四章 先生だぁいすき

 不幸な女の子、それがあたしだ。

 あたしの不幸の始まりは、お母さんの不幸の始まりでもある。無責任な男の人のせいでお母さんのお腹に宿ってしまった望まぬ赤ちゃん、それがあたしなのだ。

 あたしの最初の記憶は、お母さんの泣き顔と、割れたガラスコップと、ぐちゃぐちゃになったオムライスで始まる。

 あたしがいることを理由に、お母さんと付き合っていた男の人が出て行ってしまった場面だ。ドアの前、後ろ姿の男の人にお母さんが追いすがる。けれど、あっさりと蹴り飛ばされてしまって、ドアがバタンと閉まる。

 ドアの前で取り残されたお母さんは数分間すすり泣いていた。そして、ようやく泣き止んだと思ったら怖い顔をしてあたしを振り返った。

「この疫病やくびょう神、あなたなんて産まれてこなければ良かったのよ」

 完全に八つ当たりだと思う。

 お母さんは酷いことをいっぱいあたしに言った。

 泣き崩れたお母さんの顔は化粧が溶けてぐちゃぐちゃだった。目の下の辺りを蹴られたせいで、ほっぺたがぷっくり腫れていた。

 その日からお母さんは事あるごとにあたしに「産まれてこなければ良かったのよ」と言うようになった。あたしは自分が捨てられることを恐れながら、ビクビクと育った。

 それからも何回か、お母さんは男の人を家に連れてきた。男の人の家に住んでいたこともある。その度に、あたしは酷い目に会ってきた。


 トラックの運転手をしていると言う男の人の家に住んでいたとき、あたしは毎日のようにその人に殴られていた。

「邪魔だなあ、そんなとこに座ってるんじゃねえよ」

 男の人は額に青筋あおすじを浮かべてあたしを見下ろしたかと思うと、平手打ちであたしを突き飛ばした。そんなことが毎日のように続いて、顔に、体に、それらをかばう腕に、傷は増えていった。

「あなた、留美るみに何かしてるでしょ?」

 ある日、仕事から帰ったお母さんが男の人に尋ねた。お母さんはあたしの体の傷を数えながら、すごい剣幕でその人を睨んだ。

「知らねえよ。そのガキがどっかですっ転んだんだろ!」

「そんなわけ無いわ。この傷なんて、指の形にあざが出来ているじゃない!」

「知らねえって言ったら知らねえんだよ。そんなに俺が不満ならここを出て行けよ」

 男の人はそう言ってお母さんを突き放すと、テレビを見始めた。お笑い番組が放送されていて、笑い声が寂しく部屋に反響した。

「留美、行くわよ!」

 あたしはお母さんに手を引かれて家を出た。

 夜中に家を飛び出したから、あたしたちは行き場所に困ってしまった。お母さんは二十四時間営業のファミリーレストランに入り、あたしを膝に寝かせて朝を待った。

 あたしのせいでお母さんが困ってる。それが申し訳なくて、小さな声でしくしく泣いた。

 ごめんなさい、お母さん。あたし、良い子になるから。だから、あたしのことを嫌いにならないで。お願いだから、あたしのことを捨てないで。

 お母さんのスカートに涙が落ちて、小さな染みができた。

 それから何日か、あたしたちは町を歩いた。まだヨチヨチ歩きしか出来なかったあたしは、だいたいお母さんに抱かれていた。お母さんはときどきあたしを見て「あなたさえいなければ」と呟いていた。


 あたしたちは郊外のワンルームに住み始めた。いままで通っていた保育園から離れてしまって通えなくなったので、あたしは家にいることが多かった。お母さんは朝早く家を出て夜遅くに返ってくるという毎日だった。一人ぼっちのあたしは、寂しくて泣いてばかりいた。

 そこに転がり込んできたのが、次の男の人だ。たしかパチンコ屋さんで働いているという人だった。いつも無精ひげを生やしていて、その頬をすり寄せてくる。あたしはそれが嫌でたまらなかったけど、お母さんはこの人を気に入っていた。

秀夫ひでおが家にいてくれるおかげで助かるわ。留美の面倒まで見てもらってごめんなさいね」

「いや、良いんだよ。家のことは気にせずに、祥子しょうこは仕事を頑張ってね」

「ええ、行ってくるわ」

 今度の人との関係はかなり長く続いた。あたしが三歳になり幼稚園に入っても、秀夫はずっと家にいた。いつの間にか、お母さんがかせいで、そのお金が彼の酒代さかだいに消える、という構図が出来上がっていた。それはきっと良くない状態だと思うけど、お母さんは彼にのめり込んでいた。

 家計は日に日に切迫していった。お母さんは昼のバイトと夜中の仕事を掛け持ちし始めて、ほとんど働き詰めになった。ところが秀夫はというと、酒を飲む量が増え、二日酔いとかで仕事を休む日が多くなり、やがて仕事を辞めてしまった。

「お酒ばかり飲んでないでちゃんと働いてよね!」

「ああ、分かってる。明日にでも職安に言ってみるよ」

「嘘ばっかり、昨日もそう言ってたじゃない」

「だってさ、この間も面接で断られて、心が折れそうなんだよ」

「だいたい、前のパチンコ屋だって、あんたが酒に酔って無断欠勤ばかりするから辞めさせられたんじゃない」

「あれは店長が悪いんだ。俺をコケにしやがって。そんなだから、俺は酒に逃げるしかなかったんだよ」

「でも、もう辞めたんだから良いでしょ。それより早く次の仕事を探してよ」

「分かってるよ、分かってるから」

 秀夫はお母さんに抱きついて、力ずくでキスをした。

「んっ、ちょっ、ちょっと。留美がいるから、駄目よ」

「真夜中だから留美ちゃんはもう寝てるよ」

 秀夫がお母さんに馬乗りになる。お母さんはしばらく抵抗していたものの、すぐに抗うのを止めてしまう。そして、二人はからみ合いながら、互いを慰めあう。

 いつかは確実に壊れてしまう関係だった。秀夫は不甲斐ふがいない自分を酒でごまかし、お母さんはそんな秀夫の駄目さから無理やり目を背けて、明日こそはと期待し続ける。

 生活は苦しくなる一方で、二人の心も日増しに荒み続けていた。すでに末期がんのみたいな状態だった。

 そんな関係を断ち切る原因を作ったのは秀夫だった。

 ある日曜日、その日もお母さんは仕事で家におらず、秀夫は朝からお酒を飲んでいた。あたしは部屋の隅で一人、人形遊びをしていた。

「おーい、留美ちゃーん」

 秀夫が甘い声であたしを誘った。

「なあに?」

「いいから、こっちにおいでよ」

 あたしは人形を抱きかかえながら、秀夫のところへよちよち歩いた。

「これを飲んでごらん。美味しいよ!」

 秀夫は日本酒が半分ほど入ったカップにオレンジジュースを注いで、あたしに手渡した。

「うえー、苦いー」

 カップに口をつけてみたものの、あたしはすぐにペッペッと吐き出した。

「好き嫌いは良くないなあ。ほら、飲んで」

 あたしは秀夫に押さえつけられて、カップを口に押し付けられ、残りのお酒を無理やり飲まされた。仕事探しがうまくいかない鬱憤うっぷんをあたしにぶつけたというところだろう。お酒に酔ってゲーゲー吐いているあたしを、秀夫はせせら笑いながら見下ろしていた。

 あたしがぐったりしている所にお母さんが帰って来た。

「留美、どうしたの?」

「大丈夫?」

「お酒の臭いがする!」

 お母さんがあたしを担ぎ上げ、あたしは病院に連れて行かれた。

 治療はすぐに済んで、あたしは元気になった。

 あたしとお母さんが家に帰ったとき、秀夫はまだお酒を飲んでいた。

 お母さんは秀夫と口論になった。口論と言っても、秀夫は一言もしゃべらなかった。お母さんが秀夫に怒りをぶつけるだけの会話が夜通し続いた。これがきっかけで、お母さんは秀夫と別れた。

 またあたしとお母さん二人きりの生活が始まった。

「留美のせいで、私の人生はめちゃくちゃよ」

 秀夫を家から追い出した後、お母さんはそう言って泣いていた。

「あなたさえいなければ、私はやり直せるのに。あなたさえ産まれてこなければ、私は……」

 お母さんは恨めしそうにあたしを見下ろして、力の無い手のひらであたしの頭を数度叩いた。ぜんぜん痛く無かったけど、あたしはうわんうわんと大声で泣いた。

 ごめんなさい。悪い子でごめんなさい。お母さんを困らせてばかりでごめんなさい。

 自分がいつ捨てられてもおかしくないと、あたしは怯え続けていた。お父さんのいないあたしにとって、家族はお母さんだけだった。お母さんがあたしを見捨てたら、あたしは生きていくことが出来ない。だから、あたしはいつもお母さんの顔色ばかりうかがっていた。


 小学校から帰ってドアを開けると、家の中からふんわりと甘い香りが漂ってきた。玄関で靴を脱いで、廊下を歩き出すと、油がパチパチなる音まで聞こえてくる。

「留美ぃ、お帰りなさーい」

 歌うような声がキッチンから聞こえてくる。お母さんの声だ。

「留美、今日は帰りが早いのね!」

「うん、美紀ちゃんが休みで、今日は居残り遊びをしなかったから」

「ふふふ、ちょうど良かったわ」

 お母さんはガス台の横に置いたお皿を持ち上げて、あたしに見せた。

 お皿の上にはちょっと不恰好ぶかっこうなドーナツが乗っかっていた。ひしゃげた形のや、穴がふさがってしまっているものもある。

「美味しそうでしょ。これが普通ので、こっちが紅茶味、それからこれはココア味よ!」

 黄土色、茶色、栗色の地味じみなドーナツを指差した。

「わあい、あたしね、お母さんの作ったドーナッツが大好き!」

 あたしは大げさに喜んだ。お母さんがそれを見て満足そうに肯いた。

「ちょっと待っててね、もうすぐ全部が揚がるから。そうしたらお茶にしましょ」

「うん、じゃあ、手を洗ってくるね」

 あたしは自分の部屋へ行き、ランドセルを下ろした。


 お母さんが康弘やすひろさんと結婚したのは、あたしが五歳のときだった。あたしが幼稚園を卒園して小学校に入るタイミングで、あたしたちは康弘さんの家に引っ越した。そして、あたしたち三人の生活が始まった。

 康弘さんがお母さんと結婚したことで、あたしには生まれて初めてお父さんが出来た。

 あたしはお父さんとどう接すればいいのか分からなくてときどきまごついた。

 けれども、それよりもっと戸惑ったのがお母さんの変化だった。

 お母さんは康弘さんと結婚してから急に優しくなった。あれだけあたしのことを嫌っていたはずなのに、最近はあたしのことを「宝物」だと言っている。そのお母さんの変わり様に、あたしは困惑した。

 どうして急に優しくするの?

 産まれてこなければ良かったって言ってたのに。

 お母さんは本当に優しくなったの?

 ずっとあたしを好きでいてくれるの?

 またいつか、あたしを嫌いになるの?

 あたしの中には不安がいっぱいだった。また嫌われてしまうのが怖かった。だから、あたしはこれまで以上に、お母さんの顔色ばかりうかがって生活するようになった。

 自分から進んでお手伝いをする。優しくしてもらったら大げさなほど喜ぶ。勉強は苦手だけど、悪い成績だけは取らないように気をつける。寝坊はしない。お母さんを困らせるようなことは絶対にしない。あたしは一生懸命に良い子になろうとしていた。


 あたしは石鹸を手に取ると、手のひらの上でくるくる回した。オーガニックとかいう石鹸はなかなか泡が立たないから、水で濡らしながらくるくる回し続ける。すると、とろっとした泡が立ち始める。その泡を手の甲や指、手首にまで伸ばしてよく擦る。雲のグローブをつけたみたいに、手は真っ白もくもくになる。

 ジャー。勢い良く泡を流すと、手はつるつるピカピカだ。

「留美ぃ。ドーナツが出来たわよ。紅茶を入れるからリビングへいらっしゃい」

「はーい、いま行くー」

 キッチンから聞こえる呼び声に返事をしてから、あたしは急いでリビングへ行った。

 リビングへ行くと、テーブルの上にはもうドーナツの乗った皿と紅茶の入ったポット、軽く暖められたティーカップが並べられていた。

 ポットの隣には小さな砂時計が置かれていて、それが紅茶の抽出時間を計っている。ガラスの中では水色をした砂粒がさらさらと流れ落ちて、下の段になだらかな山を作っている。くびれの上下にある砂の量がほぼ同じくらいなので、あと一分ほどで砂が落ちきり、紅茶は飲み頃になる。

「留美、さあ、椅子に座って!」

「はーい、お母さん」

「お母さんじゃなくて、ママって呼んで欲しいな!」

「だって、お母さんはお母さんだもん」

「でも、もっと甘えて欲しいのに!」

 お母さんは頬を膨らましながら駄々をこねた。お母さんはこのごろ、あたしにママって呼ばれたがる。あたしはこれまでずっとお母さんって呼んできたから、ママなんて呼びたくない。でも、あんまりイヤがって嫌われたくもない。あたしは言葉に気をつけながら、駄々をこねるお母さんをなだめた。

 砂時計の砂が落ちきろうとしている。

「あっ、お母さん。砂が全部落ちるよ!」

 お母さんが慌てて紅茶をカップに注ぎ、おやつの準備が整った。湯気立つティーカップから柑橘かんきつ系のさわやかな香りが立ち上って、ドーナツの香ばしさと交じり合うと、まるでケーキ屋さんにいるようないい匂いが部屋に広がった。

「さあ、出来たわよ。召し上がれ」

 お母さんはにっこりと笑ってあたしを見た。あたしは大げさに「わあい」と喜んで、ティーカップを片手にドーナツに噛り付いた。

「おいしー」

 あたしはバクバクとドーナツを食べ進める。

「もう、留美ったら、食いしん坊なんだから」と、お母さんは少し呆れながら、でも愛おしそうに、ドーナツを頬張るあたしを見つめた。

 お腹がいっぱいになるまでドーナツを食べた。あたしがそうしているとお母さんはとっても嬉しそうに笑ってくれるのだ。だからあたしは無理をしてでもいっぱい食べる。

 ドーナツを食べ終えたあたしはお茶を飲んでから席を立った。

「あたしは部屋で宿題してくるね」

「留美は偉いわね。でも宿題なんて程々でいいのよ」

 お母さんは甘やかすようなことを言うけれど、あたしはその言葉に甘えずに部屋に行く。勉強は嫌いだけど、悪い成績を取るわけにはいかない。それに、早く一人になりたかった。

 部屋に入りドアを締め切ると、あたしはふうーっと息を吐いた。お母さんとは仲良くしていたい。だけど、気を遣い続けるのはすごく疲れる。こうして一人きりになったときだけ、あたしは気を抜いてくつろげる。

 あたしの部屋は全体的に明るいピンク色をしている。壁紙もカーテンもピンク色で、絨毯じゅうたんなんてハート型をしている。窓際にはぬいぐるみが並んでいる。

 玩具のような勉強机。おままごとセットみたいなテーブル。ふわふわレースのベッドはまるでお姫様のベッドだ。

 この部屋にあるものは何から何まで可愛い。どれもお母さんが選んだものだ。お母さんはあたしの部屋を可愛らしく飾りつけたり、あたしに可愛い服を着せたりするのが好きだ。あたしは子どもっぽくて好きじゃないのに分かってくれない。

 あたしはベッドに腰を下ろし、端に寝かせていたピピちゃん人形を抱き寄せた。


 五坪ほどの手狭なオフィス。壁際のスチールラックには心霊関係の本が詰まっている。部屋の隅に縮こまるように置かれたオフィス机は、黄色くくすんでいて汚らしい。その手前に樹脂製の机と布のソファーを備えた応接セットがあるのだが、これもまた安っぽくて見栄えがしない。

 何となくかび臭い部屋の中に、けたたましい音で電話が鳴り響いている。

 鳴り止まない電話の前で、蓮実はすみなつめは目を丸くしていた。すこし前まで、この電話はまったくと言っていいほど鳴らなかった。壊れているんじゃないかと疑ったこともあるほどだ。ところが近頃は引っ切り無しに鳴り続けている。

「お電話ありがとうございます、蓮実はすみ心霊しんれい相談所です」

「もしもし、蓮実先生ですか?」

「はい、そうですが」

「あの、家でおかしなことが起こっていて、一度見ていただきたいのですが」

「おかしなことですか?」

「ええ、何て言うか。あの、ポルターガイストというやつみたいで」

「お住まいはどこですか?」

 夏に、よくある心霊特番がテレビで放映された。その番組になつめは霊能者として呼ばれた。そして、番組で用意されていた数件の心霊現象の謎をあっさりと解き明かした。それがきっかけとなり、なつめはその後も何度かテレビに出演した。

 テレビの影響力と言うのは偉大だわ。

 そう考えてからなつめは首を振った。

 いいえ、違うわね。偉大よりも過大と言った方が正確だわ。

 たった数回の放送でなつめの名前は関東一円に広まり、関東中から依頼の電話が殺到しているのだ。依頼がないのも困るが、これだけ多いと対応しきれない。なつめはスケジュール帳に依頼内容を書きとめながら、ため息を吐いた。

 電話を切ったと思ったら、また次の電話がかかってきた。

 いっそのこと、電話線を抜いてしまいたい。

 バンッ。豪快な音がして、相談所のドアが開いた。ドスドスと無遠慮に入ってくるのは茂木もぎだ。彼は人材派遣会社を経営しており、若くして大成功を収めている。実力があって気もいい男だが、かなり厚かましいのが難点だ。

「ご無沙汰してます」

 招いてもいないのに勝手に部屋に入ってきた茂木は、ニヤニヤ笑いながらソファーに腰を下ろした。手土産の一つも無い。なつめはオフィス机にもたれながら、茂木を見下ろした。

「なつめさん。お仕事の調子はどうですか?」

「見れば分かるでしょ、この通りよ」

 なつめは電話を指差した。相変わらずベルが鳴り続けておりうるさくて堪らない。

「それはそれは、繁盛しているようで良かったです」

「良くないわよ。こっちは私一人しかいないのに」

「仕事が入らないよりは良いでしょ?」

「まあ、そうだけれど」

「感謝してくださいよ。テレビの仕事を紹介したのは僕なんですから」

「あら、あなたのコネ作りに利用されたんだとばかり思っていたわ」

「持ちつ持たれつってことで良いじゃないですか!」

 なつめのテレビ出演は茂木が持ってきた仕事だった。彼は心霊番組を企画していた制作会社になつめを紹介した。その番組の中でなつめは事件を解決し、本物の霊能者としてもてはやされた。実際の事件を解決したとあって番組の評判は上々だった。そのおかげで、茂木はその番組に携わった大手制作会社の社長に取り入ることが出来たらしい。

 そういった経緯があって、なつめの下には絶えず仕事が来るようになった。一方で、茂木は制作会社と社員派遣の契約を結び、多額の中間マージンを稼いでいるようだ。

 茂木と話している間も、電話は断続的に鳴り続けていた。

「出なくていいんですか?」

「別にいいわよ」

「仕事の依頼かも知れませんよ」

「どうせ三ヵ月後まで予定はいっぱいだから」

「すごいじゃないですか!」

「管理が大変で困っているのよ」

「従業員を雇ったらどうです。何ならうちから派遣しますよ?」

「結構よ。このオフィスに人が増えたら居場所が無いでしょ」

「いっそオフィスを変えたらどうです?」

「無理よ。お金だってないし」

「ここの家賃、おいくらでしたっけ?」

「十万とちょっと」

「この狭さでですか?」

「心霊相談所って言うと嫌がられるのよ。それで足元を見られるのよね」

「斜向かいの山河やまがビルって所なんてどうです?」

 茂木はソファーを立ち、窓際へ行き、ブラインドを開いた。窓の外には煤けた色をしたビル群がある。日中この辺りは死んだように静かで、もんわりと煙たい感じがする。

「ほら、あのビルですよ」

 茂木は五階建てのビルを指差した。外壁に吊られた袖看板にはテナントのロゴが書かれている。マッサージサロンや消費者金融など、各階に数軒ずつ店が入っているが、二階の看板には何も書かれていない。白いボードの上にテナント募集中の張り紙が出ている。

「あの二階、以前はクラブだったんですよ。アヤナちゃんって言う可愛い子がいて……」

 茂木は鼻の下を伸ばしながらアヤナちゃんの話を始めた。よほどその店に通いつめていたらしく、茂木の話はだらだらと際限なく続いた。

「それで、そのビルがどうしたの?」

 聞くに堪えないような下世話な話の連続になつめは苛立っていた。怒りを忍ばせた声は何故か低くなる。その声を聞いた茂木は慌てて話を戻した。

「そのクラブの店長が殺されたんですよ。ほら、先月ちょっと騒ぎになったでしょ?」

「そう言えば、何か事件があったわね」

 このあたりでは暴力事件は日常茶飯事さはんじだ。殺人事件も珍しくは無い。

「店長が殺されてテナントが空いたんですけど、借り手がつかないらしいんですよ」

「殺人事件があった場所は嫌でしょうね」

「でも、なつめさんは気にしないでしょ?」

「そんなの気にしていたら、霊能者は生きていけないわ」

「だったら、どうです?」

「私にその部屋を借りろって言うの?」

「広さはここの六倍以上、家賃は交渉しだいですけど、二十万くらいにさせようと思います。あの広さで二十万はまずないですよ。いかがです?」

「嫌よ!」

「どうしてですか?」

「分からないの?」

「だって、なつめさんならあそこに幽霊がいないのは分かるでしょ。だったら、いわくつきの物件でも平気じゃないですか」

「いくら平気でも、わざわざいわくつきの部屋を借りたいとは思わないわよ」

「そうですか。いい話なのに」

「どうせまたコネ作りでしょ?」

「あっ、バレちゃいましたか!」

 どうやら茂木はビルの管理会社とつながりを持ちたかったらしい。いわくつきの部屋がいつまでも空きテナントだと、他の階のテナントまで逃げかねないから、そうなる前に借主を見つけて欲しいと頼まれていたそうだ。

「あーあ、上手くすればデカイ取り引きができると思ったのに」

「それはご愁傷様」

「ウェヌス不動産って言うとああいう夜の店専門の不動産屋ですけど、本部は別にあるんですよ!」

 茂木は声を潜めながら話した。彼の口から出たのはなつめでも知っているほどの大きな会社の名前だった。

 不動産業の大手と取り引きできるチャンスをふいにした直後だと言うのに、茂木の声には落ち込んだ様子が無い。その会社との取り引きはすっぱり諦めて、次のビジネスを思案しているのだろう。異様なまでの切り替えの早さだ。

 本当に茂木は切り替えが早い。先週まではあの女の子の事件に固執していたと言うのに、もうその話にすらならない。呆れたなつめは長いため息をついた。


 机の上には社会科の教科書とマス目の入ったノート、筆記用具が散らばっている。黒板の前で大和やまと先生が浄水場の話をしている。すごく退屈な授業に、クラスのみんなが眠たそうにしている。

 ふぁーあ。隣の席では西尾にしお君が大きな口を開けてあくびをした。

 教室の中は静かだ。説明をしている大和先生以外はお喋りをしている子もいない。チョークが黒板に当たる音が、教室の中ほどの席にいるあたしにも聞き取れる。校庭では六年生たちが短距離走の練習をしているので、十秒置きくらいに一度ずつ、笛の音が聞こえる。

 カチ、コチ、カチ、コチ。時計の秒針がやけにゆっくり進んでいる気がする。

 一時間目が算数で、二時間目が社会。子どもにとってはかなりハードな組み合わせだと思う。眠たくなって当然の時間割だ。

 だけど、あたしはぜんぜん眠たくならなかった。

 イライライライラ。

 退屈な授業を受けながらもあたしの頭の中は沸騰してしまいそうだった。だから、あたしは落ち着きなく足を組み換えたり、鉛筆を回したり、消しゴムを転がしたりしていた。

「いいか、ここからが大事だから、しっかりノートに取るんだぞ!」

 大和先生の授業はだらだらと続いている。川や湖から取水しゅすいしたら、沈殿池ちんでんち、ろ過池かちで水を綺麗にする。飲める水ができるまでには五時間から六時間もかかるのだそうだ。

 黒板には白いチョークと黄色いチョークで授業の要点が書かれている。あたしはBの鉛筆と赤青鉛筆を持ち替えながらノートを取った。いつもは無視して書かないような長ったらしい説明文も省略せずに写す。

 別に真面目になったわけじゃない。そうして他の事に集中していないと大声で叫びだしてしまいそうだった。あたしは授業に集中することで自分の気を静めようと努力していたのだ。

 長い授業が終わって休み時間になっても、あたしのイライラは続いていた。

三城みきちゃん、どうしたの?」

 いつもと様子の違うあたしを心配したのか、親友の美紀みきちゃんが顔を覗き込んできた。

「ううん、別に何でもない」

「でも、今日は様子が変だよ!」

「大丈夫だから、放っておいてよ!」

「本当に大丈夫なの?」

「大丈夫だって言ってるでしょ!」

 ついむきになって、あたしは大きな声で怒鳴ってしまった。美紀ちゃんは何も悪くない。美紀ちゃんが心配してくれているのに、苛立ちをぶつけた私が悪い。それなのに、美紀ちゃんは、「ごめんね」と謝った。

「ううん、こっちこそ、ごめん。ちょっと今日は嫌な事があったの」

「嫌な事って何?」

「また今度ちゃんと言うから、いまは言いたくない!」

「そっか、うん、分かった」

 美紀ちゃんはぎこちない返事をして、あたしのそばから離れて行った。自分の席について、一人しょんぼり窓の外を眺めている。空を見上げたくりくりの目に、うっすらと涙の膜が出来ている。涙が出そうなのを堪えているようだ。

 心の奥がキリキリ痛んだ。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 せっかく心配してくれたのに、身勝手な苛立ちをぶつけてごめん。

 本当にごめんなさい。あたしは心の中で何度も謝った。

 美紀ちゃんはすごく優しくて、頭も良くて、とっても可愛い。そんな美紀ちゃんにあたしはいつも助けられている。美紀ちゃんは人見知りで大人しいから、あたしが助けているように見えるかもしれない。でも違う。美紀ちゃんがあたしの心の支えなのだ。

 お母さんがお父さんと結婚したとき、あたしはかなり戸惑った。男の人が家にいるだけで怖かった。それに、急に優しくなったお母さんにも怯えていた。

 そんなときにあたしは小学校に入学して、美紀ちゃんに出会った。

 慣れない家、慣れない家族、慣れない学校。あたしは不安でいっぱいだった。そんなあたしに、美紀ちゃんは穏やかに微笑みかけてくれた。とっても素敵な笑顔だった。

 あたしたちはすぐに仲良くなった。二人で一緒に話しているとき、あたしは幸せだった。美紀ちゃんのおかげであたしの学校生活は楽しくて、いろいろな不安と戦ってこれた。

 四年生になった今でも、美紀ちゃんは大親友だ。

 あたしの苗字が三城みき美紀みきちゃんの「」とお揃いだったから、あたしたちはミキミキコンビと呼ばれている。コンビと呼ばれるのが自然なくらいあたしたちは仲好しだ。

 美紀ちゃんが親友でいてくれたから、あたしはいまこうして元気でいられる。


 あたしのせいで美紀ちゃんが泣きそうな顔をしている。あたしは悲しそうな美紀ちゃんを見ているのが辛くなって、教室から飛び出した。

 二時間目と三時間目の間にある休み時間は他の休み時間よりも少し長いため、多くの子たちが廊下に出てお喋りをしたりしている。

 この学校の校舎は三階建てで、各階に二学年ずつ入っている。一階の廊下には小さな子どもたちがうろうろしていた。一二年生の子たちだ。走り回ったり、叫び合ったり、みんな元気いっぱいで、げらげらげらげら、楽しそうに笑っている。

 一年一組の教室横には通路があり、その先に下駄箱があって、そこから校庭に出られる。

 校庭の隅の渡り廊下は、特別教室棟へと続いている。渡り廊下の両脇には花壇があって、朝顔あさがおが植えられている。渡り廊下を駆け抜けると、ドリルのような形のつぼみが、風にあおられて小さく揺れた。

「あれっ、三城さんじゃないか!」

 特別教室棟に入ろうとしたところで、あたしは呼び止められた。

「あっ、大和先生!」

「どうしたんだ、こんな所で?」

「先生こそ、どうしたんですか?」

「俺はほら、次の時間の道具を取りに来たんだよ」

 先生は大きな懐中電灯と地球儀とバレーボールを抱えていた。

「それで何をするんですか?」

「これは次の理科で使うんだ。このボールが月になるんだぞ!」

 意味不明なことを言う先生に、あたしはつい首を傾げてしまった。

「それより、あと二三分で授業の時間だぞ!」

「あの、ごめんなさい。いまから樋野先生のところに行ってきます」

「樋野先生。ああ、カウンセリングルームか」

「はい、そうです」

「そうか、それなら仕方ない。帰ってくるのを待ってるからな!」

 泉小では児童がいつでもカウンセリングに行っていい決まりになっている。だから、たとえ授業中でも先生は引き止めない。「もし先生で力になれることがあれば、いつでも相談してくれよ」と、大和先生はあたしを見送った。


 樋野ひの俊憲としのりは長いため息を吐きながら、キーボードを叩いていた。もうすぐ学期末だから、一学期のカルテをまとめて報告書を作らなければならない。それがなかなか大変なのだ。

 大変と言ってもそれほど量が多いわけではない。スクールカウンセラーを訪ねてくる児童なんて一日に数人がせいぜいだ。四か月分を合わせても、来談者は二百人程度。その大半は複数回訪ねて来ているから、必要な報告書はせいぜい五十人分くらいだろう。

 診療所には一時間に二三人は患者がやってくる。彼らのカルテを整理することに比べれば、五十人分の報告書なんて少ないくらいだ。

 したがって、問題なのは報告書の量ではなく内容である。

 学校運営や生徒指導を円滑に進めるためにスクールカウンセラーの持っている情報を開示して欲しいという校長の要請ようせいももっともだが、来談した児童の相談内容はとても繊細せんさいだ。いじめや人間関係。勉強に関するもの。教師や学校への不満。家庭の問題。どれもみだりに口外できないものばかりである。

 児童とは言え来談者らいだんしゃは一人の患者だ。医師としての守秘義務しゅひぎむもある。だから、相談内容のうちで教師と共有すべき情報を吟味しつつ報告書にまとめる。それがとても手間のかかる作業なのだ。校長に知らせてもいい情報なのか、担任に知らせればいいのか、それとも黙っておくべきか、判断が難しいものも多い。

 たとえば、担任に「馬鹿」と言われたことに傷ついて来談した児童がいたとして、それを担任に伝えたらと想定する。担任が子ども好きで良識的な人間なら、反省を促すことが出来るだろう。この場合、事態は収束しゅうそくへと向かう。

 だが、担任が独善どくぜん的で子どもっぽい人物であったなら、事態が悪化してしまう。その様な担任は反省をしない。それどころか、告げ口をした児童を憎く思うようになるだろう。すると、児童が目の敵にされ、傷つけられる機会が増える結果になる。「カウンセリングルームで悪口を言っていたらしいな!」などと担任が口走ったなら最悪だ。その児童は二度と相談に来ない。問題を解決するチャンスは永久に失われてしまうのだ。

 俊憲は慎重に言葉を選びながら、報告書を書き進めた。あと五枚ですべて終了だ。さあ、頑張るぞ。気合を入れなおして、パソコンに向き合う。

「次のカルテは、えーと」

 俊憲はバインダーに挟んだカルテを捲った。

 次のページは四年の女子のカルテだった。

 この学校に来て、何人もの児童の相談を受けてきた。その中でも特に問題がありそうなのが彼女だ。

 スクールカウンセラーの任期や彼女の卒業というタイムリミットまでに、何とか彼女を癒したい。僕がここに赴任してきたのは彼女と出会うためだったのかも知れない。俊憲はひそかにそんな情熱を燃やしていた。

 とにかく、いまは報告書の作成だ。過去のカルテにも目を通しながら、俊憲は彼女についての報告書を書き始めた。


 三城みき留美るみの心の中には怪物が棲んでいる。その怪物は不信感ふしんかんと言う名前だ。怪物という比喩をつかうと詩的になってしまうが、そのように喩えるのが彼女の心理を語る上で都合が良いので、あえてそう記述する。

 怪物が生まれたのはおそらく彼女がもっと幼い頃だろう。母親に嫌われていたことに起因すると考えられる。また、母親の交際相手からの虐待も関係しているだろう。それら経験を通して、彼女は日常の些細ささいな出来事全てに不安を感じるようになってしまったようだ。その不安と言うのが怪物の大好物なのだ。絶えず降り注ぐご馳走をたらふく食べて、強く、大きく、醜く、怪物は育ってしまった。

 現在の彼女はおおよそ幸福な家庭環境にあると言えるだろう。母親から嫌われているという状況は改善し、経済的な余裕もある。恵まれた家に彼女はいる。だが、彼女の心に巣食すくう不信感は、その環境を受け入れていないようだ。

 環境が改善したからと言って、ストレスがなくなるわけではない。現在と過去とのギャップにより、むしろ不安が募るという可能性もある。親へ不信感を抱いているかぎりは親からの愛情をそのまま受け止めることは出来ない。

 彼女はいつも人の目を気にしている。同学年の他の児童と比べても、かなり大人びている。これは過剰適応かじょうてきおうと言って、決して好ましい状態ではない。彼女は小さな体と心にストレスを抱え込みながら、必死に良い子を演じているのだ。このままストレスがかかり続ければ、いつか彼女の心身が耐え切れなくなるだろう。自傷に走ったり、最悪の場合は自殺をする可能性もある。なお、最近はやや改善の傾向が見られるが、依然として楽観視らっかんしはできない状況である。

 指導時には、必要以上に彼女を頼らないこと、突き放すような叱り方をしないことなどの配慮が望まれる。


 この報告書や僕のカウンセリングで彼女を助けることが出来るだろうか?

 少しでも気楽に生活できるようになってくれれば良いのだが。

 俊憲はそんなことを思いながら、書き上げた報告書を提出用の封筒に入れた。

 さて、少し休憩をしよう。俊憲はコーヒーを一口飲んだ。それから目頭を揉み、大きく伸びをする。朝から二時間もずっと事務仕事に追われているせいで、体が凝り固まり、目はしばしばする。

 トントン。トントン。

 俊憲が次の報告書に取り掛かりだす寸前に、カウンセリングルームのドアをノックする小さな音が聞こえた。元気の無い音だった。

「どうぞ、入ってください」

「失礼します」

 入ってきたのは先ほどの報告書の少女、留美だった。彼女は死人のように蒼白な顔をしていた。

 噂をすれば影が差すと言うと少し違うが、こういうタイミングの一致はままあることだ。そして、その様なときには決まって良くないことが起こる。背筋に悪寒が走った。

 嫌な予感がする。

 感覚的というよりむしろ経験的に、俊憲はそう感じた。


 あたしが始めてカウンセリングルームに行ったのは小学二年生のときだった。

 その年の春、学校にスクールカウンセラーの樋野先生が赴任ふにんしてきた。泉小ではイジメとか不登校が増えていたから、その相談をするのために樋野先生が呼ばれた。

 いまは全ての教室にテレビがあるので、視聴覚教室は使われていなかった。その部屋を改装してカウンセリングルームが作られた。

 作られてすぐの頃、そこは借り物のような寂しい部屋で、相談に行くと返って気分が悪くなりそうだった。それが、いつからか部屋がだんだんと可愛らしくなっていった。

 今のカウンセリングルームは学校の中とは思えないほどお洒落な部屋になっている。床には黄緑色をした芝生みたいなマットが敷かれていて、壁には綺麗な波の模様が描かれているし、ソファーの上にはカワイイ花柄のクッションまで添えられている。ふわふわとした温かな感じの部屋は、まるでドールハウスみたいだ。

 あたしがソファーに座ると、樋野先生がオレンジジュースの入ったコップを差し出してくれた。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 テーブルを挟んで向かいのソファーに樋野先生が座った。

 先生に見つめられるとあたしはちょっと緊張してしまう。けれど、せっかく先生が用意してくれたジュースを飲まないわけにはいかないので、恐る恐るジュースに手を伸ばす。

 あたしがジュースに口をつけると、先生は優しく微笑んだ。

 あたしは樋野先生の笑顔が大好きだ。糸みたいに細くなった目、すこし笑窪えくぼの浮かんだ口元、ときどきヒクヒクする鼻先。先生にこんな言い方は失礼かもしれないけれど、とっても可愛い笑顔だ。見ているあたしまでつられて笑顔になってしまう。

「今日は何か相談があるのかな?」

「あの、えと」

「困りごとみたいだね」

「うん、まあ」

「どうしたのかな?」

「あのね、あたし、今朝お母さんとケンカしたの」

「ケンカ?」

「お母さんがね、あたしの大事にしていた人形をゴミに出しちゃって」

 あたしはケンカについて樋野先生に説明した。

 今朝、お母さんが勝手にあたしのを捨ててしまった。それであたしは産まれて初めてお母さんとケンカした。

 もう古くなっていた人形だから、捨てられても仕方が無い。あたしは自分で自分にそう言い聞かせようとした。だけど、あたしの気持ちはどうしても治まらなかった。ケンカから二時間以上経った今でも、思い出しただけで頭に血が上ってくる。

 あたしはムキになって、次から次へとお母さんへの不満を言った。樋野先生は困ったように笑いながら、あたしの話を聞いてくれた。

「ところで三城みきさん、もしかしてお腹がいてないかい?」

「えっ、おなか?」

「朝ケンカしたのなら、朝ご飯をちゃんと食べていないんじゃないかな?」

 言われてみるとお腹が減っている。ご飯をいつもの半分くらいしか食べなかったせいだ。

 あたしがこっくり肯くと、樋野先生は小さな声で笑った。

「これは他の先生には秘密だよ!」

 先生は机の引き出しからお菓子の入った袋を取り出した。ポテトチップ、飴玉、チョコレート、クッキー。テーブルの上には美味しそうなお菓子の包みが並んだ。

「食べていいの?」

「もちろん」

 あたしはクッキーの箱を封切った。

 満月のようなクッキーは、サクサクでとても美味しかった。あたしはお茶やジュースを貰いながら一箱全部平らげてしまった。

「沢山食べたね。やっぱりお腹が減ってたんだね」

「う、うん、そうみたい」

 樋野先生が目を丸くしているのに気付いてあたしは急に恥ずかしくなった。顔がカァーっとしてくる。

「どうかな?」

「どうって、何のこと?」

「少しは気持ちが落ち着いたんじゃないかな?」

 樋野先生に愚痴を言ってスッキリしたのか、それともお腹が膨れて満足したのか、あたしの怒りはすっかり冷めていた。

 あたしが落ち着いたので、樋野先生は話を始めた。

「お母さんとのケンカの原因は人形だって言ってたよね?」

「うん、ピピちゃんっていう赤ちゃんの人形」

「それを捨てられちゃったから、お母さんとケンカしたんだよね?」

「そうだよ。あたし、お母さんとケンカしたの初めてで……」

「人形を捨てられたのが許せなかったんだね、どうしてかな?」

「大切な人形だったから」

「でもさっき、古くて汚れた人形だとも言ってたよね」

「そうだけど、でも許せなかったの。だめ?」

「駄目なことはないよ。だけど、どうしてそんなに大切にしていたのか、考えてみて欲しいんだ」

 樋野先生の問いかけにあたしは考え込んでしまった。

 あたしはどうしてあの人形をあんなに大切にしていたんだろう?

 抱きしめていると心が安らぐから?

 でもそれはどうして?

 対象年齢は三歳で、あたしはもう九歳。

 人形遊びがしたいわけじゃない。

 でも、あたしはピピちゃんを大切に思っていた。

 どうして?

 あたしが悩んでいると、樋野先生が「その人形はいつ、どこで、どうやって、三城さんの物になったのかな?」と聞いてきた。

 ええと、あれは確か……。

「あたしが保育園に通えなくなったとき、お母さんが買ってくれたんだった、と思う。家に一人でいるときにあたしが寂しくないようにって」


 あたしがカウンセリングルームを出たのは十二時を過ぎた頃だった。夏休み前の短縮授業期間に入っているので、授業はもう終わっている時間だ。ランドセルを背負った子どもたちが校門を出て行くのが渡り廊下から見えた。

 駆け足で教室に戻ると、教室にはまだ数人のクラスメイトが残っていた。

「おう、もう授業終わったぞ!」

「三城、お前また授業サボって樋野先生に会いに行ってたのかよ!」

 窓際でゲームの話をしていた男子があたしをからかった。

「三城ちゃん、大和先生が職員室に来て欲しいって言ってたよ!」

「あっ、ノリちゃん。ねえ、美紀ちゃん知らない?」

「あれ、一緒じゃないの?」

「一緒って?」

「授業が終わったらすぐに美紀ちゃんが教室を飛び出していったから。きっと三城ちゃんに会いにカウンセリングの部屋に行ったんだと思ってたの」

「ううん、会ってない」

「めずらしいね、ミキミキコンビが別々に帰るなんて」

 あたしと美紀ちゃんはいつも一緒だった。小学校一年のときから、どっちかが欠席しているとき以外、毎日二人で帰っていた。

「あたし美紀ちゃんを探してくる!」

 もしかしたら美紀ちゃんはどこかであたしを待っているのかも知れない。あたしは校舎の中を走り、グラウンドを走り、特別教室棟を走った。校門を数歩出て、その陰も探した。けれども、美紀ちゃんはどこにもいなかった。

 あたしが酷い態度をとったから、美紀ちゃんが怒って帰っちゃった。

 そう確信したあたしは心から反省した。

 明日、美紀ちゃんが学校に来たら謝ろう。

 もしかしたら許してもらえないかも。でも謝ろう。

 美紀ちゃんはあたしの親友だ。

 何度でも謝って、必ず仲直りをしよう。


 そう、決めていたのに。

 次の日、あたしは美紀ちゃんと会うことが出来なかった。

 あたしはこの日、死んでしまった。


 二度目のテレビ番組収録があったときのことだ。ロケ地となった住宅街で、なつめは赤い服を着た少女と出合った。

 空の彼方からカラスの鳴き声が聞こえ、町は夕焼け色に染まっていた。その時間帯を逢魔時おうまがどきとか黄昏たそがれ時と言う。逢魔時は読んで字のごとく。黄昏とは「だれかれ」がなまった言葉である。どちらにしても、夕暮れ時は生者と死者との垣根が低くなることを表している。つまり、心霊現象の取材には持って来いの時間帯なのだ。

 なつめは狭い路地をつかつかと足早に歩いていた。いや、少しニュアンスが違う。つかつかと足を早く動かして歩いていた。視界の先には公営団地がそびえていて、その手前にはブロック塀がある。いまどき珍しい木製の電柱や、レトロな郵便ポストが道の端に立っている。

 その日、なつめは着慣れない和服を着せられていた。そのため、大股を開くことが出来ず、自然と足の動きが忙しなくなった。だが、早いのは足の動きだけで、歩くスピードはいつもより遅く、のろのろと、まるで牛歩戦術だ。いや、これもちょっと違うか。

 なつめの背後にはカメラマンが一人、音声マイクを持ったアシスタントが一人、ディレクター、それから茂木がついて来ている。

「蓮実先生、申し訳ありませんが、もう少し早く歩いていただけませんか」

 ディレクターの中年男が小声で耳打ちしてきた。猫なで声というのか、びるような高い声が不愉快な男だった。

「なつめさん、こんなにゆっくり歩いてたら日が暮れちゃいますよ。なんちゃって、もう暮れてますね!」

 つまらない茶々を入れてくるのは茂木だ。

 まったく、誰のせいでこんな歩きにくい思いをしていると思ってるのだか。

 ニヤニヤする茂木の顔を殴りたくなる衝動に耐えながら、なつめは歩調を速めた。

 もともとなつめ自身は和服を着てくるつもりは無かった。なつめは動きやすいようにとジーパンとポロシャツでロケ車に乗っていた。けれど、茂木がどうしてもと言うのでこの和服を着ることになったのだ。

「なんだって、わざわざ着物なんて着ないといけないのよ?」

「そりゃあ、だって、その方が霊能者ぽいじゃないですか!」

 急に着物を差し出されて着替えろと言われても納得がいかない。それに、狭いロケ車の中で和服を着るのは面倒だったので、なつめは当初断固として着替えを拒んだ。

「見た目なんてどうでも良いでしょ!」

「良くありませんよ。物の価値ってね、八割が演出で決まるんですよ」

「演出なんかしなくても、私は本物よ!」

「それは分かってますけど」

「じゃあ、このままでいいでしょ?」

「本物でも演出は重要です。たとえば映画をイメージしてください。原作がどんなに面白くても監督の演出が下手だとコケますよね?」

「それは、まあ、そうかも知れないけど……」

「ほら、これも」

 茂木は差し入れの菓子りを開いてチョコレートを出した。小さな粒のチョコレートが一つ一つ丁寧に紙に包まれている。大仰おおぎょうきりの小箱に入って、いかにも高級菓子という雰囲気が醸し出されている。

「安っぽい紙箱に入れれば十粒百九十八円でコンビニで売っているものとさして変わりません。でも、この綺麗な包み紙に入っているだけで、食べる前から美味しそうに見えるでしょう?」

 茂木は滔滔とうとうと演出の大切さを講義した。なつめはそれに根負けして、茂木の用意してきた和服に袖を通した。


 撮影現場は崩れかけた古い民家だった。朽ちた生垣に囲われた木造ちく七十年の家。生垣の隙間から見える家屋の壁面は、白蟻に食われて所々に穴が開いている。コケの生えた飛び石が玄関へと続いており、玄関の引き戸にはガムテープで修繕されただけのひび割れた窓ガラスがはまっている。幽霊屋敷と呼ぶのにぴったりの雰囲気だ。

 その家の住人だった女性は数年前に亡くなっている。ところが、女性は霊としてなおも家に住み続けているらしい。彼女の一人息子が家を相続し取り壊そうと試みたのだが、工事業者が入るたびに変事が起こって、今では工事が放棄されてしまっているのだそうだ。

 そこで、今回の番組が企画された。

 なつめがこの古民家に取り付いた霊と対話し、なぜ工事を邪魔するのかを聞き出すというのが番組のあらすじだ。

 カメラマンたちが古民家の周辺に小型カメラをセットし、撮影の準備を始めた。準備が整うまでの十分ほど、なつめたちは玄関先で立って待たされていた。

「そう言えば、幽霊ってなんで自分の死んだ場所に出るんでしょうね?」

 茂木は不意にそんな疑問を口にした。

「急に外国に飛ばされてたら、幽霊だって困るでしょ?」

「いえ、そうじゃなくて」

「幽霊ってつまり魂のことだから、体から離れた場所にワープすることは無いわ」

「だったら、たとえば職場とか、思い出の場所に現れることは無いんですか?」

「それならあるわよ。幽霊は基本的に自由に動き回れるから」

「だったら、幽霊はどこにでも行けるんじゃないですか?」

「ええ、そうよ。ただどういう訳か、霊は自分の死んだ場所に近いほど力が強くなるらしいのよ。だから、死んだ所で目撃されることが多いのね」

「力って何ですか?」

「霊力とでも言えば良いのかしらね。それが強ければ強いほど、霊感の無い人にも感じられ易くなるわ」

「じゃあ、ものすごく霊力の強い幽霊がいたら、僕にも見えるんですか?」

「まあ、そうなるわね。ただし、霊本人があなたに見られたいと思っていればね」

「カメレオンみたいに隠れたり出来るんですか?」

「ええ、擬態ぎたいするわけじゃないけど、強い力を持つ霊は、自分の力を制御できるらしいのよ。だから、あんまり強い霊が意図的に隠れようとしたら、私にも見えなくなるわ」

「そりゃすごい! 強敵ですね」

 なつめがこれまで霊についての知識を披露ひろうしている間に撮影の準備が終わり、いよいよ古民家の中に足を踏み入れようとした。

 その瞬間だった。

 なつめの視界の端に、赤い違和感がふわりと動いた。

「ねえ、茂木君。あの女の子見える?」

「女の子ですか?」

「そう、ほら、電柱の陰でしゃがんでいる子よ」

 なつめは幽霊を見ることができる。ミツバチの目が紫外線を捕らえることができるように、なつめの目は霊体を映すことができるのだ。だが、霊と人間の区別が出来るわけではない。

 撮影現場の隣に位置するアパートの手前、古びた電柱の足元にはお菓子の小箱や玩具がいくつか並べられていた。その向こう側には瓶に入ったユリの花が転がっていた。花びらは風雨に晒されて白から薄茶色に変色している。その花の近くに赤いワンピースを着た少女が寂しそうに座っていた。

「女の子なんていませんよ。ねえ」

「はい、どこですか?」

 茂木やディレクターが口を揃え、カメラマンが二人の視線の先にレンズを向けた。アシスタントの女が集音マイクを構える。全員が女の子のいる方向に視線を集中させた。しかし、誰の目にも少女は見えていないらしい。彼らは不思議そうに首をかしげた。

 やっぱりあの子は霊なのね!

 ツカツカツカ。

 ツカツカツカ。

 ツカツカツカ。

 なつめは赤い服の少女に駆け寄った。和服の裾が邪魔してスピードは出ない。

「ねえ、おじょうさん、何か困ってるんじゃない?」

 少女は話しかけられていることに気付いていない。

「ねえ、お嬢さん。ねえ、赤い服のあなたよ!」

「えっ、あたし? おばさん、あたしが見えるの?」

「ちょっと待った、おばさんって言った?」

 三十は過ぎたけど、まだおばさんになったつもりは無い。

「ごめんなさい」

「私は蓮実なつめ。心霊相談所をしているのよ」

「心霊相談所?」

「ええ、幽霊に関する問題を解決する仕事よ」

「あれっ、そう言えば、あたし蓮実さんと会ったことがあるかも!」

「前にテレビに出たから、それで知ってるんじゃないかしら?」

「そっか、そうかも」

「ところでお嬢さん、こんな所で何をしているの?」

「分からない。あたし、気付いたらここにいて」

「あなた、自分が死んだことには気付いてる?」

「知ってるよ。あたしは殺されてお化けになったの!」

 少女の言葉になつめは唖然あぜんとした。

「殺されたって、誰によ?」

「それはね、えーと……」

 少女はしばらく口ごもってから、気まずそうに目を逸らして「分からない」と答えた。

「それはそうと、あなたの名前を教えてもらえる?」

「あたしは、三城留美です」

「留美ちゃんって呼べば良いかしら?」

 なつめがそう尋ねると、留美は眉をしかめて嫌そうな顔をした。

「どうしたの?」

「あたし、自分の名前が嫌いなの」

「そう、じゃあ何て呼べばいいかしら?」

「三城って呼んで」

「上の名前は嫌いじゃないの?」

「うん、親友とお揃いの名前だから」

 なつめが少女と話しこんでいると、いつの間にやら背後にディレクターやカメラマンが立っていた。不意のアクシデントをカメラに納めようとしているらしい。

「そこに、女の子の幽霊がいるんですよね?」

 茂木がなつめの横にかがみこんで首を傾げた。

「ええ、三城留美ちゃんという可愛らしい女の子よ」

「どういう子なんですか?」

「赤いワンピースを着ているわ。髪はセミロングで可愛いお花の髪留めをしているわ」

「いえ、そうじゃなくて。どういう経緯で幽霊になったんですか?」

「良く分からないけど、殺されたらしいわね」

「殺されたって、大事件じゃないですか!」

 茂木は頓狂とんきょうな声を上げた。大事件と聞いて、ディレクターの耳たぶがピクッと上下した。


 古民家こみんかの撮影は延期になった。

 老衰ろうすいで死亡した幽霊のよりも、殺人事件にかかわる幽霊の方が視聴率を取れるだろうという茂木の提案があったためだ。

 動機は不謹慎ではあるが茂木の提案のおかげで、なつめは心置きなく留美の相談に乗ることが出来るようになった。

 なつめは幽霊に感情移入しやすい性分だ。ましてこんな幼い子どもの霊。それを放って別の仕事などできない。それを知っている茂木だから、わざと営利的な含みのある提案をしてくれたのかも知れない。視聴率のためと言われれば、遠慮せずに取材スタッフを巻き込める。

「三城ちゃん、何か私がお手伝いできることはある?」

「泉小に帰える方法を教えて!」

「道が分からないの?」

「お化けになって、気がついたらここにいたの」

「泉小って、三城ちゃんの小学校?」

「うん、泉町いずみまち小学校」

「泉町小学校ね、調べてみるわ」

 なつめは撮影スタッフに泉町小学校の所在を尋ねた。すると、アシスタントの女がスマートフォンを取り出した。インターネット検索で調べるようだ。

「あの、その幽霊の女の子って、何て名前でしたっけ?」

 アシスタントは青白い顔をしている。

「三城留美さんよ」

「そうですよね。これ、見てください」

 彼女はタッチ式の画面をなつめに見せた。

「なになに?」

 茂木が顔を突き出して覗き込んでくる。

「あっ、本当だ。泉町小の留美って子が事件になってますよ!」

 茂木は興奮した様子でスマートフォンの画面をスライドした。

「最近の記事ですね。容疑者は水城慎、飲食店勤務。彼の家から少女の遺体が発見されたので、重要参考人として連行されたみたいですね。麻薬使用の容疑でも再逮捕されてるみたいです。あっ、でも、留美さんの殺害については容疑を否認しているそうですよ」

「泉町小学校の場所は分かる?」

「はい、地図が載っています」

「じゃあ、とにかくそこへ連れて行ってあげましょう。それがこの子の頼みなんだから」

 泉町小学校まではかなり距離があった。そこでなつめたちはロケ車に戻り、それで留美を送ることにした。

「この車で小学校まで送ってあげるわ。ちょっと狭いかもしれないけど我慢してね」

「ありがとうございます」

 後部座席は三人がけの席が二列ある。奥の列にカメラマンとアシスタントとディレクターが乗り、前の席になつめ、一席を空けて茂木が乗り込んだ。

「その席に幽霊がいるんですか?」

 アシスタントがおっかなびっくり尋ね、なつめの隣の席をじっと見た。

「ええ、そうよ」

 なつめと茂木の間に挟まれて、留美はきょろきょろと落ち着きが無い。車の中に置かれた撮影機材が珍しいようだ。座席の後ろに置かれた大きなカメラやマイク、三脚などを興味深そうに見ている。

 泉町への道を確認した運転手はロケ車のエンジンをかけた。車は重たい車体をきしませながら、コインパーキングを出て走り出した。

 団地の多い界隈かいわいを抜けてしばらく進むと、住宅街に差し掛かった。そこを抜けると国道に出られる。国道沿いの道は大きく曲がっておりかなり遠回りになるが、運転手をはじめ、車内の全員がこの辺りの地理に疎いので、急がば回れというわけである。

 国道沿いはすっかり夏模様だった。中華屋には「冷やし中華始めました」と、のぼりが立てられており、デパートにはサマーセールの大看板が掲げられている。取材開始が夕方だったのに空はまだ明るい。

「ねえ、なつめさん。ちょっと聞いても良いですか?」

 留美が遠慮気味に尋ねてきたのでなつめは大きく肯き返した。

「何かしら?」

「あたしは生きている人に会ったり話したりできるの?」

「誰か会いたい人がいるの?」

「うん、どうしても会って伝えたいことがあるの」

「私が一緒に行って伝えてあげるのじゃ駄目かな?」

「あたし、自分の口で伝えたい!」

「できなくは無いけど、今すぐには無理ね。あなたはまだ力が弱すぎるから」

「じゃあ、どうやったら力が強くなるの?」

「あなたが会いたい人のことを思い続けていれば、いつか強くなるわ」

「そうしたら会える?」

「だけど、あんまりお勧めできないわ。場合によっては何年も、何十年もかかってしまうこともあるから。それに、あなたが悪霊になってしまう可能性もあるのよ」

「でも、どうしても会いたいの」

「そこまでして、誰に会いたいの?」

「樋野先生って言うカウンセリングの先生。あたし、先生が大好きなんだ。だからね、好きですって言いたいの!」

 留美は歌い上げるようにそう言った。子どもが年上の異性にあこがれを持つとか、淡い恋心とか、そんな浅はかなものではないことをその声が語っていた。狂気きょうきめいた感情がこもった声だった。

「どうしてもと言うのなら、その人に会いやすくなる方法を教えるわ」

 なつめは霊が生者とコンタクトを取るためのコツをいくつか教えた。留美は子どもとは思えないほど真剣な眼差しでなつめを見て、熱心に話を聞いていた。

 留美との話が終わる頃にはロケ車は泉町小の前に到着していた。

「ここで間違いない?」

「うん、ここで合ってるよ。ありがとう、なつめさん」

「いいえ、どういたしまして。それより、本当にもう助けはいらない?」

「うん、大丈夫。車の中でいろいろ教えてもらったから。あとは自分で何とかする!」

「頑張ってね。悪霊になっちゃだめよ」

「分かってる! それより、他のみんなにもありがとうって言っておいてね!」

 留美は校門の鉄柵をすり抜けて、学校の中に走っていった。なつめはその後姿が見えなくなるまで彼女を見つめていた。

「僕たちが出来るのはここまでですよ、なつめさん」

「ええ、分かってる。でも心配ね、悪霊にならなきゃいいんだけど」

 現世にとどまり続ける時間が長くなると、霊は徐々に自我じがを失って、やがて悪霊になってしまう。悪霊になった霊ははらい清めるしかない。それは霊を殺すと言うことだ。

 霊を見ることができるなつめにとって、霊が祓われる光景は悪夢そのものである。もがき苦しむ霊の姿を思い出しただけでも総毛そうけ立つ。たとえるなら、生きながら弱い炎でじっくりあぶり焼きにするようなもの。除霊とはそれほどむごい仕打ちなのだ。幼い少女にそんな苦しみを味わって欲しくない。


 少女の霊の相談に乗っていて古民家の取材が出来なかったが、そちらは数日後に再びロケが行われた。なつめは例のごとく動きにくい和服を着せられていた。この日も茂木は出てきていてディレクターと話をしていた。カメラマンや他のスタッフは前回とは違うメンバーで、今度はカメラマンが女性で、そのアシスタントがなよなよとした男だった。

 取材はつつがなく進んだ。

 幽霊屋敷には確かに老婆ろうばの霊が住んでいた。彼女は自分の死を理解しておらず、息子のために残した大切な家を守り続けていた。だから、その家を壊しに来る解体業者に追いすがり、邪魔をしたのだそうだ。

 なつめが話をすると、老婆は案外あっさりと納得してくれた。

「出来ればもう一度、息子と話がしたいねえ」

「では、こちらでその手配を致しましょう」

 その日の取材はそこで終わり、さらに後日、現在の家の所有者である男を交えて追加の撮影となった。その撮影も無事終了し、事件は解決した。それなのに、ロケ車の中で茂木は深刻そうな顔をしていた。

「茂木君、どうしたの?」

「いえ、この間の女の子の霊、留美ちゃんでしたっけ?」

「ええ、三城留美ちゃんよ」

「彼女のことが気になって」

「そうね、あんなに幼い子が殺されるなんてね」

「もしよければ、明日ちょっと付き合ってもらえませんか?」

「明日なら予定も空いてるけど、何をしたいの?」

「予定は空いてるんですね。じゃあ、十時に事務所に伺います」

 茂木はなつめの質問を無視してそう言うと、自分の手帳を開き、予定を書き込んだ。


 ビルが林立した街に、低いエンジン音が響いた。茂木の愛車のエンジン音だ。外国製の車で、田舎であれば家が一軒建つほど値の張る車だ。

 茂木は滅多めったにこの車を運転しない。

「金がありそうに見えると、身構える人も多いですからね」

 彼はそう言っては、国産の軽自動車や大衆向けのセダンに乗っている。余り派手では金にがめつい印象を与えて、ビジネスに不向きなのだそうだ。だが逆に、損得そんとく抜きで相手に信用を得たいときには裕福な印象が有利だということも心得ている。だから、自分の身分を証明する必要があるときには、彼は愛車に乗って移動する。

 蓮実心霊相談所の階下に車を横付けして、茂木が部屋に上がってきた。まだ暑い季節だというのにしっかりしたダークスーツを着込んでいる。胸元には苗字の入ったネームプレートまでつけている。

「おはようございます、なつめさん」

「時間ぴったりね」

「ええ、もちろん。さあ、行きましょう」

 何の説明も無いまま、茂木はなつめを連れ出した。なつめを助手席に座らせ、エンジンをふかす。ゴオォオオウ。ジェット機が飛ぶようなエンジン音とともに、車が街を疾走する。

「ねえ、どこに行くつもり?」

「例の女の子が見つかったという部屋です」

「どうして? えっ? なに?」

 エンジン音で会話が聞き取りにくい。

「だから、僕は、あの子を殺した犯人を、突き止めたいんです」

 茂木は声を張り上げた。

「犯人は捕まってるんでしょ?」

「でも、容疑を否認しているそうですから」

「そんなことをして何になるの?」

「幽霊ネタって、意外と女の子ウケするんですよ」

「クラブで話すネタを作りたいの?」

「実際の事件に関係した幽霊少女って、面白がられそうでしょ?」

「面白くないわよ。それに、それだけじゃないでしょ」

「やっぱりバレちゃいましたか。さすが霊能者!」

「霊能者は関係ないでしょ。それより、真の目的は何なの?」

「テレビ局の関係者の中にもあの事件に首を傾げている人がいるそうなんですよ。それで、この前とった映像もありますし、もし真犯人を突き止めたら」

「面白い番組になるって言うわけね」

「ええ、そうなれば、今度は報道関係の部署の人ともつないでくれる約束でして」

「なるほどね、今日はその下調べということかしら?」

「そういうことです」

 茂木はあらかじめ道を調べてきたようで、細い抜け道を駆使して、最短経路で目的地を目指した。夏休み中と言うこともあってどこの通りにも人が多く歩いていた。虫取り網を持った健康そうな少年や、ゲーム機を手に木陰で円陣を組んでいる子どもたち、額から玉のような汗を浮かべて奔走している主婦。心和む光景だ。これから向かう先が殺人事件の現場だとは信じられない。

 連れて行かれたのはこの間の古民家から数件先にあるアパートだった。古びたアパートで、かなりみすぼらしい外観をしていた。周囲を囲むコンクリート塀は半分ほど風化してしまったらしく、腰くらいの丈から上を切り取られた痕跡がある。

「なつめさん、これを持って付いて来てください」

 なつめが渡されたのは大振りのハンディカメラだった。

「えっ、何よこれ!」

「カメラですよ、見て分かりませんか?」

「そんなこと聞いてるんじゃないわよ!」

 茂木はさっさと車を降りて歩き出してしまった。なつめはしぶしぶカメラを片手に茂木の後を追った。

 茂木はアパートの敷地に入ってすぐの部屋のインターホンを押した。

「はい、どちら様?」

 出てきたのは頭の禿げ上がった老人だった。彼は無精ひげの生えたあごを擦りながら、面倒くさそうになつめと茂木を見上げた。

「昨日電話した茂木です」

「ああ、茂木さんね。テレビの人って話だったが?」

「ええ、こっちがカメラマンの蓮実です」

「そうかいそうかい。奥の部屋の取材だってね、一〇五いちまるご号室の鍵はこれだから、好きにやってくれ。おまわりさんが調べた後だから、もう何も残ってないと思うがね」

 老人は身なりを見てすっかり茂木を信用したようだった。鍵を手渡すと部屋に戻ってしまった。

「これで準備はできましたよ」

 受け取った鍵のキーホルダーに指を入れ、クルクルと回しながら、茂木はアパート一階の一番奥にある部屋に向かった。


10

 日焼けした壁紙、さび付いたシンク、ベッドの足跡が四つくっきり付いた木のフローリング。床板が余程薄いのか、部屋を歩くと、カツカツと高い音がする。コンクリートの上に立っているようだった。

「この部屋で、少女の遺体が発見されたそうです」

 茂木は手帳を取り出してメモを見ながら、「ちょうどこの辺りに裸で転がっていたみたいですね」と言って、部屋の中央に立った。

「裸って、どうして裸だったの?」

「容疑者の水城が脱がせたらしいです。それで、遺体に悪戯いたずらをしたそうです」

「悪戯って?」

「そりゃあ、遺体を犯したってことじゃないですか?」

「誘拐して、犯して、殺したという事?」

「いえ、それが、水城がつけた歯型だとかの傷には生活反応せいかつはんのうが無いそうで」

「死んでから犯されたという事なのね」

 なつめは理解に苦しむという表情をした。

「まあ、異常性癖せいへきの持ち主と言えばそれまでなんですけど。でも、わざわざ外で殺してから遺体を持ち帰るのって違和感がありますよね?」

「違和感って?」

「小学四年生の女の子くらい、押さえつければ簡単に誘拐できますよ。力ずくで家に連れてきて風呂場とかで殺した方が、後の始末が簡単でしょう?」

「外で殺せば、証拠が残りやすいってわけね。ところで死因は何なの?」

「首を絞められたことによる窒息だそうです。ただ、それ以外にも腹部や下肢には大きな裂傷れっしょうがあって内蔵や大動脈の破裂もあるそうですから、殺害現場には大量の血が流れたはずです」

「惨いことをするわね。本当にこの部屋以外で殺されたの?」

「排水管まで調べても、被害者の血液は検出されなかったそうです」

 だとすると、茂木の言うとおり、違和感の否めない状況ではある。わざわざ外で殺害して、その証拠を隠し通せたとして、家に遺体がある以上は言い逃れは難しい。たとえ殺害を否認し続けても遺体損壊そんかい罪は免れ得ない。だったら、いっそ家で全てを行って隠し通した方が理に適っている。

「留美ちゃん本人は犯人について何か言ってなかったんですか?」

「分からないって言っていたわ」

「後ろから襲われたんでしょうか?」

「いいえ、何だか、何かを隠しているような雰囲気だったわ」

 知らないと言うよりも、犯人を庇っているようにも見えた。

「だとすると、犯人は知り合いかもしれませんね!」

「何か言いたそうね」

「推測ですけど、留美ちゃんを殺した犯人は彼女の父親なんじゃないかと思うんです」

「どうして父親が?」

「父親とは言いましたが血縁は無いんですよ。留美ちゃんは母親の連れ子なんです」

「父親にとって娘は他人の子どもということね」

「しかも、母親がまだ二十代なんです。それなら、義理の子じゃなくて、本当の自分の子を作りたくなりませんか?」

「そのためには三城ちゃんが邪魔だったってこと?」

「あくまでも、僕の推測ですが」

 話が一区切り付くと、茂木は部屋の中を調べ始めた。探偵の真似事まねごとをしたいのか、ご丁寧にも小さなルーペを持っている。

「もう警察が調べた後だって大家さんは言ってたわよ!」

「何か見落としがあるかも知れないでしょう」

 茂木は部屋の中を這い回っている。フローリングの目の間やシンクと壁の隙間、窓枠やサッシ、果ては窓の外に出て調べ始めた。

 窓の外には手狭な庭がある。庭と言っても木が植わっているわけでもなければ、枯山水のような石庭でもない。砂利の多い土から雑草がピョンピョンと生えている。目を引くのはブロック塀の際に生えた彼岸花だ。やけに気の早いその花は、まだ夏だというのに指先の様な形のつぼみをつけている。風が吹くと蕾が揺れ、地中から亡者もうじゃが手を伸ばしているようにも見える。

「ありましたよ、絶対的な証拠が!」

 倒置法を使って強調しながら、茂木が満面の笑顔で庭から戻ってきた。

「ほら、これを見てください」

 茂木が持っていたのは黒いビニールの切れ端だった。一センチ四方くらいの小さなもので、ざらざらとした汚れがこびり付いている。

「何よ、それ?」

「たぶん、この赤茶色のが留美ちゃんの血液ですよ!」

「まさか。どこにあったの?」

 半信半疑でなつめが尋ねると、茂木は窓の外を指差した。

「あのブロック塀、上の方が切り取られてるでしょう。そのせいで鉄筋を通す穴が数箇所空洞になってるんです。そこにゴミが溜まってて、その中にこれがあったんです」

「それで、もしそれが三城ちゃんの血だったとして、何なの?」

「つまり、留美ちゃんが窓から部屋に運び込まれたんです。きっとビニール袋に覆われた状態で」

「たったそれ一つで、証拠と言うには不十分なんじゃない?」

「あと、これも見つけました」

 茂木はポケットからハンカチを取り出して丁寧に開いて見せた。

 ハンカチの中には一本の髪の毛が入っていた。長さは三十センチほど。男の髪の毛にしてはかなり長い。セミロングの留美の毛髪だとするとちょうど良い長さだ。

「これが、サッシの隙間に引っかかってたんです。窓の下に挟まっていて取り出すのが大変でしたけど」

 窓の外の陽光に照らしながら、二人はその髪をしげしげと眺めた。

「この髪の毛、何だか変ですよ!」

「変ってどこがよ?」

「ほら、ルーペで見てください」

 言われてみると、確かにすこし変だった。髪の中ほどが細くなり、その辺りだけ茶色っぽく脱色されていた。

「髪を染めていたのかしら?」

「小学生がですか?」

「いまどき、珍しいことじゃないと思うけど」

「何にせよ、これが留美ちゃんの毛だったら、彼女が窓から部屋に運び込まれた証拠になりますよね」

「もしそうならね」

「やっぱり、父親が犯人なんですよ。庭にまだ何か落ちてるかも!」

「ちょっと、まだ調べ続けるの?」

 不思議な物や違和感の欠片はそれからもいくつか見つかった。しかし、肝心な推理が上手く行かなかった。留美の父親が犯人だったと仮定して、なぜ彼がここへ遺体を運んだのか、その説明がどうしても出来なかったのだ。

「遺体を車に積んで走っていたら偶然この家に辿り着いたとかどうですか?」

「そんなはずないじゃないの。泉町からここまで、どんなに急いでも四十分くらいはかかるでしょ」

「殺したのがこの近くだったとか?」

「じゃあ、三城ちゃんと父親はどうしてこの近くにいたの?」

「さあ、どうしてでしょう」

 どんなに二人で知恵を絞っても結論は出なかった。日が暮れるまで、茂木はしつこく意見を出し続けたが、どれもしっくりしなかった。

 なつめにしてみれば、留美に直接問いただすのが本来は一番手っ取り早い手段なのだが、この前の彼女の様子からすると、素直に犯人を教えてくれるとも思えない。


11

 アパートを調べた日からさらに数日が過ぎた。三度目のテレビ取材を翌日に控えて、なつめはそわそわしていた。二回のテレビ出演でだいぶ調子はつかめたものの、なつめは所詮しょせん一般人。緊張するなと言うほうが無理な話だ。

 気が付くと、机を三度も掃除していた。来客があるわけでもないのに二人分のコーヒーを入れてみたり、本当に落ち着けない。そこへ、いつもの不躾ぶしつけな音が響いた。

「こんにちは、なつめさん」

 茂木は部屋に飛び込んでくるなりコーヒーを見つけて、それを要求した。

 茂木は今日はポロシャツにスラックスというちぐはぐな出で立ちだ。仕事を終えて、帰宅後にふらっとここに出て来たらしい。

 コーヒーを片手にソファーに腰を下ろした茂木は、興奮を隠し切れないという表情をしていた。楽しい遊びを発見した子どものように、目をキラキラ輝かせている。

「なつめさん、あの女の子の件、また一つ新情報ですよ!」

「どうせ、下らないゴシップ誌か何か読んだんでしょ?」

「今回は違います。うちで派遣していた社員から聞いたんですよ」

「だったら、もったいぶらずに言いなさいよ!」

 取材前日のイライラを茂木にぶつける。すると、「なつめさん、女の子の日ですか?」などとセクハラ発言を返されて、より一層の苛立ちが募った。

「あのですね、うちから日光通信にっこうつうしんという会社に派遣している子がいるんですけど、その子によると、留美ちゃんの父親はそこの副社長らしいんですよ」

「それがどうしたのよ」

「ここからが肝です。日光通信の取引先に和田商事わだしょうじって会社があるんです。結構大口で発注しているんで上得意と言うやつですね」

 茂木はズボンのポケットから、折りたたみ式の地図を取り出した。

「和田商事の本社はここです。それで、前のアパートがこの辺り」

「すぐ近くね」

「一万五千分の一の地図ですから、三センチ強で、約五百メートルです」

「大口の取引先なら、副社長が出向いている可能性が高いというわけね」

「そうです。だとすると、留美ちゃんの父親、三城康弘はあの辺りの地理に詳しかったと言うことになりますよね。これは父親が犯人だと言う証拠ですよ!」

 茂木は自慢気に胸を反らした。

「でも、納得がいかないわ」

「どうしてですか?」

「だって、たとえば茂木君が結婚していて、奥さんに連れ子がいて、その子が邪魔だったとするでしょ。茂木君ならその子を殺すかしら?」

「えっ、そんなこと。あっ」

 なつめの質問の意図を察した茂木は黙り込んだ。ぐうの音も出ないという表情だった。

 もし茂木に妻と連れ子がいて、その子を邪魔に感じたとして、だからと言って殺すという選択は彼は取らないだろう。金さえ払えばどうとでもできるからだ。わざわざ殺さなくても、金さえ払えば世話をしてくれる人を見つけられるはずだ。

 大した給料を貰ってない平社員なら二人目の子どもを躊躇ちゅうちょすることもあるかもしれない。だが、副社長ともなれば茂木の場合と同じだ。金があるのなら、あえて殺すリスクをとる必要がないのだ。

 なつめに論破ろんぱされた茂木はうなれながら事務所を後にした。飲みかけのコーヒーと同様に、彼の興奮もすっかり冷め切ってしまったらしかった。


 なつめは冷めたコーヒーを飲みながら、小さな安堵あんどを感じていた。それは三城留美という少女に対するものだった。

 留美の父親が犯人だと決め付けた茂木がかき集めてきた数々の状況証拠。それが皮肉にも、父親が犯人ではないことを物語っていた。

 幼い子どもが、義理とは言え父親に殺される。その絶望はとても言い表せるものではないだろう。だから、殺した犯人が誰であれ、親でなかったというだけで彼女にとっては救いがある。

 ところが、その安堵は長く続かなかった。なつめはこの何日かの間に、留美に関する新聞記事をかき集めていた。それに茂木の持って来た情報が加わって、ある嫌な推測が成り立ってしまったのだ。

 もしも、それが正しかったとすれば、留美が犯人をかばう気持ちも想像はできる。

 しかし、理解ができない。

 なつめは身震いした。

 少女の内面が恐ろしかった。

 彼女は完全に壊れている。

 人格が破綻はたんしきっている。

 あれだけ素直で可愛らしい少女。

 だが、それは見た目だけ。

 倒錯とうさくした愛情。

 彼女はもう半ば悪霊と化しているのかも知れない。

 なつめは自分の考えが的外れな憶測おくそくであることを祈りながら、カップに残ったコーヒーを飲み干した。冷めたコーヒーの苦味が喉の奥にべったりと張り付いた。窓の外はいつの間にか激しい雨模様だった。ざあざあと降りつける雨が、なつめの不安を駆り立てた。


12

 あたしはなつめさんに言われたとおり、ずっと樋野先生のことを考えながら毎日を過ごした。それでも霊力が強くなるのにはかなり時間がかかった。だけど、あたしは退屈しなかった。

 あたしは樋野先生と一緒にいる毎日を想像して楽しんだ。

 その中で、あたしと先生は恋人同士で、一緒の家に暮らしていた。あたしは家に一人、先生の帰りを待っている。先生はスクールカウンセラーとして沢山の子どもを助け、疲れて帰ってくる。そんな先生に、あたしがご飯やお風呂を用意してあげるのだ。

 休日には先生と二人でデートをする。映画を見に行ったり、動物園にも行く。大きなお店でお買い物をしたり、レストランでご飯を食べたり。樋野先生とあたしの生活には楽しいことが沢山ある。

 ああ、早く霊力が強くならないかな。

 早く先生とお話がしたいな。

 お化けのあたしじゃご飯やお風呂の世話はしてあげられないのかな?

 でも、お休みの日のデートはできるよね!

 楽しみだな。早く合えないかな。

 あたしは霊力が強くなり、樋野先生と話せる日を待ち続けた。一日のほとんどを空想に明け暮れながら、泉小の駐車場で過ごした。


 長い夏休みが終わり、校庭の葉桜が枯れ、肌寒い秋が来た。運動会があったり、マラソン大会があったり、学芸会があったり。秋はあっという間に過ぎていった。そして、クリスマスがあって、お正月があって、冬休みも終わった。

 あたしの力は徐々に強くなり、ついに生きている人と話せるくらいになった。夕方の数時間、しかもこの泉小の中だけ、という条件はあるものの、留美は誰とでも話せるようになった。

 だけど、樋野先生と会うチャンスはなかなかめぐってこなかった。樋野先生は午前中しか学校にいないからだ。それで、あたしは退屈しのぎに居残り遊びをしていた上級生をおどかしたり友達と会ったりした。お化けの噂が学校の子どもたちに広まった。

 そうこうしている内に、ようやく樋野先生と会えるチャンスがやって来た。その日、先生は夕方まで残業していた。

 先生をビックリさせちゃおう!

 あたしはちょっとした悪巧わるだくみを思いついて駐車場に行った。先生が車に乗ったときに、後ろから突然「わっ」て飛び出せば、先生は驚くに違いない。

 あたしはワクワクしながら先生が来るのを待った。けれど、先生はなかなか来なかった。夕焼け空がどんどん濃い赤色になっていく。目の前を野良猫が歩いている。見覚えのある黒い猫だった。その猫があたしを見てニャアオと一声だけ鳴いた。

 あっ、あの日の猫ちゃんだ!

 あたしの頭の中に、半年前の記憶が蘇った。

 そのときもこうして、あたしは駐車場にいた。

 あたしが死んだあの日だ。

 その日もあたしはここで待っていた。

 樋野先生が来るのを待っていた。

 野良猫と遊びながら、ずっと待っていた。

 この赤いワンピースで。

 ああ、懐かしいな。もう半年も前か。

 あたしはうっとりと目を細めた。


13

「先生、ありがとう!」

「帰ったらちゃんとお母さんと仲直なかなおりするんだよ」

「うん、頑張ってみる」

 二時間ほど話を聞き、いくつかアドバイスをしてから、俊憲は留美を送り出した。カウンセリングルームを訪ねて来たときと比べて、彼女の表情は幾分いくぶんか明るくなっていた。

 母親に愛されていないと感じながら育った留美が、生まれて初めて母親と喧嘩をした。その事実はもしかしたら吉兆きっちょうかも知れない、と俊憲は感じていた。

 とにかく、報告書の続きを仕上げないと。留美を送り出して一息ついてから、俊憲はやりかけだった報告書の作成に戻った。

 残り四枚の報告書の作成は思いのほか簡単で、小一時間で全て書き上げることが出来た。俊憲はそれらを封筒に入れ、入れ口を糊付けし、カウンセリングルームを出た。

 夏休み前の短縮授業のため、児童のほとんどはもう返ってしまっており、学校は静まり返っていた。窓の外に広がる校庭にはまだ数人の児童がいた。夏休み前で浮き足立っているのか、リコーダーでチャンバラをしながら校門に向かっている。

 俊憲は校長室を目指して階段を上った。普段人通りの少ない階段だが、掃除の手はしっかりと行き届いている。パネル式の床材は良く磨かれているし、踏み板の先端についた滑り止めの金具はピカピカと輝いている。なんでも、毎朝校長が自ら掃除をしているらしい。

 校長室に入ると、いつも通りの温厚そうな顔が俊憲を出迎えた。

「樋野先生。ああ、報告書ですか。ありがとうございます」

 俊憲が渡した報告書を受け取ると、校長は鼻の下に蓄えた髭をむくむく動かしながら微笑んだ。

 ダークブラウンの壁に囲まれた荘厳そうごんなつくりの校長室で、俊憲は所在しょざい無く立ち尽くしていた。壁にかけられた歴代校長の肖像たちが鋭い目つきで俊憲を見下ろしている。大人になった今でも、この校長室という空間に入ると萎縮してしまう。

 俊憲の緊張を察したのか、校長は俊憲にソファーを勧めた。

「よろしければ、そこに掛けて下さい」

「はい、失礼します」

 俊憲はソファーに座った。立派な革張りのソファーは肌が触れるとひんやり冷たくて、心地よかった。

 校長がコーヒーの準備を始めた。

「そういえば、お昼ご飯はもう召し上がられましたか?」

「いえ、先ほどまで報告書を仕上げていたので」

「それは、お腹が空いているでしょう」

「まあ、研修医時代に慣れていますから」

「お医者さんのお仕事も大変ですね」

 しばらくして、校長が俊憲の向かいに座った。「どうぞ」。校長はコーヒーと一緒にサンドイッチを俊憲に差し出した。厚く焼かれた卵焼きのはさまれたサンドイッチだった。

「大学時代に大阪に住んでいたことがあって、そのときに食べたんですよ。こっちの卵サンドにはゆで卵を潰したのが入ってますが、関西ではこういうのもあるらしくて。気に入ったもので、今でもときどき家内に作らせているんです。お口に合うかは分かりませんが、樋野先生もぜひ召し上がってください」

「いただいていいのですか?」

「ええ、ぜひ召し上がってください」

 雑談をしながら、俊憲と校長はサンドイッチを食べ、コーヒーを飲んだ。

「さて、小腹が膨れたところで、報告書を見させていただきましょう」

 校長は報告書の封筒を開き、一枚一枚にざっと目を通し、いくつかの質問を寄越した。俊憲は質問一つ一つに丁寧に回答し、指導上の注意点などを心理学的な見地からアドバイスした。


**********


 留美がカウンセリングルームから教室に戻ったとき、美紀ちゃんはもういなかった。怒って帰ってしまったようだ。

 明日ちゃんと謝ろう。留美はそう思った。

 でも、これからどうしよう。

 留美は困ってしまった。

 お母さんと大喧嘩をしたまま家を飛び出してきた手前、真っ直ぐ帰宅するのが何となく嫌だった。家でお母さんと二人きりになるのが怖かった。お母さんと始めて喧嘩した留美は、仲直りの仕方が分からなかった。

 美紀ちゃんがいてくれたら、家に遊びに行くことができた。夜になって、お父さんが帰ってくる頃に家に帰れば、お父さんが仲裁をしてくれるはずだった。でも、美紀ちゃんはいない。

 そうだ、樋野先生のところに行こう!

 留美は教室を飛び出して再びカウンセリングルームに行った。しかし、部屋の鍵が閉まっていて、樋野先生はいなかった。

 樋野先生、どこに行ったんだろう?

 もう帰っちゃったのかな?

 留美は先生たちの車がある駐車場に向かった。

 駐車場には数台の車が止まっていた。十字型のマークが入った車、猫のような飾りがついた車、丸くて小振りな車。それらの中に紛れて留美の目当ての車があった。

 車の前にはカモメのようなマークがついていて、少し怖そうな顔つきの車。背伸びして窓から中を覗き込むと、後部座席に難しそうな本がぎっしりと詰まれている。窓枠のところには小さな人形が飾られている。樋野先生の車だ。

 よし、ここで待ってれば樋野先生が来るはずだ!

 まだお昼ご飯を食べていない留美だが、少し前にお菓子を食べさせてもらっているので、空腹は感じていなかった。ただ直射日光が辛かった。車の陰に隠れるようにしゃがみ込んで、樋野先生が来るのを待った。

 樋野先生はいつも午前中だけ学校にいる。だからすぐに来ると思っていた。けれど、先生はなかなか来なかった。一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、それでもまだ来なかった。

 駐車場の中に、黒い野良がぴょんと現れた。

「猫ちゃん、おいで」

 留美が手を伸ばすと、野良はゆっくりと留美の手に歩み寄ってきた。そして、恐る恐る、鼻先を近づけてきた。

 ペロペロ。野良が留美の指先を舐めた。

「おっ、よしよし。ほらおいで」

 留美が手招きをすると、野良は一層近づいてきた。頭を撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らす。野良のクセに妙に人懐っこい子だった。

 留美はランドセルからノートを取り出し、一枚破り取った。それを適当に丸めて猫じゃらしをつくる。

「ほらほら、こっちだよ」

 留美が紙の棒を振ると、野良がじゃれ付いた。

 しばらく遊んでいるうちに、日が暮れだした。けれども、それに気付かず、留美は無心で野良をからかっていた。

 ブゥォン。突然エンジン音がして、野良が逃げていった。

 音のした方向を振り向くと、樋野先生の車が動き出していた。いつの間にか先生が来て車に乗り込んでいたようだ。

 留美は慌てて立ち上がり、車を追いかけた。

「先生待って!」

 その言葉が通じたのか、車が急に止まった。

 留美はほっとして立ち止まった。

 車がそのままバックしてきた。

 それほど速いスピードではなかった。

 しかし、車は上手に留美の足元をすくい上げた。

 ボンッ。

 短い音とともに、留美は跳ね飛ばされた。

 倒れた体の上にタイヤが乗り上げる。


14

 忘れ物に気付いて車をバックさせたとき、ドアミラーには何も映っていなかったはずだ。夕日が反射して見にくかったのは確かだが、見落としは無かったはずだ。きっと空き缶か何かを踏んづけたんだろう。それとも、校庭からボールでも飛んできて当たったのかも知れない。

 どうなる訳でもないが、俊憲はそうやっていろいろな可能性を考えて、嫌な予想を否定しようとした。だが、車を降りた俊憲に突きつけられた現実は予想そのものだった。

 地面にはミキミキコンビのミキこと、三城みき留美るみが倒れていた。

「大丈夫か? 三城さん!」

 俊憲は地面で血を流している留美に声をかけた。

 返事は帰って来なかった。

 けれど、彼女の目蓋まぶたが開いた。

 どうやら、息はある。

 腹部が破裂していて、出血が激しい。

 このままでは数分で間違いなく死亡する。

 だが、応急処置をすれば間に合うかも知れない。

 僕は医者だ、きっと助けてみせる。

 俊憲はそう決意しかけた。

 が、その瞬間。俊憲の心にが差した。

 もしこのまま彼女を病院に担ぎ込んでも、助けられる保障はない。どちらにせよ大騒ぎになるのは間違いない。スクールカウンセラーが子どもをいたとあっては、全国ニュースになるかも知れない。そんなことになれば、僕はもう二度とやり直せなくなる。

 小学校、中学校、高校と僕は勉強し続けた。そしてやっと入った医大でも、日夜勉強に明け暮れた。三十間近の今でもろくな異性交際経験すらないほど、僕は学業に勤しんできた。その努力が、医師免許が、僕の未来が、こんな事で台無しになっていいものだろうか?

 いまなら目撃者はいない。このまま彼女を殺して、どこかに隠してしまえば。そうすれば、僕のキャリアに傷がつくことはない。

 俊憲の頭の中で、瞬時に犯行計画が構成されていった。

 まずはこの地面に流れたの血液を処理しなければ。俊憲は校舎に駆け込み、一番近くのトイレに行き、掃除用具要れから、ありったけの洗剤とビニール袋を持ち出した。

「痛いよ、痛いよ」

 準備を済ませて現場に戻ると、留美が小さな悲鳴を上げていた。出血が余りにも酷く、もはや助からないだろうが、運悪く僅かに意識が戻ってしまったようだ。

「いま楽にしてやるからな」

 俊憲は留美の首に両手をあてがい、ぎゅっと力を込めた。細く柔らかな首に指先が食い込み、押さえつけられた周囲の皮膚が赤く盛り上がる。留美は苦しそうに顔をゆがめているが、抵抗する力は残されていないようだ。

 指の腹に感じる脈動みゃくどうが徐々に弱まっていく。

 ほんの数十秒で留美は動かなくなった。

 俊憲はビニール袋を広げ、その上に留美の体を乗せ、海苔巻きのようにクルクル巻き、地面の血液を処理するため、血溜まりに洗剤を振り掛け、すると、真っ赤な血液が一瞬緑色に変色し、すぐに無色になった。アルカリ性の洗剤が赤血球を溶かし、赤色を消していく。洗剤の飛まつが俊憲のズボンや留美の髪に数滴かかり、紺色のズボンに数ヶ所オレンジ色にみができ、留美の髪の毛の数本が脱色されたが、さほど目立たない。水が流れたような跡だけが地面にでかでかと残った。

 周囲には塩素の臭いが漂っている。だが、それはものの数分で風にかき消されるだろう。あとはアスファルトから水分が蒸発してしまえば痕跡こんせきは完全に消える。三十分ほど、誰も駐車場に来なければ大丈夫だ。いや、もしも誰かが来たとしても、ここで子どもが死んだとは夢にも思うまい。

 俊憲は海苔巻きになった留美を車に積み込んだ。リアシートの足元にある隙間にぎゅうと押し込む。車のドアを閉め、駐車スペースに止めなおしてから、もう一度地面を見て回る。消しそびれた血痕はない。

 現場の証拠隠滅いんめつは完璧だ。一日か二日もすれば、流出した血液のDNAは日光によって完全に破壊はかいされる。ここで事件があったことを知っていたとしも、検出は不可能になる。


 後部座席に留美を乗せて、俊憲は車を走らせた。国道を道なりに二十分ほど進んだ。

 近代的な雰囲気の住宅街に差し掛かった。もうすでに日が暮れているが、路肩に街灯が並んでいるため道路はぼんやりと明るい。

「痛いよ、痛いよ」

 俊憲の頭の中には、留美の声が反響し続けていた。

 車を停めて、後部座席の下を覗き込んだ。

 もしも彼女が息を吹き返していたら、すぐに病院に搬送しよう。

 殺人と言う恐ろしさを知った俊憲は、奇跡を祈りつつ、ビニール袋の端を捲った。しかし、そこにいる少女は、完全に息絶えて、冷たくなっていた。

 僕はなんということをしてしまったんだ!

 後悔をしても、もう取り返しは付かない。

 偶発ぐうはつ的な事故を、故意こいの殺人に変えてしまったのは自分自身だ。

 これが明るみになれば、不祥事ふしょうじどころではない。

 後戻りは出来ない。一連の出来事を完全に隠し切らなければ、僕に未来は無い。

 頬を伝う冷たい汗を拭いながら、俊憲は再び車を発進させた。

 静かで落ち着いた町には、デザイナーズマンションやモダンなつくりの一戸建てが立ち並んでいた。閑静だが明るい雰囲気の町並みを、車は静かに走り抜けた。

 進むにつれて、だんだんと戸建てが減りマンションが増えていった。さらに進むと、庶民的なアパートが立ち並ぶ一帯が見えてきた。街灯の数が減り、町が薄暗くなる。

「痛いよ、痛いよ」

 死んでいるはずの留美から、声が聞こえてくる。幻聴だろうか。

「許してくれ、仕方が無かったんだ」

 俊憲はそう呟きながら、ハンドルを切り、記憶を頼りに細い私道へと車を進めた。

 団地の横を通り過ぎ、木造アパートを数棟数えると、そこが目的地だった。

 近くの路肩に俊憲は車を停めた。周囲を高い塀に囲われているおかげで、その位置がちょうど周りの建物からの死角になる。車のライトを消してしまえば、車はどの家からも見つからないだろう。

 俊憲は車から降りると、ゴム手袋をつけ、斜向かいにあるコンクリート造の小汚いアパートの敷地に入っていった。ドア側ではなく、裏庭側に回り込んだ。

 裏庭とは言っても、そこは日当たりが悪く、雑草が生い茂るばかりで、庭らしさは全く無い。アパートの家屋にはそれぞれの部屋の窓枠が並んでおり、その上に擦り切れそうなロープ製の物干しが吊るされている。窓は一部屋を除いて全部が暗かったが、手前の一室だけからは煌々こうこうと明かりが漏れていた。

 俊憲は気配を殺しながら、中腰で裏庭を通り抜け、一番向こうにある部屋の窓の前に立った。

 そこは以前に数度だけ診察したことのある患者の部屋だった。

 窓が開け放たれていて、半開きのカーテンが風に揺れている。窓から覗き込んだ部屋の中は暗く、細かなところは良く見えないが、ベッドの上で誰かが寝ていることくらいは分かった。窓枠を軽くノックしてわざと小さな物音を立ててみるが、ベッドの上の人物は反応を示さない。

 俊憲は窓枠をよじ登り、部屋の中に足を踏み入れた。

 念のため靴を脱ぎ、下ろしたての靴下で部屋に降り立つ。

 そして、ベッドの上の人物の鼻先に手を突き出して呼吸を確かめた。

 彼はクリニックに来たときに、不眠症に悩んでいると言っていた。そこで、俊憲は睡眠薬を処方した。やや浅い呼吸といい、薬を飲んで寝ているのに違いない。

 彼が窓を開けっ放しで寝ることや、世間体せけんていの悪い仕事をしていることなどは、診察のときに知っていた。留美を轢いてしまったとき、俊憲の脳裏には彼の顔が浮かんだ。彼の家に死体を放棄すれば、どこかの山中に捨てに行くよりも安全に思えた。なぜなら、彼自身がかなり怪しい人物であるからだ。

 もし彼の家で死体が見つかったとして、犯人として真っ先に疑われるのは彼だ。彼が真っ当な暮らしをしている人間なら疑いはすぐに晴れるだろう。だが、彼は違う。世間の人々は彼を見て一目で犯人だと決め付けるに違いない。警察だってそう決めてかかるだろう。


 俊憲の目論見通り事は運んだ。想定と違っていたのは、部屋の住人の水城が留美の死体を弄んだことだが、これは俊憲にとっては予期せぬ幸運だった。少女の死体に悪戯をしておいて、殺していませんなんて、信用されるはずがない。俊憲の犯行計画は成功した。

 俊憲はしばらく酷い罪悪感にさいなまれたが、自分自身に「あれは仕方の無いことだった」と言い聞かせ続けた。自分が精神科医をし続ける有益性に対して、少女一人の犠牲くらいなら釣り合いが取れていると思い込もうとした。どうしても辛いときには精神安定剤を飲みながら、俊憲は仕事を続けた。


15

 あの日、あたしは樋野先生に殺された。ぐりぐりとお腹の上を押しつぶすタイヤの重さ。お腹の皮が張り裂ける痛み。デロデロした血の感触。首を絞められる苦しさ。今でもはっきりと覚えている。

 だけど、うらんではいない。

 むしろ、先生に殺されたのなら素敵なことに思える。

 優しい樋野先生。

 カッコいい樋野先生。

 あたしは先生がだぁいすき。

 お化けになってしまったけど、そのおかげでこれからずっと先生と一緒にいられる。

 もしかしたら、樋野先生はお化けのあたしを怖がるかもしれない。

 でも、いつか慣れてくれるだろう。

 あたしはお化けだけど、先生の彼女になる。そして、お嫁さんになる。

 あたしはお化けのままでぜんぜん平気。

 これから、先生との楽しい毎日が待っている。

 だから……。


 そう、これは小さな問題ね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

小さな問題 @strider

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