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 引退って、引退?

 おそるおそる視線を動かすと、誰もがきょとんとした顔をしていた。あのエルヴァでさえもだ。これは珍しいものを見た。

 ひとり、表情は硬いが驚いた様子がないヴェレは、この話を前もって聞いていたのだろう。そうでなければ、この場で平静を保っていられるとは思えなかった。

 最初にショックから立ち直ったのはユウだった。眉を寄せて、彼は心底怪訝そうに父王に訊ねた。

「父上。それは冗談ではなく、本気で?」

 陛下はにこにこと頷いて見せる。

「うん、本気。こんな場で冗談なんか言わないよ」

 再び、唖然とした空気が流れた。

 何も知らない夏妃でさえ、これが尋常でないことくらいわかる。日本の首相がころころ変わるのは見慣れていたけれど、それが一般的なわけはないだろう。そもそも陛下は人望も厚く敬愛されているようだし、王様を退く理由があるとも思えない。

 陛下はふう、と息をついて続けた。

「私もかれこれ在位四百五十周年でしょ? まあ代々の在位期間を見ればほどほどだけど、もう後を譲ってもいいかなあって思ってね」

 よんひゃくごじゅう……って、計算しようにも頭が働かない。とにかく人智を超えた数字だということはわかる。

 右側のテーブルで玉座に一番近い席に座るごつい体つきの男性が深刻な顔つきで声を上げた。先ほど、最初にエルヴァを擁護した赤銅色の髪の長だ。

「しかし、陛下。後といっても、ユウェル殿下は……」

 語尾が途切れると同時に視線を向けられたユウは、初めて会った時のような仏頂面で言った。

「今まで言ってきたとおり、私は王位になどつきたくない」

「そうなんだよねえ。そう言ってゆーくんは教師やお目付け役から逃げ回ってばっかりだし。君が次の王様だよって言っても、本人も周りも納得しないだろうね」

 ユウが逃げ回っていたのはそういうわけだったのか。

「でも、悠長なことをしてるわけにもいかなくなってね」

 そう言って、陛下はヴェレ、と呼んだ。指名された宰相閣下は、何やら懐から紙切れのようなものを取り出した。それを、平坦な声で読み上げる。

「『退位せよ。従わなければ、預かった王妃と宝は無事では済まない』」

 広間に、物理的なまでの殺気が膨れ上がった。

「王妃様と、宝? どういうことです、陛下!」

 激昂して立ち上がった長のひとりに、どうもこうも、と肩を落として陛下が答える。

「七日前の朝、政務室の机にそれがあったんだよ。そして、離宮からは王妃と宝が消えていた」

「何故今まで黙っておられたのですか!?」

「要求には続きがあるんだよ。『退位の宣言まで騒ぎを起こすな』。このことを知る者は、少なければ少ないほどよかった。幸か不幸か、王妃は病気がちで離宮に籠りきりだったからね。こうして今まで広まらずに済んだ」

 陛下は悄然とした様子ながら、淡々と語る。爆発寸前に見えた室内の空気が、戸惑いにしぼんだ。

「何者の仕業かはわかりませんが、陛下。この要求に大人しく従うおつもりですか」

 エルヴァの静かな声が問うと、陛下はなんのためらいもなく頷いた。

「そのつもりだよ。なんであれ、エグランティーナの命には代えられないからね」

 それが姿を消した王妃の名なのだろう。ユウの表情が一気に険しくなり、彼の握りしめた手に力がこもるのが遠目にもわかった。

 めまぐるしい非日常的なやり取りに、夏妃は目が回りそうだった。いったい何故、よりによって今、そんな事が起きるのか。まるで、夏妃がこの城に厄災を持ち込んだみたいじゃないか。

 その一方で、何か納得のいかない思いもある。

 違和感に名前を付けられないでいる間に、陛下が再び口を開いた。

「しかし、私が退位した後に王を立てないわけにもいかないね。龍の王は一子相伝。唯一の嗣子はユウェルだが、彼には今現在その意志もないし、なにより未熟だ。そこで、私は退位に条件を付けたいと思う」

「条件?」

 それを聞いたヴェレが、にわかに眉を寄せた。まさかの初耳?

