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 晩秋の朝の空気は身を切るように冷たい。登城の時には紅葉の盛りだった木々も葉を落としはじめ、冬枯れた景色に近づいていた。落ち葉さえ水気を失くして茶色く変色し、踏むと乾いた音を立てる。その音は、着実に季節が変わろうとしていることを感じさせた。

 なんとなく無言になってさくさく響く落ち葉の音を聞いていると、先を行くサブルムの大きな背中が半分振り向いた。歩調は落ちるが足は止めないままで夏妃を窺う。

「お疲れではないですか、お嬢さん」

「平気です。下り道だし、行きよりはだいぶ楽なので」

 軽く笑って答えると、彼は頷いて続けた。

「そうですか。しかし、無理は禁物です。そろそろ良い時間ですし、この先に見晴らしのいい場所もありますので、一度休憩を取りましょう。城の者より与かってきた菓子もありますので」

「わ、本当ですか。嬉しいです」

 素直に喜ぶと、彼は微笑ましそうな顔になった。最初は強面かつ無口なので近寄りがたいものを感じていたのだが、このところは印象が変わってきた。よく気にかけてくれるし、柔らかい表情も見せることが多くなった。

 それにはやはり、王城での一件が影響しているのだろうけれど。龍ではないということを明かしても、こうして夏妃個人を見てくれるひとが増えるのは嬉しいことだった。

 お菓子に力を得て歩調を上げた夏妃に、少し前を行っていたエルヴァが並ぶ。相変わらずの健脚で涼しい顔をしている彼は、からかうように言った。

「良かった。元気になったようだね。城を出てから大人しかったから、気になっていたんだ」

「え、そんなにわかりやすかったですか」

 つい頬に手を当ててしまう。食べ物に釣られて、というのはかなり恥ずかしいものがある。

 確かに、滞在は短い間だったにもかかわらず、すっかりなじんでしまった城を離れるのは寂しいものだった。出発の前に挨拶に行った龍の王や王妃様は、また祭りで会おうと言ってくれたし、顔なじみになった城の人たちも見送りに出てきてくれた。やけにあっさりと手を振ったユウの態度が気になるところではあるけれど。

 ……何か企んでないといいな、と思ってしまうのはやはり失礼だろうか。いくらか彼の性格を把握した身としては、杞憂であることを願うばかりだ。

「それに、帰りの同行者は私たちだけだしね」

 言われて、少し言葉に詰まる。ここにいない存在のことは、やはりずっと胸に引っかかっていたからだ。

 今朝、荷造りを終えてエルヴァの部屋を訪ねると、ウィルとバザルトは夜が明けてすぐに城を発ったと聞かされた。初耳だった夏妃は驚いた。だが、すぐに城を辞する挨拶のための王との謁見が控えていたのでバタバタしてしまい、「することがあるから」という以外詳しい理由も聞いていない。

 確かに彼らは大人の男性だし、夏妃が心配や口出しをする理由もない。でも、ウィルまで一言もなく先に行ってしまったというのは、正直納得がいっていない。

 エルヴァやサブルムもいるし、なんの不安もないけど。逐一報告しろだなんて思ってないし、別にいいんだけど。

 彼らには彼らのすべきことがあるのはわかっている。それでもそんな風に拗ねた気分になってしまうのがいかにも子どもっぽくて、なんだか情けない。

「心細いかい? そう言えば、今までナツキはウィルと離れたことがなかったからね」

 胸の内を見透かしたみたいにエルヴァが言うので、負けじと顔を上げた。

「心細いわけないです。エルヴァさんやサブルムさんの方が、ウィルより断然頼りがいがあるもの」

 エルヴァの笑みが苦笑に代わる。

「それは、ウィルの前では言わないほうがいいだろうな」

 言われなくても、彼が盛大にへこむのはわかっている。ウィルには感謝してもしきれないほどの恩があるし、いくら気安いからといっても到底言えない台詞である。つい、くさった気分から生まれた強がりだ。

