5

   ◆◆◆


 暗闇を本気で怖いと思ったことは今までなかった。

 幼い頃はそこに得体のしれない何かが潜んでいると信じてやみくもに恐れていたけれど、次第に闇は闇だと学んだ。今は見えなくても、そこにあるのは昼間と同じ景色だけ。

 だから、怖くはない。暗いのなら明かりを灯せばいいし、出口を探して外に出ればいい。逃れる術があるものを怖いとは思わない。

 では、見知らぬ場所で出口のない暗闇に放り込まれたとしたら。それは、耐えられる恐怖だろうか。


   ◆◆◆


 目を開けると、ごつごつした岩肌が見えた。わけがわからず体を起こそうとすると、視界にウィルの顔が割り込んできた。

「よかった、大丈夫?」

 彼の銀緑色の髪から、夏妃の頬へ滴が落ちる。しかも、息がかかるほど顔が近い。のけぞって、起こしかけた頭を硬い地面にぶつけた。白い火花が見えた。

「……大丈夫?」

「……じゃない」

 涙目で後ろ頭を押さえながら、彼をどかして体を起こした。見ればお互い全身ずぶ濡れだ。

 岩のくぼみのような場所にいるらしく、雨は当たらない。外はまだ本降りの雨が続き、少し遠ざかった雷鳴が聞こえた。

「どこか痛むところはない?」

 腕や足を確かめて、頭をさすりながら頷く。

「うん。今ぶつけた頭以外はなんとも」

「そっか。目が覚めてよかった。川に落ちる前に気を失ってたから、水は飲んでないと思うけど、心配したよ」

 言われてみれば、口の中がなんだか気持ち悪いし胸がむかむかするが、支障はない程度だ。

 ということは、こういう時にお約束のやむを得ず人工呼吸、みたいな展開はなかったわけか。整ったウィルの顔を見ていると、残念なような、ほっとしたような。

 ずれたことを考えかけ、我に返る。やっと、今の状況を思い出した。

「あ、あれ? 確か崖から落っこちて……」

「そう。あの雨で増水して、岩が隠れていたから助かったよ。いつもの水位だったら、大怪我くらいじゃ済まなかったかもしれない」

 崖の上から眺めた谷川と、落ちる時の浮遊感を思い出して身震いする。シャツの裾を絞るウィルを見た。

「かばってくれたの?」

「俺はこの川で泳いだこともあるし、地理もわかる。こうしてちょうどいい岩のくぼみも見つけられたし」

「だからって……」

 言いかけて、彼の左腕が目に入る。手首の少し下から肘のあたりまで、刃物で切ったような傷口があった。ぞっとして、声が大きくなる。

「怪我してるじゃない!」

「ああ、これ?」

 彼はなんでもないことのように自分の傷を眺めた。

「見た目は派手だけど、浅いから大丈夫」

「でも、血が」

「そのうち止まるって」

 のらりくらりとした彼の態度に、唐突に何かがぶちっと切れた。ウィルの左手をつかんで、ぎっと睨む。どすの利いた声が出た。

「いいから腕を出しなさい」

「……はい」

 怯んだウィルが急に大人しくなった。どんな顔になっていたのか自分ではわからないが、とにかく傷の処置にかかる。

 夏妃はびしょ濡れのかばんからハンカチを取り出し、傷の上に当てて押さえた。保健の授業で教師が言っていたことを必死に思い起こす。

 出血したときの応急処置で大切なのは、とにかく出血部位を押さえること。これにまさる止血方法はないと教師は言っていた。映画などでよく見る根元を縛る行為は、素人が行うと指の壊死などのリスクも伴うのだという。

