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 呟くような声だったはずだがよほど聴覚が鋭敏なのか、巨大なドラゴンはぴくりと片耳を動かし、確実に夏妃を見つけた。

 夏妃のこぶしより大きいであろう眼に捉えられてさすがに危機感を覚える。

 ドラゴンはぱしぱしと瞬きすると、さらに夏妃のほうへ近づいてきた。騒々しく音を立てて折れる枝葉の様子が不安を煽った。

 幸い危惧したように踏みつぶされることはなく、代わりにはるか高みにあったドラゴンの頭がぬっと降りてきた。間近で見る焦げ茶色の瞳は意外に穏やかで、心臓が引きつりそうな恐怖がわずかに和らぐ。

 どちらにしろ、ここまで近づかれたら逃げる暇などないだろう。諦め半分、興味半分で目の前の巨大な顔をじっと見ていると、ドラゴンはやけに可愛らしいしぐさで首を傾げた。

「驚いた。君は、黒色こくしょくかい。そんな珍しい仔が生まれたなんて話は聞かなかったんだけどな」

 びっくりして、ぱくぱくと口を動かすが声にならない。信じられないが、絶対にこのドラゴンが喋っていた。恐ろしく歯並びのいい口が合わせて動いていたし、声もそこから聞こえてきた。

 穏やかで呑気そうな、若い男性の声に聞こえた。それがドラゴンから、しかも日本語で聞こえてくるというのが解せない気がする。恐怖より興味が勝って、つい言葉が漏れた。

「わあ……、喋れるんだ。ほんとに映画か、RPGみたい」

「喋らずにどうやって意思疎通するんだい? あーる……って何だ?」

 訝しそうにだが、ドラゴンはちゃんと応えてくれた。どうやら言葉は正確に通じているようだ。いきなり喰われる心配もないらしいと分かってほっとした。

「ロールプレイングゲームの略ですよ。ゲームの中でなら、ドラゴンが喋るのもありえる話ですけどね。わーリアルだなー」

 安堵したついでに雑な説明をしながら、しげしげと巨躯を観察してみる。つやつやした宝石にも似た鱗をまとうドラゴンは、首をひねるばかりだった。

「おかしな言葉を知ってるなあ。それは何か新しい技術とか? 君は大陸のほうから来たの?」

「出身は東の果てのちっちゃい島国ですけど、その大陸っていうのは……。あ、ちょっと待ってください。首痛い……」

 頭を限界まで仰向けて話しているのがつらくなってきて、首の後ろを手で揉みほぐす。すると、ドラゴンはたった今気が付いた、というように瞬いた。

「そうか。この姿では話しづらかったな」

 そう言うなり、ドラゴンの姿が掻き消えた。今まで見えていたのが幻だったんじゃないかというほど、それはそれはあっけなく。

 まさかおかしいのは自分の頭なのでは……と不安に襲われていると、「こっちこっち」と緊張感のないドラゴンの声がした。がさがさと藪の中から現れたのは、背の高い若い男。思わず素で訊いていた。

「えっと、どちら様ですか?」

「は? ついさっきまで話してた相手を忘れたの?」

 きょとんとして返された声は、確かにさっきまでそこにいた緑色のドラゴンと同じもの。

「……小さくもなれるんだ」

 もはや諦めの境地で力なく呟く。不可解そうに首を傾げる青年のしぐさも、ドラゴンと全く同じだった。

 緑色がかった濃い銀色の髪は、見たこともない不思議な色合いで目を惹いた。整った顔立ちは東洋風だが、焦茶色の瞳は日本人とは比べ物にならないほど明るく澄んでいる。簡素なシャツとベストとチノパンぽい服装だけでは、なに人なのだかわからない。

 この青年がさっきまでドラゴンの姿をしていただなんて、まったく正気の沙汰ではないと思うのだけれど。

変化へんげも知らないなんて、変な子どもだなあ。龍ならどんな親でも教えることなのに。見たところ尻尾も牙もないし、言葉も通じているし。君は龍だよね?」

 ものすごくおかしなことを聞かれた。とっさに反応を返せないほど驚く。

「……いやいや、まさか。私はただの人間ですよ」

 まったく、とんだジョークのセンスだな、と思っていると。

「ニンゲン? ニンゲンって何だ?」

「はあ?」

 その反応こそなんなんだ、と相手をじっと見るが、冗談を言っている風では全くない。

つまり何か。このドラゴンさん、いや自分で龍って言ってるから龍さん? の知る限り「人間」なる存在は見たことも聞いたこともない。つまりここは、人間の存在しない場所だとでも?

 ……。

 特撮物の怪獣よろしくでっかい生き物が現れた時から嫌な予感はしていたけれど。幸か不幸か、どうやら定期試験の心配をしている場合ではなくなったらしい。いや絶対、幸ではないけど。

 これはおかしなことになった。と、ここではじめて真剣に考えた。

 とりあえず、まずは確認せねばなるまい、と真顔で両頬をつねってみる。青年は目をぱちくりさせた。前触れもなくそんなことをされたらびっくりする気持ちはわかる。

 けっこうな力を込めてみたが、痛いだけで目が覚めることはない。

 結論。

「これは現実で、私は人間が存在しない代わりに龍は存在するへんてこな場所にいる……?」

 口に出してみると、こんなバカな話があるか、という気分になった。じわじわと得体の知れない不安が肌を這いあがってくるような感覚に捕らわれて、青年を問い詰めた。

「ここはどこなの? 国とか地域とか、名前があるなら教えて」

 急に詰め寄られた青年は戸惑った風だったが、すぐに答えてくれた。

「ここはシルウァ島の東、緑龍の村の近くの森だ。島は龍族の王が治める龍の国の配下にある。国の名はない」

「さっき大陸がどうとか言ってたけど、大陸の名前は?」

「俺は知らないな。もしかしたらあるのかもしれないけど、大陸は一つきりだから『大陸』と呼ぶだけで用は足りてる」

 やはり、夏妃の知る世界とは全く違うようだ。無駄なことだと知りながら、手にした教科書の最初のページを開いて彼に見せた。

「この世界に、この地図と似たところはある?」

 細かく国名が書き込まれた世界地図をもの珍しそうに覗き込んで、しかし青年は首を振った。

「いや、こんな形の島も大陸も見たことがない。ここに書き込んである模様は文字なのか?これも見たことがないよ」

 もう、認めるしかないようだった。

 教科書を閉じて、だらりと手を下ろす。混乱を通り越して、やけに醒めた頭で考えた。なぜ、こんなことになったのだろう。

 半ばやけ気味に、青年を見て訊ねた。

「貴方から見て、私はどう見えます?」

 彼はあっさりと、けれど真摯な口調で答えてくれた。

「ニンゲンとやらは知らないが、俺には君は龍に見えるよ」

 まったく、何の冗談なのだか。ファンタジーな生き物にお仲間認定される日が来てしまうとは。

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