Ⅳ.旅立ちと王都

1

 黄金色に染まった植物の穂が揺れる。空が高く、頭上を雲がのんびりと流れていく。夏の景色とはもうずいぶん様子が違う。季節はすっかり、秋になっていた。

 夏妃は、パンの最後のひとかけらを口の中に入れて立ち上がると、小川に近づいた。靴の下でごろごろする石に足を取られないように注意しながら、水際にしゃがみこんだ。

 川面は日射しを反射してきらきらしていて、つい触れてみたくなる。手を浸すと、ひんやりした水がさらさらと手のひらを撫でて流れていった。小川は、川底まではっきりと見えるほど澄んでいる。

「こんなにきれいな川って見たことないかも。ねえ、この水って飲めるかな」

 手を浸したまま振り返り、連れを呼んだ。彼はどこからか流されてきたものなのか、大きな流木に座って地図を広げていた。夏妃の声に顔を上げ、首を傾げた。

「うーん、海からは離れたし、近くに集落もないみたいだから大丈夫かな? あ、でも上流に温泉があるからあんまり飲むには向かないかも」

「温泉? あるの?」

 後半は地図に目を落として答えたウィルの言葉に、つい声が弾んだ。

 手の水を切って彼の近くに戻る。地図を横から覗き込むと、彼はその一画を指差した。

「この辺り一帯は温泉の湧く地形なんだよ。王都も一部入るね」

「へえー。じゃあ、もしかしたら入れるかもしれないね」

 異世界の温泉かー。楽しみだなーと思っていると、ウィルが笑った。

「ご機嫌だね、ナツキ。今朝はかなり戸惑ってたみたいだったから心配してたけど、楽しそうでよかった」

 夏妃は呆れて、のほほんとした彼の笑顔を見た。

「あんなの、戸惑うに決まってるじゃない。だいたい、遠出するその当日に話すなんて非常識だよ」

「そっか。ごめん」

 にこにこと謝る彼に、誠意が見えない、なんていっても無駄なことはもうわかっている。




 今朝のこと。

 夏妃はこつこつと、窓をたたく音で目を覚ました。寝ぼけ眼で体を起こし、ベッドの枕元にある窓を振り向いた夏妃は、目を見開いた。

「な……」

 驚いた、なんてものじゃない。かよわいお姫様でもないというのに、あやうく気を失うところだった。窓の外から覗き込んでいるのは、巨大な龍の顔だったのだ。

 悲鳴を上げる直前で、見覚えのある焦げ茶の瞳に気が付く。一気に力が抜け、その眼をじっと見た。

「ウィル、だよね?」

「そうだよ。おはよう、ナツキ」

 いたってのんきに挨拶され、それどころじゃない、と相手を睨む。

 目が覚めるなり、こんな巨大生物に出くわしては寿命が縮む。文句を言おうと窓の前に立つと、それより先にふと疑問が口をついた。

「なんか、珍しいね。森の巡回以外で変化へんげしてるとこなんて、見たことないのに」

 しげしげと翡翠色をした巨体を仰ぐ。そもそも、休憩時間に会うだけだから、巡回のときでさえ彼の変化は目にしたことがない。こうして見るのは、初めて会ったとき以来だった。

 しかし、見れば見るほど不思議だ。変化といっても体積も外見も明らかに変わりすぎだし、どういうからくりなのか、はなはだ疑問だった。宝石みたいにつやつや、きらきらした鱗をじっと見ている夏妃を、ウィルが不思議そうに呼んだ。

「ナツキ?」

「え? ああ、ごめん」

 触ってみてもいいかなあ、などと考えていた思考を引き戻され、夏妃は彼の顔に目を戻した。と言っても、視界いっぱいの大きさのそれのどこを見ていればいいのかわからない。

「ねえ、変化解かないの?」

 窓ぎりぎりまで頭を下ろしてくれているとはいえ、見上げているのに変わりはないので首が痛い。それに、彼のほうも平屋の窓に合わせたこの不自然な体勢はきついと思うのだが。

