6

 村にようやく帰ってきた夏妃は、村長の家に連れて行かれて食事や入浴で散々シルエラに世話を焼かれた後、オレアたち若夫婦の部屋のベッドを借りて眠った。

 夜通し満足に眠れず、疲れ果てていたこともあって、枕に頭をつけるなりすぐに意識がなくなった。次に目を覚ました時には、窓の外はもう日が傾き始めていた。

 ぼんやりと毛布にくるまったまま窓の外の空を眺めていると、くぐもった怒鳴り声が聞こえてきた。これは、シルエラのものだ。今度ははっきりと目が覚め、ベッドから降りて枕元に用意してあった衣服に着替える。

 寝室のドアを開けると、よりはっきりとシルエラの声が聞こえた。

「まったく、情けないよ、私は。いい年をした男どもがこそこそと、女の子を寄ってたかっていじめてたなんて!」

 これはどう考えても夏妃のことだ。慌てて廊下を進み、声のする客間のほうへ急ぐ。そのドアの前で、オレアが困り果てた顔をしていた。彼女は夏妃に気付くと、表情を和らげて微笑んだ。

「あら、おはよう。調子はどう?」

「大丈夫です。ありがとうございます。あの、シルエラさんは……」

 オレアは頬に手を当てて苦笑した。

「これまでの経緯をウィルやおじいさまに聞いたお義母さまが、怒り心頭でね。すごい剣幕で、だれも仲裁できないのよ」

「そんな……。私のせいなのに」

 うつむくと、オレアは首を振る。

「いいえ、私もお義母さまに賛成よ。女の子を泣かせる男なんて最低だわ。あの人たちの自業自得です」

 笑顔でさらりとそう言い切った。

 おっとりさんだと思っていたが、意外とはっきりものを言う。気性はむしろシルエラに近いのかもしれない。彼女をうかつに怒らせるような真似は避けよう、とこっそり胸に刻む。

「とりあえず、入ってみても大丈夫ですかね……?」

「あら、意外にたくましいのね、ナツキちゃん。じゃあ、このお茶もお願いしていいかしら」

 ごく自然に抱えていたトレーを押し付けて、助かったわぁと言いながら行ってしまった。

 うん。やっぱり一筋縄ではいかないタイプだ。

 なんとなく敗北感を覚えながらドアを押し開けると、奥のテーブルセットにウィルとエルヴァが座り、シルエラが仁王立ちでこちらに背を向けていた。夏妃に一番最初に気付いたのはエルヴァで、彼は心底ほっとしたように笑みを見せた。

「ああ、ナツキ。もう身体はいいのか?」

 その途端、シルエラが振り向き、一気に甘やかす声になって駆け寄ってきた。

「起きて大丈夫かい? もっとゆっくりしていてもよかったのに」

「いえ、さすがにこれ以上は体に悪いと思うので。これ、お茶です」

「すまないね」

 エルヴァが立ち上がり、トレーを受け取る。それをテーブルに置くと、夏妃に長椅子を示した。

「座らないか。話したいこともある」

「ちょっと、これ以上この子に何を……」

 また臨戦態勢に入ったシルエラを、エルヴァが静かにさえぎった。

「シルエラ。確かにお前の言うことはもっともだが、これは私たちとナツキの問題だ。ナツキが私たちを許せず、罰したいというなら従おう。だが、お前がこの子を囲ってしまったら歪むものもある。わかるな」

 シルエラは何か言い返したそうだったが、結局は息を吐くだけで頷いた。

「……そうだね。私は出てるよ、ここにいたら口をはさんじまう」

 部屋を出ていくシルエラを、夏妃は呼び止めた。

「シルエラさん。ありがとう」

 彼女は振り向き、力強く微笑んだ。

「また泣かされたら呼びなさいな。私がぶん殴ってやるよ」

「うん。でも大丈夫、自分でなんとかするよ。一回くらいむかつく相手を殴ってみたいし」

 その意気だよ、と笑ってシルエラは部屋を出て行った。

 ウィルがわざとらしく肩をすくめた。

「怖いなあ。ナツキまでシルエラに似てきたよ」

「あれ、だめかな。強くてかっこいいじゃない、シルエラさん」

「そう言われると、男としての俺の立場がないんだけど……」

 急に落ち込んだウィルの向かいに腰かけて、お茶をそれぞれに配る。たぶんシルエラのためのものだったが、一組をもらって自分の前に置いた。

 いただきます、とお茶を一口飲んだところで、エルヴァが口を開いた。

「ナツキ、君には本当に申し訳ないことをした。許してほしい」

 頭を下げたエルヴァに戸惑っている間に、ウィルも続けた。

「元はと言えば、このことを持ち出したのは俺だったんだ。ごめん」

 大の男二人に頭を下げられて、夏妃は慌てた。カップを置いて、おろおろと腰を浮かせる。

「あ、あの、許すとかどうとか以前に、私こそ謝らなきゃいけないし……。っていうか、もうお互いさまじゃないですか」

「もう許すの? ナツキこそ甘いんじゃない?」

 ちらりと顔を上げて笑うウィルに、少しむっとする。

「どっちが。私、まだティリオのことで謝ってないし」

「そのことで君を責めるつもりはないよ。勝手に森に入ったあの子を助けてくれたのはナツキだ。ナイフのことも聞いたが、あの子自身が気にしていないんだ。君に感謝こそすれ、咎める者は誰もいない」

