第11話 アムリタの中で

 アムリタを飲み込んでしまわないよう、もがく僕の前に、逆さまにソーマが浮かぶ。


「大丈夫。怖くないよ。みんな一つになれば、悩みも苦しみも無くなるんだから」


 儀式の時より、少し子供っぽい語り口。驚いて空気を吐き出してしまうが、苦しくない。口内からも鼻腔からも、直接甘く爽やかな感覚が広がって行く。


「ほらね。わたしの神様は酷い事なんかしないもの。奏氏は何を悩んでいるの?」


 無邪気な笑顔。僕の悩み? 僕は何を悩んでいるんだろう……


「そう、記憶が無いの」

 心配そうに眉をひそめるソーマ。


「でもね。記憶なんか無くったって、一つになればみんなの想い出が奏氏の想い出だよ。怖いのも不安もすぐになくなっちゃうよ」


 満面の笑みで両手を差し伸べる幼い巫女。


「さあ、心を開いて」


            §


 目の前にアスキスが浮かんでいる。


「何でお前が泣くんだよ」

 ぶっきら棒に毒突く黒衣の少女。


「泣いてるのはアスキスの方だろ」

 この強情っ張りめ! それとも、自分で気付いていないのか? 


「もう止めても良いだろ。世界を一人で背負い込む必要はないよ。ジジとか、他の連中に任せればいい。神智学研究所は、そのための組織なんだろ?」


 僕の言葉じゃないけれど、僕が言いたかった言葉。……本当に?


「はあ? 世界? 何言ってんだお前」


 顎をしゃくり下目使いで、心底侮蔑したように吐き捨てる。


「あたしはあたしの為に神殺しをしてるんだ。千年物の狂人の為にでも、ましてや顔も知らない連中の為でもない。どうでも良い他人の為に命を懸ける程、あたしは酔狂じゃない」


 鼻を鳴らしてそっぽを向く。眉根にしわを寄せ、その碧の瞳には強い光を浮かべ。どうしてその顔を歪めてばかりいるんだ? 笑えば良いのに。その貌に微笑みを浮かべれば、どんな男だってたちまち恋に落ちるだろうに。もっと華やかな服を着て、流行の映画でも観て。それなのに、戦って、戦って。傷だらけになって、夢にまでうなされて。

 白い手と銀色の髪が脳裏をよぎるも、意識の端に追いやって見ないようにする。


「それでも、神々の顕現を許したら、世界の有り方が変わってしまう。アスキスだって無関係でいられないじゃないか」


 気付くと、白衣の男が語ったのと同じ言葉を口にしている。アスキスが信徒でも、ただの贄である事も拒絶するなら、結局は抗う者として――


「一番欲しい物が手に入らない世界には、意味なんかないんだよ!」


 全てを拒絶する激しい意志。

 たった一つのものを強くただ強く渇望する。



 銀貨。


 銀貨銀貨銀貨。


 優しい銀貨。綺麗な銀貨。


 無様に壊れて擦り切れて。

 全てを無くして消えかかっていたあたしを、

 繋ぎ止めてくれた暖かい手。


 あたしだけの銀の月。


 大切な。とても大切な。


 たった一つの。



 閉じ込められていたアスキスの想いが溢れ出してくる。

 全部解ってしまった。いや、僕が見ようとしなかっただけだ。 

 今まで解らない振りをしていたものが、残酷なまでに詳らかにされる。

 アスキスはただ一人、あの銀色の少女の為だけに戦っている。


 なんだ。傍若無人で傲岸不遜。忌神の残骸に飲み込まれかけながら、それでも踏ん張って神を毀して歩く。

 いつも強気な無敵の魔女、そう思っていたのに。これじゃあ大事な物を失くして泣いてる、ただの子供じゃないか。


「何でお前が泣くんだよ」

 ぶっきら棒に毒突く黒衣の少女。


「泣いてるのはアスキスの方だろ」

 繰り返されるやり取り。永遠に交わらない平行線。


 それでも、その失くしたものが、自分の存在全てを投げ出してでも取り戻したいものだとしたら。切り離されても求め合う、半身とも言うべき存在だとしたら。


 どうしてそれは僕じゃないんだろう。僕ではその代わりにはなれないのか。


 僕では無い僕が、狂おしいまでの僕の煩悶を、同情するでもなく嘲笑するでもなく。冷静に観察し続けている。


 この少女には大事な人がいて、その人はもう半ばこの世界の存在じゃない。

 勝てっこない。

 いつの間にか僕は、この小さな魔女に――


            §


 巨大な水球が、不意に重力のくびきを思い出したかのように崩れる。

 地面に投げ出された僕は、咳き込みながら肺にまで浸入したアムリタを吐き出す。


「何で邪魔するの!?」


 緑の月の神の巫女が、驚きと共に非難をぶつけてくる。でも、何で僕になんだ? アスキスじゃないのか?


 黒衣の魔女は風を操りドレスを乾かすと、左手を腰に。右手を突き出し、決め顔で巫女を指す。


「誰を相手にしてると思ってるんだ、小娘!? あたしを相手に精神戦なんざぁ、100年早いんだよ!!」

「この……化物ッ!」


 ソーマの胸で小瓶が輝きを増し、上空でハスターと喰らい合う緑の月が、翠に輝く雨を降らせる。それを浴びた月詠の、信徒たちの目が翠に輝き、人間離れしたスピードでアスキスに襲い掛かる。


「上等!」


 獰猛に嗤うアスキスの操る風が信徒達をなぎ払う。ハスター自身がその力を行使しているためか、広範囲でも強力でもない。魔女はダンスでも踊るような軽やかな動きで信徒達の攻撃をあしらいながら、その拳に風を乗せ月詠を吹き飛ばし、その足に風を纏い付かせ信徒を蹴り飛ばす。地を這い獣じみた動きで死角から襲い掛かろうとしていた信徒は、使い魔が放つ高圧の空気の塊で弾き飛ばされた。僕は巻き添えにならないように逃げ回るだけで精一杯だ。


「……やめろ! 来るな! ……来ないで!!」


 信徒を蹴散らしながら歩み寄る魔女に、へたり込み引きつった悲鳴を上げる巫女。


「温いぞ、小娘。お前らの神、アキシュ=イロウの力はこの程度か?」


 もはや会場に立っている者はゴスロリの悪魔のみ。信徒達は水溜りに突っ伏し、意味不明な呻き声をあげるか、泥の中で壊れた機械仕掛けのようにのたうつ事しか出来ない。全身を小刻みに震わせ、目に涙を浮かべて悪魔を見上げるソーマ。


「助けて……お姉ちゃん!」


 追い詰められたソーマが思わず上げた声に、意識を取り戻したセブンライブスが反応する。だがもう、銃を構えるどころか立ち上がる事さえままならず、アムリタで出来たぬかるみの中でもがくのみだ。


「たすけて!! かみさま!!」


 幼い巫女の絶叫に、地上に近付きつつある緑の月が偽足を伸ばす。


「甘えんな小娘!」

「ひうっ!」


 そのさまを眺めていたアスキスが、巫女を見下ろして一喝。怯え切ったソーマは喉の奥で悲鳴を上げる事しかできない。


「あたしは魔女だ。お前のような巫女とは違う。神に選ばれたんでも、悪魔に誑かされた訳でもない。自ら選び、全て知った上でなお、そうありたいと願った存在だ」


 黒いゴシックドレスの肩の部分を突き破り、古木の枝のようにも、翼のようにも見える器官が形成される。それからも、ドレスの袖口からも、純白の羽根が零れ落ちている。宮坂は、屍骸であろうが欠片であろうが、神はそこに存在するだけで、周囲に影響を及ぼしてしまう存在だと言った。アスキスは力を使いすぎた代償に、侵食されかけているのか?


「お前は選んだのか、巫女としてそのあり方を。応えろ!」 


 幼子そのままに、いやいやをするソーマ。異形と化した魔女の姿を目の前にし、人である事を捨てるまでの覚悟は出来なくなったのだろう。


「……もう……止めてくれ……」


 泥塗れになりながら、必死ににじり寄ろうとするセブンライブスが声を上げる。


「……おね……ちゃあん!!」


 手放しで泣き出しながら、銃使いに駆け寄り縋り付くソーマ。その身体もペンダントトップも、すでに翠の輝きを失っている。此処からでは、アスキスがどんな表情を浮かべて二人を見ているのか、うかがい知る事が出来ない。空から伸ばされかけた緑の月の偽足は、対象を見失ったかのようにさ迷っている。

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