三章 天使と亡霊

 ベッドに仰向あおむけに寝たときに左側になる位置に、小さなサイドテーブルがある。大きさの割に重厚なつくりで、足の部分にほどこされたアイリスのレリーフが美しい。その卓上には、円形の盤面ばんめんをした古めかしい造りの目覚まし時計が一つ乗っかっている。

 まだ薄暗い早朝の寝室、そこはまるで時が止まったかのように静けさに包まれていた。しかしながら、小さな時計の内側では、水晶すいしょう振動子しんどうしが極めて高速かつ規則的な信号を絶え間なく送信し、それを受けた秒針が精確に時を刻み続けているのである。したがって、時間は止まらないのだが、それは言うまでもないことだろう。

 壁にぴったりと寄せられたベッドサイド。その上方に正方形が二面連なったような形状の小窓がある。そこから波長の長い早朝の太陽光が部屋に差し込んできている。

 窓の対面の壁は埋め込み式の大きな書棚しょだなになっている。ぎっしりと並べられた本の手前には、幾何学きかがく的な形のオブジェがいくつか飾られている。

 冬が終わりに近づくこの時期、窓から差し込んだ朝日が、六時ごろには対岸にある書棚の下を照らしている。そこから更に三十分ほどの間に光は床をい進み、ベッドへと忍び寄ってくる。

 六時三十分になると、光はベッドを照らし、サイドテーブル上の時計がなり始める。最初は二十デシベルほどの小さな鈴が鳴り、段階的に音が大きくなっていき、最後には約百デシベルの鐘がジリリリリと鳴り響く。


 樋野ひの俊憲としのりはそのけたたましい音に驚いたようにベッドから起き、眩しい陽光に目を細めながら、時計を叩いてその騒音を止めた。

 平日も休日も、俊憲は決まってこの時間に起床する。このような冬の朝には多少辛く感じることもあるが、それでも「あと五分」なんて言って寝過ごすことはまずない。

 休日の朝ならばワクワクと興奮してドーパミンやら覚醒系かくせいけいのホルモンが分泌され、飛び起きるところである。週の初めの月曜日と思うと、さすがに飛び起きるほどの元気は沸かない。けれども、だからと言って、メラトニン分泌が乱れて眠かったり気だるかったりと言うこともない。好調かと聞かれれば、あえて否定もしない程度の加減であり、少なくとも不調ではない。極めて平坦かつ、おおよそ快適な目覚めである。脳神経学あるいは分泌学的にとらえるならば、かなり良好な起床と言える。春夏秋冬、平日の俊憲は押しなべてこのような朝を迎える。

 俊憲はのそのそとベッドから起き上がると、洗面所に行って歯を磨いた。それから起き抜けの牛乳を飲もうと、キッチンへ行った。

「としちゃんは、今日も早いわね!」

 もう三十近い息子に「ちゃん」付けで声を掛けたのは、俊憲の母の泰代やすよである。泰代は早起きをして、俊憲とその父俊一郎しゅんいちろうのために朝食を準備していたようだ。

「ああ、おふくろ。おはよう」

「今日は小学校の仕事がある日よね。お昼は家で食べるの?」

「スクールカウンセラーは昼までだから、家で食うよ!」

「そう、じゃあ、お昼ご飯はとしちゃんの分も用意しておくわね」

 泰代は味噌汁をお椀によそい、それからご飯を茶碗に盛り、焼き魚の載っかった皿とともにそれらを食卓に並べた。冷蔵庫からタッパーに入ったナスの漬物を取り出してきて、食卓の中央に置いた。すると、ちょうど良いタイミングで俊一郎がリビングに入ってきた。

「おはようございます」

「ああ、おはよう」

 泰代が挨拶をすると、俊一郎は素っ気無い挨拶を返し、それから郵便受けを覗きに表へ行き、朝刊を片手に持って食卓の前に戻ってきた。俊憲も泰代もすでに椅子にかけていたので、俊一郎も黙って椅子を引き、俊憲の向かいに座った。

 俊一郎は俊憲に目を向けると、無愛想ぶあいそうな声で「俊憲、もう起きていたのか。今日は早いな!」と、毎朝お決まりのようなセリフを口にした。「今日は、じゃなくて、今日も、だろ!」と、俊憲もまた、毎朝言う言葉を返した。もはや会話ではなく挨拶のようになっている一連のやり取りを終えると、俊一郎は俊憲から目を逸らして、新聞を広げ、だまって食事を始めた。

 あまり会話の多くない静かな食卓を囲いながら、俊憲は朝食を食べ、食後にコーヒーを飲んだ。「ごちそうさま」。俊憲は食事を終えると一旦寝室へ戻り、オフィスカジュアルなよそおいに着替えてから家を出た。


「子どもは天使だ」なんて誰が言ったのだかは知らないが、それを言った人間は余程よほどの大間抜まぬけに違いない。瀬川せがわ大和やまと胸中きょうちゅうで毒付きながら、職員室を出た。

 教室までの短い道のりを歩いている間に、五回もため息を吐き、四の三の教室のドアに手を掛けてから更にもう一回ため息を吐く。もやもやと気だるそうな吐息が白く立ち上る。

 まったく憂鬱だ。どうして最近の子どもはこう、大人びているというか、理屈っぽいというか、悲観的というか、根暗ねくらというか、陰気というか……。

 思考がどんどんと暗くなっていることに気づいて、大和は首を数回振った。ダメだダメだ。こんな風にネガティブに考えていては、よけいにジメジメしてしまう。

 大和はドアを開くを止めて、引き手から一旦手を離した。

 ファイオー、フォーイン!

 声に出さずに気合を入れて、自分の頬を二回はたいた。

 負けるな大和、腐るな大和、戦い抜くんだ、勝つために。ゴーフォー、ファイオー、フォーイン!

 大学の頃に所属していたクリケット部の掛け声を頭の中で叫び、沈みかけた気持ちを力づくで持ち上げる。

 そうだ、俺がしっかりしなければ。あれから半年が経つとは言え、クラスの子どもたちはきっとまだ辛いに違いない。だからこそ、俺が前向きにいなければ。彼らを率いて導いてやるんだ。

 えかけていた心が息を吹き返す。大和は意気揚々いきようようと、四の三の教室のドアを引いた。

「おーっす。みんな、おはよう!」

 大和は教壇に立ち、教卓にバンッと両手を付き、大きな声で挨拶をした。

 教室の中には子どもたちがわらわらと無秩序に歩き回っていた。一番向こうの窓際の席には女子たちが数人で集まっており、廊下側の一列には男子がたむろしている。その他の子らも、仲の良い同士でお喋りをしたり、指遊びをしたりしている。教卓の真下の席ではメガネを掛けた男子が突っ伏して気持ち良さそうに寝息を立てている。

「おーい、みんな席につけよ。もう授業の時間だぞ!」

 大和は賑やかな教室の雑音にかき消されないように、大きな声を張り上げた。子どもたちはその声に気づいて前を見た。そして、残念そうにそれぞれの席に戻り、椅子に座った。

「おっす、みんな、おはよう!」

 大和が改めて挨拶をすると、教室中から「おはようございます」の合唱が帰ってきた。大和は満足そうに笑って、「さあ、さっそく今日の勉強を始めるぞ」と言った。

 一時間目は算数の授業だった。今日は図形の角度の単元だ。大和は黒板に大きく三角形を書き、内角の和が百八十度であることや、直角三角形、鋭角三角形、鈍角三角形についての説明をした。

 黒板には白い三角形が三つ並び、説明の文字がその間を埋めている。

 子どもたちの半分くらいは納得なっとく顔で肯きながら授業を受けている。だが、一部には不思議そうに首を傾げていたり、退屈そうにしていたりする子もいて、中には居眠りをしている子までいた。

「おーい、佐藤。起きろー、寝るなー!」

 大和は寝ている子どもを名指しして注意した。

 大和自身も算数はあまり得意ではなかったので、退屈をしてしまう気持ちはよく分かる。数字を見ただけで眠たくなるのもしょうがない気はする。だが、だからと言って居眠りを許しておくわけには行かない。

 大和に注意された少年は面倒くさそうに顔を起こし、ぐりぐりとまぶたこすった。

「今から大事な話をするから、ちゃんと聞いておくんだぞ!」

「大事な話ですか?」

「ああ、そうだ。角度の計算とか、三角形の種類と角度の関係とか、いろいろあるからな」

「でも、それ、もう塾で習いました。なのに聞いていないとダメなんですか?」

 少年はふてぶてしい態度でそう言うと、しばらく大和の返事を待っていたが、大和が何も言い返さなかったので再び机に伏してしまった。

 なんだ、このガキは!

 大和はついカッとなってくるのを懸命に堪え、どうにか怒りを飲み込んだ。

「おい、佐藤。塾で習ったのかもしれないけどな、案外勘違いしてたりすることもあるからな、復習代わりにちゃんと聞いておけよ」

「えー、だって面倒くさいし」

 駄々をこねる少年をなだめて、ちゃんと座りなおさせてから、大和は算数の授業を再開した。

 まったく、「子どもは天使」だなんて何処どこの大間抜けが言ったのだろう?

 何処からどう見ても子どもは悪魔だ。性悪の悪魔で、悪魔の親玉で、可愛らしい顔をして猫を被った魔王だ。

 俺が子どもの頃はもっと純粋だったし、素直だったはずだ。だが、いまどきの子どもときたら、親が悪いのか、それともゲームやアニメの影響か、なんだか分からないが妙に扱いにくい。大人が相手でもすぐに反抗するし、かといって辛く当たれば、差別だの体罰だのと大騒ぎする。

 ああ、本当に子どもは悪魔だ。


 俊憲は医大を卒業後、父親のクリニックをぐべく精神科医をこころざした。樋野クリニックは不眠症が専門の精神科外来病院であるが、仕事は不眠症関連の診察だけではない。町の病院ということで多種多様な場面で頼りにされている。夜泣きの相談から、夫婦カウンセリング、時には風邪やら腰痛やらの治療まで頼まれる。「町医者ってのはな、何でも出来なきゃならんのだ」。俊一郎はいつもそう言って、たとえ専門外の事であっても広く勉強していた。そんな父を俊憲は誇りに思っており、父こそが医師としての目標でもあった。

 いつの日か父を超える医師となり樋野クリニックを継ぐために、俊憲も日夜勉学に勤しんでいた。そんなおり、町の小学校でスクールカウンセラーを募集しているとのむねを伝え聞いた。給与や待遇はともかく、沢山の子どもと接して実践じっせんを重ねる事が出来る機会は俊憲にとって魅力的だった。「子どもの診察は難しいからな。スクールカウンセラーをするのは、良い経験になるんじゃないか」と、俊一郎にも勧められた。そこで俊憲は、父のクリニックを手伝って精神科医をする傍ら、泉町いずみまち小学校のスクールカウンセラーも兼業し始めた。それから約三年、俊憲は午前は小学校に通い、午後はクリニックで働くという生活を続けている。

 スクールカウンセラーの仕事は予想していた以上に複雑で、新米の精神科医として学べることが沢山あった。保健体育や道徳の時間に教室に呼ばれて授業を受け持つこともあった。また、児童たちだけではなく、教師を相手にする仕事も思いのほか多かった。問題を抱えた子どもたちとの接し方を聞かれたり、児童たちの状況を尋ねられたり、相談の内容は様々あったが毎日と言っていいほど頻繁ひんぱんに教師たちがカウンセリングルームを訪れている。

 教師のうち半数くらいが、「子どもは天使だ」と言い、もう半分が「まるで悪魔だ」となげく。しかし、俊憲はそのどちらもが、彼らの勘違かんちがいだと思っている。

 タブラ・ラサという言葉がある。ラテン語で「白紙」を意味する言葉である。子どもは最初は白紙の状態で産まれて、それからいろいろな事を感じ、学び、経験して、やっと思考や観念が出来上がるという考えがタブラ・ラサだ。

 人間には産まれもった才能や、個性がある。だから「白紙ではない」と言う発達学者もいる。それでも、やはり子どもは白紙なのだと、俊憲は考えている。もちろん白紙にもいろいろあって、和紙の半紙だったり、大判の画用紙だったり、薄くて小さなメモ紙だったりする。それが産まれ持っての個性というものだろう。しかし、それらは全て真っ白で何色にも染まっていないし、何も描かれていない。

 だから幼い子ほど、さまざまな色に染まりやすい。白く、無垢むくで、素直で。その無邪気さを見た人は、まるで天使だと感じるだろう。

 一方で、子どもには遠慮が無く、そして気分屋だ。周りに影響をされてわがままを言ったり、残酷なほど正直だったりする。その様子はあたかも悪魔のように見えるかも知れない。けれど、それもまた子どもが白紙であるために相違ない。

 それにしても、困ったものだ。俊憲はオフィスチェアに体を埋めた状態で、バインダーファイルに挟んだカルテをぺらぺらと捲りながら、頭を抱えて苦い顔をしていた。

 泉町小学校において、スクールカウンセラーを頼ってやってくる児童はあまり多くない。来訪らいほう者一人につき一枚ずつ作成されるカルテを一か月分集めても、せいぜい三、四十人分くらいで、多いときでも六十枚には満たない。全児童の十パーセント足らずの人数だ。今年の二学期の初めだけは例外的に、多いときには週に五十名以上の児童が訪れていたが、それもすでに一応の落ち着きを見せた。

 したがって、困りものなのは相談者の人数ではない。問題は相談される内容だ。

 たとえば、勉強が苦手だとか、人間関係の悩み、あるいはクラス内でのけ者にされているだとか、いじめっ子がいるといった類の問題ならば、相談に乗ってやりやすい。その手の問題ならば、相談に来た児童や、そのクラスの児童たちをカウンセリングしていけば解決へと向かうだろう。しかし、現代の児童たちが抱える問題は、子どもの責任でどうにかできる程度の内容ではないものがほとんどなのだ。というよりも、児童に現れる問題のほぼ全てが、周りの大人に起因していると言っても差し支えない。

 家族の機能不全、シングルマザーやシングルファザーに関する諸問題、子どものように未熟な親たち、ネグレクトや、虐待に等しい家庭環境。親に関する問題だけでも数え切れない。

 教師に問題がある場合もある。体罰がいけないこととされてから、児童に気を遣うばかりになって無能化してしまった教師もいる。かと思えば、児童を家畜か何かみたいに管理したがる教師もいる。

 児童の悩み事を解決してやるためには、まずその周辺の大人たちを変える必要がある。しかし、それが一番難しい。大人は子どもほど素直ではないし、建前たてまえやメンツにがんじがらめになっている者も多い。必要悪だとか、理想と現実だとか、上手い言葉で言い逃れられると話がこじれるばかりである。

 この小さなカウンセリングルームの中から出来ることなんて限られている。児童本人との会話をする他は、せいぜい担任教師に助言をするのがせきの山で、それ以上は手の出しようがない。だから、俊憲が助けになってやれる相談は全体の一割くらいである。残りの九割は出来る手を尽くせば、後はただ見守るしかない。あるいは、手をこまねいて見ているしかないと言うほうが正確かもしれない。

 あの子にしたって、俊憲には何もしてやれなかった。あるいは他の人間がここのカウンセラーだったら、彼女を救ってやることが出来ただろうか?