「大丈夫です。私は、ちゃんと一人でがんばれるようにならなくちゃ」

 チャンスも力も十分に貰ったのだから、今度こそ自分の足で立たなくては。そう思う。

 エルヴァはそんな夏妃を見つめ、微笑む。

「良い子だね、ナツキは。でも、誰かの手を借りるのは悪いことじゃないんだよ」

 そうだろうか。皆が優しいからといって、それに頼りきりになってしまうのはとても怖いことのような気がする。

「エルヴァさんは私を甘やかしすぎです。もっと放任すべきです」

 そう主張すると、エルヴァは楽しそうに笑った。

「そうかな?」

「そうです。見ててください、私は今回の仕事を精一杯がんばって成功させて、一人でもやれるってことを証明して見せますからねっ!」

 自分を奮い立たせるように、決意を込めて宣言する。

 ずんずんと歩き出した夏妃は、エルヴァの微笑ましさ半分不安半分と言った微妙な表情に気づかないままだった。




 麓の王都には、まだ日のあるうちに辿り着くことができた。登りほどの体力の消耗がなかったおかげだが、急斜面が続いたのでかなり足がだるい。同行してくれたサブルムに礼を言って別れた後は、街並みを楽しむ余裕もなく、はやく宿のお風呂に入って一息つきたい一心で歩いた。

 見覚えのある通りを進み、【銀の杯亭】の看板を見つける。ほっと息を吐くと同時に、その入り口に立つ人影に気づく。疲労でぼんやりと霞みがかっていた思考が、驚きで醒めた。

「うそ、ティリオ?」

 小さな影は振り向いて、ぱっと笑みを見せる。

「おねえちゃん!」

 呼びながら駆け寄ってきて、勢いよく石畳に蹴躓いた。慌てて抱き留めた腕に、子ども特有の高い体温が伝わってきた。間違いなく、彼だ。

「会いに来たよ!」

 元気に告げる彼を追いかけてきたオーロが、足元にまとわりついて一声吠える。その体躯が確実に一回り大きくなっていて驚いた。ほんの短い間離れていただけなのに、仔狼の成長はかなり早いらしい。

「オーロまでいるの。……え? どうして?」

 混乱している夏妃の耳に、耳慣れた快活な声が届く。

「私らもいるよ。元気そうでよかったよ、ナツキ。ウィルはちゃんとあんたを守ったようだね」

 宿の方から歩み寄ってくるのは、破顔したシルエラと微笑むオレア。夏妃はますます目を見開いた。

「ええっ、シルエラさん達まで」

「どれ、よく顔をみせておくれ。まったく、王城で何があったか聞かされて、肝が冷えたよ。無事で何よりだよ、本当に」

 シルエラが夏妃の頬を手のひらで挟んで顔を覗き込む。彼女の瞳は安堵で少し潤んでいて、本当に心配してくれていたのだとわかった。嬉しさで頬が緩む。

「シルエラさんは、本当の事情を知ってるんですね」

「ああ。もちろん他言はしない。王のお考えはもっともだからね。だからと言って、ナツキの負担になるようなことを許す気はないよ」

「大丈夫です。私も望んだことですから」

 まだ少し心配そうではあったけれど、体を離したシルエラはにっと笑みを浮かべた。

「そういえば、聞いたよ。シロガネ祭の劇の主役を張るんだって?」

 ぎくりとして、ティリオの頭を撫でていた手が止まった。

「な、なんで」

「バザルトが急ぎで村に帰ってきて、全部話を聞いたのさ。騒動のことも、ナツキのことも。あの“救い姫”っていうのはいいね。私も鼻が高い」

 嬉々として語るシルエラとは反対に、夏妃の気分は急降下していった。穴があったら入りたい。とても顔を上げられない。

「あの……、その話はあんまり……」

「どうしてだい。この話は箝口令の内じゃないんだろう? 王都に入ったのはついさっきだが、もうそこらじゅうその話で持ちきりだったよ」

 嘘でしょ! と叫びたかったが、ぱくぱくと口を動かすだけで声にならない。ミカの仕事の速さに感心すればいいのか、恨めしく思えばいいのか。どうにも気持ちのやり場がなく、遠い目になった。

