Ⅴ.陰謀と王子様
1
城の正面に続く最後の階段は今までで一番の急傾斜で、疲労困憊の夏妃の目にはほとんど壁のように見えた。それを登り切った時には、達成感で思わず「やった……!」と声をあげてしまったほどだ。ふもとと同じ石の柱が並んだ門に立つ男たちに驚いた視線を向けられたが、気にとめる余裕もなかった。
被りっぱなしだったフードが蒸し暑く、取りたくても取れないのがもどかしい。へたり込みたいのを堪えて、膝に手を当て息を整えていると、エルヴァの声とともにフードの上から頭を撫でられた。
「正直、初めてで予定通りに着けるとは思っていなかった。よく頑張ったね」
「お疲れ様。あとのことは我々の仕事だ。会議まではゆっくりできるだろう。部屋に案内してもらいなさい」
バザルトも労ってくれる。彼の言伝を受けたサブルムが頷いて、先導してくれた。遅れてウィルも付いてきて、並んだ彼にまだ少し荒い息で尋ねる。
「……エルヴァさん達は?」
「会議に向けた打ち合わせや手続きで、まだ多忙なんだよ。会議が終わるまでは、あまり話す時間も無くなるかもね」
「え、そうなの?」
長い行程を終えたばかりだというのに、休む暇もないのか。自分だけ休んでもいいのかと戸惑っていると、表情を読んだらしいウィルが安心させるように言った。
「無事に城に入った報告が済めば、村長たちも今日くらいは休めるよ。それに、彼らはここに通い慣れてるから、そんなに疲労もないだろう。ナツキの方こそ今にも倒れそうだよ。今日はちゃんと一人部屋だから、しっかり休んで」
やっぱり昨日の件で、気を遣わせてしまっていたようだ。ばつが悪くて肩を縮める。
「ご、ごめんね。私が勝手にぐるぐるしてるだけなのに」
「大丈夫。女の子なんだから、男と同室で気まずいのは当たり前だ。気にしないから、ナツキも気にしないで」
そう言われると、頷くほかにない。結局うやむやのまま、部屋の前に着いてウィルとは別れた。
客室なのだろう、綺麗に整えられた部屋は、これが岩山から作られたものとは思えないほどに立派なものだった。本物の天蓋付きのベッドなんて初めて見る。幾重にも重ねられた柔らかなマットと寝具で寝心地は異常なまでに良さそうだった。逆にこんなところで眠れるか不安になってきた。
部屋を見渡すと、机や椅子にクローゼットなど必要な家具はすべて揃っているようだ。それでも空いた空間で端から端まで転がれるくらいには広い。絨毯もふかふかだし、化粧台の鏡もぴかぴかに磨き上げられている。
それでも寒々しいほどの心細さを感じるのは、部屋が石造りだからという理由だけではないだろう。村でも宿でも、ここまで他人の気配のない場所にいた経験がなかった。落ち着かずに、ベッドの端に座ったり立ったりしているところに、ノックの音が響いた。
「は、はい!」
答えると、失礼いたします、と丁寧な声が聞こえ、若い女性が入ってきた。シンプルなお仕着せを着た彼女は、夏妃の世話を任された者だと告げた。どうやら専属のメイドさんのようである。またもややって来た非日常に緊張して、ぎこちない動作で「よろしくお願いします」と頭を下げた。
彼女は、着替えはクローゼットにあるので自由に使ってほしいこと、食事の時間は決まっていて、部屋でも専用の食堂でもとれることなどを説明し、次いで鈍い金色の鍵を夏妃に差し出した。
「こちらは、このお部屋の鍵でございます。私どもの管理する合鍵もございますが、複製のきかないものですので、大切にお持ちくださいませ」
精緻な唐草模様が刻まれた鍵は、いかにもドラマや映画に出てくる豪奢な洋館の鍵、といった風だった。いかにも高価そうな代物で、かなりのプレッシャーを感じた。
ふとミカにもらった銀守りを思い出して、あれにつけて一緒に首から下げておこう、と決める。鍵を見れば、ちょうどよく紐を通せそうな穴も開けてあった。
替えのない重厚な鍵。マスターキーの他には扉を開ける手段はなし。密室で事件が起きそうなシチュエーションだ。
……冗談にしても笑えないけど。
「それから、このお部屋を出ていただいて右手の渡り廊下の先に、共同の浴場がございます。こちらはいつでもお使いいただけますので、ご自由にどうぞ」
浴場、と聞いてひらめいた夏妃は、勢いよく食いついてしまった。
「それって、温泉ですかっ?」
メイドさんは一瞬目をぱちくりさせたが、すぐに笑顔で頷いた。
「はい、もちろんでございます。ナツキ様もお疲れでしょう、準備いたしましょうか?」
心の中で喝采を上げながら、夏妃は一も二もなく頷いた。
大理石に似た光沢のある石造りの湯船には熱いお湯が沸き、壁や柱には綺麗な模様が掘り込まれた浴場は、さすがはお城、と言えるものだった。泉質が違うらしくいくつかの種類の湯船があって、夏妃はすべて制覇してすっかりご満悦だった。
ちなみに、「お手伝いいたしますか」というメイドさんの問いにしっかり首を振ったので、お約束の『身ぐるみはがされて云々』な展開は避けられた。恥ずかしいのもあるが、髪を見られるわけにはいかないというのもある。部屋も覚えたので大丈夫です、と言ったので浴場からの帰り道は一人だった。
しかし、そういうサービスって男湯の場合もあるんだろうか。と身近な男たちで想像してみたけれど……、想像を頭が拒否したので考えるのをやめた。エルヴァは美女をはべらす図がやたら似合いそうな気がするのだけれど、たぶん、気のせいだ。深く考えちゃいけないと思う。
それにしても、風呂上りに用意されていた衣服一式のサイズがぴったりなのが謎だ。城が用意するとは言っていたけれど、夏妃の体格は龍族に照らし合わせるとかなり小柄な部類に入る。サイズを網羅するのは大変なことだと思うのだが、どうなんだろう。
と考えるうちに、空色のワンピースにフードの付いたレース飾り付きボレロ、というやや乙女チックな自分の格好を見てはたと気が付いた。
こ、子供服か!