 その可能性も無いわけではない。だが、やはり彼女を救うのは難しかっただろう。一介いっかいのカウンセラーでは踏み込めない領域というものが存在するからだ。

 だが、スクールカウンセラーとして来ていたのが別の誰かだったなら、彼女はあの日に命を落さずに済んだのかも知れない。


 つい物思いにふけると、俊憲は必ずある児童を思い出す。ゆがんだ家庭の中で育った彼女は、それなのにとても元気で明るい性格をしていた。俊憲が精神科医でなければ、彼女がその小さな体と心に、多くの問題を抱えていたことに気づきもしなかっただろう。

 俊憲が彼女と初めて話したのは、およそ三年前に俊憲がこの泉町小学校で働き始めてすぐのことだった。まだ出来たてで、誰一人として尋ねてこなかったカウンセリングームに、初めてやってきたのが彼女たちだった。


 春先のうららかな日だった。校庭の隅に植えられた桜は満開で、春風が清々しく、窓の外のグラウンドでは児童たちが元気に走り回っていた。陸上の記録測定をしているらしく、断続だんぞく的に笛の音が聞こえ、その数秒後に悔しさやら歓喜かんきやらの雄たけびが聞こえてくる。花見にでも繰り出すか、せめて散歩くらいには出かけたいような日和だった。

 俊憲はせっかくの春の一日を浪費ろうひするかのように、狭い部屋に一人でこもって、パソコン画面に表示された論文を見るともなしに見ていた。スクールカウンセラーとして勤務してもう半月が過ぎようとしているのに、カウンセリングルームに児童が来たことは一度も無く、時間を持て余していた。だが、いくら相談に来る児童がいないからといって、勤務時間中に外出するわけにも行かない。学校の教員なら、指導案を書いたり児童に配布するプリントを作ったりするのだろうが、カウンセラーにはそれも無い。俊憲は一人きりの部屋の中で退屈しのぎに、医学系の論文を眺め、時間を潰していた。

「ああ、ヒマだなあ」

 俊憲は椅子の背もたれに身を預けて、体を大きくそらせて伸びをした。たとえ、相談者が一人もいなくても給料には影響が無い。だが、いくらお金をもらえても、のどかな春の日に部屋の中でただじっとしているのは耐えがたい苦痛だった。

 黄土色をした木目のフローリングに淡いピンク色の壁、天井は薄い水色をした、二十平方メートル余りの広さがある長方形の部屋。明度が高く彩度が低いペールトーンの室内は、何だか薄ら寒い感じがする。

 部屋の中央には大きな白いテーブルがあり、その両側には二人がけのクッションソファーが二台向き合って平行に置かれている。壁際には大きな本棚があり、一段一段にぎっしりと難しそうな本やら、分厚いバインダーファイルやらが詰まっている。

 俊憲は本を一冊手に取って、窓際のデスクに戻った。デスクの横に置かれた冷蔵庫から、お茶のボトルを取り出して、一口飲んで冷蔵庫に戻した。

「こんなさびしい部屋では誰も来ないよなあ」

 俊憲は独りごちながら、部屋を見回した。いつ見ても、中途半端ちゅうとはんぱなできばえの部屋である。一見すると、どこかの会社にある応接室の様でもあるが、それにしては色使いが軽くて安っぽいし、そのくせ閑散としすぎていて、家庭的な雰囲気でもない。一言で言うなら、居心地の悪い内装だ。

 どこかの精神病院のパンフレットに載っているカウンセリング室をそのまま真似しただけの部屋は、あまり機能的でないうえに、あまりに無機質むきしつで落ち着かない。精神科医の俊憲ですら気が滅入めいりそうになる。本当なら、部屋の隅に観葉植物を置いたり、ぬいぐるみや人形を並べたり、絵画で飾ったり、ポスターを貼ったり、いろいろと工夫をするべきだろう。華美かびになり過ぎず、雑多にならず、けれど暖かくて落ち着ける雰囲気作りが大切だ。それなのに、学校教員ときたら「これぞカウンセリングの部屋ですね」などと、この殺風景さっぷうけいな部屋に恭悦きょうえつするばかりで、問題点に気づく風も無い。

 いつか、この部屋の改装にも取り組まなければ。俊憲はそう心に決めていたが、少なくとも現在はそのときでない事も理解していた。作りたてほやほやの内装を勝手にいじったりしたら、部屋のインテリアを考えた教員たちの顔を潰すことになり、余計な波風を立てることになる。それでも押し通すくらいの権限は俊憲にも与えられてはいるが、それで教員たちとの連携がなくなってしまったら、スクールカウンセラーの業務に大きな支障が出てしまう恐れがあるのだ。

 当面の間は、この居心地の悪さに耐えて、誰も訪ねてこない部屋で、ただ時間を浪費することになりそうだ。俊憲はため息混じりに本を開いた。

 トントントン。本を数ページ読みかけたところで、不意に部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。俊憲は予期せぬ事態にややたじろぎながら、「ええと、ああ、どうぞ」と困惑した声を返した。

「こんにちは、樋野先生。わー、ここだけ他の教室と違う部屋だ!」

「突然ごめんなさい。ちょっと相談したいことがあるんですけど」

 入ってきたのは二人の女子児童だった。一人は明るい表情で溌剌はつらつとした喋り方の少女で、もう一人は大人しそうなもじもじした少女だった。

「相談ですか? でしたら、こちらのソファーへどうぞ」

 俊憲は初めての相談者に舞い上がりながら、二人をソファーに案内した。元気な方の少女はソファーの手前で小さく飛び上がり、勢いよくお尻からクッションの上に着地した。大人しい方の子がその隣にちょこんと腰を下ろした。

「それで、相談したいのは二人ともですか?」

「ううん、あたしじゃなくて、この子の方なんだけど。ほら、美紀みき、話しなよ」

「うん。あの、どうすれば、私もミキちゃんみたいに、みんなと話せるようになりますか?」

 元気な女の子によると、大人しい子は美紀という名前らしい。そして、彼女は別のミキという子、どうやら社交的らしいその子に、あこがれを抱いているようだった。なんだか複雑な話になりそうな予感がして、俊憲は二人に紙を差し出した。それは試験的に作ったカルテで、氏名の記入欄のほかに数個の質問が印刷されている。

「話の前に、良かったら、それに名前とクラスを書いて、質問に答えてもらえますか?」

 二人は受け取った紙に目を落とすと、紙面を読みながらゆっくりと鉛筆を動かした。


 相談にやってきた少女の名前は加納かのう美紀と言うらしい。一人っ子で、ピアノを習っていて。俊憲が紙に書かれた彼女の略歴を呼んでいると、付きいの子が「あたしは苗字がミキで、美紀ちゃんは名前がミキなの。すごいでしょ!」と自慢を始めた。すると、美紀も嬉しそうに「だから、ダブルミキのミキミキコンビなんです!」と続けた。コンビというだけあって、二人の息はぴったり揃っていた。

 彼女らはお互いをと呼び合っていた。傍目にはとてもややこしかったが、彼女らはそのややこしさを楽しんでいる風でもあった。二人は口々にお互いのことを喋り合った。大人しくて口数の少ない美紀だったが、ミキミキコンビで話をするときだけはいくらか元気で雄弁になるようだ。

「それで、加納美紀ちゃん。君は隣のミキちゃんみたいになりたいのですか?」

「はい。だって、私、人と話したりするの苦手だから」

「つまり、どうしたらお喋りが上手になるかって、そういうことかな?」

 美紀はこっくりと肯いた。

「美紀は黙ってても可愛いから、気にしなくても良いのにね!」

「そうですね。でも友達とお喋りできると、もっと楽しいでしょうから、せっかくならお話を出来るように頑張ってみましょうか」

 美紀は人とのコミュニケーションが苦手だという。けれども見る限り、対人恐怖症と言うほど酷くもないようだ。シャイと言うには行き過ぎている印象だが、気をつけてさえいれば、今後もどうにか問題なく過ごしていけるだろう。成長とともに語彙ごいが豊富になり、やがてコミュニケーションも上手になってくるはずだ。

 それよりも俊憲が気になったのは、付き添いの子の方だった。元気で溌剌としていて感じは良いが、この年齢にしてはしっかりし過ぎているのが問題だった。まだ小学校低学年だと言うのに、彼女の言動には年相応の幼さが感じられない。愛らしい笑顔にもどこか不自然な感じがする。それはどう見ても過剰適応かじょうてきおうの状態だった。

 過剰適応とは頑張り過ぎる病気である。そのまま放っておくと、自己犠牲ぎせい的になり、精神や肉体に支障をきたす。それでも気付かずにいるとますます酷くなり、どんな辛苦しんくに見舞われようともずっと無理をし続け、生き生きと活発なフリをする。そして、限界が来たら、突然に大病を患ったり、ときには自殺に至ってしまったりすることもある。

 俊憲はにこにこと笑っている付き添いの女の子を診察したいという衝動に駆られた。だが、今日の相談は美紀のコミュニケーションに関するものである。ここでいきなり、「ところで君も過剰適応だから」なんて話を変えようものなら、二人の少女たちは俊憲に警戒心を持つに違いない。ゆっくり時間をかけて信頼を得て、それから徐々に話を切り出す必要があるだろう。当面は美紀の相談に乗りつつ、もう一人の「ミキ」の経過をひそかに観察するという手段を取るしかない。

「美紀ちゃん。お喋りが苦手なのを克服するのには、それなりに時間がかかると思うんだけど、それでも頑張ってくれますか?」

 俊憲が尋ねると、美紀は戸惑いながら俊憲の目を見た。

「いえ、そんなに難しいことじゃないのですが。これらかもときどき、この部屋に来て僕とお話をしてくれれば良いんです。どうでしょう、来てくれますか?」

「はい、それくらいなら。でも」

 美紀は隣にいるミキの顔をじっと見て、何か言いたそうな顔をしている。

「えっ、どうしたの? あっ、そうか。あのね、美紀は一人だと心配だから、あたしも一緒でも良いかって聞きたいみたい。あたしも一緒に来て良いですか?」

 二人のミキは俊憲が望んだ通りのことを質問してくれた。

「もちろん二人で来てくれて構いません。ぜひ二人一緒に来てください」

「だってさ、美紀っ!」

 美紀は嬉しそうに目を細め、隣にいるミキも満足そうな笑みを浮かべていた。

 それから二年半の間、二人は月に一、二回くらいのペースでカウンセリングルームにやってくるようになった。俊憲は美紀の相談に乗りながら、もう一人のミキの様子を注意深く観察し、必要なときには彼女の相談相手にもなってやった。二人は次第に俊憲に心を開いていった。

「あたしが来るのも変だけどさ」

 あるときにミキが一人でカウンセリングルームに来たことがあった。彼女は気まずそうにドアの前に立って、唇をとがらせていた。

「そんなことはありませんよ。ここは誰でも来て良い部屋ですから。それで、何か相談ですか?」

「ううん、相談って言うんじゃなくて、ちょっと話を聞いて欲しいだけ。いつもだったら美紀に話すんだけど、今日は風邪で休みだから」

 彼女は妙に大人びた喋り方で、俊憲に小言をこぼした。複雑な家庭環境や彼女自身の不安定な心境は、聞いている俊憲でさえ苦しくなるほどだった。しかし、本人はそれほど悩んでいる様子も無く、一頻ひとしき愚痴ぐちを言い終えるとすっきりした顔で帰って行く。そんなことが数回繰り返されるうちに、彼女も美紀と同様にカウンセリングルームの常連になっていった。


 あのとき僕がした対応は間違っていたのだろうか?

 もっと別の方法で相談を聞いていたら、彼女は立ち直ってくれたのではないだろうか?

 心の傷がもう少し癒えていたなら、彼女はあんなことにはならなかったはずだ。

 スクールカウンセラーが僕でなければ、彼女はあの日、死ななかった。

 僕は彼女のことを助けることが出来なかった。

 僕が彼女を殺してしまったのだ。

 彼女のことを思い出すと、俊憲は罪悪感に押しつぶされそうになる。

 心臓をわしづかみされた様な苦痛に顔を歪めながら、俊憲は深く深く息を吸った。胸にこもった自責じせきの念を吹き飛ばすように、吸い込んだ空気を一気に吐き出す。

 確かに僕は彼女を救うことが出来なかった。だが、だからこそ、今は落ち込んでいる場合じゃない。彼女へのつぐないをするためにも、これから一人でも多くの人を助けるんだ。

 僕がしっかりしなければ。

 俊憲は懸命に自分を奮い立たせた。

 トントントン。ようやく気分が持ち直したとき、不意に誰かがドアをノックした。


 根っからのスポーツマンの大和は「引きずらない」ことをモットーにして生きている。むしゃくしゃしたまま一日が終わるなんて勿体もったい無いし、くよくよ悩むのもバカらしい。

 嫌な事があったら、ゴーフォー、ファイオー、フォーインと心の中で唱えて、スパッと忘れる。嫌な事ばかりの毎日だが、大和はそうやって乗り切っている。だから、授業中のイライラを次の授業まで持ち越したことが無い。それどころか、どんなにカッとなっても五分か十分で、すっかり元の機嫌きげんに戻ることが出来ると自負している。

 一時間目の算数が終わると、二時間目は道徳の時間だ。

 夏の一件があってから、このクラスでは特にこの時間が重要になっている。校長からも、学年主任からも、道徳は力を入れて指導するようにと仰せつかっている。

 さあ、次の時間も頑張るぞ! ファイオー、フォーイン!