「あまりナツキをいじめないでやってくれ、シルエラ」

 苦笑交じりにエルヴァが割って入り、彼女の意識が逸れる。

「おや、父上。貴方も無事で何より」

「私はナツキのついでなのかい? 傷つくな」

「ご冗談。貴方は仕事でしょうに。【九頭龍ノウェム=カプト】がちょっとやそっとで何とかなるようじゃ、名折れだよ」

「手厳しいねえ、お前は」

 ため息をつくエルヴァは、それでも楽しげだ。親子の間合いと言うか、底に愛情のある軽口は、見ているこちらも頬が緩む。

「賑やかだねえ。仲がいいのは良いことだけど、ここが往来だって忘れてない?」

 のんびりした声が聞こえて、反射的に振り向いた。

「ウィル」

 通りの向こうから歩み寄ってくる長身の青年が、軽く手を上げる。

「昨日ぶり。良かったよ、無事に城下に着いたみたいで。あ、だからって村長たちを信用してないわけじゃないからね」

 なら、一言もなしに出て行かなくてもいいじゃないか。そう思ってしまうのは拗ねている証拠だと自覚している。しているから、なんとなく躊躇って出遅れてしまった。

「ウィルだー」

「お、ティリオも来たんだ。祭り見物? まだひと月は先だっていうのに、気が早いなあ」

「城で何があったか聞かされて、心配せずにいられるかい。元気な顔を見なきゃとても安心できなかったんだよ。ウィル、あんたも無事でよかった」

「うん。約束は守ったから、痛い目に合わされずに済むね」

「まったく、この子は」

 気安いやり取りの中、黙ってにこにこと見守るだけだったオレアが口を開く。

「さあ、部屋に入りましょう。店の前でこんなに大人数が話していたら、邪魔になってしまうわ」

 それもそうだ、ということでぞろぞろと【銀の杯】の中に移動する。その途中、受付でミカを見つけた。あちらも気づき、笑みを見せる。

「やっほー、ナツキちゃん。またご一行で逗留してくれて、嬉しいわ」

 お茶会以降は顔を合わせていなかったので、久しぶりな感じがする。だが、さっき例の噂の話を聞いたばかりなので、つい、じと目になる。

「本当に話を広めてたんですね。……その、“救い姫”ってやつ」

 受付に近づき声を落として言うと、彼女は綺麗な顔でにまっと人の悪い笑みを浮かべた。

「うふふ、もちろん。それが私の役目だもの。だめよー、ナツキちゃん。あなたが主役なんだから、もっと堂々としていてくれなきゃ。髪も出せばいいのに」

「とても無理ですよ! 恥ずかしすぎて死んじゃいます!」

 麓に着く直前から被りっぱなしのフードを押さえて、ぶんぶんと首を振る。

「でも、明日からは劇の稽古が始まるのよ? いずれは明かさなければならないことだと思うけど」

 うっと言葉に詰まり、俯く。前もって言われていたことだが、改めて言われるとしり込みしてしまう。

 そう、明日にはとうとう、シロガネ祭の演劇を取り仕切る子どもたちの初顔合わせがあるのだ。同時に演者たちの稽古も開始する。そうなれば後はもう、祭り本番まで演劇一色、とのこと。

 さすがに稽古の場でまで、恥ずかしいとか気後れするとか言っているわけにもいかない。顔合わせの時にはきちんと挨拶をしなければ。プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、フードから手を離してミカの目を見る。

「わかってます。私に任せてくれた皆さんをがっかりさせるようなことは、したくないもの。ちゃんと胸を張って、恥ずかしくない主役を演じて見せます」

「その意気よ。だーいじょうぶ、私がばっちり盛大に劇の宣伝をしておくから。成功間違いなしよ!」

 いえ、大丈夫要素が見当たらないんですが。もうちょっと控えめでいいっていうか、その方が心休まるっていうか。

 半笑いで表情を引きつらせる夏妃の肩を、軽く背後からたたく者がいる。見ればすぐそばにウィルがいて、どういうわけか心臓が跳ねた。

「悪い、ミカ。ちょっとナツキを借りていい?」

 話があるんだ、という彼に、ミカは気安く手を振った。

「こっちの話は済んだし、どうぞー。あ、ナツキちゃん。明日の朝、顔合わせの場所までは私が案内するから、出かける準備はしておいてね」

「わかりました」

 頷くと、じゃあこっち、とウィルに手を引かれて宿の食堂を横切った。エルヴァ達は客室に続く廊下の方にいて、ウィルが「後から行くよ」と言うと手を上げて応えた。

 ウィルに連れられて行ったのは宿の中庭だった。そんなに広くはなく、庭木や花をできるだけ詰め込んだ感じで少し鬱蒼として見えるけれど、見上げればオレンジ色の瓦屋根やよく晴れた空の青が覗いていて心地いい空間だった。

 庭の真ん中あたりの桃色の花をつけた庭木の横で立ち止まったウィルは、手をつないだまま振り向いて夏妃を見下ろした。

「まずは、ごめん。黙って先に城を離れたこと、怒ってるでしょ?」

 先手を打つように謝られては、夏妃も折れざるを得ない。軽く息を吐いて、さっきまで感じていた妙な緊張が薄れてくれたことに内心で安堵した。目を合わせて、本音を言う。

「……うん。書き置きでもなんでも、理由くらい言ってくれればよかったのに、って思った」

「そりゃそうだよね。もちろん、俺もそうしたかったんだけど、時間に余裕が……、っていうか、何言っても言い訳にしかならないんだけどさ」

 苦笑する彼の困った様子に、首を傾げて訊ねる。

「そんなに急ぎの用事だったの? ウィルも、バザルトさんも」

「バザルトさんは、村に一度戻ったから。予定以上に長い会議になったし、皆心配していただろうからさ」

 さっきのシルエラの様子を見れば、それはそうだろうな、と納得できた。電話もメールもなく、状況を知る手段は何一つないのだ。夏妃も村に残っていた立場だったら、不安で仕方なかったに違いない。