 顔を上げたエルヴァがそう言い、夏妃は途方に暮れた。

「感謝って……」

 ここまで好意的に解釈されてしまうと気後れする。しかし、文句を言うわけにもいかないし、このままでは謝り合戦で収拾がつかない。夏妃は、食い下がりたい思いを飲み込むことにした。

「……わかりました。みなさんが私を許してくれるなら、それと相殺で私もふたりを許します。これでおあいこですよね?」

 エルヴァとウィルは顔を見合わせ、苦笑した。

「なるほど。それなら私たちもこれ以上しつこくは言えないな」

「そうですね」

 ほっとして、椅子に座りなおす。もう一度両手でカップを包み込みながら、彼らを見た。

「だいたい、私だって謝られる理由はないですよ。ふたりは私を心配してくれたんでしょう?」

 少し甘い香りのする、濃い色のお茶の水面を見つめながら唇をかんだ。

「それなのに、私は自分のことばかり考えてました。本当に、最低」

 自己嫌悪を込めて呟く夏妃を、エルヴァがやわらかな声音で呼んだ。顔を上げると、金緑色の眼がじっと見つめていた。自然と背筋が伸びる、彼独特のまなざしだった。

「自分のことを優先しちゃいけないなんてことはないさ。君は君を大事にしていい」

「でも、もっとしっかりしないと、私……」

 言葉がしぼむ。エルヴァの瞳はどこまでも優しかった。

「そんなに気負う必要はない。別に王様になるわけじゃないんだ。君が責任を持たなきゃならないのは、自分の命ひとつ。その責任をまっとうする以上の義務なんかないと、私は思うよ」

「命ひとつ……」

「そう。君だけの大事な宝物だ。誰にも譲ってはいけないし、誰かと比べなくていい。悩んで、時間をかけて、一秒一秒まで大切に使いなさい」

 なんだか、泣きたい気持ちになった。指の先まで温まる心地がする。声が出せず、頷くので精いっぱいだった。

 言葉がなくても、気持ちが通じているのがわかる。オレンジ色の光が射す部屋の中は、ひどく居心地が良かった。

 やがて、甘い匂いとともにシルエラが部屋に戻ってきた。これは、と思い振り返ると、ずかずかと近づいてきた彼女は大きな皿をテーブルの真ん中に置いた。男二人の表情が凍りつく。

「これは……」

「もしかして……」

 もしかしなくても。

 シルエラは満面の笑みで腰に手を当てた。

「私も何とか解決策を見つけようと思ってね。これでふたりを許すことに決めたのさ」

 確かに、彼らには大きなダメージになったようだった。

 夏妃には懐かしい、シルエラお手製の黒キルシェのケーキがそこに鎮座している。しかも、ワンホール丸ごと。

「これ全部、食べるの? 丸ごと?」

 心なしか涙目のウィルがシルエラを窺う。エルヴァはすでにあきらめ顔で彼の肩をたたいた。

「まさか嫌だとは言わないだろうね?」

 完全に悪役の顔でシルエラが言う。夏妃は、こらえきれずにお腹を抱えて笑った。

「さすが、シルエラさん。今度ケーキの作り方教えてください。殴るよりも効果がありそうだもの」

「ここに小さいシルエラがもうひとり……」

 げんなりした顔のウィルが頭を抱える。その彼に、シルエラがとどめを刺した。

「そうそう、ウィル。今回のことはコルナリナに伝えるからね。詳しく、徹底的に」

 力を込めて言われ、彼は声もなくテーブルに突っ伏した。心底憐れむ顔のエルヴァが、また彼の肩をたたく。いったいどんな女性なんだろう、コルナリナさん。ものすごく興味がある。

 嬉々としてケーキを切り分け始めたシルエラの後ろを通りぬけて、ウィルの隣にしゃがみこむ。突っ伏したままの彼に訊いた。

「ねえ、腕の怪我はいいの?」

 彼は顔を横向けて、包帯を巻かれた腕を持ち上げて見せた。

「ぶちぶち文句言いながらも、ちゃんとシルエラが手当てしてくれたよ。ひと月もあれば完治する」

 よかった。安堵の息をつく。もうひとつ伝えたかったことを、両手を口に添えて彼の耳元に囁いた。

「あのね。さっきまで眠ってた間、あの夢を見なかったの」

 たまたまなのか、もう見ないで済むのかはわからない。それでも。

「そうか。よかった」

「ほら、ナツキも座りな。いま、ティリオたちも呼んでくるからね」

 笑って頭を撫でてくれる体温と、優しく夏妃を呼んでくれるあたたかな存在が支えてくれるから。

 夏妃はこの場所で、笑っていられるのだ。

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