 大和は気合を入れなおした。

 短い休み時間が終わり、教室に戻ってきた子どもたちが席に着くと、大和はプリントを配布した。プリントには命の大切さを教えるための説話せつわが書かれている。

「さあ、じゃあ、今日はこのプリントを読もう!」

 教室には三十四人の児童がいて、横に七列の席が並んでいる。各列は後ろに五席ずつ連なっている。一番廊下側の列だけが四席しか無くて、列に穴が開いている。

 夏までは三十五人のクラスだったので、子どもたちは七列ぴったりに収まっていたのだが、今は一席分のスペースが余ってしまっている。

 各列の一番前にいる子どもにプリントの束を渡すと、彼らはプリントを一枚とって、残りを後ろの席に回した。プリントはバケツリレー式に後ろに配られていった。

 一番後ろにいる生徒にまでプリントが渡ったところで、大和は窓際の列の先頭にいる子どもを一人指名した。

「じゃあ、最初の行から一段落ずつ読んでもらおう。その場に立って、大きな声で読んでくれよ」

 指名された少女が立ち上がり、ややどぎまぎしながら音読を始めた。

「これからみなさんに大切な話をします。それは命の話です。私たちが生まれて、そして死んでいくという話です。では、まず、私たちがどのようにして生まれてきて、どのように生きていくのかをお話しましょう」

「はい、ありがとう。じゃあ後ろの席の子が次を読んでくれ」

 大和は先頭の子が読み終わると、一つ後ろの席の子を指し、それから順繰りに後ろの生徒へと続けて音読させた。

「生き物はみんなお母さんから生まれます。赤ちゃんとして生まれて来ることもあれば、卵で生まれてくることもありますが、人間は赤ちゃんで生まれてきます。赤ちゃんは成長して大人になり、また次の赤ちゃんを生んで育てます」

「こうして親から子へ、そして子が親になり、また次の子へと続いていきます。私たちの命はこのように沢山の命につながっています」

「一つの命は次の命を生み、育て、もっともっと沢山の命を作っていきます。たった一つでも命が欠けてしまうと、その後の沢山の命が無くなってしまいます。ですから、私もあなたも、あなたのお友達も、先輩も、後輩も、みんなが大切な命なのです」

「私たちはみんな違った良さがあります。誰かが一人だけ大切なわけでも、大切じゃない人がいるわけでもありません。ですから、みなさんは周りにいる全ての人を大切にする必要があります。それは大変なことですが、みんなが頑張れば、みなさん自身も大切にされることになります」

「はい、ありがとう。これで一番右の列は全員が当てられたな。じゃあ次はその隣の列の先頭さんから行こうか!」

 大和は一つ左の列を指差した。プリントの中ほどまでの音読が終わったが、ここからが大切な部分だ。

 残りの半分には生き物の「生」と「死」についてが書かれている。小学四年生の心に死というテーマは重たすぎるのかもしれないが、このクラスにおいては避けて通れないテーマなのだ。を乗り越えるためには、今ここで「生きること」と「死ぬこと」について教えなければならない。

 大和は教卓に手を突いて、やや前傾ぜんけいしながら意気込んだ。

「ちょっと難しい話だから、みんな良く考えながら聞くんだぞ!」

 大和は低めの声でクラスに言い聞かせてから、音読を再開させた。先頭の男子が立ち上がり、面倒くさそうに音読を始めた。

「次に、少し悲しい話をします。それは生き物の死についてです。生きている物は、どんな生き物でも、必ずいつかは死んでしまいます。死ぬことのない生き物は世界のどこにも存在しません」

「どんな小さな生き物も、私たち人間も、生き物は一生懸命に生きて、自分の役目を果たそうと頑張ります。そして、やがて全ての役割を終えた生き物は死んでしまいます。しかし、死は恐ろしいものではありません」

「死ぬことは病気でもなければ、罰でもありません。ちゃんと役割を終えた生き物が、次の世代にバトンタッチすることなのです。こうして命は続いていき、決して消えてなくなってしまうことはありません」

「私たちは何かの役目があって生まれてきます。ですから、一生懸命に生きるのです。一人ひとりが頑張れば、みなさん自身や家族や友達を幸せにすることができます。そして、みんなが頑張れば、幸せは世界中に広がって、ずっとずっと続いていきます」

「わたしたちも、そして、みなさんも。世界に幸せを広げるために生まれてきました。ですから、大切な命をめいっぱいに生きて、世界中を幸せにしていきましょう。そして、その幸せをずっと先の世代まで伝えていきましょう」

 音読が一通り終わり、大和は子どもたちの顔を見渡した。

 子どもたちは一様に神妙しんみょうな面持ちをしているようだった。

 このプリントは子どもには少し難しい内容だったのかも知れない。だが、大切な話だったに違いない。大和はプリントを読み返しながら、数度大きく肯いた。

「みんな、少し難しい話だったけど、分かったかな?」

 大和はクラスに問いかけながら、黒板に大きく「命」と書いた。

「このお話を読んで、命とはどういうものだと思ったか、意見のある人は手を挙げて!」

 大和が意見を求めると、四、五人の子どもが手を挙げた。

「じゃあ、最初に手が上がった中川くん」

「はい。僕は、命は大切なものだと思います。だから、自分の命も人の命も粗末にするのは良くないことだと思います」

「そうだね、先生もその通りだと思う。他に意見がある人はいるかな?」

 一人が発表したことで安心したのか、今度は十人近くの子どもが手を挙げた。

「よし、次は近藤さん」

「はい。私は命は続いていくものだと始めて知りました。だから、私たちが死んでしまっても、それは終わりじゃないんだと思いました」

「終わりじゃない、か。なかなか良い意見だね。プリントに書かれていたことから、しっかりと考えてくれたんだね。じゃあ、次は誰に発表してもらおうかな?」

 大和が次の発表者を選んでいると、思いもよらぬ席から手が上がっていた。人見知りで、引っ込み思案じあんな女子が、肘を曲げたまま遠慮気味に手を挙げていた。

「おっ、次は加納さんに発表してもらおう。加納さん、大きな声で頼んだぞ」

「はい。ええと」

 少女は大きいとはとても言えないような、か細い声で、ささやくように喋った。

「私は、人は何のために死ぬんだろうと思いました。悪いことをしなくても死ぬのは何でなのかなあ、何でミキちゃんは死んじゃったのかなあ、と思いました」

「加納さん、それは意見じゃないよね?」

 大和は慌てて彼女の言葉を遮ったが、少女は話を止めなかった。

「あの、ええと。命が続くって言うことは、私はお化けになる事だと思いました。死ぬのは体が無くなる事だから、ミキちゃんはお化けになったんだと思いました」

「いやいや、プリントにはそんなことは書いていなかっただろ?」

「でも、ミキちゃんがそう言ってたから」

彼女の発言を受けて、クラスは騒然そうぜえんとなった。「お化けだって!」、「あいつ化けて出たのかよ!」、「うらめしやーとか?」。子どもたちは大きな声で喋り始めた。

 これじゃあ授業にならない。

 大和は彼女を指名した事を後悔した。

「こら、静かにしなさい」

 大和はクラス中に響き渡るような怒鳴り声を張り合げた。

 騒いでいた子どもたちが静かになり、「お化け」発言をした少女はぎくりと後ずさりをした。

「加納さん、今は大切な授業の途中なんだぞ。それなのに、そんな風にありもしないことを言ってふざけちゃいけないだろ!」

「でも、ふざけてなんか」

「いい加減にしなさい。大切な話をしているんだから、ちゃんと真面目に聞きなさい!」

「でも、でも、だって」

 少女は小声で反論したが、大和は少女を威圧いあつするように大声を張り上げながら、続けざまに彼女を叱り付けた。少女は弁解べんかいあきらめ、しゅんとして席に座り、悲しそうに唇を噛み締めた。


 明るい色をした壁には淡い色の紙を重ねて薄っすらと波形はけいが描かれている。床には円形のラグが敷かれており、部屋の隅には緑の葉をつけた大型の観葉植物が置かれている。クリーム色一色だったソファーには、花のような模様が織り込まれたクッションが添えてある。ソファーの前のテーブルは光沢のある白色から木目のものに取り替えた。

 俊憲は頭を抱えながら、ソファーに座っていた。

 働き出してから三年の間に、少しずつ改装を重ねてきたカウンセリングルーム。当初は居心地が悪いばかりの部屋だったが、だんだんと感じのいい部屋になっていき、来談者も少しずつ増えていた。あれは、そんな矢先やさきに起こった事件だった。

 去年の夏ごろ、四年三組の女子児童が行方不明になり、数日後に遺体で発見されたのだ。あの事件によって児童たちはもちろん、教師や保護者たちの多くが心に深い傷を受けた。毎日のようにカウンセリングルームには行列ができ、パニックを起こす児童も沢山いた。俊憲はカウンセラーとして彼らをいやそうと尽力してきた。その甲斐あってか、児童たちの心的外傷しんてきがいしょうは徐々に回復し、問題のある児童は片手に納まる程度の人数にまで減少した。

 しかし、児童たちを癒す一方で、俊憲自身の心にはあの事件が未だ癒えぬ傷として残っていた。その傷が今なおじくじくとうずき、俊憲はさいなまれ続けていた。もしもスクールカウンセラーでなければ、とっくに壊れてしまっていただろう。自分が治療をする立場であるという使命感だけが、どうにか俊憲を支えていた。

 トントントン。

 ドアをノックする音に気付き俊憲は部屋の外に出た。すると、カウンセリングルームの前の廊下には、坊主頭の少年が立っていた。小柄だががっしりとした体つきをした少年だった。彼の頬には真新しいり傷があって、トレーナーとジーパンも砂埃で汚れていた。

 一見して何かのスポーツをしていると分かる活発そうな少年であったが、その外見に反して、彼にはあまりにも元気が無かった。大股を開いてドアの前に立っているが威勢の良い立ち姿とは裏腹に、瞳が小刻みに震えている。全身から心細さがにじみ出しているようだった。

「この部屋に用事かな?」

 俊憲がフレンドリーに問いかけると、少年は静かに肯いた。

「そうか、じゃあ入ってそこのソファーに掛けてくれ」

 少年は部屋の中に入ると、壁際の観葉植物に一瞥をくれてから、部屋の奥側にあるソファーに座った。少年の重みでクッションが大きく窪み、引き締まった太ももがソファーに沈んだ。

「念のために確認するけど、君はここに来るのが初めてだよね?」

「はい、初めてです」

「それじゃあ、ここに年、組、名前を書いて、こっちのアンケートにも答えてくれるかな?」

 少年はアンケート用紙と鉛筆を受け取ると、真剣な表情で記入し始めた。アンケートには全部で三十問の設問があり、一問一答式のものと○×式のものがある。彼はゆっくりと時間をかけて全ての質問に答えてから、用紙を俊憲に返した。

 アンケート用紙をざっと見て、俊憲は彼の名前と大まかな特徴を把握した。彼は仲井なかい浩太こうたと言い、六年二組の学級委員長をしているらしい。学校では陸上部に所属しているが、週末には市の野球クラブにも通っているようだ。

「へえ、仲井君は野球をしているのか!」

「はい、ピッチャーをしています」

「クラブは陸上なんだね。どっちが好きなの?」

「野球が好きです。陸上クラブは体力作りのためにと思って」

「そうか、頑張るんだね。それじゃあ、将来は野球選手になりたいのかな?」

「はい、野球選手になって、メジャーリーグでプレーするのが夢なんです」

 先ほどまで意気消沈いきしょうちんしていた浩太も、大好きな野球の話になるといくらか元気を取り戻して、好きな野球選手の話や、都大会に出場したときの話をしてくれた。

「すごいなあ、僕なんか運動が苦手で駆けっこはいつも最後の方だったし、君みたいにスポーツが出来るのは羨ましいよ」

「でも、選手になるにはまだまだなんです。都大会ではすぐに負けちゃったし、変化球も苦手だし。けど、もっと上手になって、いつかはメジャーリーガーになるつもりです」

 浩太は高らかに宣言した。彼の発言はどれをとっても前向きで、しっかりとしていた。学級委員をしているだけあって、真面目で頭も良さそうだ。野球について熱く語る姿は、子どもながらとても勇ましかった。どこからどう見ても生命力にあふれた健やかな少年だ。そんな彼がどうしてカウンセリングを受けにやってくるのか、俊憲には想像もつかなかった。

「それで仲井君は僕に何か相談があるんだよね?」

「あ、はい。そうです」

 浩太は本題を思い出すと、急にしゅんとなってしまった。部屋を訪ねてきた直後と同じ暗い表情になり、力無くうな垂れている。

「どうかしたかい? 急に元気がなくなったね」

「いえ、はい、あの」

 浩太はしどろもどろになりながら、「先生は幽霊っていると思いますか?」と尋ねてきた。

「幽霊かい。さあ僕は見たことが無いけど、仲井君はどう思っているのかな?」

「あの、俺、このまえ見ちゃったんです。それで、取りかれたみたいなんです」

 浩太は泣きそうな声になりながら、いきなりトレーナーを脱いだ。続けて、その下に着ていた長袖のシャツも脱ぎ捨て、裸になった。

 筋肉質な上半身はまるで白い服を着ているように、ランニングシャツの形に日焼けしていた。日焼けしている部分は綺麗な小麦色で、お腹の周りはやや黄みを帯びた白色をしていた。その白色の所々に、シミのようなあざがいくつもあった。変色して黒ずんでしまった古い痣もあれば、赤紫色の新しい痣もあった。肩や腕にある痣は日焼けに隠れてあまり目立たないが、その代わりに肘から先には無数の擦り傷が出来ている。