「で、俺の方は締め切りの時刻が差し迫っていたから。万が一にも選考漏れはしたくなかったから、急いだんだ」

 締め切り? 選考?

 不可解な言葉に、疑問符が浮かぶ。それは表情にも表れたらしく、ウィルは言い直した。

「今日は、祭りの警備に加わる志願者の登録締め切り日だったんだよ。仮にも王自らが主宰する行事だから、志願したからってなれるものじゃない。村長や、城での一件で知り合った龍騎士の方の推薦状をもらって、なんとか滑り込めた。選考も少し前に終わって、合格を貰ったところなんだ」

 話はわかった。わかったけれど、今一つ呑み込めない。

「警備って、なんで?」

 そこに至った経緯が知りたくて訊いた。彼は軽く肩を竦め、答える。

「またひと月、王都に滞在することになるだろう? その間、何もすることがないのも暇だしね。それなら本番まで訓練に参加したり、祭りの詳細を知っておいた方がよほど良い」

「訓練があるの?」

「もちろん。祭典には王族が全員出席されるし、おおっぴらには言えないけど、今回は魔族が絡んでくる可能性も捨てきれない。少しでもその動向を探れる場所にいた方が、何かと便利だろうし」

 やはり、彼も彼なりにいろいろ考えていたのか。置いて行かれたと思って、子どもっぽく拗ねていた自分が心底情けない。「子どもじゃない」なんてよく言えたものだ。

「ウィルもコルナリナさんみたいに、自分なりに動くんだね」

「母さんほどの破天荒な働きは期待しないでほしいけどね。あの人も、今頃は何を企んでるんだか」

 城に残った母親のことを思い出してか、ウィルの顔に苦笑が浮かぶ。夏妃としても、その辺は気になるところだ。魔族のもとに乗り込む勢いだった彼女が、大人しく様子見に徹するとも思えない。強烈な印象から無敵っぽいイメージがあるが、そんなひとが存在するはずもない。無理はしないでほしいものだが。

 つい考え込んでいた夏妃は、続いたウィルの言葉に上手く反応できなかった。

「とにかく、祭りまでお互いがんばろうね、ナツキ。しばらくは気軽に会えなくなるけど、まあ、お互いが忙しいんだし仕方ないかな」

 咄嗟に意味が呑み込めず、聞き返すまでに時間がかかった。

「……え? 会えないの?」

「うん。俺、明日から警備の訓練に混じるから。ナツキもそうでしょ? 警備の方は情報漏洩防止目的だかで、決まった宿舎と訓練場所の往復生活らしいんだ。だから、俺がここに泊まるのは今夜だけ」

 と、いうことは。ひと月後の祭典が終了するまで、会えないということか。思ってもみなかったことを言われて、頭が追いつかない。そもそもなぜ、彼はこんなにも平然としていられるのか。

 ずっと、あんなに過保護だったくせに。自分は相談もなしにそんなことを決めてしまうなんて、どうして?

 その問いは喉元まで出かかったが、危うく飲み込んだ。だって、夏妃のどこにそんな権利があるだろう。自立したいと言っておきながら、離れるのが寂しいだなんて。わがままにもほどがある。

「そっか。……ウィルが決めたんなら、いいよ。私も劇の練習、がんばるね」

 精一杯何でもないふりをして、顔を上げた。上手く笑えていたかはわからないけど、彼はいつも通りの微笑を返してくれた。

「俺も、周りに遅れないように励むよ。ナツキの劇、楽しみにしてる。城下の見回りが始まったら、合間にこっそり様子を見に行くから」

 うん、と頷いたきり、うまく言葉を紡ぐことができなかった。口を開けば責めてしまいそうで。……何よりも、身勝手な胸の痛みに気づかれたくない。その一心だった。

 風が吹いて、中庭の木立を揺らす。その冷たさに身を竦めると、ウィルが手を引いて建物の中に促した。

 それまで、彼と手をつないだままだということさえ忘れていた。それさえ軽く衝撃で、夏妃は促されるまま歩くので精一杯だった。

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