希少保護生物指定女子。

《龍の国》編

Ⅰ.はじまりは森の中

1

 秋は夕暮れ。とはいうけれど、夏の気配もまだ浅いその日の夕暮れも印象的だった。夕日が山の向こうに沈んでもまだ明るく、空も雲も、空気さえ紫色に染まって見えた。何度かこんな光景を見たことがあるが、今日は特別に色が濃い気がする。

 非現実的なほどに見事な色だったので、夏妃なつきは手元の教科書を開きっぱなしのまま、ずっと飽きずに窓の外を見ていた。

 夕焼けが赤く見えるのは、日が傾くと太陽光が空気中を通る距離が昼間よりも長くなり、波長の長い赤色が見えやすくなるからだったか。だとすると紫色に見えるのは……と考えかけて、軽く首を横に振る。今は余計な知識を頭に入れている場合ではないのだった。なにしろ、明日からは高校生活で初の定期試験が控えている。勉強が得意とは口が裂けても言えないので、今はわずかでも頭の容量を節約しておく必要がある。

 記念すべき初戦は世界史B。点数の稼ぎどころである暗記科目だが、似たような年号やカタカナの長い人名という不安要素があるので油断は禁物だ。しかも、同日に苦手な数学も入っているので時間は一分一秒さえ惜しい状況である。気を取り直して、教科書に目を落とした。

 しかし、がたんごとんと規則的に揺れる電車というものは、いやが応にも眠気を誘う。霞む文字からたまらず目を離して窓に目をやると、もう外は夜闇の気配が勝っていて、窓ガラスには薄ぼんやりと自分の顔が映っていた。

 ああ、とても綺麗な色だったのにな。

 そんな風に考えているうちに、とうとう視界は瞼の向こうに隠れて、意識はふっつりと途絶えた。


   ◆◆◆


 耳に届く小鳥のさえずり。梢を揺らす風の音。

「爽やかな朝」というタイトルが付きそうなBGMを聴きながら目を開けると、ささやかだが眩しい日差しが飛びこんできた。

 あんまり気分はよろしくない。柔らかいといっても土の上に寝そべっていたので全身がちがちだし、髪の毛にも土や落ち葉がくっついている。どちらかといえば不快だ。

 やれやれと体を起こして背中やら髪やらを払う。頭上を仰ぐと、枝葉の間から細い光の帯がいくつも差し込んでいた。

 さて、と夏妃はここでようやく現状を確認する気になった。

 そのいち。着ているものは四月に入学したばかりの高校の制服だ。紺色のブレザーはありきたりだが、シックな緑のチェック模様のリボンとスカートは女子生徒の中で人気が高い。夏妃もそれ目当てに受験したのだが、それはともかく。服装は、記憶にある通り。

 そのに。たった今まで自分の頭があった位置に、付箋を貼られた本があった。サイズはA5版。それなりに分厚いが硬く、枕にするにはいまいち。タイトルは、『新版世界史B』。これも覚えている。明日に控えた定期試験の初戦を飾る教科であるため、必死に内容を頭に叩き込んでいるところだった。

 そのさん。周りを見回してみる。濃い緑色をした広葉樹が生い茂り、下草も勢いよく繁茂している様子はまさに初夏の森の中、といった様子だ。しかし、こんな場所には覚えがない。帰宅途中の電車の中でうたた寝をしたはずが、なぜこんな場所にいるのか、さっぱりわからなかった。

 制服と世界史の教科書のほかは自分の持ち物らしいものが見当たらない。膝の上に乗せていたはずの鞄さえ無かった。とりあえず教科書を拾い上げて付いた汚れをぱたぱたと払った。それをなんとなく胸に抱えて、考え込む。

 一体なにがどうなっているのか。そして、これからどうすべきか。

 この森が深いのか、それとも人里に近いのかもわからない。迷子になったときの基本といえば「その場から動かないこと」だけれど、夏妃を迎えにくる人物などいるのかどうかが問題だ。そもそも誰が何の目的で、森の中に置き去りにするような真似をしたのか。

 頭に巣食う嫌な想像を追い出すべく、すーはーと大きく息を吸って吐いてみる。できるだけゆっくりと、吸うよりも吐く時間を長く。気持ちを切り替えるときに有効だと、何かの折に教師が言っていた方法だ。気休めみたいなものにでもすがりたい心境だった。

 ばくばくいっていた心臓が落ち着きを取り戻してきたところで、とにかくこの最初の場所を見失わない程度に森を探ってみよう、と決めた。じっとしていても怖い想像が膨らむばかりで良いことがない。迷ったら行け、が夏妃の信条である。

 しかし。

 自分を奮い立たせて腰を浮かせたその時、地響きが聞こえてきた。地震?と動きを止めたが、確実に大きくなるそれは規則的で、何か意志を持ったもののように思えた。例えばそう、SF映画で怪獣が歩く音がこんな感じではなかったか。


 ――ある日、森の中。


 ふと、童謡のメロディが頭に浮かんだ。緊張感のなさに自分で呆れたが、もしかしたら精神の防衛本能なのかもしれない。逃げようという気にもなれず、中途半端な姿勢のまま音のする方向をじっと見つめる。さっきせっかく収めた動悸がまた耳についた。

 やがて、視線の先の木立から小鳥が一斉に飛び立つ。甲高く鳴き交わす声と樹木が軋む悲鳴のような音とともに、森の奥から現れたのは。

 どの樹木より高い背丈。眼光鋭い大きな眼。鹿に似た銀の角は美しく、体を覆う翡翠色の鱗とともに朝日をはじいて光る。

 夏妃は、我が目を疑いながらぽかんと口を開けた。

 途方もなく巨大なその姿は、残念ながら【森のくまさん】ではなく。


「森色のドラゴンさん……?」


 目覚めた見知らぬ森の中。夏妃が初めて発したのは、そんな気の抜けた台詞だった。

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