 しかし、彼は小さく首を振った。

「いや、ちょっと急ぎだからこのままで」

「急ぎ? 何かあったの?」

 まさか緊急事態か、と顔をこわばらせた夏妃を安心させるように、ウィルは穏やかに言った。

「深刻なことじゃないよ。早朝に、村長に知らせがあってね。定例の報告会の日時が決まったんだ」

 報告会。龍の王と各地の長たちが開くという、年に二度開かれる会議のことだ。この秋の会議では、夏妃のことについても報告されることになっている。

「会議は三日後、王城で行われる。村長は知らせを受け取ってすぐに王都に発ったよ。俺たちもそれを追う」

「ま、待ってよ。まさか今日?」

「うん。今から」

 あっさり言われても、心の準備が。

 というか、開催も三日後なんて急すぎる。それで出席者が全員そろうのだろうか。

「だって、着替えとかいろんな仕度とか、どうするの?」

 ウィルはぱちぱちと瞬きして、ああ、とやっと気が付いたみたいに答えた。

「なんの仕度もいらないよ。着替えとか諸々は王城で用意されるから心配いらない。手続きに必要なことは村長がやってくれるし、俺たちは身一つでいいんだよ」

「ええー……?」

 ありがたいことはありがたいが、なんともおおざっぱだ。

「でも、王都に着くまでの間とか……」

「俺たちが変化して飛べば、途中休憩をはさんでも夕方になる前には余裕で王都に着くよ。シルエラが弁当を用意してくれてるし、ちょっとした散歩だと思えばいい」

 納得いかずに食い下がってみたが、またもあっさりと退けられた。

 散歩って……。いくらなんでも能天気すぎる。

 脱力した夏妃の様子をどう取ったのか、ウィルは慌てて付け足した。

「あ、もちろんナツキは変化できないし俺が連れてくよ。大丈夫、ゆっくり行くから怖くないって」

「いや、そういうことじゃなくて……。まあ、いいや」

 ついには諦めて、身支度をすることにした。

 顔を洗い、オレアのお下がりの中で一番気に入っている、シンプルな深緑色のワンピースタイプの服に着替えた。続いていつもの肩掛けかばんに最低限必要なものを詰め込んでいると、ふと棚に入っている小さな冊子が目に入った。

 あの夕立の日、肌身離さずかばんに入れていたせいで、一緒に川に落ちてしまった教科書だ。シルエラが丁寧に乾かしてくれていたが、ふやけてよれよれになってしまったそれ。夏妃は手に取りかけ、やめた。タンスの奥にしまった制服にも手を付けず、引き出しを閉める。

 元の世界とのつながりは、どうしても捨てられない。それでも、縋り付いてばかりもいられないことを、今はもうわかっていた。

 そして大切なそのつながりは、ウィルと暮らすこの家に残していくことがふさわしく思えた。ここもまた、自分の帰る家だから。そう決めた。

 夏妃はかばんをかけて部屋を出る。短い廊下を抜けて玄関を出ると、巨大な龍の姿のウィルとともに、籠を手に持ったシルエラが待っていた。

「おはようございます、シルエラさん」

「おはよう、ナツキ。急なことだけど、気を付けていくんだよ」

 挨拶を交わし、軽食が入っているという籠を受け取る。お礼を言う夏妃の肩に、シルエラは真剣な顔で手を置いた。

「村長やうちの旦那もひと足先に行ってるし、大丈夫だとは思うけどね。何かあったらウィルを盾にして逃げるんだよ。いいね」

「盾にするんだ?」

 苦笑する気配のウィルを見て、彼女は当然とばかりに頷いた。

「そうだよ。あんたは火でも水でも槍でも魔術でも、ナツキの代わりに受け止めな。でなきゃ私が許さないからね」

「どっちにしろ、俺だけひどい目に合うんじゃないか……」

 ……それが、旅立ちの顛末てんまつ




「あとどのくらいで着くの?」

 地図をたたみ始めたウィルに問いかけると、彼は少し空を見上げて答えた。

「うーん、太陽の位置からして今が昼前くらいだから……。あと二時間と少しってとこかな」

「そんなに……」

 ちょっとげんなりしてしまう。

 村のあるシルウァ島を朝に出発して半日ほど、ここまで変化したウィルに連れてきてもらったわけだが、なかなか過酷な道中だった。

 はじめは龍に乗れるなんてそうそうない、と内心浮かれていたのだが、実際乗ってみてわかった。正直言って、あんまり乗り心地がよろしくない。

 そもそも、人間が乗る生き物じゃないのだから仕方ないのだ。鱗がつるつるで掴みどころがないのも、高空を飛ぶために手がかじかむのも、大きな翼の羽ばたきで落ち着かないのも。

「でも、せめて鞍くらいほしいなあ……」

「え?」

「なんでもない」

 冷たく硬い鱗の上に長時間乗っているとお尻が痛いのだが、さすがにそんなことは言えない。馬扱いなんかしたらさすがに怒るだろうし。いや、怒らずにへこむか、彼の場合。

 それにたぶん、これ以上を望むのは贅沢というものだろう。だいぶ最初のほうで音を上げて、普通に地上を歩いていけないのかと聞いてみたのだ。その答えは、「できなくはないけど、俺たちの足でも二ヵ月はかかるよ」とのこと。

 ……なるほど。高速旅客機ウィル万歳。時間を買うには多少は我慢も必要だ、と耐え忍ぶことを決意したのだった。

「じゃあ、そろそろ行こうか」

 立ち上がったウィルにそう宣言されると、つい腰が引けるくらいには苦行の空の旅。まだ先は長い。

 平和な秋の空を見上げて、こっそりため息をついた。

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