4

「機嫌が悪そうだね」

 ウィルの声で我に返る。彼は困ったように微笑んでいた。

「確かに、君を試すような真似をしたのは失礼だったよ。でも、君はあの危機的状況で幼いティリオをかばった。損得勘定や演技でできることじゃない。これで君の潔白は証明できたんだよ」

「……そういうことじゃない」

 自分の声をどこか他人事のように聞いた。ウィルは聞き分けのない子どもを見るように、眉を下げて見せた。

「じゃあ、どうして怒ってるの? 君が言ったんだよ。不審な者を安易に受け入れるのは不用心だって。それはその通りだ。だから僕らはこのひと月の間、君を観察してきた」

 そうだ。その通りだ。自分がそう言った。

 それなのに、足元が崩れるような失望を感じているのはなぜなんだろう。

 混乱する。

 疑わないと言ってくれたウィルやエルヴァ。豪快な優しさで母親のように接してくれたシルエラ。きれいな黒色だと褒めてくれたオレアや村の大人たち。

 それが全部嘘だとしたら。

 大粒の雨の向こうのウィルの顔を仰ぐ。

 さっき彼が狼からかばってくれたとき、心からほっとした。ウィルがいれば大丈夫だと思った。

 いつの間にか、夏妃は彼を信頼していたのだ。

 こんなにも悲しい気持ちになるほどに、深く。

「ウィルが一緒に暮らそうって言ってくれたのも、私を見張りやすくするため?」

「うん。それもあった。でも、夏妃ならいいかなって思ったのも本当だよ」

 その言い方は卑怯だ。苛立つ半面、まるで破局を迎えた恋人同士のような会話に、乾いた笑いも湧いてくる。

 確かに彼との関係は、いま破綻したのだ。

 空を仰ぐ。曇天から放射線状に降る雨が夏妃の体を叩いた。雷の不穏な音が近付いている。それとは反対に、現実感は遠のくようだった。

 ウィルたちを責めるつもりはない。彼らはやるべきことをやっただけだ。そして自分は、彼らの上辺の優しさに依存していた。やるべきことをしなかったのは、愚かだったのは自分の方だ。

 視線をウィルに戻す。焦茶色の瞳は硬い色を帯びたまま。

 震える声がした。

「だめだよ」

 夏妃とウィルの間に、ティリオが割り込んできた。夏妃をかばうように立ち、彼は精一杯の強い声でウィルに言った。

「おねえちゃんをいじめちゃ、だめ」

 彼の純粋な優しさが胸に痛い。夏妃の心は決まっていた。


 ――彼らがただの善人じゃないのなら。私も行動を起こそう。


 ティリオ、と小さく彼を呼ぶ。泣きそうな顔で振り向いた彼の首元に、かばんにかけていた手を滑らせる。ごめんね。少しだけ我慢して。そう囁いた。

 ウィルの表情が強張る。ティリオがきょとんとしたまま夏妃を仰ぐ。その首に光る鈍い色が、瞬く雷を反射した。

「いたぞ!」

 遅れて響く雷鳴とともに、森の中から村の男たちが茂みを鳴らしながら現れた。彼らは安堵を顔に出して三人に駆け寄りかけ、その場の異様な雰囲気に次々足を止める。

 彼らは愕然とした顔で三人を、ティリオの首元にナイフを突き付ける夏妃を凝視した。

 ウィルの背後の彼らを視界に納めながら、夏妃は小さく笑う。

「責めるつもりはないよ。私も、全くの潔白だったわけじゃないもの」

 初めてティリオと出会ったとき。仔犬のことを介して仲良くなったとき。どこかで、こうなることを恐れていた。だからそれに備えようとした。

 それは確かに保身のためだったけど、誰かを傷つけても構わないと思っていたのも本当だ。それを否定することはできない。

 だから。後戻りできなくなると知りながら、夏妃はティリオをぐっと引きよせて、雨でけぶる視界の先の男たちを睨みつけた。

「訊きたいことがあるの。私は、どうしてこの世界に来たの? 眼が覚めたら龍の村の近くにいて、こんなに親切に受け入れてくれるなんて出来すぎてると思ってた。本当に、あなたたちは何も知らないの?」

 戸惑う声を上げて近寄りかけた男たちに見せつけるように、ナイフの刃をティリオの頬にあてた。

「近づかないで。質問に答えて」

 ウィルが男たちに動かないよう重ねて伝え、夏妃を見た。

「答える前にひとつ言っておくけど、君が異世界からやってきた龍とは違う存在だということは、俺と村長、それにシルエラとその旦那しか知らない。それに、君の監視に関わったのは俺と村長だけだ。シルエラたちでさえ承知していないことだった。それは誓って本当だよ」

 言葉を区切ると、彼は軽く息を吐いた。

「君に信じてもらえなくても仕方ないと思うけど、君が何故この世界にやってきたのか、その理由は俺たちにはわからない。少なくとも、この村で知る者はいないだろう。ナツキを監視すると同時に君に近づく者も観察していたけれど、不審な行動をする者は一人もいなかった」