「どうしたんだい、その怪我は?」

 俊憲は傷だらけの体を見て驚くとともに、イジメや虐待を疑った。

「えっと、転んだり、事故にあったり、今朝は階段から落ちて」

「誰かにやられたわけじゃないんだね?」

「はい。いえ、ええと」

 浩太は言い出しづらそうに口ごもった。

「どうしたのかな? 何か言いにくいことがあるのかな?」

「あの、この傷、人にされたわけではないんですけど、幽霊にやられたんだと思うんです」

「幽霊にやられたって、どういうことだい?」

「このごろ何も無いところで転んだりして、毎日のように怪我をするんです」

「ああ、それで幽霊の仕業だと思っているのかい?」

「そうなんです。あの日から、毎日のようにこういう怪我ばかりしていて。このままだといつか幽霊に殺されるんじゃないかと思って」

「あの日? それはいつのことかな?」

「一ヶ月くらい前なんですけど、あの日の放課後、幽霊を見たんです。その日は友達と残ってサッカーをしていたんです」

 浩太は服を着てから話を始めた。「本当は野球がしたかったけど、多数決でサッカーになって」だとか、「ルーレットっていうのは、こうやって、こういう技なんですけど」と言うような本題に対しては余計と思えるような話も交えながら、細かく丁寧に彼はの出来事を説明した。


 その日の放課後、浩太たちは校庭でサッカーをしていた。集まったのは浩太を入れて十人だったので、五人と五人に別れて、制限時間なしで試合をした。サッカークラブに所属している友達が公式のサッカーボールを持ってきてくれたので、ドッジボールでするよりも本格的な試合をすることができた。チーム編成へんせいが良くて両チームは全くの互角で、試合は白熱したものとなり、十人は夕方まで夢中でサッカーを続けた。

 空はやがて夕焼けで赤くなり、校庭で遊んでいた下級生たちがランドセルを背負って帰り支度じたくを始めている。あと十分ほどで閉校を知らせるチャイムが鳴る。児童はそれまでに学校を出なければいけない決まりだ。

「そろそろ下校時間だな。あと一点、どっちかが決めたら終わりにしようぜ!」

 両チームがちょうど同点だったので、一人がそう提案した。物事には勝敗をつけないと気が済まないのがこの年頃の体育会系男子であるから、その提案はすぐに受け入れられた。その直後に良いタイミングで浩太の足元にボールが飛んできた。浩太は上手にトラップして、相手のゴールに向かって走った。

「よっしゃ、そろそろ本気を出すぜ!」

 ドリブルしながら浩太が叫ぶと、「本気って今更かよ!」とチームメイトが揶揄した。

 ペナルティエリアの手前まで駆け上がったところで浩太はボールを止めて、ゴールを狙った。周りに敵の選手はいない、絶好のシュートチャンスだ。

「必殺! スーパーツインシュート!」

 渾身のキック。即興そっきょうで名前をつけて、浩太は力任せにシュートを放った。

 ボールはまっすぐゴールへ飛んでいった。

 ディフェンスの選手も、そのスピードには反応できない。

 キーパーの手もすり抜け、ボールは突き進んだ。

 しかし、その後でボールはやや右にカーブしてしまい、ゴールポストにぶつかった。

 ゴーンという大きな音がした。

 弾き飛ばされたボールは、なおも勢い良く飛んで行き、コートを出て校舎の横でバウンドし、体育館の向こう側へと転がっていった。

「おい、あっちって先生たちの駐車場じゃん」

「車に当たってたら怒られるぞ!」

「俺は知らねーからな!」

 口々に言う敵チームたち、味方のメンバーも心配そうに浩太を見ている。

「こっそり取ってくれば大丈夫だよ」

 もしも先生と会ってしまっても、ちゃんと謝れば許してもらえるだろうという気持ちもあったので、浩太は一人で平然と職員用の駐車場へと走って行った。

 ボールはかなり遠くまで飛んで行っていた。だが、幸運なことに周りの車に傷をつけた様子は無かった。浩太はふぅと安堵あんどの息を吐いて、ボールに駆け寄った。

「ねえ、こんなところにいたら危ないよ」

 ボールを拾おうと地面に屈んだとき、不意に背後から声をかけられた。女の声だった。

「ねえ、車にひかれちゃうよ」

「あの、ごめんなさい」

 浩太はボールを胸に抱えて立ち上がった。そして、声のするほうを振り返りながら謝った。自分に注意してきたのは先生だろうと思っていたからだ。ところが声の主は先生ではなく小さな女の子だった。彼女は車の後ろに隠れるようにしゃがんでいた。

 夕日に照らされて、女の子の輪郭が赤く際立っている。逆光になっていて表情までは分からないが、六年生の浩太よりも年下であることは間違いない。

 年下に注意されたことにムッとした浩太は女の子の前にでんと仁王立ちした。

「そっちこそ、そんな所にいたら危ないだろ。車にひかれたらどうするんだよ!」

「そうだね、うーん、どうしようかな?」

 浩太の大声にも怯まず、女の子はクスクスと可笑しそうに笑った。その枯れた笑い声はいやに耳に響いた。浩太は気味が悪くなりその場を立ち去ろうとした。

 その瞬間だった。女の子を中心にして周囲一面が黒く変色した。その黒色は見る見るうちに広がっていき、浩太の視界は暗闇に包まれた。暗闇はほんの数秒だけ続き、すぐに視界は戻った。しかし、そのときにはすでに浩太の前から女の子が消えていた。

 浩太の目の前には元通りの赤い夕暮れ時の景色が広がっていたが、そのどこにも女の子の姿は見つからなかった。浩太は周囲をきょろきょろ見回した。車の陰や校舎の影に目を凝らしてみたり、地面にしゃがんで車の下を覗き込んでみたりした。しかし、どこを探しても女の子の姿は無く、笑い声や足音すら聞こえなくなっていた。

 駐車場のこの位置から近くの建物の裏まで回りこむのに、浩太が走っても十秒くらいはかかるだろう。浩太の目の前が真っ暗になっていたのはせいぜい一、二秒のはずだ。女の子が走り去れるほどの時間では無い。そもそも何で急に暗くなったのかも分からない。電灯を消すみたいに夕日を消すなんて不可能だ。

 もしかすると、あの女の子は幽霊だったのかも知れない!

 浩太は怖くなって駐車場から逃げ出した。

 その夜から、浩太の恐怖の日々は始まった。

 自分の部屋を持っている浩太は眠るときも一人だ。それなのに、ベッドに入った浩太は、誰もいないはずの部屋の中に何かの気配を感じた。気配はゆっくりと忍び寄ってきて、浩太の布団の中に潜り込んで来た。手や足に誰かの指が触れているような、嫌な感覚がつうっと伝った。太ももの辺りまでもぞもぞとする。「ぎゃー」。浩太は叫びながら布団を蹴り飛ばした。けれども、布団の中からは虫の一匹すら出てこなかった。

 寝ている間に幽霊が襲ってくるかも知れない。その恐怖で浩太なかなか寝付けなかった。そんな眠れぬ夜を過ごした次の朝、今度は自宅の階段から転げ落ちた。浩太の頭には大きなたんこぶが出来た。それを皮切りにして、浩太はそれから毎日のように怪我をし続けた。

 怪我の数は日増しに増えていった。友達や家族にも幽霊の事を相談したが、「偶然だよ」と言われるばかりで、誰も真面目まじめに相手をしてくれなかった。


 体育館裏の職員用駐車場には、教員や用務員たちの車が止められている。その中には外車もちらほら見られる。公立学校の教員の収入はそう多くはないから、なけなしの給料をコツコツ貯金したのか、あるいは長期ローンを組んで買っているのだろう。いずれにせよ、高級車の所有者たちにしてみれば、児童たちがみだりに駐車場に出入りするのは好ましからざることだろう。そのせいもあって、駐車場に出入りした児童には、教員たちの厳しい指導が待ち受けているのだった。

 俊憲はそれほど高価な車に乗っているわけではないので、そこまで神経質になって児童を叱ったことは無い。事故が起こってはいけないので、駐車場で見かけた児童にはもちろん注意をするが、彼らがおびえるほど厳しく叱責しっせきする必要は無いと思っている。だが、そんな俊憲でも、浩太が駐車場で経験したという出来事を聞いて心中穏やかではいられなかった。

 夕方は、日差とカーウインドウとの角度の加減で、窓の下半分がやや暗く見える瞬間がある。また、その頃の日光は地面とほぼ平行に進むため、サイドミラーに当たると、その反射光がちょうど運転者の目に射し込む。すると車からの視界は著しく狭くなる。そんな時間の駐車場に出入りするのは大変に危険である。だから、つい感情的な言葉で浩太を叱りつけてしまいそうになった。だが、今は叱るべきときではない。俊憲は黙って浩太の話を聞いた。

 の出来事を話し終えたとき、浩太は目に涙を浮かべていた。よほど幽霊が怖いらしい。浩太は俊憲にすがりつかんばかりの勢いで、「本当なんです。信じてください」と言って話を締めくくった。その表情を見れば、彼が話したことが嘘や冗談でないのは明らかだった。浩太は切実せつじつに助けを求めている。

 何とかして助けてやりたいと思った。とは言え、除霊をして欲しいと言われても、俊憲にはどうすることも出来ない。だが、心霊現象のほとんどは脳が生み出した精神現象である。つまり、幻覚や妄想なのだ。浩太が見たのがその手の幽霊ならば、何がしかの対応をしてやれる可能性がある。

 浩太がしてくれた話を整理しつつ思考を巡らせた。

 消えた少女。

 夜中のベッドでの体験。

 毎日の怪我。

 ふと、俊憲は小さな引っ掛かりに気付いた。

「仲井君、他に何か覚えていることは何かあるかな?」

「何かってどういうことですか?」

「何でも良いんだけど、駐車場で女の子を見たときのこととか、怪我をするときのことで、気になることはあるかな?」

「ええっと、そう言えば、女の子が消える前に一瞬だけ耳がキーンってなりました」

「それは金属音みたいな音が聞こえたの?」

「違います。なんて言うか、耳の奥がキーンってして、音が聞こえにくくなる感じでした」

「もしかして、それは今でもあるのかな?」

「はい、ときどきですけど」

「それじゃあさ、ひょっとして最近、頭痛とか胸がどきどきしたりとか、そういう異常を感じるんじゃないかな?」

「はい、それもあります。これも幽霊の仕業ですか?」

「いや、幽霊じゃないんだけどさ。ところで、仲井君。市の野球クラブで、君はどういう練習をしているんだい?」

「えっ、野球ですか? 俺はピッチャーなんで肩をきたえたり、投球練習が中心です。あとは、打撃練習が少なめで、代わりに走りこみをしたりします」

「なるほどね。だとするとあれの可能性が高いな」

 俊憲はソファーを立ち、オフィスチェアに座りなおし、パソコン画面に向かった。パソコンは休止モードで暗い画面になっていた。

「ちょっと待っててね、パソコンを起動するから。あっ、そうだ。いっぱい話したから喉が渇いただろう。こちらの準備が出来るまでお茶を飲んでいると良い。」

 俊憲は冷蔵庫からお茶を取り出し、耐熱性のカップに注いで、電子レンジで少し温めた。

 浩太がお茶を飲んでいる間に俊憲は調べ物を済ませ、数枚のプリントを印刷してからソファーに戻った。そして、テーブルの上に印刷したプリントを広げた。

「結論から言うとね、仲井君はある病気かもしれないんだ」

「病気ですか?」

「ああ、そうだよ。スポーツ貧血って聞いたことがあるかな?」

「いいえ、分かりません」

 プリントの一枚を浩太に見せながら、俊憲は彼にその病気の説明をした。

 スポーツ貧血とは文字通り、スポーツをしている人に多いタイプの貧血だ。スポーツをしていると筋肉に含まれるミオグロビンが鉄を消費し、赤血球を作るための鉄分が不足してしまう。さらに、長距離を走るスポーツでは、もろい赤血球が足の裏で踏み潰されて、赤血球数が減少する。これらが重なると貧血の症状が現れるのだ。

「陸上や野球での走り過ぎが一番の原因だろうね」

「それって、どういう病気なんですか?」

眩暈めまいや立ちくらみがしたり、動悸どうきや息切れがしやすかったり、頭痛がしたりする病気だよ。ちゃんと治療すればそれほど怖い病気じゃないから安心して良い」

「その病気は幽霊が見えたりするんですか?」

「いや、幽霊は見えない。でも、君が幽霊を見た理由なら説明できると思う」

「理由ですか?」

「きっとね、君が見た女の子は君の前から立ち去っただけなんだよ。目の前が暗くなったって言ってたろう?」

「はい、ほんの一秒か二秒ですけど」

「それが、実はもっと長かったんだよ。貧血で気が遠くなっていたんだろう。ほんの数秒のつもりが実は十秒くらい、君は立ったまま気を失っていたんじゃないかな」

「でも、じゃあ何で夜中に幽霊が来たんですか?」

「そのときは君は何も見てないんだろ?」

「そうですけど」

「レストレスレッグス症候群と言って、腕や足がムズムズする病気があるんだ。貧血が原因の病気だよ。その症状を幽霊のせいだと勘違いしたんじゃないかな?」

「それなら、この怪我とか事故は?」

「ああ、それも貧血で説明できる。貧血になると、眩暈がしたり注意力が鈍くなったりするんだ。そうしたら、道で転ぶことや小さな事故にあうことは増えるよね」

「それじゃあ、本当に俺は病気なんですか?」

「検査して見ないと分からないけど、その可能性が高いと思う」

「その病気は治るんですか?」

「ああ、もともとスポーツが原因の病気だからね。トレーニングを少し控えめにして、しっかり治療すれば、きっとすぐに治るよ」

 相談が済んで「ありがとうございました」と頭を下げ、部屋を出て行く浩太は明るい表情をしていた。グラウンドを元気に駆け回っているのがとても良く似合いそうな、少年らしい笑顔。俊憲はそれを見送りながら、充実感に浸っていた。