確かに、龍族的に見た目が十歳そこそことなれば妥当だし、サイズが合った理由も納得がいく。……いくのだが。
気分的にショックを隠し切れずに呆然と足を止めてしまった夏妃は、突然響いた切羽詰まった声に反応できなかった。
「お前、そこをどけ!」
「……は?」
声はすれど、姿はなし。夏妃が右を見て、左を見て、上を見上げると同時に何かが降ってきた。
衝撃に声も出せずに潰された夏妃の上で、苛立った声が言った。
「だからどけと言ったのに。ぼうっと廊下に突っ立っている奴があるか」
「な、なんでもいいから早くどいて……」
息も絶え絶えに訴えると、ようやく背中に乗っかった重みが失せる。転んだ拍子にぶつけた肘が痛い。視界がちかちかした。
「おい、怪我はないか? お前……」
と、何か言いかけた声が途切れ、息をのむ気配がした。肘を押さえつつ涙目で顔を上げると、正面に片膝を立てて座る相手と目が合った。
表情を固めて夏妃を凝視しているのは、同じくらいの年頃の少年だった。プラチナブロンド、というのだろうか。髪は陽光に透ける淡い色で、瞳は澄んだアイスブルー。日に焼けたことなどなさそうな白磁の肌と合わさって、現実離れした雰囲気を持っていた。ようするに、ものすごい美少年だ。
……なんだこれ。すごいきらきらしてる。
夏妃まで息をつめて見つめ返している間に、遠くからばたばたと騒々しい足音が聞こえてきた。先に我に返ったのは少年の方で、彼は人形のように整った顔をしかめて舌打ちし、立ち上がるなり夏妃の腕をつかんだ。
「来い」
「え? なんで?」
「声を出すな」
鋭い声は命令することに慣れている者のそれで、つい口をつぐんでしまう。彼は渡り廊下の手摺を乗り越えると夏妃に手を貸して、そのまま脇の木立の中にしゃがみ込んだ。もちろん引っ張られた夏妃も同じ場所に押し込まれ、腕を枝に引っかかれて眉を寄せた。
抗議しようと口を開く前に睨みを利かせられて、声がまた引っ込んでしまう。やがて近づいてきた足音とともに男たちの焦ったやり取りが聞こえ、少しするとまた遠ざかって行った。
足音が完全に聞こえなくなると、隣の少年が息をつくのが聞こえた。どうやらあの男たちが探していたのはこの少年のようだ。
「……なにをしたの?」
彼の品の良い服装を見るに、泥棒とか侵入者の類ではなさそうだったが、後ろめたいことがないなら逃げる理由もないだろう。少年はちらりと夏妃を見て、「お前には関係のないことだ」とつっぱねた。
人を巻き込んでおいて、関係ないとは。
「あっそう。じゃあ、私はこれで」
むっとした気分のまま立ち上がろうと足に力を込めたが、腕を引き戻されてまた尻もちをついた。借り物の服だというのに、傷めてしまったらどうしてくれるのだ。彼を睨みつけて、とげとげしい態度を隠さずに言った。
「なんなの。私は関係ないんだから行かせてよ。それとも、大声でだれか呼んでみましょうか?」
嫌味を込めて言うと、少年も睨み返してきた。
「お前こそ、皆に知れてもいいのか」
意味が分からず眉を寄せる。少年は夏妃の肩に手を伸ばし、髪をすくって口の端を上げた。
「お前、『黒色』だろう?」
目を見開き、慌てて頭に手をやるとフードが完全に取れていた。唖然として少年を見る。
彼は髪から手を離すと、じっと夏妃を見据えた。
「まさかとは思ったが、本物のようだな。王に対面に来たのか?」
訊ねられても、動揺のあまり思考が働かない。とにかく彼を口止めしなくては、という一心で彼の腕をつかんだ。
「誰にも言わないで。私を助けてくれたひと達に迷惑がかかるの」
「ここへ来るのに手を貸した者がいるのか。どこかの長か?」
言いよどみ、視線を伏せる。
「それは、言えない。迷惑になるかもしれないことは勝手に話せない」
「そう言われてもな」
半ば呆れた顔の彼に向かって、深く考えないまま手を合わせて懇願する。
「お願い。黙っていてくれるならあなたのことも誰にも言わないし、何でもする。約束するから」
子ども相手にも通用しないだろう言葉しか出てこない自分が情けない。手を膝の上に落として握りしめていると、ぽつりとつぶやく声が耳に届いた。
