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 開いた窓の外から小鳥のさえずりが届き、秋の日差しが絨毯に落ちている。天気もいいしお茶もおいしく、目の前に用意された焼き菓子からはふんわりといい匂いが漂ってくる。

 理想的なまでに素晴らしい朝だ。だというのに、夏妃の気分は重かった。

 のろのろとかごに手を伸ばして焼き菓子を手に取り、口に運ぶ。噛んで呑み込んでも、あんまり味がしない。つい、ため息が出る。

「緊張してるね」

 笑いながら指摘した相手を睨むように見て、当然でしょと突っぱねる。無理やりお茶で流し込んで、カップを音が立つくらい乱暴にソーサーに戻した。

「ああもう、はやく終わらせてくれないかなあ。お待ちくださいとか言ってお茶菓子を出してくれるのはいいけどこれじゃ最後の晩餐の気分だよ。リラックスもできやしないし味もしないし拷問だよ。まさか狙ってやってるんじゃないでしょうね?」

 早口に愚痴って、テーブルクロスの上に突っ伏す。彼はいつものように、テーブルの向こうから手を伸ばしてよしよしと頭を撫でた。

「大丈夫だよ。会議には村長もいるし、俺もナツキと一緒に行くんだし」

「でも、相手は王様だよ? 何か失礼なことをしたらとか思うと……。うう、だめだ。気持ち悪くなってきた」

 後ろ向きな思考から抜け出せず、突っ伏したまま胃のあたりを押さえて涙目になった。

 城に滞在して三日目、とうとう今日は龍の王との対面が適うことになっている。会議はもう始まった時刻で、夏妃はこうしてウィルとふたり、呼び出しがあるまで待機している。

 しかしこれが想像以上のプレッシャーで、悪い方向にばかり想像が転がる自分自身に参ってしまっていた。これから会うのは仮にも王様だ。つまりは日本で言ったら内閣総理大臣クラスの存在なわけで。

 勝手な先入観ながら異世界と王族といえばイコールみたいなものだと思うのだけど、その存在に実際に相まみえるとなれば胃も痛くなる。特に、ぐずぐずと思い悩む時間を与えられているのが良くないのだ。八つ当たりだけど。

 そうしてうんうん唸っていると、ウィルが自分のカップを持ち上げおもむろに口を開いた。

「そういえば、ナツキ。聞きたいことがあったんだけど」

「……なに? それって今聞かなきゃいけないこと?」

 面倒くささを隠しもしないで顔をあげると、彼は真顔で頷いた。

「うん。気になって夜も眠れない」

 ここまできっぱりと言われると面食らう。なるほど、それは大事おおごと……なのか?

「……あっそう。じゃあ、どうぞ」

 仕方なく促すと、カップを下ろした彼は夏妃をじっと見てテーブルの上に腕を組んだ。

「城に着いてからよく姿を消してるそうだけど、いったいどこで何してるの?」

「……で、え?」

 間抜け面で硬直してしまった。がばりと体を起こすと、混乱は後からやって来た。

「えっ、と……。それは、ウィオラさんから……?」

「そうだよ。ナツキの様子を聞いたら教えてくれた」

 ウィオラは城の滞在中、夏妃の世話をしてくれている女官の名前だ。初日から心配をかけてしまったから申し訳なくは思っていたけれど、まさかウィルにまで伝わっていたとは。

 しかしウィルもウィルだ。こんなところでまで過保護を発揮しなくてもいいだろうに。

「別に、危ないことをしてるわけじゃないよ。えーと、散歩というか探検というか」

「そのわりに、ナツキを見かけたっていう情報がないんだよね。どこにでも女官や衛士はいるはずなのに」

 ちょっとちょっと。そんな子どもの位置情報検索サービスまがいの聞き込みまでしてたんですか? このひとに携帯電話とか持たされたらえらい目に合うな、きっと。

 なんて、感心している場合ではない。この場をなんとかごまかさなければならなかった。

 実は、いちいち行方不明になっていたのにはユウが絡んでいる。初日の別れ際の言葉通り、彼には翌日「また」会うことになった。

 どこでどう察知するのか知らないが、決まって夏妃が一人のところに図ったように現れて、偉そうに「しばし付き合え」とのたまう。どうせ会議が始まれば夏妃が『黒色』だなんてことは広まるわけで、彼に付き合う必要があるのかははなはだ疑問に思い始めていたが、結局はいつも頷いていた。現状ではやることもなく、ヒマだったということもある。

 相変わらず何らかの理由で逃げ回っているらしいユウに合わせるとなれば、木立だとか空き部屋の隅っこだとかに潜む羽目になり、結果、何度かウィオラには迷惑をかけていた。夏妃としても一言断ってから出かけたいのだが、ユウの存在を知られることは約束違反なのでできなかった。

 そして、今ウィルに話すこともできない。どうせ夏妃もユウもばれるのは時間の問題なのだし、話してしまいたい気もする。

 ……しかし、それ以上にウィルに話すのは気が進まない。

 こっそり男の子と会ってました、なんていうのはウィルの逆鱗に触れそうな気がするのだ。保護者(というか母親?)よろしく世話を焼く彼のことだ、「嫁入り前の女の子が云々」とか言い出しかねないと思うのは、そうおかしなことじゃないだろう。相手は十一歳なんだけど、というのはたぶん言い訳にもならない。

 加えて、夏妃を見る彼の目が笑っていないことが怖い。彼がただ穏やかなだけのぽややんとした青年じゃないことはもう知っている。

 話すのも怖いが、話さずにいてもいずれは知られること。それを思えば、今のほうがまだ傷は浅いかもしれない。ようやっとそう腹を決めて、ウィルの目を見た。

「あの、」

「失礼いたします」

 切り出した夏妃の声にかぶさるようにノックが聞こえ、ガチャリとドアが開いた。人がせっかく勇気を奮い起こしたところだったのに、とドアのほうを睨むと、深いラベンダー色の制服を着た若い男が立っていた。慌てて表情を改めるが、彼は眉一つ動かさずに直立不動で告げた。

「シーナ・ナツキ様、並びにウィリディスアルゲントゥムサルトゥスルーナ様。陛下のお召しでございます。謁見の間までご案内いたします。こちらへ」

 おお、ウィルの本名をそらで言ったよこのひと。と頭の端で考えたのはたぶん現実逃避だった。

 ウィルの小さなため息が聞こえた気がしたが、彼は椅子を立つと夏妃の前にやって来て、見慣れた笑顔で手のひらを差し出した。

「行こうか」

 ばくばくいう心臓を意識しながら、その手を見つめる。

 ……大丈夫。一人じゃないんだから。

「うん。行こう」

 一つ頷いて、ウィルの手を取り立ち上がった。




 報告会議が行われているという謁見の間の前に辿り着くと、その扉の大きさに圧倒された。二階建ての家の屋根くらいの高さはありそうな天井に届かんばかりで、つやのある木目さえ重厚なその表面には、龍や植物を象った精緻な模様が刻まれている。

 息を呑んで見上げていると、ここまで案内してくれた制服の若者が振り向いて言った。

「よろしいですか?」

 夏妃は我に返り、慌てて視線を戻した。

「い、いつでもどうぞ」

 我ながら素っ頓狂な受け答えだったが、やはり若者は顔色一つ変えずに扉に向き直ってしまった。逆に恥ずかしいんですが。

 それよりも、彼が手をかけた扉が開いている。いかにも分厚くて重そうな扉だというのに、どういうわけだろう? 不可解な気分で扉と若者を見比べていると、ウィルに後ろから背を押されて、たたらを踏むように広間に入った。

「お連れいたしました」

 淡々とした声とともに若者が深く一礼する。その先を視線で追って、聖堂のように広い部屋の奥を見た。天井から下がるタペストリーを背にして、一段高い場所に備え付けられた立派な椅子は、もしかしなくても玉座だろう。

 しかし、書類らしき紙束が積まれた卓の向こうの玉座に王の姿はないようだ。

 拍子抜けした気分でいると、隣に並んだウィルが胸に右手を当て深々と頭を下げた。

「ウィリディスアルゲントゥムサルトゥスルーナ、お召しに従い参上いたしました」

 はっとして、姿勢を正す。

「同じく、椎名夏妃です」

 ウィルにならって頭を下げる。その間にも、視線をひしひしと感じた。広間の両脇の長テーブルに座る、お歴々のものだろう。その中にはエルヴァの姿もあるはずだが、とてもじゃないがきょろきょろする余裕はなかった。

おもてを上げよ」

 広間に響いた重々しい声に従い、顔を上げる。玉座の近くに立つ、群青色の髪をした壮年の男が見えた。おそらく、彼が今の声の主だろう。偉い人なんだろうなと、雰囲気で察せられる。

 体育館の端と端くらいは離れているはずだが、彼の表情はよくわかった。ものすごく不機嫌そうだ。

「シーナ・ナツキとやら。お前が『黒色』を持つという娘か?」

 厳格さがにじみ出る声と口調に生唾を呑みこんで、はいと頷く。ざわりと室内の空気が動いたが、すぐにそれは鎮まった。男は、さらに命じる。

「では、その証を示せ」

 さらに強く、視線が集中するのを感じる。いまだかつてない緊張に恐怖さえ感じながら、それでも躊躇わずにフードに手をかけた。ここで怖じても仕方ない。このために、ここまで来たのだ。

 フードが背中に落ちると同時に、ざわめきが広間を支配した。意味を為さない声がいくつも重なって、高い天井で反響する。耳を塞いでしまいたかったけれど、何とか堪えた。すぐそばに立つウィルの存在を感じる。まだ平気だ。

「なるほど、本物らしいな。しかし」

 男は態度を変えることなく冷たい口調のままで言った。

「私はお前が『黒色』を持っていようと、英雄と同じ黒龍だろうと、特別視するつもりはない。どんな容姿だろうと、出自も来歴もわからぬ者など胡乱なことこの上ない。今すぐ牢に籠めたいくらいだ」

 お、おおお。言い方はムカつかないでもないが、この世界に来て初めて心から同意できる正論を聞いた気がする。まともな危機管理意識のひともいたんだなあ。よかったよかった。

 さらにどよめきが起こる中でむしろ感心していた夏妃だが、さっきから背中がざわざわする。ウィルの機嫌が急激に悪化しているようだ。お願いだから、ここで揉め事を起こさないでほしい。

 ひやひやしていると、知らない声が男をたしなめた。

「まあまあ、そういじめなくてもいいだろう。遠路はるばる来てくれたんだし、悪い子ではなさそうだよ」

 なんというか、緊張感のないとぼけた声だった。つい視線をさまよわせてしまったが、声の主が見当たらない。はて、と思っていると男が不満そうに玉座に視線を向けた。

「しかし、陛下。見かけに騙されて龍族にあだなすものを懐に置いては、御身を滅ぼすことにもなりましょう」

「宰相閣下は神経質だねえ。小皺が増えるんじゃないかい? 私以上にくしゃくしゃになった君を見るのも面白そうだけどねえ」

「陛下」

 血管切れそうになっている男をものともせずに、のほほんとした声が夏妃を呼んだ。

「さあさあ、娘さん。近くで顔を見せておくれ。玉座の前までおいで」

 玉座? と空にしか見えない檀上を見る。宰相閣下であったらしい群青の髪の男を見れば、舌打ちしそうな顔で夏妃を促した。

「来い、娘。陛下をお待たせするでない」

 来いと言われれば行くしかなく、疑問符で頭の中をいっぱいにしたまま一人で進み出る。檀上に上がる階段まで数歩を残して立ち止まると、仰ぎ見る玉座から「よいしょ」と声がして小さな影が動いた。思わず、口がぽかんと開いた。

 ちょこちょこと夏妃の前までやって来たのは、好々爺を絵にかいたようなにこにこと目元を緩めた老人だった。ただし、多少腰が曲がっていることを考慮に入れても、ものすごく小柄だ。玉座の前に置かれた卓よりも低い位置に白髪はくはつの頭があり、一段高い壇の上に立っていてなお夏妃よりも目線が低い。

 失礼なのは承知だけど、恐れ多いのはわかっているけれど。控えめに言っても、だいぶ可愛らしすぎる。

 唖然としている夏妃を微笑ましそうに見て、龍王陛下は柔らかな藤色の瞳を細めて仰った。

「はじめまして。私は龍の王、レゲラーティオ。気軽にレグって呼んでよ、なっちゃん」

 …………。

 それはちょっと。いきなりハードル高すぎですよ、龍の王様。

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