 精神科医をしていると、うつ病など精神的に疲弊ひへいした患者を相手にすることが多い。彼らからは負のオーラとでも言えば良いのか、近づくだけで体力を奪われるような気配が発せられている。そんな彼らの相談を受けるのは、決して楽な仕事ではない。彼らと話しているうちに自分まで憂鬱ゆううつになっていくこともある。

 それでも気長に対話して、彼らが抱えている問題を一つ一つ解きほぐしていくと、負のオーラを感じなくなる瞬間がある。すると、患者たちの目には輝きが戻り、生き生きとした気配が漂い始める。その瞬間に立ち会うのは、堪らない快感だ。それを味わうために、僕はこの仕事を続けているのかも知れない。俊憲はソファーに座り、コーヒーを一口飲んだ。いい仕事をした後のコーヒーは最高に旨かった。


10

 プルルルルルル、プルルルルルル。

 カウンセリングルームに電話のコール音が鳴り響いた。俊憲は慌ててコーヒーカップを置き、受話器を持ち上げた。電話の液晶画面には「ナイセン」と表示されている。

「もしもし、あの樋野先生でいらっしゃいますか?」

「はい、カウンセリングルームの樋野ですが、何でしょうか?」

「あの、樋野先生、少しばかりお時間を頂いても構いませんか?」

 受話器から聞こえてきたのは校長の声だった。

「ええ、今は誰も来ておりませんので」

「ありがとうございます」

「それで、何か御用ですか?」

「あのですね、いましがた、四年三組の教室で一悶着ひともんちゃくがありまして」

「あの三組ですか?」

「ええ、どうも亡くなった女子児童の幽霊を見たという子がいるらしくて」

 亡くなった女子児童というのは、ミキミキコンビの片割れ、元気なほうのミキのことだ。去年の夏、彼女は若い男の部屋から、変わり果てた姿で見つかった。彼女に暴行されたあとがあったので、部屋に住でいた男が逮捕された。男がミキを誘拐して、暴行し、殺害したものと、警察は見立てたのだ。

 それから大騒動そうどうが起きた。児童が誘拐されて無言の帰宅をしたというだけでも一大事だが、問題はそれだけに留まらなかった。誘拐殺人犯として逮捕された男が俊憲の患者だったことがマスコミによって報道されてしまったのだ。児童を殺傷した犯人に近しい人物が学校に出入りし、しかもカウンセリングに従事じゅうじしているのは、倫理的に良くないのではないかと、マスコミは俊憲を批難ひなんした。

 噂はたちまちに広がり、学校にもクリニックにもかなりの苦情が寄せられた。学校や父親に迷惑をかけていると感じた俊憲は、スクールカウンセラーを辞めようと考えた。しかし、校長がそれを引き止めて、「被害者のことも加害者のことも知っているあなただからこそ、今の児童らの心を癒せるのではないでしょうか?」と言った。その言葉で俊憲は泉町小に留まることを決意し、あれからもずっと勤務し続けている。

 それからの半年、辛いことはいくつもあった。

 夏休み明けの数ヶ月間は、四年生の児童たちや、その教師や保護者たちが相談に訪れ、忙殺ぼうさつされる毎日だった。しかし、それだけ頑張って仕事をしても、学校にはクレームばかり寄せられて、やり切れない気持ちを味わった。

 それでも、やはり自分はこの仕事を続けるべきだったのだと、今になって俊憲は確信している。ミキミキコンビのもう一人、美紀を癒すことができたのは、俊憲が以前から彼女たちのことをよく知っていたためだと思うからだ。他のカウンセラーでは彼女の傷を癒してやれなかった違いない。

 おっとりした性格で控えめな美紀と、少し勝気だがしっかり者のミキは、相補的そうほてき関係と言うのか、それとも親和性しんわせいが高いと言うべきか、本当に相性が良かった。ミキミキコンビを自称していたように、二人で一そろいのような関係だった。そのため、事件のあった夏以降、美紀は片翼かたよくうを失った鳥類のようにすっかり憔悴しょうすいし切っていた。

「なんでミキちゃんは死んじゃったのかな?」

 美紀は痛々しいほど弱り果てて、ただ泣くばかりの日々を送っていた。俊憲の所へ相談に来たときにも親友の死をいたみ、ひたすら涙を流して続けていた。

 俊憲は美紀の相談に乗り、彼女を見守り続けた。

 そんな毎日が続くうちに、徐々に美紀は立ち直っていった。最近ではカウンセリングルームに来る回数も減り、笑顔も増えてきた。心の傷は順調に回復している様子だ。

 しかし、どうなのだろう?

 俊憲はこの件について、首を傾げることがある。

 美紀が抱えている心的外傷は、こんな風にたった数ヶ月で癒える程度のものではないはずなのだ。なぜなら彼女は、親友をなのだから。

 人を殺してしまった罪悪感は、鉛を飲み込んだように重たくのしかかり、じわりじわりと心をむしばんでいくことを俊憲は知っている。勇敢な兵士のような強い正義感や自己肯定感を持って、「殺すべきだった」と自分に言い聞かせることが出来なければ、いつか罪悪感に心が押しつぶされてしまう。それほどに、殺人とはごうが深い行いなのだ。それなのになぜ、美紀はその良心の呵責かしゃくから解き放たれることが出来たのだろう。

 俊憲が考え込んでいると、受話器の向こう側から心配そうな声が聞こえた。

「もしもし、樋野先生。どうかされましたか?」

「あっ、いえ、少し考え事をしていまして」

「そうですか。あの、三組の件なのですが、樋野先生にもご協力頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」

「協力と言いますと?」

「この後で児童たちをていただきたいのです。あんな事件があったクラスで、幽霊騒ぎですから、怯えている児童も多いようなので」

「そうですか、分かりました」

「それではよろしくお願いいたします。私はこれから三組に向かって、様子を見てまいりますので、詳しいことは、また後ほど」

 早口でそう言うと、校長はあわただしく電話を切った。


11

 受話器を置いた俊憲は、腕を組んで考え込んだ。

 うーん、分からないことばかりだ。

 僕が精神科医として優れていると過信かしんしているわけではない。全てが予想通りというわけには行かないことくらい心得こころえている。だが、それにしても納得がいかない。

 不可思議ふかしぎなのは二点だ。一つ目はもちろん美紀のことである。彼女はここ数週間のうちに劇的に回復した。泣いてばかりいたのが嘘のように、よく笑うようになり、親友の死を乗り越えてしまった。いったい何があったと言うのだろう?

 もう一つは四年三組の状況だ。先ほど来た浩太の話も気になる。

 同じ学校に通う子どもが凄惨せいさんな事件によって死亡した。その状況は残された児童たちにとっては大きな恐怖に違いない。だから幽霊の目撃談が出てくるのも当然かも知れない。精神的な不安定さが、幽霊の幻を作り上げてしまうこと自体は有り得ることだと思う。実際に、事件の直後には少女の亡霊を見たり、その声を聞いたりしたと言って相談に来た児童もいた。しかし、それらはすぐに落ち着いた。それが事件から半年も経った今になって、どうして立て続けに二件もの幽霊騒ぎが起こったのだろう?

 何かがおかしい。どうにもに落ちない。

 考えていてもらちが明かない。まずもって情報が足りないのだ。

 俊憲は現状を把握はあくするために、四年三組の様子を見に行こうと決めた。

 カウンセリングルームを出て、部屋に鍵をかける。外出中のプレートをドアノブに引っ掛けると、プレートは振り子運動をした。エネルギー保存の法則も空気抵抗に敗れて、プレートがゆれ止むと、俊憲は四年三組に向かって歩き始めた。

 保健室やカウンセリングルームがある特別教室棟は生徒たちの教室がある棟と離れている。二つの校舎の間には渡り廊下があるのだが、そこを通るよりも校庭を斜めに突っ切るほうが近道だ。俊憲は校庭の対角線たいかくせん上を移動して最短経路で三組を目指した。

 四年三組の教室は、俊憲の想像を遥かに超えて悲惨な状態だった。児童たちは教室中に野放図のほうずに散らばり乱れ、あるものは「うらめしやー」などと奇声を上げ、またあるものは泣き叫び、かと思えば机に突っ伏していびきをかいているものもいた。空席が目立つ所を見ると、前の休み時間に勝手に家に帰ってしまった児童もいるようだ。

「お前ら、席について静かにしろ!」

 瀬川と言う若い担任教師が野太い声で叫ぶが、児童たちにの耳には届いていないようだ。彼の怒声も相まって、教室は動物園さながらの様相をていしていた。俊憲が覗いている窓の下でも男子児童が甲高い声を上げている。

 教室には担任の瀬川の他にも、校長と教頭、養護の教員が集まっていた。

「みなさん、少し落ち着きましょうね」

 養護の女性教員が大暴れしている男子に歩み寄り、その周辺で奇声を上げている数人に呼びかけた。男子たちは少し声のトーンを落として、彼女を振り返った。

「ほら、どうしたんだい。泣くのを止めて話してごらん!」

 校長が泣いている女子の顔を覗き込んで、にっこりと微笑んだ。鼻の下のひげがむくむくと動き、温厚そうな表情が出来上がる。泣いていた女子たちが顔を上げる。

「それではみなさん、席についてください!」

 いかにもキャリアウーマンを絵に描いたような顔つきをした教頭が、鋭い声でぴしゃりと言い放った。

 さすがは熟練の教員三名のタッグである。収拾がつかないほど荒れていた教室が、平静を取り戻し始めた。先ほどまで困り果てていた瀬川も、ようやく担任教師としての自覚と落ち着きを取り戻したようで、無闇に怒鳴り散らすのを止めて、児童たちの席と席の間を歩きながら、優しく声をかけて回っている。

 児童たちの多くは依然として動揺した表情をしているが、どうにか席に座って、先生たちの話を聞こうと努めている。

「みなさん、席に着きましたね。ありがとうございます。何があったのか教えて欲しいのですが、話してくれる人はいますか?」

 校長がクラスを見回しながら聞くと、あちこちから手が挙がり、児童たちがまたぎゃあぎゃあと騒ぎ出した。しかし、校長は落ち着いた様子で、何度か肯いた。

「分かりました。では、一人ひとり聞いていくので、皆さんもう少し静かにしてくださいね」

 校長が穏やかな声でたしなめると、児童たちはすぐに静かになった。

 校長はぐるりと教室内を見回して、ドアの外にいる俊憲を見つけた。

「おやっ、樋野先生じゃないですか!」

 校長が微笑むと、豊かなひげがモサモサ揺れた。

「ちょうど良かった。よろしければ入ってきていただけますか?」

「はい、失礼いたします」

 ドアを開けて部屋に入った俊憲に、児童たちの視線が集中した。

「こちらは、カウンセリングルームの樋野先生です。皆さんの中には樋野先生とお話したことがある子もいると思います」

 紹介された俊憲は児童たちにお辞儀をした。

「今日の出来事で皆さんは嫌な気持ち、怖い気持ち、いろいろな気持ちになったと思います。その気持ちをこのあとでこちらの樋野先生に話してみてください」

「それは、全員がしなきゃいけないんですか?」

 メガネをかけた男子がふてぶてしい態度で尋ねた。校長が俊憲に目配せをした。

「強制ではありませんが、出来るだけ話してもらいたいと思います。とりあえず名簿の順番にカウンセリングルームに呼び出しますから、話がある子も、そうでない子も一度は部屋まで来てください」

 校長に代わって俊憲が質問に答えた。

「だそうですので、皆さんは樋野先生のおっしゃる通りにしてください」

 校長が話を締めくくり、教壇から降りた。

「校長先生、樋野先生、教室は私が見ておきますから、後の事はお願いします」

 教頭が担任の代理を買って出た。

「お言葉に甘えて、ここは教頭先生にお任せします。それでは樋野先生、子らのカウンセリングをお願いいたします。それから、瀬川先生は私と一緒に校長室に来てください」


12

 校長室へ行く道すがら、大和は三回ほどため息を吐いた。大和の前を歩いている校長は、普段は温厚そのものという雰囲気を醸している男だが、今日ばかりはやや強張ったようなぎすぎすとした空気感を漂わせている。

「さあ瀬川先生、どうぞ入ってください」

 扉が開かれ、大和は校長室へと招き入れられた。

 校長室に入ると正面には大きな灰色の衝立ついたてが置かれていた。足元には傘立てがある。衝立の向こう側は、まるで社長室みたいな感じの部屋になっている。校長用の大きなデスクが入り口の方を向いていて、その前には向かい合う革張りのソファーと重たそうな木の机が置かれている。

 壁際にあるショーケースにはトロフィーやら卒業生からの寄贈品が飾られていた。大和はクリケット部で小さな大会に優勝したときのことを思い出しながら、その棚を眺めていた。

 俺はいつの間にこんなに年を取ってしまったのだろう。グラウンドを走り回っていたあのころが懐かしい。

 大和が現実逃避していると、校長が大和の肩を叩いた。

「瀬川先生、そこのソファーに座って楽にしてください」

「あっ、はいっ! 失礼します!」

「コーヒーで宜しいですか?」

「はいっ! ありがとうございます!」

 大和がソファーに座ると、校長は大和の背後でコーヒーメーカーを操作し始めた。

「砂糖とミルクは必要ですか?」

「えっ、あっ、ミルクは無しで、砂糖を三つでお願いします」

 大和のコーヒーの好みを確認すると、校長はコーヒーメーカーの給水口にミネラルウォーターを注いで、フィルターにコーヒー粉を入れ、抽出を始めた。

 校長が後ろを向いてコーヒーを用意しているので、大和からは彼の表情をうかがい知ることが出来ない。二人の間には気まずい沈黙が横たわっている。少なくとも大和はそう思って息苦しさを感じていた。