「約束……」
「え?」
顔を上げると、至極真剣な顔の少年と目が合う。彼は何故か熱のこもった口調で言った。
「約束するのか? これは私たちだけの秘密なのだな?」
えええ。なんだろう、この食いつき。しかも、彼のきらっきらした顔にはなんだか既視感を覚える。仔犬に懐かれたみたいな、なんとも邪険にしづらいこの感じ。
今までの仏頂面が嘘のように生き生きしだした少年は、夏妃の腕を掴んだままやけに重々しく頷いた。
「わかった。お前のことは誰にも言わない。その代わり、しばし付き合え。ただ隠れているのもつまらぬからな」
「え……。まあ、はい」
急に機嫌がよくなった理由はさっぱりわからないが、とりあえず口止めには成功したようだ。ようやく肩の力が抜け、少年の隣に座る。
さて、付き合えというからには話でもした方がいいのだろう。彼が追われていた理由は聞いても教えてくれないだろうし、と話題を考えながら口を開く。
「ええと、私は夏妃。あなたの名前は?」
「ユウェルだ。だが、お前には愛称で呼ぶことを許す。私のことはユウと呼べ」
許すとか、何様なんだか。確かに王子様のような見た目ではあるけれど。
まあ噛みついても仕方ないので曖昧に頷いておく。
「ユウは、このお城のひと?」
今この城には各地の長が集まっているというから、その関連の者という可能性もなくはない。だが、彼の雰囲気を見るとそういう風でもない。なにより、殊勝にあの険しい山道を登ってくるような性格ではないだろう。
ユウはにやりという形容がふさわしい笑みを作り、夏妃を見た。
「まあな。いずれ会議が始まれば互いの身分もわかるだろうから、今は秘密だ」
やけに楽しそうにそんなことを言う。なんというか、最初のイメージとは違ってずいぶんと子どもっぽい言動をするんだなあと不思議に思う。
「ユウはいくつ?」
なんとなく聞くと、彼は何故だか誇らしげに胸を張った。
「今年で六十歳だ。誕生月はまだ先だが、もう一人前の龍だといっても過言ではない」
わあ、還暦ですか。その揺るぎない自信がどこから来るのだかは疑問だが。
ええと、龍の齢は人間の五倍だから、人間に換算すると割る五で十二。へえ、じゅうにさい……。
「って、ええ!?」
信じられない思いでユウを上から下まで眺めた。
まばゆいまでの華麗な色彩に、整った顔立ち。さっき立っているときは夏妃より背丈もあった。なのに、これで十二歳。いや、まだ誕生日が来てないというんだから十一歳か。
世の小学生に喧嘩を売っているとしか思えない。
「なんだ、大声を出すな」
顔をしかめたユウを見て、つい本心が零れ落ちた。
「いや、私と同じくらいかと思ってたから……」
「お前と!? ナツキはどう見たって五十歳前後だろう。不本意だ、撤回を要求するぞ!」
そういえばこちらの基準で見た夏妃はお子様なのだった。
相手が同い年くらいに見えるということは、つまりはこういうことらしい。……虚しくなってきた。
「はいはい、ごめんなさい。撤回します。ユウは一人前の龍にしか見えません」
さっさと白旗を上げると、ユウはまだ不満そうに鼻を鳴らした。しかし、彼が文句を続ける前に、夏妃を呼ぶ必死な声が聞こえてきた。
この城に女性の連れはいないはずだが、聞き覚えのある声だな……と考えて思い出す。お付きのメイドさんだ。
そういえば浴場に入ってから大分時間が立っている。迎えに来て、夏妃の姿がどこにもないことに気が付いたのだろう。
「お前付きの女官か」
「そ、そうみたい。行かなきゃ」
ユウは焦る夏妃を、今度は引き止めなかった。服をひっかけないよう気を付けながら木立を出たところで、まだ隠れたままの彼が夏妃を呼んだ。いたずらっ子の笑みで微笑む。
「またな」
……また、って。またこんなことがあるのはごめんなのですが。
言い返す間もなく庭にいる夏妃を女官が見つけ、慌てて平謝りするはめになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます