二章 かわいいピピちゃん

 作りかけの味噌汁から立ち上るだしの香りと、ふわふわに焼けた卵焼きの甘く香ばしい匂い。「他には何を作ろうかしら?」なんて言いながら冷蔵庫を開けると、中には沢山の野菜にお肉、チルド食品なんかがぎっしり詰まっている。

 大容量500リットルの冷蔵庫の中に入っているのは美味しそうな食材だけではない。調味料も豊富にある。お酢だけでも三種類もあって、南国の香辛料や、中華スパイス、欧風のハーブソルトもある。

 ザ・波乱万丈はらんばんじょう苦難くなんの人生を語らせたら、右に出るものはいないと豪語ごうごしていたあの頃が嘘のようだ。なんて幸せなんだろう。当たり前に寝て、起きて、夫や子どものためにご飯を作って。ヒマなお昼にはカルチャースクールにも行ってみたり。まあ、それはいつも長続きしないんだけど。

 それから、えっと……。

 休日には三人でお出かけして、映画を見たり、水族館に行ったり、ショッピングも外せない。そんな日はランチをカフェで済ませて、夜にはレストランでディナーを楽しむ。つつましくも、いや慎ましくすらない、幸福で華麗なる毎日。

 祥子しょうこは今朝も幸せを噛み締めながら、鼻歌交じりに朝食の支度に勤しんでいた。

 祥子にとって、今の幸せは身に余るほどに大きなものだった。朝起きた瞬間から生きている喜びを感じて、眠る前には「もう今夜に命が尽きても悔いは無い」と思えるほどに満ち足りた気分になれる。

 でも、出来れば娘の花嫁姿を見るまでは生きていたいと思ってしまうのだから、人間とは欲の深い生き物だなあ。そんなことを思って、祥子は一人苦笑いをした。

 トコトコトン。幸せの足音が聞こえる。足音の主は私の旦那様だ。祥子は苦笑を浮べたまま、リビングの方向を振り向いた。

 キッチンとリビングはカウンターを隔ててつながっている。ダークブラウンの特注カウンターはお洒落なダイニングバーにありそうなつくりで、天板が広めだ。そのうえにはレトロなコーヒーメーカーと銀色をしたカクテルセットが置いてある。

 特注で作ってもらったお気に入りのバーカウンターの向こうには、大好きな旦那様、もとい夫の康弘やすひろが立っている。康弘は祥子の顔を見て、不思議そうに片方の眉を吊り上げた。

「祥子、おはよう。なんだい、変な顔をして?」

「あら、あなた、おはようございます。変な顔って、もう、朝から失礼ね!」

「いいや、そうじゃなくてさ」

 康弘は頭のてっぺんの寝癖を気にしながらも、慌ててかぶりを振った。

「ふふ、分かってるわよ。ちょっとね、考え事をしていたのよ」

「考え事? 難しそうな顔して、しかも笑いながら、何を考えていたんだい?」

「さあね。いろいろよ」

「なんだよ、俺に隠さないといけないような事なのかい?」

「いいえ、まさか。ただ、毎日が幸せだなって考えてたの。あなたのおかげでね」

 祥子はまたふふふと笑い、それから壁掛け時計を見て「あらっ」と呟いた。

「ねえ、あなた。もうすぐ八時になるじゃない。留美るみを起こして来てちょうだい。あの子ったら、学校に遅刻しちゃう!」

 祥子が頼むと、康弘は一瞬だけ眉間に皺を寄せて、顔をしかめた。「ちょっと今はお料理で手が離せないから、悪いけどお願いね」と、祥子が焼きかけの鮭が乗ったフライパンを見せると、康弘は相変わらず嫌そうな顔をしながらも、「分かったよ」と言って部屋を出て行った。

 近ごろ、康弘さんは留美のことを遠ざけようとしている気がする。二人の間には見えない溝のようなものがあるようだ。

 出来れば親子で仲良くして欲しい。

 でも、こればかりは仕方がないのかも知れない。

 もともと康弘さんは留美の父親ではない。要するに留美は私の連れ子で、康弘さんとは血がつながっていないのだ。それでも、少し前までは、康弘さんは留美を可愛がってくれていた。

 ペット感覚というのは言い方が悪いけど、親戚の子どもの世話をするような感覚だったのだろう。ご飯を食べさせたり、一緒に遊んだり、お風呂に入れたり、まるで本当の親子のようだった。

 けれど、時間が二人の関係を変えた。留美も今月で十歳になった。顔や体つきがどんどん女らしくなってきて、幼い子どもから少女へと成長し始めた。そんな体の変化が、親子の関係に傷を作ったようだ。

 異性としての意識が芽生えると、たとえ実の親子でもギクシャクする場面があるだろう。まして、血縁がないともなれば、接し方に困るも当然だ。だが、結果はどうあれ、康弘さんは留美の父親になろうと頑張ってくれていた。それだけで十分だ。感謝をしないとばちが当ってしまう。

 祥子が朝食を盛り付けていると、康弘がリビングに戻ってきた。留美はまだ寝ぼけているのか、康弘に抱かれて彼の腕の隙間から短い手足をだらりと垂らしている。

「あら、留美はまだ寝てるのね。寝起きが悪いんだから」

 祥子は盛り付けの終わった食器を持ってリビングへ行き、食卓の上にそれらを並べた。朝はシンプルに、今朝のメニューはご飯と舞茸の味噌汁、ちょっと欧風にアレンジした卵焼き、それから焼き鮭だ。鮭にはモンゴル産の岩塩が振ってある。

 食卓に並んだ器からは、思い思いの匂いがする湯気が立ち上っていて、朝から食欲がそそられる。祥子はお盆をカウンターテーブルに置くと、康弘の隣に立ち、彼の頬におはようのキスをした。

「おはよう。康弘さん」

「あっ、ああ、おはよう」

 康弘はぎこちなく微笑んだ。

「さあ、ご飯にしましょう。留美は私に任せて、あなたは食べてて」

 祥子は康弘の手から留美を優しく抱き上げ、テーブルの前に連れて行き、椅子を引いてやった。しかし、留美が自分で座ろうとしないので、手取り足取り椅子に座らせる。

「ほら、留美もご飯よ。あら、やっと起きたわね。まあ、ご飯になるとがっついて。女の子なんだからもっとおしとやかに食べなさい。えっ、うるさいですって。もう。康弘さんからも何か言ってあげてくださいよ」

 祥子は留美の面倒をみながら、康弘にも話を振った。康弘はなぜか青白い顔をして、引きつった笑みを浮かべている。留美の方を見ようともしない。

「急いで食べて。でも、良く噛むのよ。鮭をほぐすのが面倒くさいですって? それくらいちゃんと自分でしなさい。もう。はいはい。太い骨は取ってあげるから、小骨くらいは自分で取りなさい。小骨のほうが面倒なのにですって? それは分かるけど、食べながらじゃないと返って分かりにくいじゃないの」

 慌しい朝食の時間が過ぎてゆく。祥子は自分の食事をそっちのけで留美の世話をする。

 留美が生まれたとき、祥子は彼女のことを恨んでいた。望まぬ妊娠だったのに、中絶する機会を逃して惰性のように出産したためだ。当時の祥子は留美を憎く思うばかりで、少しも可愛いとは思えなかった。

 留美と言う名前も適当だった。出生届を出しに言った役所に張ってあったポスターに写っていたアイドルが留美と言う名前だったので、書類に留美と書いただけだ。

 けれど、今では留美が一番の宝物だ。私の命と引き換えに留美が幸せになれるのなら、私は喜び勇んで命を差し出せる。祥子は常々そう思っている。

 名前にちゃんとした願いを込めてあげられなかったことには今更ながら後悔しているが、それでもアイドルの名前なのだから可愛らしいし、そう悪くもないだろう。それに美しいままとどまるというのも、なかなかいい名前だ。


 あれこれ忙しい朝食が終わると、康弘さんは一旦寝室に戻って、手早くスーツに着替えて来た。留美はというと、まだもたもたと朝食を食べている。

「留美っ! 早くしないと、また遅刻よ」

 祥子は急いで留美の服を着替えさせて、留美の部屋へ行き、ランドセルを持ってきた。

 ちょっと過保護な感じがするかも知れないけど、今の留美には手助けが必要なのだ。あの一件があって以来、留美は幼い子どものようになって、今まで出来ていたことすら、あまり出来なくなってしまった。

 インターネットには、幼児退行ようじたいこうという症状だと書いてあった。心に酷い傷を受けたときに発症する病気で、心の防衛ぼうえい反応なのだそうだ。幼い留美は、より幼くなることで、心に負った深い傷をかばおうとしているのかも知れない。幼児退行こそが、あの件に対する留美のささやかな抵抗なのだろう。しかし、幸いなことに留美の退行の程度はごく軽いみたいだ。ただ行動力が無くなったというだけだから、少しわがままでおとなしい子だと思えば、同じ年頃の子たちとさしてと変わりない。言葉も普通に話してくれるし、学力も落ちてはいないようだ。

 ネットで調べた限りでは、このくらいの症状なら時間が解決してくれるはずだ。

 あの件がある以前の留美は、まだ幼い子どもなのにしっかりしていた。しっかりし過ぎていたと言ってもいい。頼りない母親の代わりに頑張ってくれていた。

 起こさなくても朝は自分で起きたし、雑巾がけやらゴミ拾いのようなお掃除もしてくれた。まだ一桁の年齢ながら、未熟な知恵を振り絞って、小さな手足を懸命に動かして、沢山のお手伝いをしてくれていた。

 今にして思えば、留美にはかなり無理をさせてきたことだろう。

 だから、これで良い。と、祥子は思う。

 幼い日々にしっかりと甘えさせてあげられなかった分、今はたっぷり甘えさせてあげよう。ちゃんとしてなくて良い。駄々をこねたり、わがままを言ってもいい。留美はこれからゆっくり育てば良い。

 祥子は留美のことを思うと、ときどき涙が零れそうになる。その健気さが切なくて堪らなくなるのだ。だから、その涙を愛情に変えて、祥子は留美を心から大切に思っていた。

「よしっ、着替えられたわね。今日も美人よ、留美。ね、康弘さん。あっ、いけない。髪にリボンを着けなくっちゃね。えっ、いらないの? ええ、そうね。たしかにこのリボンじゃ子どもっぽ過ぎるわよね。今度お店に行って、とびきり上等のリボンを買いましょうね。今日は髪留めのピンで髪をまとめてあげるわね」

 祥子は留美の支度を整えてやってから、彼女を康弘に引き渡した。康弘は気味悪そうに顔をしかめながら、恐る恐る留美と手をつなぎ、もう一方の手に通勤用のバッグを抱えた。

「ごめんなさいね。今日も留美を学校に送ってもらってもいいかしら?」

「あ、ああ。会社に行く途中に通りがかるから、ついでに連れて行くよ」

 康弘はぎこちなく微笑みながら留美を連れて玄関に行き、靴べらを使わずに靴を履いた。それから、右手のバッグを左脇に挟み込んで、留美と手をつないだまま、空いた手で玄関戸の鍵を開け、肩でドアを押し開けながら外に出た。

「あなた、行ってらっしゃい」

 祥子はつっかけサンダルを履いて康弘の隣に立った。康弘のほほにキスをして、それから留美の頬にも唇を当てる。

「もうっ、留美ったら、恥ずかしいから止めてですって。もしかして反抗期かしら?」

 祥子は冗談めかしてそう言いながら、留美の頭をそっと撫でた。

 康弘は周囲を気にするようにきょろきょろしながら、祥子の頬に口付けを返した。柔らかくて暖かい、うっとりするような感触に祥子は蕩けそうになる。

「じゃあ、行って来るよ。今日は少し遅くなるかもしれないけど、夕飯には戻るから」

 康弘は口早にそう言うと、門を出てそそくさと車に乗り、助手席に留美を座らせた。

 腰丈くらいのステンレス製の門扉を挟んで、祥子は康弘に手を振った。

 康弘が車のエンジンをかけると、祥子は数秒間耳をそば立たせてエンジン音に聞き入った。「高級車はエンジン音が違うだろ!」という康弘の自慢を聞いてから、祥子はその音に耳を澄ますようになった。祥子にはやっぱりうるさいだけの音にしか聞こえないのだが、康弘の愛する音だと思えば少し愛おしく思えた。


**********


 康弘は車の中から祥子を振り返り手を振った。祥子はもう一度手をひらひらさせてから、名残惜しそうに家の中に戻って行った。

 見送りに出てきていた祥子の姿がバックミラーから消えると、康弘は隣の席にひざ掛けを被せた。

 康弘たちが住んでいる社宅から会社までは徒歩で十分ほどの道のりだ。その途中に留美の小学校がある。

 康弘はため息を吐きながら、その短い道のりを車を走らせて、近くのコインパーキングに車を入れた。会社のすぐそばに駅もバス停もあるので、自動車通勤をする者はほとんどいない。そのため、会社には従業員用の駐車場が無い。そこで仕方なく、一日当たり千五百円を支払ってコインパーキングを利用しているのだ。

 毎日だと駐車場代も馬鹿にならない。康弘はため息を吐いた。一日当り千五百円だと、二十日で三万円。しかも、昼に用事で一度出庫するので、駐車料金は倍必要になる。つまり、出費は月々六万円にもなる。会社の近くに駐車場を借りたほうがずっと安上がりかも知れない。

 まあ、今の状況がいつまでも続くことは無いだろう。と言うよりも、続かないで欲しい。

 彼女の病気さえ治れば、駐車場を利用する必要が無くなる。きっとその日は近いはずだ。そう信じて、康弘は自分のポケットマネーから駐車場代を捻出ねんしゅつしていた。

 完全に今まで通りの生活に戻ることは不可能かも知れないけれど、病気だけでも治ってくれれば、あの事件の傷は彼女と一緒に背負っていける。だから、どうか、彼女が元の彼女に戻りますように。康弘はそう祈りながら、助手席を見下ろした。


 康弘を送り出してから、祥子は一人でもくもくと朝食の続きをつついた。留美の世話にかかりきりだったので、先ほどは自分のご飯に手をつけられなかった。

 すっかり冷めた味噌汁を飲みながら、硬くなった鮭をほぐしては口に運ぶ。

「もう留美ったら。鮭がほとんど残っているじゃない」

 向かいの席に置かれた皿の上には、軽く解された状態のままの鮭が残されていた。祥子は一人ごちながら、留美の残した鮭にも手を伸ばした。

 鮭は冷めて硬くなっていたが、程よく脂が乗っていて美味しかった。振りかけているモンゴルの岩塩もいい味で、塩辛いのにほのかな甘みがある。ミネラルがどうとかで体にも良いらしい。

「そうだ、お茶漬けにしましょう」

 そうすれば、冷めた鮭も温まるし、さらさらと食べやすそうだ。

 祥子はさっそくやかんにお湯を沸かした。

 油の乗った鮭をご飯に乗せて熱々のお湯を掛け、岩海苔をまぶし、少しだけわさびを添える。味付けは鮭の塩味と、ほんの少しの出汁だし醤油だ。

 焼けた鮭の香ばしさと海苔の風味がもうたまらない。わさびのアクセントもちょうど良い。

 祥子はご飯をおかわりして、残った鮭の皮でさらに一杯のお茶漬けを食べた。鮭の皮には身よりも油が乗っていて、しかも焦げ目の部分がパリッと良い食感なのだ。血合いの部分の魚臭さも、お茶で薄まると旨みに変わる。

 二杯目のご飯もするすると喉を通り、空になったお茶碗を置くと、一切れ残っていた卵焼きの端っこを食べてから、茶碗の上に箸を置いた。

 ああ、美味しかった。祥子は満足そうにおなかをさすりながら、空になった食器たちを眺めた。

 温かいご飯、暖かな家、そして優しい夫に、愛する娘まで。私はなんて幸せなんだろう。祥子は改めて幸せを感じて、神様に感謝した。

 辛かった幼少の記憶も、十代の頃の苦労も、結婚するまでの間に重ねてきた粒粒辛苦りゅうりゅうしんくの全てが、今日のためにあったのだと思う。あれらはきっと、神様が私に与えた試練だったのだ。それらを乗り越えて、やっと手に入れた安息の日々。なんて素晴らしいのだろう。

 神様というのはいきな計らいをするじゃないの。賛美歌さんびかでも歌いだしたいような気分で、祥子は空の食器に手を合わせた。

「ごちそうさまでした」

 椅子から立ち上がって、食器を流しに運び、朝食の片づけを始める。

 食器洗い機に粉の洗剤を入れながら、手元に視線を落とした。女性らしいきめの細かい肌が、窓から差し込む日の光に艶めいている。オーガニックのハンドクリームの効果だろうか、ささくれ一つない綺麗な指先だ。

 祥子はうっとりと自分の手に見蕩れた。働きづめだった頃には酷く荒れていた自分の手が、今は瑞々しく潤っていて、まるで夢のようだ。

 つい数年前まで、私の手はいつもがさがさとささくれ立っていた。指先なんて枯れ木みたいに乾燥して、関節はボロボロにひび割れていた。

「祥子ちゃんと握手すると、チクチクするんだよね」

 いつだったか、当時働いていた店の客にそう言われてから、祥子は自分の手を酷く恥じるようになった。安物のローションを買って保湿に努めてもみたが、手のがさつきは良くならず、祥子は人前で手袋をすることが多くなっていた。

 たしか、康弘さんと初めて会った日も、私は手袋をしていたっけ。


 その日、祥子はコンパに招かれて、創作そうさく和食ダイニングの店にいた。

 店は半地下にあり、窓からの夜景は望めないが、和風に飾られた個室の雰囲気は十分に良かった。

 床の間のような小さなスペースに抽象的な絵の描かれた掛け軸が吊るされていて、絵の良し悪しはともかく、部屋を明るくしていた。置かれている小物も可愛らしかった。

 客への配慮が細かなところまで行き届いていて、デートやコンパにもってこいの店だ。エアコンが効いていて店内は暖かいのに、底冷えしないようにとファンヒーターまで置かれているし、板間にテーブルというのもブーツを履いている女子にとってはありがたい。

「へえ、結構良い店だね」

 暗めの店内をぐるりと見て、感心したように吐息を漏らしたのは、近くの会社で受付をしている由紀ゆきだった。由紀は赤いドレスを着ていた。

「良くこんな店探したね。頑張ったじゃん」

 由紀は隣に立っているスーツ姿の男を肘で突いた。

「そりゃあ、今日こそ勝負を決めるからな」

「なにそれ? そんな風にがっついてたら嫌われるよ!」

 由紀にからかわれているのは、商社マンの有川ありかわだ。有川は由紀の幼馴染で、このコンパの幹事をしている。コンパの男性メンバーは有川の同僚で、女性メンバーは由紀が呼んだ女友達だ。

「いつまでもモテないあんたのためにセッティングしてあげたんだから、感謝しなさいよ」

 由紀が得意げに胸をらす。有川は「はいはい、そりゃどーも」と言ってから「でもさ」と続ける。

「お前だっていつまでたっても彼氏の一人もできてないだろ。俺もお前のことを心配して、会社の仲間を集めたんだぜ」

 二人は小声で話しているつもりのようだが、二人の会話は参加者たち全員に丸聞こえだった。合コンのセッティングをしておきながら、その二人こそがすでにお似合いのカップルという感じだ。

「まったくさ、やってられねーよな。今回の合コンってあの二人をくっつけるためみたいなものなんだろ?」

「マジかよ。結構気合入れてきたのに!」

 他の男性メンバーが由紀と有川を眺めながら小声で話をしている。

 有川は由紀との話を終えると、幹事として場を仕切り始めた。

「えー、このたびは皆さんお集まりいただきまことにありがとうござい……」

「いやいやいや、それは合コンの挨拶じゃないでしょ」

 有川が慇懃過ぎる挨拶を始めると、すかさず由紀がツッコミを入れる。

「じゃあ、とりあえず、乾杯!」

 気を取り直した有川が乾杯の音頭おんどを取った。

 コンパには男女が五人ずつ集まっていた。祥子は人数合わせ要員として呼ばれていた。由紀の他に知り合いがいない祥子は、ベリーニを注文してちびちび飲みながら、周りの様子を伺っていた。

「祥子ちゃん、今日は突然呼んでごめんね」

「いいよいいよ。どうせヒマだったし」

「ありがとうね。四人ずつにしようって言うから、ヒマそうな友達を三人集めてたんだけど。まったく、あのバカが」

 由紀は呆れたような顔をしながら、有川の方を見た。その視線の先では有川が場を盛り上げようと、一発ギャグを連発している。そろそろ百発ギャグくらいになりそうだが、一向に受ける気配がない。個室の中の空気は冷める一方で、室内だと言うのに冷たい北風が吹きぬけているようだった。

 ギャグが滑りまくっている有川を見て、由紀は頭を抱えた。

 そんな由紀を見て微笑ましい気持ちになりながら、祥子は小さな吐息を漏らした。

 有川と由紀は周囲の誰から見ても、相思相愛そうしそうあいの関係だった。それなのに当の二人はお互いの気持ちに全く気づいていない。いや、おそらく本人たちは、自分の気持ちにすら気づいていないのだろう。

 出来れば、この合コンをきっかけに二人がお互いの気持ちに気付いて結ばれてくれれば、と祥子は思っていた。

 当時の祥子は独身で、子持ちで、貧乏だったので、幸せではなかった。だから、他人の幸福が妬ましくて、幸せそうな人を見るのも嫌だった。けれども、親友の由紀だけは例外で、彼女には幸せになって欲しいと思っていた。祥子は由紀と有川を交互に見て、二人の前途ぜんとに明るい未来が待っていることを祈った。

 有川を見つめていた由紀が、慌て顔で振り向いた。

「ごめん、話の途中だったよね。どこまで話したっけ?」

「えっと、そうそう。四人ずつがどうとかっていう話だった」

「あっ、そっか。それでね、私は私と友達三人でここへ来る予定だったの。なのに、あのバカときたら、今日になって自分のことを数え忘れてたなんて言うのよ」

「つまり、有川さんは四人友達を呼んでたから、合計五人だったってこと?」

「しかも、一人は人数合わせだって無理やり呼びつけたらしいのよ。それで、こっちの人数が少なかったら、ちょっと悪いような気がするでしょ?」

「それで、私が呼ばれたってわけね!」

「本当にごめんね。埋め合わせは必ずするから、せめて今日はお腹一杯食べて行って。食事代はあのバカに出させるから」

 由紀は一頻ひとしきり謝り終えると、すすっと席を立ち、有川の後ろへ歩み寄った。有川は由紀に気づかず、まだギャグを連発していた。由紀は有川の頭に拳骨げんこつを振り下ろした。ヅンと鈍い音がして、有川が「あたっ」と間抜けな声を出した。

「こら、つまらない冗談は止しなさい。みんなが迷惑してるのに気づきなさいよ」

「あっ、はい。申し訳ございません」

 その瞬間、個室の中に初めて笑いが起こった。


 コンパが盛り上がり始めると、由紀が手を挙げた。

「ねえねえ、今は男女が別れて座ってるけど、せっかくだから交互に座りなおそうよ!」

「そうだね、そろそろ席替えしよっか!」

 席替えは合コンの一大行事だ。最初はたいてい男女が別れて座っているが、席替えによって隣り合うことができる。となり合った二人の会話が進んで、相手を口説くどくチャンスが生まれるのだ。

 由紀の提案に女性メンバーが賛同して、待ちかねていた様子の男性メンバーたちは大賛成の拍手を送った。

 祥子は女子の一番端の席になった。祥子はなるべく目立たないように気配を殺しながら、飲みかけのお酒をちびちび飲み続けた。桃の甘みが口の中に広がる。

 今日は目立たないようにしないと。

 祥子は自分にそう言い聞かせながら、自分の手元を見て苦笑いした。白い手袋をした手には、ピンク色の液体が入ったカクテルグラスがにぎられている。

 私ったら、こんな日まで可愛い子ぶっているのね。

 ベリーニは、スパークリングワインにすりつぶした桃を混ぜて赤いシロップで甘みをつけたカクテルだ。淡いピンクが綺麗で、手元にぱっと花を添える。

 仕事柄なのか、祥子はめっぽう酒に強くて、一人で飲みに行くとしたら、日本酒でも焼酎でもボトルで注文するほどだ。それなのに、こんなに弱いカクテルを飲むのは、男性受けが良いからだ。綺麗なピンクのお酒を飲んでいれば、可愛らしく見えるだろうと、計算ずくで飲んでいる。

 でも、今日は目立っちゃいけない。可愛がられてはいけないんだ。

 祥子は心の中でそう繰り返した。

 普段なら、こういった合コンは祥子にとっては狩り場である。まずは集まった男性を物色して、一番お金を持っていそうな一人を選ぶ。その一人に思わせぶりな態度で近寄って、連絡先を交換したり、次に会う約束を取り付けたり、上手くいけばその日のうちに交際をスタートさせることもある。

 付き合い始めたら、出来るだけみつがせる。バッグやジュエリーを買ってもらったり、家電や家具を買ってもらったりするのだ。家電や家具は使うこともあるけど、たいていの物は即座に換金する。そして、ある程度のお金を溜めたら男の前から姿を消す。携帯電話も解約して二度と会わない。

 祥子はそんなことを繰り返しては、バイトだけでは足りない分の生活費を補っている。だから、祥子にとって合コンは狩り場であり、男たちは獲物えものなのだ。この副収入で祥子の生活は成り立っている。そのおかげでどうにか娘の留美も育てていられる。

 だけど、今日は別だ。

 祥子ははす向かいの席に座って明るく笑っている由紀の顔をじっと見つめた。

 由紀は祥子にとってただ一人の気が置けない友達だ。その由紀が、奥の席でお調子ちょうし者を演じている有川に好意を抱いていて、集まった男性メンバーはみんな有川の同僚だと聞いている。もしここで、祥子が彼らを誘惑して、何かしらの禍根を残してしまったなら、有川と由紀の関係にまで水を差しかねない。

 だから、今日は誰にも声を掛けられてはいけない。

 祥子は強く自分を戒めながら、手元の酒を一気に飲み干した。

 ここは、いっそのこと幻滅げんめつされるくらいのほうが安全かもしれない。

 祥子は店員に手招きをした。

「店員さん、すみません。ええと、日本酒を熱燗でお願いします」

 祥子が注文をすると、女性メンバーたちは唖然あぜんとした表情で振り向いた。

 冷酒くらいならまだ色っぽいかもしれないけれど、熱燗を飲んでいる女なんて色気が無いだろう。ついでになまこポン酢でも注文すれば、男性陣の誰もが私を視界から外そうとするに違いない。

 ところが、そんな祥子の考えとは裏腹に、隣の席の男性が嬉しそうな顔をした。祥子を横目で見てから、「すみませーん。僕も熱燗をお願いします」と注文をした。

「さっきの自己紹介で、たしか祥子ちゃんだったよね?」

「あ、はい。沢村さわむら祥子です。えっと」

「ああ、僕は三城みき康弘です。ごめんね、突然馴れ馴れしくして」

「あっ、いえ、そんな」

 祥子はあいまいな態度を返してから、ぎこちなく笑った。惚れられるコツならいっぱい知っている祥子だが、当たり障りのない対応はむしろ不慣ふなれだった。

「僕はね、そこの有川に誘われてきたんだけどさ。人数合わせに呼ばれたから、彼の会社仲間じゃないんだよね。だから、知り合いが有川しかいなくてさ。嫌じゃなければ話し相手になってくれないかな?」

 つまり、有川はわざわざ一人多く呼んだのか。

 由紀が有川をバカ呼ばわりしていた理由が、祥子にも分かった気がした。

 だが、いくら社外の人間でも、有川とつながりがある以上は、彼をたぶらかすわけにはいかない。なんせ、私にはもう子どもがいるのだ。下手に気を持たせてしまったら、思わぬトラブルを引き起こすことになりうる。

「話し相手なら、他にも可愛い子がいますよ。私なんかで良いんですか?」

 祥子は出来るだけやんわりとした口調で康弘からの申し出を断って、距離を取ろうとした。けれど、康弘は祥子の言葉の裏側には気づいていないようで、不思議そうに首を傾げた。「君だって十分に可愛いじゃないか」とでも言いたそうな顔をしている。

「どうも僕はこういう雰囲気が苦手でね。仕事一筋だったもので。なんて言うか、お洒落なカクテルとか洋酒に疎くて、実はかなり緊張していたんだ。でも、祥子ちゃんは日本酒も飲めるみたいだし、ちょっと親近感って言うか」

 康弘はそこまで言って、しまったというように目を見開いた。「いや、でも、祥子ちゃんがお洒落じゃないとかそういう事じゃ無いんだよ」、「日本酒の熱燗なんて注文するから、気が合うかなと思っただけで」、「女の子にしては酒豪、じゃなくて女の子らしくないというか」と、慌ててフォローしようとするが、返って反感を買いそうなセリフが続いた。

 祥子はあわてふためく康弘を見て、ついふき出してしまった。

「親近感を感じてもらえたのは嬉しいです。でも、あの、私、私も人数合わせで」

「ああ、そういうことか。口説かれても困るってことかな?」

「まあ、ええ。そんな感じです」

「でも、こんな集まりに来るぐらいだから、彼氏はいないんだよね?」

「そうですけど。でも……」

「それならさ、お互いに人数合わせどうし、お喋りくらいはいいんじゃないかな?」

 祥子は康弘に押し切られて、熱燗を酌み交わしながら二人で話を始めた。

「へえ、祥子ちゃんは居酒屋でバイトをしてるんだ!」

「はい。みなさんのお仕事が立派だから、お恥ずかしいです」

 康弘に勤め先を聞かれて、祥子は咄嗟とっさに小さな居酒屋だと嘘をついた。実際に働いているのがクラブやらガールズバーやらといった水商売なので、ありのままのことを口にするのははばかられたためだ。

「大学も出ずにバイトなんて、情けないですよね」

 祥子が自分の仕事をけなそうとすると、康弘はまじめな顔で首を横に振った。

「居酒屋だって立派な仕事だよ。僕はね、日光にっこう通信という会社に勤めているんだ。大きくは無いけれど、それなりの会社だ。そこで副社長を任されている。するとね、僕の名前一つで大きな取引が動くし、社会的にも貢献していると自負している」

「それはすごく立派じゃないですか。私なんてただの居酒屋の店員ですよ」

「いや、そうじゃないんだ。たしかに僕の名前だけでも大きな仕事を動かせる。でもね、本当に仕事を動かしているのは僕じゃない。僕はつまらない人間だよ。会社っていう組織が無ければ、僕には何も動かせない。給料とか、役職とか。学歴もかな。そういうので人間の価値を決めようとする人は大勢いる。だけど、実際の人間の価値って言うのは、そんなことじゃ決まらないと思うんだ」

「綺麗事ですか? それとも、慰めですか?」

 祥子は少しむっとして、他の参加者に気取られないように気をつけながら、語気を強めて康弘に苛立ちをぶつけた。

 康弘は慌ててかぶりを振り、真剣な顔で「違うよ」と言った。

「僕が副社長になりたてだった頃にね、僕の部下たちが隠れて僕の悪口を言ったり、酷いのになると僕の仕事に妨害工作をしていたりするのを見ちゃったことがあるんだ」

「えっ、それで、どうしたんですか?」

「どうもしないよ。と言うか、どうにも出来なかった。だって、部下たちはみんな普段は僕を慕ってくれていたんだよ。僕と話したら楽しそうに笑ってくれるし、休日に旅行に行ったからってお土産を持ってきてもくれる。それがみんなして僕を嫌っていたなんて。ショックで何も出来なかった」

「そんな。でも」

「それで、僕はお酒に逃げた。毎日のように会社の近くの居酒屋に通っては、管を巻いて、そこの女将さんに愚痴をこぼしていた。副社長も辛いんだよーってね。そしたらある日ね、女将さんが僕に言ったんだ。なんて言ったと思う?」

「さあ、分かりませんけど。何か慰めてくれたんですか?」

「ううん。叱られたよ。若くして副社長に抜擢されて、天狗になっているでしょうってさ。僕の部下のほとんどは僕より年上だったからね、年下に指図されたら不平不満を持つのは当たり前よ、って言われたよ。それに、僕の給料にしたって、そのほとんどは実務をこなしている部下たちが稼いでくれたものだ。それを当たり前のように受け取って、ふんぞり返っていたのだから、酷いよね。嫌われて当然だったと思う」

「でも、そういう物なんじゃ無いですか?」

「ああ、そういう物だね。大きな組織を動かすには、上に立ってかじを取る人間は必要不可欠だ。でも、上に立つ人間は優れた技術者でも職人でもないんだよ。実際の仕事なんてからっきしでも、目のいい人間。それが舵取りには向いている。遠くまで見渡せるからね。だけど、遠くばかり見ていちゃいけないんだね。船は漕がなきゃ進まない。舵取りにだけ一生懸命で、ぎ手の体調や気持ちをおざなりにしていたら、漕ぎ手は働けなくなるだろう、そうしたら船は止まってしまう」

 不意に、康弘は遠い目をした。もしかすると、康弘の目には、舵取りに悩んでいた時に、彼を叱咤してくれたというその女将さんが映っているのかもしれない。きっと素敵な女性だったのだろう。

「人の価値はその人が笑顔にした人の数で決まるのよ、自分自身の手でね。自分のした仕事がどこかで人を笑顔にしていたって関係ないわよ。だって、それは誰か他の人にも出来ることだもの。目の前の人を笑顔にできる人こそが素敵な人なのよ」

「えっ、何ですか?」

「女将さんは最後にそう言っていたんだ。僕は雷に打たれたような気分だった」

 遠い目をしたまま康弘は呟いた。

 女将さんの言葉を受けて康弘は大いに反省したそうだ。

「だから、僕は部下の気持ちを大切にするようにしたんだ。僕は地位にも恵まれて、報酬も十分に貰っている。一方で部下たちのように、頑張っているのにそれに釣り合うだけの見返りを受け取っていない人もいる。それは社会の仕組みで、仕方が無いことかも知れない。だけどさ本当は、そんな彼らにこそ敬意を払うべきだと思うんだ。彼らから見たら、僕なんて強欲な金の亡者だろうと思うよ。だから、その……」

「なんですか?」

「偉そうな物言いで、返って怒らせちゃうかもしれないけど」と、康弘はためらいがちに目を伏せた。祥子を不快にさせないように言葉を選んでいるようだ。

 祥子は黙って彼の話の続きを待った。

 康弘は咳払せきばらいをしてから、真剣な眼差しで祥子を見据えた。

「綺麗事じゃなくてさ。現場に立って頑張っている君たちは、事務仕事ばかりの僕たちよりもずっと立派だと思うんだ。たとえバイトでもね」

「でも、やっぱり、ちゃんとした仕事のほうが良いじゃないですか。康弘さんも、今の仕事を止めようとは思わないでしょ?」

「そうだね。たしかに、僕は今の地位を捨てられないだろうね。やっぱり給料は惜しいし、生活の事も考えるとね。でも、昔はケーキ屋さんになりたかったんだ。友達にはよくからかわれたけどね」

「ケーキ屋さんですか? 女の子みたいですね」

「そうだろ。でも、甘いものが大好きだったからね。僕の作ったケーキをみんなに食べて欲しい、なんて思ってたんだ。ただそれでやっていける自信が無かった。もし、それでどうにかやっていけるって保障してもらえるのなら、僕は迷わずケーキ屋さんになっただろうし、今でもそうすると思う。出来る事ならバイトでもいいから一生ケーキを焼き続けたいとも思う」

 そこまで言い終えてから、康弘は赤面して、「こんなおじさんがケーキ屋さんじゃ夢が無いけどね」と、鼻の頭をぽりぽり掻いた。

「もし、康弘さんがケーキ屋さんでアルバイトをしていたら、それはたしかに素敵な事でしょうね。けど、やっぱり私は立派じゃないんです。私が居酒屋でバイトをしているのは、それがしたい訳でも、まして夢のためでも無いんです。ただ私にはそれくらいしか出来る事が無かっただけなんです」

「それでも、良いんだよ。自分で出来る事を一生懸命にしているんだから。だってさ、そうだろ。僕だって今の仕事をしたい訳じゃない。ただ、生活のためにやっているだけだ。でも、君は立派だと言ってくれたね。ならさ、君も立派だってことだろ?」

 康弘は糸のように目を細めて、優しく微笑んだ。魅力的な表情だった。

「こういう話を僕がすると、返って嫌味に聞こえるかな?」

 康弘は心配そうに首を傾げた。

 次の席替えまで、祥子は康弘と話し続けた。仕事人間を自称するだけあって話題の大半は仕事のことだったけれど、退屈ではなかった。彼の話の合間には的を射たたとえ話や彼独特の見解が盛り込まれていて、面白かった。

 祥子はしきりに感心しながら、康弘の話に傾聴した。

 康弘が地位や学歴で人を判断する事を大いに嫌っているのは明らかだった。だから、「君も立派だよ」というセリフも、単なる慰めや綺麗事きれいごとではなく、本心から紡ぎ出された言葉に違いない。

 こんな康弘だからこそ、この若さで副社長にまでなれたのだろう。

 なんだか素敵な人だな。

 自分が康弘にかれだしている事に気づいた祥子は、その気持ちを彼に気取けどられまいと懸命に自制じせいし続けた。


 祥子の自制の甲斐かいも無く、二人は「とりあえず、お友達から」と交際をスタートさせてしまった。祥子はそれとなくこばみ続けたのだが、康弘の押しの強さは予想以上だった。

 こんな康弘だからこそ、若くして副社長にまでなれたのだろう。

 祥子は改めてそう感じて、メールアドレス交換をしながら苦笑いをした。

 交際は順調に続いた。関係が深まるにつれて、祥子はよりいっそう康弘の人柄に心を奪われていった。今までのように貢がせることなど決してせず、祥子と康弘の関係は健全なまま、より親密になっていった。

 二人が親しくなればなるほど、夜の仕事や留美の存在という陰が祥子を悩ませた。

「話したいことがあるの」

 祥子は康弘に真実を打ち明けようと、何度も話を切り出した。けれど、なかなか覚悟が決まらなくて、ちゃんと話せないまま、時間だけが過ぎていった。

 自分が水商売をしていることや、一児の母であることを隠ししたままなので、後ろめたく感じながらも、祥子は康弘との逢瀬おうせを重ねた。


 まさか康弘さんと結婚するだなんて、あの頃の私は全く思っていなかったな。

 祥子は康弘との出会いや、それからの交際の思い出を懐かしみながら、部屋の掃除に取り掛かっていた。祥子たち住んでいるのは、康弘の勤めている会社からあてがわれた社宅だが、副社長の家だけあってなかなかの物だった。

 外壁はレンガ模様のタイルに覆われていて、内装もしっかりと作りこまれている。広いリビングダイニングキッチンの他に、客間と和室があり、さらに広い個室が四室もある。広くて素敵な我が家だが、部屋が多い分、掃除は大変だ。

 さあ、急いで掃除をしなくちゃ。午後には買い物にも行くんだから!

 祥子は掃除機を取り出して、両手で抱えた。充電式で本体と吸引部が一体型の掃除機、吸引力は申し分ないのだが、やや重いのが短所である。

 スイッチを入れると、ゴオゥという低い音がして、内部のモーターが回転し始めた。薄っすらと埃が積もった床の上に掃除機を這わせると、見る見る内に床が綺麗になっていく。さすがは「これ一台で雑巾要らず」をうたっていた掃除機だけはある。

 後はもう少し軽ければ完璧なのにな。

 窓際を掃除していると、不意に風が吹きカーテンがはためいた。隙間から光が差し込み、祥子の手に当たった。薬指の付け根がキラリと輝く。

 まばゆい輝きの正体は薬指ではプラチナ製のリングだ。リングの中央には小粒ながら上質のダイヤモンドが埋め込まれていて、キラキラとときめく光彩を放っている。

 祥子は指輪をもらった日のことを思い出しながら、目を細めてくすくす笑った。

 たしか「有り合わせですまない。でも、これが僕の気持ちだ」なんて言ってたっけ。

 康弘さんは顔を真っ赤にしながら、この指輪を差し出してくれた。ぜんぜんロマンチックじゃないプロポーズだったけど、人生で最高の瞬間だった。

 今にして思えば、あのプロポーズのきっかけは留美だった。それならば、今の生活も、幸せも、すべてが留美のおかげと言える。愛おしい留美、かわいい留美、私に幸せを運んでくれたキューピット。今夜はあの子の好きなオムライスを作ってあげようかしら。祥子は指輪を見ながらそんな事を考えた。

 この指輪を貰った日のことは今でも鮮明に覚えている。あの日、留美が熱を出さなければ、祥子は康弘と結婚をすることが出来なかっただろう。自分が夜の女で、しかも誰のとも知れない子を抱えている事実を負い目に感じて、いずれ康弘の前からこっそりと姿を消していた違いない。


 その日、康弘とのランチデートの約束があったので、祥子は朝から張り切っていた。早起きが苦手なのに、六時前に起きてシャワーを浴び、しっかりお化粧をして、衣装を選んでいた。

 赤いドレスが良いかしら。いや、ランチで派手なドレスは周囲から浮くわね。じゃあ、カジュアルにボーダーのブラウスが良いのかしら。うーん、悪くは無いけど、ちょっと地味すぎるわね。

 何枚もの服をベッドの上に放り投げながら、すでに三十分くらい姿見の前でファッションショーをしているが、着ていく服がなかなか決まらない。クロゼットの中にある洋服のほとんどはバーに出勤するための服なので、どれも派手すぎるのだ。下手なコーディネートをすれば夜の女が丸出しの、いかがわしい装いになってしまう。

 だからと言って、休日スタイルではラフすぎる。康弘が連れて行ってくれるのは銀座や表参道にある高級な店や、どこかのホテルのランチだ。ドレスコードは無くても、ある程度は服装に気を遣わないと康弘に恥をかかせてしまう。

 あれでもないこれでもないと忙しなく服を着替えながら、祥子は大きなため息を吐いた。

 康弘さんとのデートは、洋服選びも大変だし、それに費用も馬鹿にならないのよね。

 いつもなら、食事代は全て男性に払わせる。それで当然だと思っていた。けれど、康弘に対してはそう思えない。彼との関係は大切にしたい。だから、二人の関係にお金の損得という計算を持ち込みたくなかったのだ。「食事代ぐらい奢らせてよ」と康弘は言うが、断固として断り、いつも割り勘にしている。

 生活費だけでも苦しいのに、数千円もするランチはかなりきつい。けれども、康弘さんにたかるようなことは出来ない。

 祥子は着替えに疲れて下着姿のままベッドに腰を下ろした。胸元には薄っすらと汗がにじんでいる。ひたいわきも脂汗でベトベトする。

 康弘さんとの、この関係はいつまで続くのだろう? 

 祥子は不安になった。このまま続けていれば、いつかは限界をむかえるだろう。夜の仕事を隠しながら会っているので、ディナーにはあまり行けないし、子育てもあるから同棲も難しい。それどころか祥子の稼ぎではそのうちデート代すら足りなくなる。

 祥子は預金通帳を取り出して、残高を確認した。一、十、百、千、万。祥子は小さく印字された文字を数えた。

 大丈夫、まだ大丈夫。貯金は十分に残っている。

 通帳にはあと百万円くらいの預金残高があった。これは、以前に同棲していた男からくすねたお金だ。そのときの相手は世間知らずな大学生だった。お馬鹿な大学生だったが、彼には感謝をしている。このお金があるおかげで、どうにか子育てが出来ているし、康弘さんとのデートも続けられているのだから。

 けれども、今の稼ぎでは預金残高は減る一方なので、いつか貯金も底をついてしまう。ゆっくりとだが、確実にその日が近づいている。

 私はどうすれば良いんだろう? 彼に本当のことを打ち明けて、それでも彼が私を受け入れてくれたなら。そのときは同棲をしても良いし、デートだってもっと庶民的にすればいい。もしも一緒に暮らせたなら、彼の身の回りの世話をめいっぱいするかわりに、ご飯をご馳走ちそうになるくらいは許されることかも知れない。

 でも、「私はクラブで働いている夜の女です。私には娘がいます。娘の父親が誰かは分かりません」なんて告白したらどうだろう。いくら康弘でも、さすがに許してはくれないだろう。軽蔑されるに違いない。、そうなれば、今の関係すら続けられなくなってしまう。

 そんなことを考えて、祥子は康弘に真実を打ち明けられずにいた。


 ベッドに座ったまま物思いにふけっていたため、いつの間にか出発の時間が迫っていた。せっかく早起きをしたのに、まだ着替えが終わっていない。祥子はベッドから立ち上がって、再び姿見すがたみの前に立った。鏡には下着姿の祥子の、柔らかく曲線的なボディラインが映った。一児の母ながら、スタイルはまずまずだ。問題は着る服である。

 祥子はベッドの上に散らかした服やクロゼットの中を引っ掻き回した。そして、ようやくクロゼットの奥に眠っていた一枚の服を見つけて、身に着けた。モノトーンのツーピースだ。取り立てて洒落ているわけではないが、悪くはない。少し地味だが、お昼のデートにはこれくらいがちょうどいい。

 これで決まりね。

 祥子は鼻息を荒くしながら、満足気に、鏡の前でポーズを取った。派手過ぎないけれど、普段着っぽくない、品のいいコーディネートだ。

 さて、急いで留美にご飯を食べさせて、託児所に送らないと。康弘さんとの待ち合わせに遅れたら大変だ。

 時間を確認しようと、壁掛け時計に目をやる。時計は八時ちょうどを指していた。

 あれ、おかしいな。いつもだったら留美はとっくに起きて、託児所に行く準備をしている時間なのに。

 不思議に思った祥子は、留美が寝ているはずの隣の部屋をのぞいた。

 留美は真っ赤な顔をしてベッドに横たわっていた。ぐったりとしていて、力の無い目で天井をぼうっと見つめている。意識はあるようだが、焦点しょうてんの定まらない目をしている。

「留美、どうしたの?」

「あ、お、かあ、さん?」

 留美は掠れた声で答えた。途切れ途切れに喋りながら、その合間にぜえぜえと苦しそうな呼吸をしている。何かしらの病気だと言うのは一目見ただけでも明らかだった。

 これから康弘さんと会う約束があるのに。せっかくあれだけ苦労して、着ていく服を選んだのに。こんなときに病気になるだなんて、と祥子は忌々いまいましそうに留美を見下ろした。

 憎たらしい我が子。留美はいつも私の邪魔ばかりする。

 留美を妊娠したせいで、祥子は高校を退学する羽目はめになった。当時の彼氏は子どもができたと聞くなり、「それ、俺の子じゃないだろ!」と怒りだして、そのまま祥子の前から姿を消してしまった。

 高校生らしい生活を奪われ、彼氏を失い、金づるにしていたパパたちにも愛想をつかされ、余計なコブだけが残って、それからの祥子はあちこちで散々さんざんな目にあってきた。

 留美の夜泣きのせいでアパートを追い出されたこともあるし、子持ちということで大半の男には相手にされない。育児をしながらではろくな仕事にも就けない。

 祥子にとって、留美は疫病やくびょう神のような存在だった。もしも誰かが留美を貰ってくれるのなら、留美なんてその誰かに押し付けて自由になりたい。けれど、祥子には頼れる相手がいなかった。天涯孤独てんがいこどくの身の上なのだ。

 いや、厳密に言うと母親がいるにはいる。だが、祥子を施設に入所させた親である。その後、一緒に暮らしていた時期もあったが、その間にも母親らしいことをしてもらった記憶は無い。それどころか、高校生になった祥子に体を売らせて生活費の足しにしていたような人間なのだ。そんな母親を頼れるはずも無い。

 預ける先が無いため、祥子は仕方なく自力で留美を育てていた。ダンボールに詰めて道に捨てるわけにも行かなかったからだ。決して望んで育てているわけでは無ので、留美のことを憎むことがあっても、愛おしく思えたことなどほとんど無い。

 けれども、たとえ留美のことを愛せなくても、それでも最低限の責任くらいは全うしようと、祥子は心に決めていた。育児放棄ほうきをするような母親にだけはならない。その責任感だけで、祥子は留美をどうにか育ててきた。しかし、当の留美はというと、いつもいつも祥子の足手まといになるばかりだ。そう感じて、祥子は常日頃から留美のことを煩わしく思っていた。

 実際のところ、五歳の女の子にしては留美はしっかりしている。寝起きにぐずりもしないし、トイレにも一人で行ける。しかし、それでも祥子の不満はつのるばかりだった。

 留美のことは放っておいて、出かけてしまおうかしら。

 祥子は一瞬そう考えたが、すぐに思い直した。ここで留美を放置して出かければ、育児を放棄した母親と同じになってしまう。あんな人と同じになるのだけは嫌だ。

 祥子は嘆息しながら、留美に近づき彼女の額に手を乗っけた。

 熱い。留美は使い捨てカイロみたいになっていた。

「すごい熱じゃない。留美、大丈夫なの?」

「う、ん。だいじょ、う、ぶ。ごめんな、さい」

 留美は心配をかけまいと懸命に笑った。脂汗の浮かぶ顔に、苦しそうな笑みを浮べた。

「とにかく、お医者さんにてもらわないと」

「でも、おか、あ、さん。ようじが、ある、って」

「そうよ。お出かけする用事があるの。でも、あなたを放っておく訳にもいかないでしょ。だから、早く起き上がって。とりあえず熱を測りなさい」

「は、い」

 留美は苦しそうに荒い息をしながら、ベッドから上体を起こした。

 小さな手をたどたどしく動かしながら、留美は上着のボタンを外して、胸の辺りの布を広げた。祥子が体温計を差し出すと、それを受け取り、服の隙間から脇の下に差し入れた。

 服の間から見える肌は透き通るように白く、その表面には目を凝らさないと見えないほど細くて繊細な産毛が生えている。その産毛は脂汗でべったりと肌に張り付いていた。

 電子体温計が熱を測り終えるまでの間、二人は黙って部屋の中にいた。留美はベッドに座り、その横に祥子が立ち尽くしていた。留美の苦しそうな息遣いだけが聞こえた。

 ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ。体温計が鳴ると、留美は服の中からそれを取り出して、電子画面を祥子に見せた。三九、七度。かなりの高熱だ。幼い子どもにとっては座っているのも辛いに違いない。

 あまりの高熱に祥子も心配になって、留美を抱き上げた。

「もう、こんなに熱があるなら早く言いなさいよ」

 祥子は金切り声を上げて、留美を叱り付け、それから携帯電話と財布を持って、家を飛び出した。

 祥子は血相を変えて通りを走って、大通りに出ると、通りがかったタクシーを呼びとめ、留美を抱きかかえたまま後部座席に乗った。母親に抱かれて安心したのか、留美は祥子の腕の中で目を瞑って、かすかな寝息を立てている。留美の息遣いは相変わらず苦しげだが、眠っているおかげで表情は少し穏やかだった。

「お客さん、今日はどちらまで?」

「あの、この子が熱で。ええと。休日診療をしている病院をご存じないですか?」

「はいはい、救急病院に行けばいいんだね。ここから少し離れるけど、市立病院に行けば診てもらえると思うから、そこで良いかい?」

「お願いします」

 タクシーの運転手さんが病院を知っていて良かったわ。

 祥子は安堵あんどして、胸を撫で下ろした。病院の見当がつかなければ携帯電話でネット検索して調べなければならない所だった。

 祥子はポケットから取り出していた携帯電話を、再びポケットに戻そうとして、はたと手を止めた。

 そう言えば、まだ康弘さんに連絡をしていない。待ち合わせまではあと一時間くらいあるが、早く事情を説明して、今日の食事をキャンセルしなければ。でも、何と言って説明すればいいのだろう?


 祥子はタクシーから降りて、病院の受付を済ませると、留美を待合室に残して外に出た。正面入り口の前で電話を取り出し、康弘の携帯に電話を掛ける。

「もしもし、祥子ちゃん? どうした?」

「あの、康弘さん。ごめんなさい、私、風邪を引いちゃったみたいで。これから病院に行くから今日の約束をキャンセルさせて欲しいの」

「えっ風邪? 大丈夫?」

「ええ、ゴホッ。大丈夫、ゴホッ。ただの風邪だから」

「病気ならご飯は今度でいいけど、体に気をつけるんだよ」

 待ち合わせの時間まであと三十分もない。すでに康弘も準備をしていたはずだ。しかし、康弘は突然に予定を取りやめた祥子のことを責めもせず、祥子の体をしきりに心配してくれた。祥子は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、ときおり咳をする真似まねをした。

「本当にごめんなさい。何とか行こうと思ったんだけど、ゴホッ」

「気にしなくて良いんだよ。それに、こういう言い方をするとちょっと気を悪くするかもしれないけどさ、ちょうど良かったよ」

「どういうこと?」

「ああ、ごめんね。変な言い方をして。部下が取引先に納品する商品を間違えちゃって、さっき連絡があったんだけど、かなりめてるみたいなんだ。部下に任せておいても良いとは思うんだけどさ、念のため僕も一緒に謝りに行くべきか迷ってたんだよ」

「そうなんだ。じゃあ、これから仕事に行くの?」

「ああ、そうするよ。日曜日だから休みの予定だったけど、また今度代休を取れば良いし。ご飯はまた都合がついたときにに行こうよ」

「ええ、そうね。ありがとう。ゴホッ。それまでに風邪を治しておかなくちゃね!」

「そうだよ。ところで、君はこれから病院に行くの? 休日診療をしている病院って言うと、市立病院か、それとも大学病院かな? 大学病院は待ち時間がすごく長くなるだろうから、市立病院に行くと良いよ」

「ええ、じゃあそうするわ。ありがとう」

「どういたしまして。それじゃあ、お大事に。

 康弘は電話を切った。

「また後で」とは、仕事の後で電話をくれるということだろうか? 

 祥子は少し引っかかりを感じながら、携帯をポケットに仕舞って、待合室に戻った。

 病院の正面入り口を抜けると、総合案内があり、そこにはふてぶてしい感じの初老の守衛が座っている。仕事をする気などまるで無いらしく、祥子が最初に入ってきたときからいままでずっと船をぎ続けている。守衛の前を素通りすると、すぐ先に受付があり、手前に数脚すうきゃくのベンチがある。受付の脇を抜けると、待合室だ。

 待合室にはぎっしりとソファーが並んでいて、受付から入ると、ソファーにかける人々の背中が見える。ソファーには十数名ほどの患者と、その付き添いの人たちが座っていた。部屋に置かれた一台のテレビの前に、人々は集まっている。

 留美はテレビから離れた隅っこの席で、力なく横たわっていた。

「大丈夫? ほら、頭が低いと苦しいでしょ、私の膝の上に頭を乗せてても良いわよ」

「う、ん」

 留美は紅潮した顔に弱弱しい笑みを浮べて祥子の膝に頬をつけた。祥子の膝枕がよほど嬉しいらしく、留美は肩で息をしながら嬉しそうに目を細くした。

 留美の頭を撫でてやりながら、祥子は診察の順番が表示されている電光掲示板を見上げた。


 ずいぶん待たされて、ようやく祥子と留美は診察室に通された。案内された部屋に入ると、年配の女性看護師と若い男性医師がいた。

「今日はどうされましたか?」

 男性医師は祥子と留美を見比べながら、抑揚よくようの無い声で尋ねた。

「どうも風邪を引いちゃったみたいで、この子、三十九度も熱があるんです」

「風邪ですか。まずはもう一度熱を測ってみましょう」

 医師が指示をすると、看護師が留美の服を脱がせ、検温を始めた。四角い筆箱のような形をした本体から紐につながった体温計が伸びている機械、その先端が留美の脇に挟まれた。本体には大きな電光板が付いていて、体温を表す数字が表示されている。

 電光板の数字はどんどん上がっていった。そして、四十をすこし過ぎた辺りで停止した。温度の横に摂氏せっしを表すCが表示された。検温が終わったようだ。

「これは、かなり熱が高いですね!」

「そうなんです。昨日までは元気だったんですけど、今朝見たら、ぐったりしてて」

「もしかするとインフルエンザかもしれませんね。ちょっと検査をしてみましょう。熱冷ましの頓服とんぷくを処方するので、検査の前に飲ませてください」

 祥子たちは一旦診察室を出て、診察室の前にあるソファーで待たされた。それから、すぐに呼び出しがあり、奥の処置室に通された。

「じゃあ、まず、この薬を飲んでください。お嬢ちゃん、錠剤は飲めるかな?」

 看護師が薬を持ってくると、留美は手を開いて錠剤を受け取り、口に含んだ。看護師に差し出された水を口に流し込み、苦しそうに顔を歪めながら、錠剤を飲み込んだ。

 それから、インフルエンザの検査が行われた。検査と言っても、鼻の穴にめん棒のようなものを挿すだけだったのだが、留美の小さな鼻に入るのには、その棒はかなり太かった。留美は顔をしかめながら、懸命に痛みに耐えていた。

 祥子は留美の手を握ってやりながら、検査の進行を眺めていた。

 三十分ほど立つと、先ほどの若い医師が処置室に入ってきた。

「どうやら、インフルエンザではないようです。ですが、寒い時期ですので、肺炎などを起こさないように十分に気をつけてください」

 医師は事務的な連絡をするように感情見えない声でそれだけ注意してから、また部屋を出て行った。

 しばらくして、薬が効いたのか留美はだいぶ楽そうになった。「喉が渇いた」と言い出したので、病院内の自販機でスポーツドリンクを買ってやると、美味しそうに喉を鳴らしながら飲んだ。

 あとは、待合室で名前を呼ばれるのを待ち、支払いをして、薬を受け取るだけだ。

祥子は一段落ついたことに安心して、ふうっと息を吐いた。

「祥子ちゃん。大丈夫かい?」

 後ろから突然名前を呼ばれて、祥子が驚いて振り返ると、待合室の入り口辺りに大きな段ボール箱を抱えた康弘が立っていた。康弘は黒いスーツを着ていて、その隣には似たようなスーツを着た、彼よりも一回りは年配らしき男も立っている。

「えっ、康弘さん、なんで?」

 祥子が戸惑っている間にも、康弘は抱えていた荷物をもう一人の男に任せて、祥子に駆け寄ってきた。

 どうしよう、留美がいるのに。私はまだ康弘さんに話してないのに。

 祥子はいろいろと言い訳を考えた。しかし、良い案は思い浮かばない。

「祥子、ちゃん?」

 康弘は祥子の膝に頭を乗せて眠っている留美を見下ろして首を傾げた。

「康弘さん。あの、ごめんなさい」

「えっ、どういうこと?」

 祥子は動揺してしまい、うまく喋れなかった。康弘も困惑こんわくしきりで、考えがまとまらないようだった。そうして二人が困っていると、康弘の連れの男が、康弘の肩を叩いた。

「あの、副社長。そろそろ約束の時間です」

「ああ、済まない。だけど、少しだけ時間をくれないかな?」

「ええ、承知しました。では、私が先に言って製品の入れ替えをしてきます。説明は副社長がなさるのでしょうから、それまでにはいらしてください」

「ああ、五分以内に必ず行く。それまでは頼む」

 康弘の部下らしい黒スーツがダンボールを抱えて、病院の奥に姿を消すと、康弘は改めて祥子に向き直った。

「さっき電話で話した取引先というのが、この病院でね。院内無線を下ろしていたんだ。検査機器なんかに悪影響を及ぼさない機種の発注を受けていたんだけど、違う製品が納品されていて、あわや大事故につながるところさ。そんな事態だから、僕も謝りに来たんだけど。その子は?」

「ごめんなさい。ちゃんと、話すつもりだったのよ」

 祥子は目に涙を浮べながら謝ったが、その先の言葉が続かなかった。

 康弘はその様子から大体のことは察したらしく、祥子と留美を交互に見て、「可愛い子だね」と言って微笑んだ。

「ごめんなさい」

 祥子は謝り続けるが、康弘は首を横に振った。

「とりあえず、僕は仕事に行く。君がそんな顔をしていたら、その子が心配するよ。詳しい話は後でちゃんと聞くから、今はその子の世話をしてあげるんだよ」

康弘は話を切ると、腕時計に視線を下ろし、「じゃあ、後で電話をするから」と言って病院の奥へ去っていった。

 祥子は康弘が去ってからしばらく、呆然としたままソファーに座っていた。三十分くらいだったと思うが、自分が呼び出されているのにも気づかないで、まとまらない思考をぐるぐると繰り返していた。

「ねえ、お母さん。呼ばれているよ」

 留美に肩を揺すられて、ようやく祥子はわれに返った。待合室には「沢村さま。沢村留美さま」と、何度も繰り返しアナウンスされている。祥子は慌ててソファーを立った。

 支払いを済ませ、薬を受け取った。それからソファーにいる留美の下に戻り、彼女の手を引きながら、病院を出た。

「留美、自分で歩けるの? 抱っこしようか?」

「ううん、歩けるよ」

 留美は来たときよりもかなり元気になっていた。しかし、薬が効いているだけかも知れないから、無理をさせてはいけない。祥子は留美の様子をうかがいながら、留美の手を引いて歩いた。タクシー乗り場を素通りして、駅に向かう。

 留美の治療費は思ったよりも高かった。頓服を出してもらったのと、検査をしたのとで費用がかさんだようだ。

 タクシー代が足りないので、駅まで歩いて、そこからバスで帰ることにした。祥子は留美に歩調を合わせて、ゆっくり歩いた。

 病人を気遣うくらいの体裁は必要よね。などと、自分に言い聞かせながら、ときどき留美にスポーツドリンクを飲ませたり、抱き上げてやったりして、祥子は駅を目指した。


 留美に晩御飯を食べさせて、薬を飲ませ、ベッドに寝かしつけてから、祥子は足音を忍ばせてそっと家を出た。留美は風邪で体力を消耗しょうもうしたのか、夕方過ぎには眠そうに目をこすり始め、早々に眠ってしまった。

 留美を起こさないように、祥子は家の外で康弘に電話した。電話越しに聞こえる康弘の声は穏やかだったけれど、祥子は無性むしょうに悲しくなった。

 康弘のことを騙し続けてきたという罪の意識が、祥子の心を締め付けた。

 祥子は受話器に向かってただひたすら謝ることしかできなかった。すると、康弘がそれをさえぎった。

「ところで、あの子の様子はどうなんだい?」

「熱は落ち着いて、さっき眠ったわ」

「じゃあ謝るのは後にしてさ、これから出て来られるかな?」

「これから?」

「ああ、どうしても、今夜会って話をしたいんだ!」

 康弘が切羽詰ったような声をしていたので、近くの喫茶店で落ち合う約束をした。そこは深夜まで営業している店で、沢山の観葉植物に彩られた店内は、夜更よふけになっても賑わっていた。

 祥子が喫茶店に着いたとき、康弘は窓際の席に座って、カフェラテを飲んでいた。背広姿の彼はやや疲れた様子で、時おり唇を動かして独り言のようなものを呟きながら、ぼうっと窓の外を眺めている。その手前で若いカップルが楽しそうに笑い合っていた。