 呼吸困難になりそうな大和の後ろで、校長は黙ってコーヒーを淹れている。部屋の中は静かで、コーヒーが沸くポクポクという音と、大和の浅い呼吸音がはっきりと聞き取れた。

 数分して、ようやくコーヒーが入り、校長が振り向いた。

「瀬川先生、お待たせしました。どうぞ、冷めないうちにお飲みください」

 校長はマグカップに注いだコーヒーを大和に差し出した。大和はそれを受け取ると、二三回フーフーと息を吹きかけてから、やけどしない様に気をつけながら一口飲んだ。口の中に甘ったるい苦味がとろりと流れる。

「どうですか?」

「あっ、うまいです」

「そうですか、それは良かった」

 それからまた、しばらく無言が続いた。「うーん、これはなかなか」と、校長は本当に美味しそうにコーヒーを飲み、コーヒーが苦手な大和はちびちびと黒い液を舐めた。

「あの、それで、俺に何かお話があるんじゃないんですか?」

「そうでした、そうでした。まず瀬川先生に一言だけ言わせてください」

「はい?」

「瀬川先生、ご苦労様でした。本当にいつもありがとうございます」

「ご苦労様? えっそれは? 俺はクビとか、そういう話ですか?」

 大和が恐々とすると、校長は声を上げて笑った。

「ははは、まさか。だいたい私にそんな権限はありませんよ。そうではなく、瀬川先生のような若い先生にあのクラスは本当に大変だと思うので、まずそのお礼をしたかったのですよ」

「いえ、まあ、大変でしたけど、お礼なんて」

「特に夏の事件からこっちは、私もずいぶん参りましたが。担任の瀬川先生はどれだけ大変だったか、想像も及びません。それなのに、あまり力になってあげられず、申し訳ない限りです」

 校長は言葉を尽くして大和をねぎらった。それからほんの少し厳しい表情をして、大和の目をじっと見つめた。何かキツイことを言われると予想して大和は身を固くした。

「ただし、子らを怒鳴りつけることだけは感心しませんね。まだまだ幼い彼らですが、彼らも彼らなりに辛い現実を受け止めて、頑張っているんです。私たちは出来る限り優しく見守ってあげるべきではないでしょうか?」

「そうですね。俺もそう思います。ついカッとなってしまって。申し訳ありませんでした」

「ははは、私も昔はそうでした。ですから、一つコツを教えましょう」

「コツですか?」

「カッとしないコツです。いいですか? 頭に来ることがあったときには、まず目をつぶります。そして、ゆっくり十を数えます。そのときに、体から心だけ飛び出すイメージをしてください」

「はあ、心だけですか?」

「幽体離脱をするようなイメージです。それから、海外の町を歩くとか、空を飛ぶとか、女性と食事に行くとか、そんなイメージをしてみてください。何でも良いので心だけで遊びに行くのです」

「それでカッとしなくなるんでしょうか?」

「不思議ですがね、それだけで本当に冷静でいられますよ。ぜひ試して見てくださいね」

 校長は鼻の下の髭をもさもさ動かしながら、優しそうな笑顔を見せ、下手糞なウインクをした。

「それと、児童たちのケアについては、カウンセラーの樋野先生に相談してみてはいかがでしょうか?」

「樋野先生に?」

「三組は状況が特殊ですから、手に余って当然だと思います。そういうときは、樋野先生のような専門家に相談されると、少しは楽になるんじゃないでしょうか?」

「すみません、俺の力不足で」

「いえ、瀬川先生は立派な先生ですよ。ですが、無理をされては辛いでしょうから、出過ぎたことかとも思ったのですが、ちょっとアドバイスをしたかったのです」

 大和はコーヒーを飲みながら、不思議な高揚感に酔っていた。

 俺は信頼されている。校長がわざわざ俺を部屋に呼んだのは、叱責しっせきするためではなく、慰労しアドバイスをするためだったのだ。担任しているクラスが厄介なことになって落ち込んだときもあったが、考えて見れば、これは成長するのにもってこいの機会だ。ゴーフォー、ファイオー、フォーイン! 頑張れ大和。今が勝負だ。戦い抜くんだ勝つ為に!

 自分のクラスの子どもが死んだのは残念なことだ。保護者への対応も大変だ。居眠りばかりの子もいれば、人見知りの酷い子もいる。教師生活には厄介やっかいごとばかりだ。だけど、俺なら大丈夫。ゴーフォー、ファイオー、フォーインと唱えて乗り切れば良い。そう、これは小さな問題なんだ。


13

 俊憲は四年三組の児童たちを順にカウンセリングルームに招き、それぞれと数分ずつ対話した。多くの子どもはほとんど何も喋ってくれなかった。部屋に入るなり「別に何もありません」とだけ言って、すぐに出て行く子もいた。そのため面談はスピーディに進み、四時間目が終わる頃にはクラスの半数の児童と話し終えた。だが、一人にかかる時間がいくら短くても、クラスは全部で三十四人。帰ってしまった児童を抜いても、あと十人以上はいる。とても午後までに片付く仕事ではない。午後に帰れないことを父に伝えておかなければ、樋野クリニックの患者に迷惑がかかりかねない。

 俊憲は面談の合間をぬって家に電話をかけた。

「もしもし、お袋か?」

「あら、としちゃん。どうしたの?」

「悪いんだけどさ、今日は昼飯要らないわ。それから、ちょっと親父に代わってくれ」

 泰代は「はいはい」と言って父を探しに行った。受話器はそのまま台の上にでも放ってあるらしく、向こう側から「お父さーん、としちゃんから電話よ。さあ、用事は知らないけど、急いでるみたいよ」と、大きな声がもれ聞こえてくる。

「おうもしもし。俊憲か、なんだ?」

「親父、今日はちょっと学校の仕事が長引きそうなんだ。今日の午後は俺の患者からの予約は入ってないはずけど、もし来たら何とかしといて欲しいんだよ」

「なんだ、そんなことか。そりゃあ、つっかえす訳にもいかんから、言われなくたって俺が出来ることはするさ。それより、学校で何かあったのか?」

「半年前の事件絡みだよ。殺された子のいたクラスで幽霊騒ぎがあったんだ」

「幽霊か、子どもだからな。だが、半年も経ってから騒ぎ出すのはちとおかしいな」

「そうだろ。それで念のため一人ひとりを診察してるんだ」

「そうだな、それがいい。しっかり診てやれ」

「そうするよ。だから、今日は帰りが遅くなるよ」

「分かった。こっちのことは俺に任せておけ」

「ありがとな、親父」

 俊憲は樋野クリニックでの午後の仕事を休診にして、今日は一日がかりで学校で児童たちのカウンセリングをすることと決めた。本来なら残業は無いはずの仕事だが、今日に限っては仕方が無いだろう。給料だのと細かなことを言うつもりも無い。

 電話の後にも俊憲は三人の児童を診て、それから短い休み時間を過ごした。昼食は校長が取ってくれた店屋てんや物で済ませ、一時から診療を再開した。養護教員に引き連れられてきた児童を部屋に通し「お化けは怖いかい?」などと簡単な質問をし、反応をうかがう。そして、問題のありそうな児童を見つけ、彼らにだけ念入りに面談する。

 そんな作業を延々と三時間続け、ようやく最後の児童の番になった。

 最後は事の発端となった少女、加納美紀だ。他の子たちは名簿順でカウンセリングをしたが、彼女だけは特別に、一番最後に回してもらったのだ。

「美紀ちゃん、久しぶりだね。さあ、そこのソファーに座って」

「はい、ありがとうございます」

 美紀は静々と部屋に入ってきて、三つ並んでいるソファーの真ん中に座った。彼女の質量しつりょうで、ソファーのクッションがふわりと少しだけ沈み込む。

 美紀は相変わらず大人しくて、まるでどこか良家の御令嬢のような気品があった。えりだけ白い藍色のワンピースを着て、黒くて長い髪を朱色のリボンで結わえている。五十年代のような控えめで奥ゆかしい装いが、彼女の可憐さをぐっと引き立てていた。

「美紀ちゃん、今日の道徳の時間の話を聞いても良いかな?」

 俊憲が尋ねると、美紀は表情を固くした。何かに怯えるように下唇を噛みながら、スカートの太もも辺りをぎゅうと握り締めている。

「ほら、瀬川先生がプリントを配って、みんなで読んだのだよね?」

「はい、そうです」

「それで、どうなったのか、そのときの話を教えて欲しいんだ」

「でも、話をしたら樋野先生も怒るから」

「僕は絶対に怒ったりしないよ」

「でも、ミキちゃんの話はしちゃダメだって、みんなが言うから」

「みんなって誰のこと? 瀬川先生?」

「先生もだけど、お父さんとお母さんも言ってた」

「そっか、ミキちゃんの話っていうのは、お化けのことかな?」

 美紀はこっくりと肯いた。

「この部屋ではね、どんな話をしてもいいことになってるんだ。だから、安心して話してごらん。何があったんだい?」

「本当にいいの?」

「ああ、もちろんだよ」

 俊憲の説得が通じて、美紀はミキミキコンビのもう一人、半年前に死んでしまった「ミキちゃん」の話をし始めた。

「前に委員会で帰りが遅くなった日に、ミキちゃんと会ったんです」

「それはいつ頃かな?」

「ええと、二週間くらい前だと思います」

「どこで会ったの?」

「学校の駐車場です。あの日は委員会が終わるのが遅くなって、正門が閉まってたから」

「教員用の裏門から出ようとしたのかな?」

「そうです」

「それで、ミキちゃんとは何かしたの?」

「はい、いろいろ話をしました」

「他には何かあったの?」

「お話をする以外にも、一緒に遊んだりもします」

「えっ、それは今でもなのかな?」

「習い事が休みの日はよく遊びます。お化けになったミキちゃんは夕方しか出て来れないらしくて、だから一時間か二時間くらいだけど、教室とか近くの公園で遊んでます」

「家では遊ばないの?」

「前に私の家に行こうとしたんですけど、ミキちゃんは学校から離れると力が弱くなちゃうみたいで、行けなかったんです」

「どういうこと?」

「お化けの力が弱くなると、見えなくなっちゃうみたいなんです」

 俊憲は美紀のことが心配になった。親友を失った子どもが、その親友の幽霊という妄想を作り上げてしまう所まではまだ理解が出来るが、その幽霊と頻繁ひんぱんに出会ったり、遊んだりしているのは健康な状態とは言えない。それほどまでに、美紀の世界は硬く閉じてしまっているということかも知れない。

 子どもだから、軽い妄想癖くらいなら、それほど問題はない。だが、彼女のものは妄想と言うよりも幻覚に近い。これ以上悪化すると、重度の精神障害に陥る危険も考えられる。

「ところで、このごろ美紀ちゃんが元気なのは、どうしてかな?」

「それは、ミキちゃんと話して分かったことあるからです」

「何が分かったの?」

「ミキちゃんがいなくなった日、私はミキちゃんのことをおいて、一人で家に帰ったんです。そのせいでミキちゃんが誘拐されて死んじゃったんだと思ってたんです」

「前にもそう話していたね」

「でも、ミキちゃんが私のせいじゃないって言ってくれたんです。あたしが死んだのは美紀のせいじゃないよ、だからもっと笑ってよ。って、ミキちゃんが言うから、ミキちゃんのためにも元気になろうと思ってるんです!」

 美紀はお化けのミキに励まされたことで、元気を取り戻していたようだ。言われてみると、美紀がカウンセリングにやって来なくなったのは、彼女がお化けに会ったという二週間前辺りからだった。

 それにしても、幻覚のおかげで元気を取り戻すとは変わった病態だ。俊憲は美紀の言葉を聞き漏らさないように注意しながら、カルテにペンを走らせた。

「ミキちゃんは私じゃなくて、別の人に殺されたって言ってました」

 その美紀の一言を聞いて、俊憲はペンを止め、彼女の顔をじっと見た。幼い少女の口から出た、「」という言葉には、不気味な重みがあった。脇の下から嫌な汗が噴き出してくるのを感じる。

「別の人って、あの逮捕された人?」

「いいえ、その人とは違うみたいです」

「じゃあ誰なんだい?」

「それが、私が聞いても教えてくれないんです」

「そうか、また、何か聞いたら教えてくれるかい?」

「はい、分かりました」

 話が終わったとき、俊憲の額や首筋は脂汗で湿っていた。俊憲はハンカチで額を拭い、コップにお茶を注いだ。

「美紀ちゃんも何か飲むかい?」

「はい、ありがとうございます」

 美紀の分のコップを取り、お茶を注いでいると、美紀が「あっ、そう言えば」と呟いた。

「何か思い出したのかい?」

 俊憲は慌てて振り向いた。

「ミキちゃんが先生に会いたがってました」

「僕にかい?」

「ほら、ミキちゃんが人前に出てこれるのは夕方だけだから、午前中で帰っちゃう樋野先生にはなかなか会えないみたいで」

「会いたい理由は話してたの?」

「いいえ、でも分かります。ミキちゃん、きっと先生のことが好きなんです」


14

 美紀のカウンセリングが終わったのは、ちょうど三時を過ぎた頃だった。俊憲はそれからしばらく、部屋で資料の整理をした。新しいバインダーファイルを取り出し、四年三組のカルテだけをまとめた。それが終わると、今度は職員室へと呼び出された。

 職員室には四年生の担任たちが集まっていた。俊憲はそこで心理的な問題を抱える児童への対応方法や、相談の受け方、指導の仕方などのレクチャーをした。教師たちは熱心にメモを取りながら、その話を聞いていた。途中で、瀬川から児童との接し方についてアドバイスを求められたので、それにも丁寧に答えた。

「今日はたくさんの話をしましたが、困ったときには、先生方だけで解決しようとせず、どうか遠慮なく僕に相談してください」

 一時間ほど話した後、俊憲はそう締めくくった。

「そうですね、樋野先生の仰るとおり、我々で抱えきれない問題は、専門家の樋野先生にご助力いただきましょう」

 最後に校長がそう言って、その集まりは解散になった。

 窓の外には夜のとばりが下りかかっていた。夕焼けで空は赤く染まり、さみしげなカラスの声が聞こえてくる。

 教室の見回りや明日の授業準備のようなルーチンの仕事に戻っていく教師たちを尻目に、俊憲は荷物をまとめて駐車場に向かった。

 駐車場に止められた車たちが、夕日を反射している。鋭い光に目を細めながら、俊憲は自分の車に向かい、鍵を開けてシートに体を滑り込ませた。

 エンジンをかけて、ギアをリバースに入れると、電子音が鳴り、ギアがかみ合った。両側のサイドミラーを確認し、ルームミラーで後ろを見て、さらに目視で左右を振り返りながら、俊憲はゆっくりと車を後退させた。

 ふと、違和感を覚えた。

 視界の隅に、何かが動く気配を感じる。

 俊憲はブレーキを踏み込んだ。ガクッと揺れて車が静止する。

 あれっ、何だ?

 上体を捻って後ろを見た。

 窓の外には何もいない。しかし、気配はとても濃密だ。

 おかしいな。何だろう?

 首を傾げながら視線を前に戻そうとした。

 その瞬間、見慣れないものが視界に飛び込んできた。

 それは赤い色をしていた。

 車の中に何かがある。

 反射的に毛様体もうようたい筋が収縮して水晶体すいしょうたいが厚みを増した。

 遠くを見ていた目が、近くのそれをとらえる。

 そこにいたのは小柄な少女だった。

 赤いワンピースを着て、顔には悪戯っぽい笑みを浮かべている。

「やほー、樋野先生! 久しぶり!」

 呆気にとられている樋野をからかうように、彼女は顔の前でピースサインをした。


15

 僕はいったいどうしてしまったんだ?

 俊憲は目の前の現実に当惑とうわくした。なぜなら、そこにいた少女は半年前の事件で死んだはずのだったからだ。

「やっと会えたね、樋野先生!」

 ミキは後部座席に座りながら、足をぶらぶらさせて楽しそうに笑っている。

 僕は何を見ているのだろう?

 どこかが変になってしまったのだろうか?

 俊憲は呆然とミキを見つめながら、自問自答した。このところ幽霊騒ぎが頻発ひんぱつしていると言うことは知っていても、まさか自分がその幽霊を見てしまうとは思っていなかったのだ。

 そもそも俊憲は幽霊と言うものを信じていなかった。幽霊の目撃談は勘違いによるものか、そうでなければ幻覚や妄想の類だと思っていた。だから、自分の目の前に幽霊がいるという状況は受け入れられるものではなかった。

 困惑と恐怖とが脳を占拠せんきょしていく。体中が総毛そうけ立ち、全身の汗腺かんせんから、ぬるりとした冷たい汗が噴き出してくる。

「ねえ、樋野先生、何か言ってよ。せっかく会いに着たんだよ」

「君は誰だ?」

「誰だなんてひどーい。あたしだよ」

「いや、君は半年前に死んだはずだ。僕は君の葬式そうしきにも出席している」

「だからさ、お化けになって会いに来たの!」

 自分が死んだことを指摘されると、ミキは当然のように肯いた。

 お化けを自称しているにもかかわらず、ミキはあまりにも生き生きとしていた。勘違いや幻覚のような感じではない。はっきりとした存在感を持っていた。

「君は半年前に死んだんだ」

 俊憲は自分自身に言い聞かせるように、もう一度強く言い放った。

 すると、ミキがクスクスと不気味に笑い始めた。

「死んだ死んだって言うけどさ、あたしは殺されたんだよ!」

「死んだことには変わりないだろう」

「うん、ま、そうだね」

 ミキは相変わらずクスクス笑い続けている。まるで俊憲をからかっているようだった。俊憲は背筋が冷たくなっていくのを感じた。

「早く僕の前から消えてくれ」

「酷いなあ。せっかく会えたのに!」

 ミキはやや意地悪そうに笑った。

「あたし、あの男の人の家で、嫌な事いっぱいされたんだよ」

「それはニュースで見たよ」

「体をちゅうちゅう吸われたり、おへそをめられたり、腕を引っかれたり、お尻の骨をがりがりかじられたりしたんだよ。でねでね、見てよ、ほうら」

 ミキはワンピースの裾をたくし上げながら足を振り上げて見せた。太股ふとももには青黒い痣やじくじくした擦り傷が生々しく残されている。

「その傷が何だと言うんだ?」

「あのね、これはあたしが死んだときに出来た傷なんだ」

「ああ、そうだな」

「お化けにはね、死んだときの傷が残るみたいなんだよね。でさ、こっち見てよ」

 ミキは今度はワンピースの胸元を肌蹴はだけさせて、脇の下辺りまで服を脱いだ。露になった二の腕や胸には傷一つ無く、透き通るような白い肌に薄っすらと静脈が透けている。

「変でしょ?」

「何がだ?」

「あの男の人はあたしに酷いことをいっぱいしたんだよ。体中が傷だらけになってたの。それなのに、お腹と足にしか傷が残ってないんだよ。何でだろう?」

「そんなこと知らない。早く消えてくれ」

「知らないんだ、ふーん……」

 ミキはまた意地悪な笑みを浮かべた。

「君はもう死んでるんだ。早く目の前から消えてくれ」

 俊憲が厳しい口調で突き放すと、ミキはぷっと頬を膨らました。俊憲はそれも無視して、車を発進させた。学校の裏門から出るまでの間も後部座席からは相変わらずミキの声が聞こえていたが、俊憲は無視を決め込んで運転をした。用務員とすれ違った時に軽く会釈えしゃくをした他は、口を固く結んだままハンドル操作だけに意識を向けた。

 駅前の通りへと俊憲は車を走らせた。ときどきバックミラーで確認してみるが、ミキはずっと後部座席に座ったままで、はっきりとした存在感は片時もそこから消えなかった。

「わあ、町中に鬼がいる!」

 ミキははしゃぎながら、窓から外を見ている。彼女の言うとおり、駅前商店街のあちらこちらに鬼の人形や大きなお面が飾られている。それらの鬼の周囲には、恵方巻きのご予約がどうのとか、豆まき大会とか、節分フェアなどという文字の印刷されたのぼりが立てられている。

 夕焼けの色が、陰惨な感じのする赤紫色へと変化しだした。街は夕方から夜へと姿を変えてゆく。もうかれこれ三十分近く、俊憲は学校の周辺をぐるぐる走っていた。目的地があるわけでは無かった。ただ、後部座席に座っている少女が消えるのを待っていた。彼女を乗せたまま家に帰る気にはなれなかったのだ。

「ねえ、先生、これからどこに行くの?」

 風景を眺めることに飽きたミキが、シートから腰を浮かせて、俊憲の横顔を覗き込んできた。俊憲はしばらく無視を決め込んでいたが、ミキは「ねえ、ねえ、ねえってば」としつこい。

「どこにも行かないよ。君が消えるのを待っているんだ。早く僕の前から消えてくれ」

「どうして消えなきゃいけないの?」

「君はもう死んだんだ。だから、こうして車に乗って喋っててはいけないんだよ」

「まあ、あたしはお化けだけどさ。見た目は意外と普通でしょ? ほら、足もあるし」

 ミキは足を持ち上げて、運転席の肩の辺りに乗っけた。彼女が履いているスカートが重力でずり下がる。大腿部が覗き、そこにある挫傷が露出した。皮膚が裂けて、裂け目から黒く壊死した筋肉がはみ出している。

「やめろ、気分が悪い。君は幻覚だ。ただの幻なんだ。だから、早く消えてくれ」

 俊憲はミキの足を払い落とした。一瞬だけ触れた彼女の足は


16

 ミキが助手席の背もたれを乗り越えて、俊憲の隣にやってきた。

「ねえ、先生、何かして遊ぼうよ!」

「うるさい、お化けでも何でもいいから、早く消えてくれ!」

「どうして、そんなにあたしのことを嫌がるの?」

「死んだ人間に会って嬉しいヤツなんていないだろ!」

「でも美紀ちゃんは喜んでくれたよ」

「それは、彼女が病気だからだ!」

「病気?」

「そうだ、幽霊を見るなんて病気に決まってる!」

「じゃあ、先生も病気なの?」

 ミキのその一言に、俊憲はピンと来た。

 そうか、僕は精神病になってしまったのか!

 そのせいで、死んだはずの児童の幻覚なんて見るんだ。

 そうと分かれば、対処は簡単だ。なんせ、僕は精神科医なのだから、この手の症状に対する処置こそが専門だ。処置をする相手が患者から自分自身に代わるというだけのことだ。そうと分かればすることは一つだ。

 俊憲はハザードランプを点灯して道の端に車を止めた。そして、隣の席にいるミキを観察した。どうやら、ミキはあの日と同じ服装をしている。

「ちょっと傷を見せてみろ!」

 そう言ってスカートを捲り上げると、太股から腹部にかけて鬱血した後がある。腹部は潰れてドロドロとした赤黒い塊のようになっている。

「きゃ、先生、何するの!」

 スカートを引っ張られたミキが驚いて俊憲の手を振り払おうとしたが、俊憲は力任せに観察を続けた。入念に観察すればするほど、傷の形も、位置も、あの日に見た通りの状態であることが分かった。細かな傷の一つ一つまで、俊憲の記憶と一致する。

「やっぱりな、お前は僕の意識が生んだ幻覚だな」

「どうして?」

「僕の記憶が全て正しいはずが無い。それなのに、お前の体には予想した位置に予想したとおりの傷がある。つまり、お前は僕の脳が生んだ幻なんだ」

「どういうこと?」

「僕が想像した幻像だから、全てが僕の思った通りになるということさ」

「でも、あたしは先生が消えろって言っても消えないよ」

「幻覚とはそういうものだ。細部や形を想像するのは僕だから、姿は僕がイメージしている通りになる。だが、思うように出たり消えたりはしてくれない。そういう病気だ」

「じゃあ、どうするの?」

「病気にはな、治療法があるんだよ!」

 俊憲は緊急用に持ち歩いているポーチから数粒の錠剤を取り出した。

「なあに、それ?」

「君を消すための薬だよ」

 ニヤリと笑いながら、俊憲は手の平に乗せた錠剤を口の中に放り込んだ。どれもが、かなり強い精神安定剤だった。

 目の前のミキは幻覚に違いない。

 あの事件があってから半年。ストレスに浸かりきった毎日だった。

 彼女を死なせてしまった罪悪感も感じ続けていた。

 そのせいで、僕は幻覚まで見るようになったのだろう。

 精神科医が精神病になるなんて、ミイラ取りがミイラになるみたいで、笑えたものじゃない。だが、精神科医は常にストレスの真ん中に立ち続ける職業だ。だから、医者自身が精神を患ってしまうケースも多い。きっと僕もそれと同じだ。

 飲んだ薬が効きだすまでの三十分ほどは、ミキの幻覚を見続けなければならない。だが、あと三十分もすれば、薬が効き、精神が安定し、目の前の幻覚も消えるはずだ。それまでの辛抱しんぼうだ。

「ねえ、先生。いつもみたいにお話しようよ!」

 耳元でミキが騒ぐのも無視して、俊憲はシートを倒し、目をつむった。

 三十分か、一時間か、俊憲は浅い眠りに落ちていた。目が覚めたとき、カーウィンドウの外の景色は夜へと変わっていた。対向車線を走る車のヘッドライトが寝起きの目を差して、俊憲は数度目をしばたたかせた。

 そろそろ幻覚は消えたかな?

 俊憲はシートを起こして車の中を見回した。助手席には誰も乗っていない。後部座席にもミキの姿は無い。念のため後部座席の足元のスペースを覗き込んでみたが、そこにも彼女の姿は無かった。

 よし、薬が効いたおかげで、幻覚は収まったみたいだ。

 俊憲はシートベルトを締めなおして、車を発進させた。


17

 ようやくミキが見えなくなったので、俊憲は家に帰った。車庫に車を入れるときにチラリ横目に見えた樋野クリニックは、もう診療を終えて、明かりが消されていた。

 車を降りて家に入った。強い安定剤を飲んでいるので、体がフワフワして足元が覚束なかった。俊憲は壁に手をつきながら、居間に向かった。部屋には両親が揃っていた。俊一郎は椅子に座ってテレビを眺めており、その横で泰代が忙しそうに夕食のしたくをしていた。

「あら、としちゃん、おかえりなさい」

「ただいま」

「お父さんから聞いたわよ、学校のこと。大変だったみたいね」

「ああ、疲れたよ」

「もうすぐご飯が出来るけど、食べれそう?」

「悪いけど、後にするよ。小一時間横になりたいんだ」

 体が妙に重くて、異常なほど眠たかった。慣れない薬の副作用なのか、ひどい吐き気までしていた。そんな俊憲を見て、泰代は心配そうな顔をした。

「おい!」

「何だよ親父?」

「顔色が悪いぞ、大丈夫なのか?」

 俊一郎が席を立ち、俊憲の横に歩いてきた。

「ああ、ちょっと疲れただけだから、休めば治るよ」

「学校は、どうだったんだ?」

「二十人以上と話をしたけど、ほとんどの子は大丈夫そうだったよ」

「ほとんど?」

「一人だけ気になる女の子がいるんだ」

「それは、どんな子なんだ?」

「大人しい子なんだけど、幽霊を見たという張本人で、今でもその幽霊と頻繁に遭遇するらしいんだ」

「怖がっているのか?」

「いや、もともと親友だった子の幽霊だから、会えて嬉しいらしい」

 俊一郎は深刻そうな表情になり、あごを擦りながら「うーん」と唸った。

「それは、あまり良くない状況かも知れんな」

「俺もそう思う。だから、これからもちょくちょくカウンセリングに来てもらって、様子を見ていこうと思ってるよ」

「そうか、それなら大丈夫か。もしカウンセリングをしていて行き詰まることがあったら、俺に相談すればいい」

 俊一郎は俊憲の肩に手を置いた。精神科医としての経験は俊一郎の方が何枚も上手だ。困ったときにアドバイスをもらえるのはありがたい。

「ありがとな、親父」

 俊憲は心からの礼を言ってから、居間を出て自分の部屋に行き、ベッドの上に倒れ込んだ。眠たくて仕方が無かった。

 重たい瞼をどうにかこじ開けながら、携帯電話のアラームを三十分後にセットして、俊憲は布団の中にもぐった。そして、ほんの数秒で深い眠りに落ちた。

 アラームが鳴っても起きることができず、俊憲が目覚めたのは翌朝になってからだった。

いつものような清々しい目覚めとは行かなかった。俊憲は珍しく寝過ごして、起きたときには七時を過ぎていた。まだ仕事に遅れる心配は無いが、早く準備に取り掛からなければならない。ベッドを飛び起きた俊憲は、ふらつく足元に力を込めながら服を着替えた。

 薬がだいぶ抜けたのか、ふらつく他は、吐き気も眠気も治まっていた。着替えを終えた俊憲は居間に行き、朝食を食べ始めた。

「としちゃん、夕べはご飯も食べずに寝ちゃったけど、本当に大丈夫?」

「ああ、ごめんよ。昨日は酷く疲れてたんだ。よく寝たからもう大丈夫だよ」

「そうなの? 無理はしないでね」

「今日は午後までには帰ってくるし、心配要らないよ」

「じゃあ、お昼を用意して待ってるわね」

「昨日は昼も夜も無駄にしちゃって悪かったな」

「いいのよ。仕事が忙しかったならしかたがないわよ」

 二三分で朝食を済ませ、泉町小に車を飛ばし、校門を潜った。車から降りるのとほぼ同時に始業のチャイムがなった。誰にとがめられるでもないが、若干の遅刻である。カウンセリングルームの鍵を開け、部屋に入ると、俊憲は最初に冷蔵庫に向かった。お茶を取り出してカップに注ぎ、昨日と同じ精神安定剤を飲んだ。


 精神安定剤のおかげだろうか、その後はミキが現れることなく、一週間が過ぎた。体が薬に慣れてきたおかげで、吐き気やふらつきも治まり、体調も良くなってきた。

 残す問題は、美紀のことである。幽霊の幻覚を見た俊憲だからこそ、その状態の異常性が分かる。そのまま幽霊を見続けていたら、いつか精神が破綻してしまうだろう。

 それなのに、美紀は未だにミキの幽霊と会っているようなのだ。早く、幽霊はただの幻覚であることを認識させて、投薬なりの治療を始めなければ、彼女は取り返しの付かない状況になってしまうかも知れない。

 そんな心配をしてると、ドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ、入ってください」

 俊憲はデスクチェアに座ったまま、反射的にそう言った。

「あの、ええと、失礼します」

 おどおどと入ってきたのは、美紀だった。彼女がここへ来るのは、幽霊騒ぎの日以来、初めてのことだ。

 カウンセリングには二三の鉄則がある。その中でも特に重要なのが、カウンセリングをする時間だ。カウンセラーは、週に一時間程度、長くても二時間くらいまでしか患者と接してはならないのである。これ以上の時間、特定の患者と話をすると、カウンセラー自身まで患者の感情に流されてしまうのだ。だから、この一週間、俊憲は美紀の診療をせず、担任の瀬川を通して美紀の状況を聞いていた。

 美紀は相変わらずミキの幽霊と会っているらしい。そして、「その影響なのか性格が少しずつ明るくなってきた気がします」と瀬川は言っていた。

「やあ、美紀ちゃん。いらっしゃい」

「あの、えっと、こんにちは」

 俊憲はソファーに移った。正面の席に美紀が座った。

「今日は何か話したいことはあるかい?」

「ねえ、先生、ミキちゃんと何を話したの?」

「えっ?」

「この前の月曜日、樋野先生が夕方まで学校にいたでしょ?」

「そうだよ」

「だから、ミキちゃんが先生に会いに行ったらしいんだけど、その次の日はミキちゃんがあんまり元気じゃなかったから。先生、ミキちゃんに何か変な話をしたんですか?」

「何の話だい?」

 背筋がゾクゾクしてくるのを感じながら、俊憲はとぼけて首を傾げた。

「先生もミキちゃんのお化けに会ったでしょ?」

「残念だけど、僕にはお化けなんて見えないよ」

「そんなはずありません。ミキちゃんが、樋野先生に会ったって言ってました」

「あのね、美紀ちゃん。はっきり言うけど、落ち着いて聞いてね」

「なんですか?」

「お化けなんていないんだよ。君がミキさんの事ばかりを考えているから、存在しない幽霊を見た気になってしまうんだ」

「ミキちゃんはいます」

「それは君の勘違いなんだよ」

「違います!」

「いいかい、お化けが見えるのは心の病気なんだよ」

 諭すような口調の俊憲をキッと睨むように見ながら、美紀は激しく首を振った。

「私は病気じゃありません」

「いいや、君は病気だ。いつまでもお化けなんて言っていてはいけないんだ」

「だって、本当に、ミキちゃんはいるもん」

「お化けなんているはずがないじゃないか。いいかげんに気付きなさい!」

 俊憲が怒鳴りつけると、美紀はビクッと体を震わせて、目に涙を溜めながら、唇をギュッと噛み締めた。

「どうして、そんな酷いことを言うの?」

「これも君のためなんだ。いつまでも死んだ友達のことばっかり考えてちゃいけない。彼女のことは早く忘れて、君は新しい友達を作った方がいい」

「酷いよ、先生」

 美紀はポロポロと涙をこぼしてソファーを立ち、悲しそうに俯きながら部屋を出て行った。


18

 美紀が出て行った後、俊憲は部屋に鍵をかけた。酷い吐き気がしてきて、相談者への対応どころではなくなっていた。誰もいなくなった部屋の中で、俊憲はソファーに座り、頭を抱えた。

 僕は何をしているんだ!

 せっかく僕を慕ってくれていた美紀を泣かして追い返すような真似をして。

 口から嘆息が漏れる。

 これも全てはあのミキのせいだ。

 半年前のあの日から、僕は散々な目に合ってばかりだ。

「全部あたしのせいなの?」

 誰もいないはずの部屋の中に、小さな声が響いた。クスクスクスクス……。木の葉が擦れ合うような小さな笑い声が聞こえる。

「酷いんだぁ、樋野先生! 美紀ちゃん泣いてたよ!」

「また君か。君は誰なんだ?」

「だから、あたしはミキだよ。お化けだけど」

「お化けなんているわけがないだろう!」

「でも、ここにいるでしょ!」

「君は僕の幻覚だ。お化けなんかじゃない」

 クスクスクスクス。

 ミキは呆れたような顔をして笑った。

「何がおかしい?」

「あたしが幻覚だと思ったから、先生は薬を飲んでるんだよね?」

「ああ、そうだ」

「でも、あたしは消えてないよ。薬が利いてないんじゃない?」

 机の引き出しに手を伸ばし、俊憲は予備に持って来ていた薬を口に含んだ。

「これだけ飲めば、君も出て来れないさ」

「ふーん、そうかなあ?」

「ああ、君は僕のだからな」

 冷蔵庫からお茶のボトルを取り出し、直接口をつけてラッパ飲みした。錠剤がお茶に押し流されて、俊憲の食道を伝い、胃へと流れていった。

 薬が胃で溶かされて、十二指腸を通過し空腸、回腸へと送られるまでに約十五分。腸管から吸収された薬が効き始めるまでに約十分。あと三十分も我慢すれば、目の前にいるミキは消えるはずだ。

 俊憲はにやりと笑って、ミキを見た。

「さあ、君はあと三十分の命だ。何か言い残すことはあるか?」

「三十分で消えるといいね。でも無理だよ」

「どういうことだ?」

「だから、あたしは消えないよ。だって、ちゃんとここにいるんだもん」

 三十分が過ぎ、一時間が経った。薬が効いてきて、意識が混濁して始めた。しかし、どれだけ待ってもミキは消えなかった。

「ねっ、消えないでしょ?」

「お前は何だ?」

「だから、あたしはお化けだよ」

「そのお化けが、僕になんの用だ?」

「あのね、あたしね、樋野先生が大好きなの!」

 ミキは照れくさそうに頬を赤らめた。

「だから何なんだ? どうしてお前は死んでまで僕のところに来るんだ?」

「だって、大好きなのに告白もせずに死んじゃったから」

「告白がしたかったのか?」

「うん、そういうこと」

「じゃあ用事は済んだだろ。さあ、早く消えてくれ」

「ううん」

 首を横に振りながら、ミキは目を細めてうっとりと笑った。

「あのね、あたしね」

「うるさい、まだ何かあるのか?」

「あたし、昼間でも出てこれるようになったの」

「はあ? 何の話だ?」

「お化けの力が強くなるとね、昼間でも人と会えるようになるんだよ」

「そりゃあ、良かったな。ミキミキコンビで遊んでいればいいじゃないか!」

「ううん、美紀ちゃんのことは好きだけど、先生の方がもっと好きだから。あたし、これからはずっと先生と一緒にいることにしたんだ!」


19

 ミキは言葉の通り、ずっと俊憲のそばにいるようになった。

 学校の中だけではない。車で移動するときも常にミキは俊憲に付いてきた。

 家に帰っても、すぐ隣に居座り続けた。

 朝起きた瞬間から眠りに付く寸前まで、ミキは俊憲に付きまとった。

 それは俊憲にとって恐怖でしかなかった。

 消えてくれ、消えてくれ、消えてくれ。

 俊憲は祈るような気持ちで次々に新しい薬に手を出した。精神安定剤だけでなく、樋野クリニックに保管されているあらゆる向精神薬こうせいしんやくを試した。しかし、ミキは消えなかった。

「ねえ、せっかく一緒にいるんだから、何か楽しい話をしようよ」

「うるさい。お前は死人なんだ。いいかげんに消えてくれ」

「消えてくればっかりじゃつまんないよ」

 ミキに付きまとわれ続けるうちに、俊憲は壊れていった。

 薬を飲む量も日ごとに増えていき、日に何十錠も飲むようになった。

 ミキを恐れて薬を飲んでいるのか、それとも薬そのものの依存症になっているのか、それすら分からない。ミキが現れるようになって何日経つのかも分からない。毎日の仕事はどうにか続けているはずだが、その記憶は漫然まんぜんとしている。


 ある朝、俊憲はアラーム音で目を覚ました。時計を見ると、針は六時三十分をさしていた。

 綺麗に整えられていたはずの部屋の本棚が、ぐちゃぐちゃに乱れてしまっている。床には幾何学的な形のオブジェが投げ出されていて、それらはうねうねと蠢いているように見える。散らかった部屋を横目に見ながら、俊憲は服を着替えた。

 樋野クリニックの前には一本の桜の木が生えている。この前まで裸だった木には、いつの間にか蕾がついている。あと一月もすれば、花は満開になるだろう。クリニックの表の通りも、このガレージも、ピンク色のカーペットに覆われるはずだ。

 薬の副作用で平衡感覚が無い。覚束おぼつかない足取りで、俊憲は車に向かった。

「ねえ、先生、今日は学校休みだよ。どこに行くの?」

「黙ってろよ、バーカ」

 エンジンをかけた俊憲に、ミキは不安そうな視線を投げかけた。

「お前はな、アレだよアレ」

「あれって何?」

「幻覚じゃないんだろ?」

「うん、あたしは幻覚じゃないよ。やっと分かってくれたんだ!」

「ああ、分かった、分かりましたよ、バーカ」

 錯乱さくらんした頭で、俊憲はある結論にたどり着いていた。

 あとは証明をするだけだ。

 俊憲とミキを乗せた車はゆっくりと道路を走り始めた。

「お前は死んだ。それがこうして目の前にいる」

「うん、だからあたしはお化けだよ」

「そんなわけがあるか、バーカ」

「じゃあ、何だって言うの?」

「だから、これは現実じゃないんだよ!」

「現実じゃないって、どういうこと?」

「つまり、これはボクの夢なんだ。ボクは寝ていて、夢の中にいるんだ」

「ここが夢?」

「ああ、そうだ。これは夢だ。夢に決まっている」

 二人を乗せた車はどんどんスピードを上げている。

「そっちは公園だよ!」

 ミキが叫んだ。

「ねえ、先生。車は入れないよ」

「夢を醒ます方法を知ってるか?」

「えっ、なに?」

「夢を醒ますにはな、夢の中で死ねば良いんだよ!」

 これは夢だ。僕は悪夢を見ている。

 カウンセリングを受け持った児童が死んで、それから嫌な事ばかり。

 積もり積もったストレスがこんな悪夢を生んだ。

 間違いない。

 だとすれば、対処は簡単だ。

 僕が眠りから覚めれば良い。それだけのことだ。

 放っておいても六時三十分になれば、アラームが僕を起こしてくれるだろう。だが、それを待つより、もっと手っ取り早い方法がある。

 それは夢の中で死ぬことだ。

 夢で死ねば目が覚めると、遠い昔に何かの本で読んだ気がする。

 五十キロ、六十キロ、七十キロ、八十キロ、……。

 車は更に加速する。

「ねえ、先生、池に落ちちゃうよ!」

「あっ、おばあさんに当たっちゃう!」

 さっきから隣でミキが悲鳴を上げているが、もうどうでも良い。

 これも全て夢の中の出来事なのだ。

 もう少しで、僕はこの夢から抜け出すことが出来る。

 幽霊に会おうが、人を殺してしまおうが、何も恐れることは無い。


 そう、これは小さな問題である。

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