 陛下はやっぱりどこかとぼけた口調で、しかしはっきりと告げた。

「私は、王妃と宝を最初に見つけた者を王に指名する。その者が玉座についたら、私は退位しよう」

「っ、陛下!?」

 広間が再び、騒然となる。その中で夏妃はまた、違和感に眉を寄せた。

 攫われた王妃様と宝物。それを取り戻した者が次の王になれる。まるで物語のような劇的な展開だ。

 でも、だからこそおかしい気がする。この状況が『出来すぎている』気がするのだ。首謀者のもくろみ通り、ということなのだろうか?

 ざわざわする気分のまま玉座を見れば、陛下がヴェレに向かって話しているところだった。

「その脅迫状には退位の条件なんて書いていないし、こちらで決めても問題はないでしょ? 実際、空位にするわけにはいかないんだし」

「だからと言って、相手の狙いもわからぬうちにそのような! それにもしも、『王妃と宝を見つけた』と言って名乗りを上げたのが賊だったら、どうするおつもりですか」

「それこそわかりやすいじゃない。探すまでもなく名乗り出てくれるんだったらそれにこしたことはないよ」

 確かに、どうであれ最初に名乗り出た者は怪しいということになる。

 でも、そんな呑気な犯人はいないだろうし、もし玉座に納まったってすぐに引きずり降ろされるのは目に見えている。だとすれば、さらに手荒な方法に出ることもありうるのではないか。

 こんな乱暴な手に出た陛下の狙いも、わからない。夏妃がいくら考えたところで、どうなるものでもないのだけれど。

 暫定的に認められたとはいえ、龍族ではない夏妃の立場はひどく宙ぶらりんで、子供よりも無力だった。




 当然ながら混乱は収まらず、長達も含めて議論になだれ込むことになった。ウィルとともに自室に辿り着いた時には、そう時間も経っていないはずなのだが、すっかりくたくたになっていた。

「ううう、疲れた」

 部屋を出た後、ウィオラが片づけてくれたのだろう。黄色の可愛らしい花を飾った花瓶の他は何もなくなったテーブルの上に、頬をくっつけて息を吐く。向かいの椅子にウィルが座る気配がして、「お疲れ様」と柔らかな声が労ってくれた。

 頭を持ち上げる気力はなく、顔は入り口の扉の方に向けたままで口を開く。自然と声が沈んだ。

「でも、大変なのはこれからだよね。ますますエルヴァさん達は休めないじゃない」

「うん、しばらくは慌ただしいだろうな。なにせ、大事おおごとだし」

「なんかウィルの言い方、他人事っぽいなあ。大事に聞こえないよ」

 彼を視界に入れないまま眉を寄せて、すぐに戻す。やっぱり意識は、今も会議の続く謁見の間に飛んでしまう。

「会議、まだ続くのかな」

「龍の王の権限が大きいとはいえ、長達の協力は不可欠だからね。合意に持ち込むには時間がかかるんじゃないかな」

「……王様の気持ちもわかる気がしてきた。王妃様の身が危険だっていうのに、まずは会議、だなんて。そんなの、まどろっこしくて嫌になるよ。それならとっとと王位なんて捨てて、探しに行きたいに決まってる」

 王妃の命には代えられない、と言った龍の王の言葉を思い出す。きっと、とても大切に想っているのだろう。

 でも、為政者として、私情で動くことは許されない。その心中を思うと悲しくなる。

 ウィルの穏やかな声が聞こえた。

「確かに、遠回りに思えるけどね。だからって王に絶対の権限を置くわけにもいかないんだから仕方ない。ナツキの世界で言うと、ケンリョクブンリツっていうんだっけ?」

 それはもちろん、道理だ。頭では理解できても、納得はできないから厄介なのだ。

 慌てた様子もないウィルに苛立って、少し責めるような口調になった。

「なんだか、ウィルは王妃様をあんまり心配してないみたいだね」

「俺? うーん、そうかもね。なんだか犯人の狙いは玉座とか権力とか、そういうものじゃない気がする。そう簡単に王妃様を傷つけるとは思えないんだよね」

「じゃあ、なんで王様に『退位せよ』なんていう脅迫状を出したの?」

 訳が分からず問うが、ウィルはあっさりとしたものだった。

「さあ。それは犯人に聞いてみないとなんとも言えないよ」

「えー、何それ。気になるじゃない」

 はぐらかされたのが気に食わなくて文句を言うと、目の前のテーブルの表面に大きな掌が現れた。びくりとして頭をくっつけたまま恐る恐る視線だけで腕を辿れば、夏妃を背後から覆うようにしてウィルが立っている。いつの間に。

 どうやら囲うようにテーブルに手をついているらしく、逃げ場がなかった。彼は顔を横向けた夏妃を覗き込むようにして、にこりと微笑む。……これは、やばい。怖い方の笑顔だ。

「俺も気になることがあるんだけど、教えてくれる? ナツキはユウェル殿下と、いつ、どうやって知り合ったの?」

 ひとことひとこと区切って訊ねる声が、穏やかなのに怖い。目が合わせられない。

 なんだか呼吸まで怪しくなって、かすれた声でしどろもどろに答える。

「え、えええーと。その、初日に温泉があるって教えてもらって、帰りに、その、彼が上から降ってきて、ですね」

「降って?」

 事実のはずなのに、聞き返されると訳もなく謝りたくなってくる。いや、何も悪くないはずだ。頑張れ自分。

 というか、顔が近すぎるよもっと離れててもお話はできますよ。とは怖くて言えない。

「そう、たぶんお目付け役とかから逃げてたんだと思うんだけど。とにかく降ってきたユウに潰されて、で、いっしょに来いって言われて隠れてたんだけどいつの間にかフードが取れてて、『黒色』なのがばれて。口止めしたら何故だか懐かれて、ちょくちょく話してたんだけど、今日会ったら何故か友達ってこと、に……」

 早口の説明は自分でも何がなんだかわからない。だが、これが精一杯だ。心臓が割れそうにうるさいし、自分の顔色が赤いんだか青いんだかもわからない。な、何故こんなプレッシャーを受けなきゃならないんだろう。

 混乱状態でウィルの反応を待つが、彼は何も言ってくれない。かなりの勇気を要して、やっと頭を起こし彼と目を合わせた。

「お、怒ってる?」

「……そう見える?」

 真顔で訊ね返されて、返答に困る。躊躇ったあげく、たぶん、と頷くと、ウィルはなんだか微妙な表情になって呟いた。

「参ったなあ」

 ……なにが?

 問い返そうと口を開くと同時に、ノックの音が響いた。……ああもう、今日は邪魔の入る日だなあ。厄日かもしれない。

 素早く体を起こしたウィルが「どうぞ」と答えると、ドアが開いて女官が入ってきた。ウィオラではなかったが、見覚えのある顔だ。彼女は一礼して、半端にテーブルにうつぶせた格好の夏妃を見て言った。

「ナツキ様。ユウェル殿下がお会いしたいと仰せなのですが、ご一緒に来ていただいてもよろしいでしょうか」

 今、このタイミングで? 間が悪いにもほどがあるよ王子様。

 うろたえるばかりの夏妃に、ウィルが促すように言った。

「行っておいでよ。じゃあ、俺はこれで」

 そのまま本当に部屋を出て行こうとするので、起き上がって思わず呼び止めてしまった。彼は振り向くと、いつもの呑気そうな顔でひらひらと手を振った。

「部屋に戻ってるから、何かあればおいで。じゃあね」

 何事もなかったかのような態度のウィルを見送って、夏妃は呆然とした。

 怒っているかと思えばよくわからないことを言って、そのまま放置って。なにがなんだかわからない。

 重たくため息をつきながら、今日は間違いなく厄日だな、と疲れた頭で考えた。

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