第15話 地底の光(2/5)

 俺達の足音は下水道内に響き渡る。鼻を摘まみたくなる臭いのせいで気分は悪い。横で水が流れており、空気が籠もっているせいでたまった物ではない。汗を拭いながらも、黒い影を髪で揺らしながら歩く神瀬に着いていく。

「なあ、アンタこの前も……あ、いや、随分ここに馴れているように見えるんだが、下水道に何回も入ってるのか?」

「ええ、小学生の時からかしらね。ここの構造はだいたい理解しているわ」

 声を響かせ答える。

「小学生の時からって……そう言えばアンタの実家ってこの街なんだよな?」

「そうよ。大学へ向かう山道があるでしょ。その道を更に先へ進むと神社がある。あそこが私の実家。今もそこに住んでいるわ」

 由緒正しきお家柄と言った所か、何というかこう……本当にこう言った、俺達一般人とは違う特殊な環境で育った人間っているんだなと改めて感じた。

 神瀬は続ける。

「昔からこの街の下水道は私の通り道の一つだった。最初は悪戯心で蓋を何とか開けてみて、遊びで入っていたのだけど、今となっては気分転換の通り道ね。落ち着くのよ、こういう暗くて息苦しい所が」

 そろそろいろいろ突っ込みたい。

 悪戯でもマンホールの蓋を開けて遊んではいけないと……というか、よく子供が開けられたなと。俺も昔試みたことがあったが、蓋が微塵も動かなかった覚えがある。

 それと、落ち着くからという理由で下水道に一般人が入ってはいけない。よな?

 第一衛生面上良くない。

 そこまで考えつつ、俺は気づいたことがある。

「……なあ、神瀬さん」

「どうしたのかしら?」

「余計なお節介かもしれないが、こんな所に入るつもりだったらもっと汚れて良い服装で良かったんじゃないのか?」

 改めて神瀬の姿を見る。白に水色の交えたワンピース、大きめのレディースハット、中々良い値段がしそうな物を何でわざわざ着てきたのか。

 汚して下さいと言っているものだ。

 そうこう言っていると、神瀬はコンパスのようにくるりと回って見せた。

「あら? 松本君の趣味には合わなかった?」

「い、いや……そういう問題じゃなくてだな……」

「フフ、冗談。貴方が暗いところでも私を見失わないようにしてきたつもりだったのだけど、どうかしら?」

 確かに、薄暗い中で白はまだ見えやすい。この距離ならどんな服を着ていても存在は感じ取れるのだが、少し距離を放し懐中電灯が消されでもしたら無理かもしれない。

 俺に気を使ってくれているのか?

「ありがたいことなんだが……やっぱり、そんな白い服だと気になる。何て言うか、俺に気を使って汚れでもしたら、何か申し訳ない……」

「フフフ……大丈夫よ。汚れてもクリーニングに出せば良いし、転んだりするヘマはしないわ。ありがとうね松本君」

 カオルなら五秒で横のドブにすっころんでしまいそうな台詞だが、神瀬が言い切るのなら大丈夫なのだろう。

 そんな気がする。

「……」

 ふと思ったのだが、こんな人気のいない所に男を呼び込んで神瀬は何も思わないのだろうか? 

 この場にはあのムキムキ男もいないし、万が一助けを呼ぼうにもネズミと例の黒い虫ぐらいしかいないであろう。

 例えここが神瀬にとってホームグラウンドだったとしても、普通は男である俺のことを警戒して当然だと思う。彼女が普通かどうかは別の問題だが……

 それとも防衛の手段を持っているのか?

 逃げればまけると考えているのか?

 以前の俺みたいにスタンガンや防犯スプレーとか?

 何にせよ、俺は女を急に後ろから襲い掛かるような反社会的行為に至るつもりはない。それぐらいの道徳心はわきまえているつもりだ。

 だからせめて、女性の胸を条件反射的に目で追いかけてしまうのは許して欲しい。

 これは男の性なんだ。


「松本君」


 良からぬ妄想に突入しかけた時だった。前方を向いたまま神瀬が俺に語りかけてきた。俺は心を読まれたのかと何故か咄嗟に仰け反ってしまう。

「な、なんだ?」

「私の目的を知りたいって言っていたわね」

 当然だが俺の心の中の話ではなかった。

 気を取り直して、彼女はついに彼女自身の話をしてくれるらしい。

「あ、ああ……」

 俺は彼女から見えないのを承知で一つ頷く。すると彼女は話し始めた。

「私はね、この世界のしんを知りたいの」

「……真?」

 真ってなんだ?

「あー……神瀬さん。それはどういう意味なんだ? この世界の真っていうのは、ことわりとか真理しんりっていう意味なのか?」

「そうね。どちらかと言うと真理の方が近いわね」

 と言われても、真理という物自体が何なのかが明確ではない。

 何を持って真理なのか。

 何故彼女はそんなものを知りたいのだろうか?

 俺の中の疑問が頭の中で渦巻いていると、彼女はゆっくりと話始める。

「私はね……離人症なの」

「りじん症?」

 聞き慣れない病名を聞き返す。

 彼女が言うと本当にそんな病名があるのか疑わしくなってくるが……

 神瀬は続けた。

「自分が自分ではなくなる病気って言うのかしら……私のことを上から見ている誰かがいる。その誰かが本当の私なのではって思っているのよ」

「……どういうことだ?」

「ここにいる私を操作している誰か。その誰かが私を見下ろしていると錯覚している。それが私の抱えている心の病ね」

 ……

 気のせいじゃないのか……と言いたい所だが、少しばかり分かるような気がした。

 俺も幼い頃は映画に熱中していた。その映画に没頭して、その作品の世界に気持ちが入り込んでいた記憶がある。

 入り込み過ぎて映画の中にいる主人公こそが本当の自分で、映画を見てる自分がフィクションなのではないか?

 そんな疑問を思ったこともあったが、年が経つにつれて此処こそが俺達のいる現実なんだと理解していった。

 神瀬の抱えた病気とは程度は違うかもしれない。だが、彼女の優雅に靡く髪を見つめながら何となくその気持ちを思い出してしまう。

 彼女は続ける。

「……そんな訳ないっていうのは、病名を聞いてから理解はしているわ。普通に考えれば、私の感じている物が異常であるって言った方が理にかなっているもの。ここが現実であることも理解はしているつもりよ」

 彼女はここが現実であることを理解している。

 なら何故……

「……じゃあ、何故さっきのシミュレーション仮説って奴を話した? あんな話は今関係ないだろ?」

 俺の疑問符に神瀬はフフと笑う。

「確かめたかったのよ」

「確かめたかった?」

「ええ、本当にここがフィクションなのかどうかを……貴方なら知っているんじゃないかって」

 俺の頭痛が再発しそうになった。

「そんなことを何故俺に聞く? 俺が知ってる訳が……」

 しかし、俺の言葉は遮られる。

「私のパスワードを知っていた。それが貴方でなくてはいけない理由よ」

 彼女は薄暗い中で振り返りはしないが、こちらに目を向けた。

 パスワード……

 このパスワードは彼女の頭の中にしかない暗号で、世界の終わりの時だけに伝達する暗号だ。

 パスワードの言葉に意味は無い。 

 このパスワードを覚えている人物に意味がある。

 つまり俺だ。

 記憶の継続をする人物を探していたのだろう。

 彼女の横顔が薄暗く移る。その目は細め、口元は見えづらいが頬が上がっている。

 まるで、狐が笑っているように思えた。

「私は昔から疑問に思ったのよ。本当に私が離人症という病気なのか。この世界が私に嘘を吐いているのではないか。その真相を私は探している」

 暗闇の中に薄く彼女の瞳が移る。それはこの下水道の先よりも暗く、そして吸い込まれてしまいそうな程深く見えた。

「私は到達したい。私を見つめているその誰かの次元に。周りが全て嘘で塗り固められているのなら、私は世界の全貌を知りたい。ただそれだけよ」


 ……


 神瀬がやってきた今までの言動。

 彼女が今、本音で話しているのだとしたら、何か話が繋がり始めてきた。

 だが、分からない所もいくつかある。

「なあ……もしかして、アンタは世界の終わりのことをアンタの言う世界の真理だと思っているのか?」

 今まで警戒していたが、世界の終わりを知っている前提で彼女に話を投げかける。すると彼女は前を向き歩きながら答えた。

「フフ……ちょっと惜しいわね。私はその更に外側を探していると言えば良いかしら」

「外側?」

「世界五分前仮説の外側を、神しか覗けない領域を」

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