 抑えるうちにハンカチに血がにじんでくる。確かに命に係わる大怪我ではないかもしれないが、これは夏妃のせいで彼が負った傷だ。申し訳なさで声がかすれた。

「ごめんなさい……」

 疑って、身勝手に脅して、怪我までさせて。彼には迷惑をかけてばかりだ。

 ウィルは夏妃を見下ろして、厳しい声音で言った。

「どうして謝るの。ナツキは、ティリオをかばったことを後悔してる?」

「そんなわけない!」

 とっさに顔を上げると、ウィルは表情を和らげて頷いた。

「わかってるよ。それは、俺も同じだ。だから、俺はナツキをかばったことは謝らない」

 そして彼は、夏妃から視線を外して息をついた。

「……でも、こんなことになったのは俺のせいだな。ごめん」

 夏妃は驚き、傷口を押さえる手を外しそうになって慌てて当てなおした。

「な、なんで? ウィルのせいじゃないよ」

「理由はどうあれナツキを傷つけたし、ああなるまで追い詰めたのは俺だ。それに、わざとナツキを怒らせる言い方もした。もどかしかったから」

「もどかしい?」

 ウィルと間近で目が合って、思いのほかお互いに密着していたことに気付く。傷を押さえている今は離れるわけにもいかず、呆けたように間近な彼の顔を見つめた。

 ウィルの眼はどこか悲しそうに見えた。

「ナツキは、ずっと何かに悩んでるだろ? でも、誰にも言わない。ひとりで抱えて、夜中に泣きながらうなされてる。……勝手だけどさ、俺はすごく悔しくて、悲しかったよ」

 ……気付かれていた。

 隠し通せているつもりだった自分が愚かだったんだろう。彼の目を見ていられず、視線が落ちた。

「君の問題だから、口を挟まずにいようと思った。でも、嫌だよ。ナツキが苦しんでるのに、何もできないのは嫌だ」

「そんな……」

 感情が詰まったみたいに、喉が痛くて声がうまく出ない。それでも絞り出す。

「そんなこと言われたって、どうしたらいいの。今以上にウィルに頼ったら、あんまり情けないよ。ただでさえ、何にもできなくて迷惑ばかりかけてるのに」

「迷惑なんかじゃない」

「そう言うのは知ってたよ。ウィルもみんなも、優しいから。だけど、怖いんだもの。自分の足で立っていなかったら、消えちゃいそうで」

 白くなるほど力を込めた手に涙が落ちる。もう止められなかった。

「ここに来てから、眠るたびに真っ黒な夢を見るの。何もない、ただ真っ黒な夢。私、暗いところを怖いと思ったことなんてなかった。だって出口がどこかにあるはずだもの。明かりがついてる場所があるはずだもの。でも」

 悲鳴みたいな声が喉から漏れた。涙をぬぐうことも思いつかず、ただ体を縮めて震えた。

「でも、どこにも出口がないの。どこを見ても真っ黒。自分の体さえ見えない。ウィルたちは私の黒い色をきれいだってほめてくれたけど、そんなの嘘だよ。私は怖い。いつかあの真っ黒な夢の中に、私も溶けて消えちゃいそうな気がする」

 怖かった。いつも目が覚めるたび、自分の手を見て安堵した。

 心の底から帰りたいと願って、眠りについても目覚めれば変わらず見知らぬ異世界で。夢さえ元の世界を見せてはくれない。もうずっと、怖くて仕方なかった。

「どうして私なの。どうして私は、こんなところでひとりぼっちなの」

 思いを吐き出すと同時に、震える体を抱き寄せられた。抱え込まれた体温は、崖から落ちるときかばってくれたのと同じもの。

「ごめん。泣かないで」

 彼のほうが途方に暮れた子どものような声をしていた。驚きで気がそがれ、気持ちを吐き出していくらかすっきりしていたこともあって、つい笑ってしまった。

「……なんなの、もう。抱え込むなって言ったり、泣くなって言ったり」

「うん。ごめん」

 腕を緩めて体を離した彼は、急に慌てだした。

「あ、忘れてた。ナツキの服に血がついたかも」

「そんなのどうでもいいよ。血も止まってきたみたいだし、大丈夫」

 呆れて頬の涙を拭い、彼の腕に触れて確かめる。

 その手を取って、ウィルがまっすぐに見つめてきた。

「ナツキ。俺は君をひとりにしない」

 ……なんか、告白っぽいんですけど。

 自分で言ったことだし、彼が真剣なのもわかるが、やっぱりウィルはどこかずれている。照れるより先に笑みがこぼれた。

「うん。ごめんね、後ろ向きになってた。ウィルが見つけてくれたから、私はひとりじゃなかった。感謝してる」

 ウィルも表情を緩めた。その眼が少し赤い。何故かそのことに気付いたとき、抱きしめられたことや告白まがいの台詞よりもずっと恥ずかしくなった。

「な、なんで泣くの? ウィルが泣くことなんてないのに」

「ナツキが泣いてるのを見て、平気でいられるわけないよ」

「え、私のせい?」

 動揺で眼が見れない。それなのに彼は手を離してくれず、追い打ちをかけられた。

「そうだよ。ナツキが泣くなら泣きたくなる。笑うなら俺も笑える。当然だろ?」

 笑顔で言いきられた。頬が熱くならないほうがおかしい。心臓までばくばく鳴っている。

 天然、おそるべし。やっと取り戻した両手で頬を押さえて、ウィルを睨む。

「……私は今、ウィルのほうが怖い」

 不思議そうに首をかしげた彼にそれ以上言えず、夏妃はため息をついた。




 結局、雨が止んだころには日が暮れかけていて、夜が明けてから村へ戻ろうということになった。ウィルの天然発言で夜明かしはなかなか(一方的に)気まずいものとなったが、それはまた別の話。

 夜明けとともに崖の上に出たところで、夜通し探していてくれたらしい村の大人たちと合流した。みんな夏妃とウィルの肩をたたいて、心から喜んでくれた。申し訳なさと嬉しさとで、夏妃は彼らに頭を下げた。

 そして、村に着くなり、待ち構えていたシルエラに飛びつく勢いで抱きしめられた。無事でよかったと泣く彼女に何度も謝り、抱きしめ返して夏妃も少し泣いた。しばらくすると、シルエラは顔を涙でくしゃくしゃにしたまま微笑んで言った。

「おかえり、ナツキ」

 胸に温かいものが広がる。頷いて、心から答えた。

「ただいま」

 やっと、この世界を受け入れられた気がした。

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