「じゃあ、私をあっさり受け入れたのは根っからのお人好しな親切心からってわけ?」

 皮肉っぽい言い方にも、ウィルは表情を動かさなかった。

「そうだ、と言いたいところだけど。もう知っての通り、俺と村長は君を監視していたんだから、純粋な親切心とは言えないな。でも、それはナツキを試すためだけじゃない。君を守るためでもあった」

 夏妃は眉をひそめた。

「守る? 私をここに連れてきた不審者からってこと?」

「俺と村長が心配したのはそんなことじゃない。守りたかったのは、君自身からだよ」

 意味が呑み込めず、ぽかんと彼を見つめた。

「……私?」

 ウィルは、何故か悲しそうに微笑んだ。

「そう。知らない場所に来て、ひとりきりで放り出されながら、君はあまりに大人しすぎた。ただの迷子の子どもだって不安で泣きわめく。それなのに君は、ふさぎ込むでもなく、泣くでもなく、あっという間にこの村に溶け込んでごく普通に暮らし始めた。それが俺たちには、とても不安定に見えたんだ」

 思いがけない言葉に戸惑う。

「それで私を怪しんだの?」

「違う。最初から、君が村に害をなす可能性は限りなく低いと思ってた。だから、ほとんど君を試すことのほうがついでだったよ。それよりも、冷静な君の様子が心配だった」

「……それって、いけないこと?」

「君が外見よりも大人で、しっかりしている子だとわかったから、そういうものかもしれないとは思ったけどね。でも、何かため込んでいるのは知ってたよ。それがいつ爆発してもおかしくはないってことも」

 では、最初から見抜かれていたのか。この手の中のナイフも、どろどろした猜疑心さいぎしんも。

 そう思うと、力が抜けた。情けなくて、視界が歪んだ。

 ウィルたちは何も悪くない。村を、仲間を守るために必要なことをして、その上で夏妃のことまで案じていてくれた。それを疑い、身勝手に刃を向けた自分のみじめさを思うと、雨に溶けて消えてしまいたくなる。

 いつの間にか下がっていた手に、小さな手が触れた。

「おねえちゃん、だいじょうぶ? ウィルがいじめた?」

 わけも分からず、それでも夏妃を心配するティリオの顔を見て、最後のちっぽけな意地まで砕けた。ナイフを地面に落として、その場にへたり込んだ。視線を合わせて力なく首を振る。

「ちがうの。私が間違えたの。……ティリオ、ごめんなさい」

 どんな理由があろうと、彼にしたことは絶対に許されない。今更ながら、自分の行為に寒気がした。いつの間にか歩み寄ってきていたウィルが、ティリオの頭に手を置いた。

「とにかく、話はあとだ。いつまでも雨に打たれてたら風邪をひく。帰ろう」

 彼の眼からは、もう硬質な冷たい色は消えていた。いつも通りの穏やかな瞳をじっと見る。

「またお人好し? 私はティリオを傷つけようとしたのに」

 半ば咎める口調でそう言うと、ウィルは苦笑した。

「傷つけるって、そのナイフで? それはずいぶん難しいと思うけどな」

 彼が視線で示したナイフは、刃の部分が銀色のはくでぐるぐる巻きにされている。巻かれているのは日焼けに弱い作物を保護するのに使うシートを細長く切ったもので、アルミホイルよりは色も鈍く薄っぺらい代物だった。

 雨の中で遠目にはわからないだろうと思ったが、ばれていたのか。だとしても、そんなことは言い訳にもならない。

「それでも、中身は本物のナイフだよ。ティリオにそれを向けたことは変わらないじゃない」

「真面目だなあ、ナツキは。そんなだから俺たちがこんなに心配する羽目になる」

「なにそれ」

 むっとしながら立ち上がる。濡れた地面から服に水が浸みてちょっと気持ち悪い。

ウィルは笑った。

「許すかどうかはティリオやシルエラたちに聞いてごらんよ。俺はお互い様だから、ナツキを責められない」

 彼に促されて、ティリオが戸惑ったように夏妃を見上げた。

「おねえちゃん、かえろうよ」

「……ティリオ、私はあなたにひどいことをしたんだよ。だから、私を許しちゃいけないの」

 ティリオはぶんぶんと首を振る。泣きそうな顔をしていた。

「ひどいことなんかないよ」

「ティリオにはまだわからないだけ。わかったらきっと、私を軽蔑する」

「わかんないよ、なんで? おねえちゃんはむかえにきてくれたよ。それに、あそぼうってやくそくしたのに!」

 ぎゅっと力を入れて抱きしめられたオーロが、嫌がって暴れた。仔狼が腕から逃れて飛び降りた先が、運悪く崖側だったのがいけなかった。

 慌ててオーロを捕まえたティリオの足が、崖の縁で滑る。考えるより先に体が動いた。

 宙へ傾いたティリオの体を引き戻すと、その反動で自分の体がバランスを失った。地面にティリオが転ぶのを見届けると同時に、襲う浮遊感。悲鳴も出なかった。

 音も、色も、感覚も遠ざかる。

 意識が真っ黒に染まる前に、誰かの体温に包み込まれた気がしたけれど。何もわからないまま、ごおごおと音を立てる濁流の音を聞きながら、ふつりと全てが途絶えた。

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