座に集中した。陛下の指示で、控えていた衛士たちの手で玉座の前の卓が避けられ、その姿が露わになる。

 小柄な体も声音も変わらないのに、今の彼には気安さなど微塵もない。為政者の顔で、傍らに立つユウに視線を向けた。

「来てくれてちょうどよかった。お前にも関わることだ。よく聞きなさい」

「……はい、父上」

 ユウも表情を改める。

 頷いて、再び前を向いた陛下は。へにゃりと笑み崩れた。


「えー、突然ですが、私レゲラーティオは王様を引退したいと思いま~す」


 ――――時間が、止まった気がした。

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