 これから、康弘と話すのはきっと別れ話だ。幸せそうなカップルとの対比でいっそう惨めな気分になるに違いない。そう思うと、より一層気が重くなった。

「ごめんなさい。遅くなっちゃって」

「こっちこそ、ごめんよ。急に呼び出したりして」

 康弘は祥子に気づくと、居住まいを正した。

 きっとこれから別れ話が始まるのね。祥子は唇を噛んだ。

 誠実な性格の康弘は、祥子が不義ふぎを働いてきたにもかかわらず、ちゃんと筋を通してから別れようとしているのだろう。

「とりあえず、座りなよ。何か飲むかい?」

「えっ、あっ、うん」

 祥子が向かいの席に座ると、康弘は店員を呼んで、カフェラテを注文した。

「それで、僕がここに呼んだのはね、」。康弘が話し出そうとするのを遮って、祥子は「ごめんなさい!」と謝った。

「ごめんなさい、私には子どもがいるの。病院のときにいた子よ」

「ああ、可愛い子だったね。何歳なんだい?」

「五歳よ。留美って言うの」

「で、子どもがいるのは分かったけど、それは君が結婚しているってことかな?」

「いいえ、シングルマザーっていうのかしら、父親は高校の頃に付き合っていた彼だと思うけど、あの子が出来たっていったら、逃げていったわ」

「すると、君は独身なんだね!」

 康弘は小さなため息を吐いた。

 注文していたカフェラテが届くと、康弘はそれを祥子に差し出し「結構美味しいよ、ここのカフェラテ」と言った。祥子は勧められるままに、カップに口をつけた。

「それでね、私、他にも謝らないといけないのよ」

「他にもって?」

「康弘さんには居酒屋でバイトしてるって言っていたけど、あれは嘘なの。本当はクラブとかラウンジで働いているのよ。つまり、いわゆる夜の女なの」

「うん、そっちは知ってるよ。子どもがいるのには少し驚いたけどね」

「えっ、どうして知ってるの?」

「祥子ちゃんは覚えて無いと思うけどさ、君が働いていたお店にね、僕は一回だけ行ったことがあるんだ。新宿のお店だったかな?」

「うそ、じゃあ会ったことがあるの?」

「祥子ちゃんと話して、何だか素敵な子だなって思ってたんだ。君が話す一言一言に何ていうか、温かみがある気がしてさ」

 康弘は店で初めて祥子を見た日の事を滔滔とうとうと話し続けた。「同期も君に首ったけだって言ってたっけ」と、康弘はおかしそうに笑った。

「でも、僕はああいうお店が得意じゃないからね。接待されるのが苦手なんだ。それで、君と会うことを諦めていたんだけど、そしたら、この間のコンパだよ。祥子ちゃんがいたのには驚いたよ。内心ではラッキー、なんて叫んだくらいさ」

「でも、私は康弘さんを騙し続けていたから。怒ってるでしょ。失望したでしょ?」

「ううん。それに騙されたとも思っていないよ。僕は君があの店で働いているのを知っていたし。子どものことも、僕は君に尋ねたことないだろ? この場合、騙していたのはむしろ僕の方さ、初対面のフリをしていたんだし」

「でも、私には子どもまでいるのよ」

「それを聞いて納得したよ。僕がどんなに誘っても、君はどうしても友達以上になってくれなかった。きっと、子どもがいるから、僕に気を遣っていたんだね」

「ええ、まあ、そうだと思う。でも、ばれちゃった。だから、私たちはもう会わないほうが良いわ。本当にごめんなさい。康弘さんが素敵な人だったから、もう少し会っていたくて、どうしても本当のことを言い出せなかったの。悪気は無かったのよ」

 祥子は涙ながらに謝って、席を立ち、康弘に背中を向けた。すると、康弘が祥子の腕を力強くつかんだ。

「待ってくれ。病院で会ってから、こういう風になりそうだって予感がしたから。仕事帰りに急いでこれを買ってきたんだ。有り合わせですまない。でも、これが僕の気持ちだ」

 康弘はスーツのポケットから、あい色のビロードでおおわれた小箱を取り出した。康弘は小箱を祥子の手のひらの上に置き、丁寧な手つきでその蓋を開いた。

 小箱の中には指輪が入っていた。柔らかい光を放つ銀色のリング、中央にはきらきら光る透明の石がしつらえてある。

「えっ、どういうこと?」

 祥子が戸惑っている間にも、康弘は箱から指輪を取り出し、祥子の薬指に通した。

「あらら、ちょっと大きすぎたか」

 康弘は苦笑しながら、祥子の顔を見た。「今度サイズを直しに行こう。できれば留美ちゃんも一緒にさ」と言って、康弘は力強く祥子の手を握った。

 祥子は全く予想していなかった展開に呆然としてしまった。頭にもやがかかったみたいになって、思考がついていかなくて、嬉しくてたまらないのに、それを表現する言葉も見つからなかった。言葉の変わりに、目からは大粒の涙がぽろぽろと流れ落ちた。

「僕は仕事ばかりの人間だからさ。きっと祥子ちゃんに嫌われてるんだと思ってたんだ。だから、そろそろ身を引かないと君が迷惑してるんじゃないか、とも考えてたんだけどさ。今朝の君の秘密を知って、君が僕に遠慮しているんだと分かったから。子どもがいたって僕は構わない。結婚しよう。君と、留美ちゃんと、僕。きっと良い家族になれるよ」

 涙を流し続ける祥子に、康弘は真剣にそう言った。「本当に、良いの?」、祥子の問いに康弘は「もちろん」と答えた。祥子は思い切り康弘に抱きついた。喫茶店にいたの他の客たちが驚きの目で二人を見たが、そんなことはぜんぜん気にならなかった。

「はあ、緊張した。断られるんじゃないかって、ずっとハラハラしてたんだ。指輪もサイズが合わなかったしね」

 康弘は穏やかに笑った。祥子は真っ赤に目をらしながら、「康弘さんってそういうところのツメが甘いのよね」と言って笑った。


10

 あれから、もう四年も過ぎたのね。

 祥子は薬指にはまった思い出の指輪にそっと指をはわせながら、遠い目をした。

 康弘さんと出会っていなければ、今頃は留美を抱えて路頭ろとうに迷っていたかもしれない。それが今は幸せの真ん中にいる。愛する夫と娘に囲まれて、満ち足りた生活を送っている。幸せ過ぎていつかばちが当たるんじゃないかと思うほどだ。

 さて、そろそろ夕食の買出しに行かないと。ついでにランチでもしようかしら。

 祥子は回想するのを止めて、エプロンを外し、キッチンから出た。自分の部屋に戻って、広いクローゼットを見回す。

 クローゼットの中には落ち着いた色合いの服がぎっしり詰まっている。どれも上質な生地で出来たオーガニック繊維ブランドの洋服だ。

 祥子は部屋着を脱いでベッドの上に畳んでから、外出用の服に着替えた。水色のボーダーシャツ、秋らしい橙色のカーディガン、淡いクリーム色のハーフパンツ。どこから見ても落ち着いた主婦の装いだ。四年前までの自分とはまるで別人のようだ。あの頃着ていたような、水商売丸出しの派手なドレスや、ファーでもこもこのコートなど、もう一着も持っていない。

 祥子はハンドバッグを片手に家を出た。

 玄関先には色とりどりの花が植わった鉢植えが並んでいる。駐車場のすみにある置かれた工具の入った棚の上にまで、植木ばちが乗っかっている。最初はほんの数種類を育てていただけだったが、「綺麗な花だね!」と康弘さんが褒めてくれたので、ガーデニングがどんどん増えていき、いつの間にか玄関がお花畑みたいになってしまった。

 祥子は車庫の奥から自転車を取り出して、スーパーを目指して漕ぎ出した。近くのスーパーになら歩いて行けるが、今日は少し遠くにある大型のスーパーへ行くつもりだった。

 軽やかにペダルを漕ぎ、長い髪の毛を風になびかせながら、秋の香りがする街を走り抜けた。街路樹は綺麗に紅葉していて、赤や黄色に色づいた木の葉が風に揺れ、落ち葉が地面を柔らかく覆っている。住宅街を走っていると、秋刀魚の焼けるいい匂いが漂っているし、石焼芋屋が客を呼ぶ汽笛も遠くから聞こえてくる。

 秋本番って感じね。食欲の秋。留美に沢山美味しいものを食べさせてあげなくちゃ。

 祥子は自転車を漕ぎながら、夕食のメニューをきのこ入りのオムライスに決めた。

 もしいいマツタケが売られていたら、康弘さんには土瓶どびん蒸しを作ってあげて、だったら美味しい日本酒も買わなくちゃ。

 祥子の頭の中で、つぎつぎに夕食のメニューが出来上がっていく。それらを喜んで食べる留美と康弘を想像すると、祥子はたまらなく幸せな気分になる。ついつい鼻歌を歌ってしまうくらいだ。

 郊外こうがいにある大型スーパーは一階に食品売り場があり、二階には衣料品店と玩具おもちゃ売り場と携帯電話ショップ、三階はレストラン街になっている。

 あとで二階も見てみようかしら。それから、三階でお昼にしよう。

 美味しそうなパンチェッタ、平飼い地鶏じどりの卵、つぎつぎに商品を買い物かごに放り込みながら、祥子は食品売り場をくまなく見て回った。一通りの食材がそろったら、今度はお酒のコーナーに行って、九州の地酒と、ストレートのりんごジュースを一本ずつ籠に入れた。

 会計を済ませた祥子は、重たい袋を両手に下げながら、二階の衣料品売り場に向かった。エレベーター付近の手い衣料雑貨店が祥子のお気に入りだ。ブランドの洋服なんかは売っていないけれど、オーガニックコットンのタオルや、天蚕シルクを使った肌着など、上質な布製品が売られているからだ。

 祥子が雑貨店内を歩いていると、アルバイトの店員が祥子の肩を軽く叩いて来た。

「あっ、やっぱり祥子ちゃんだ」

「お久しぶりです。奈津美なつみさん、お元気でしたか?」

「ええ、私は元気よ、それより」

 奈津美は躊躇ためらいがちに祥子の顔色を伺った。

 祥子はその視線を怪訝けげんに思いながら、首を傾げた。

「ま、まあ、祥子ちゃんも元気そうで良かったわ。ね、荷物重かったら、レジで預かっとくけど、どう?」

「ありがとうございます。夕飯の買出し、いっぱい買ったから重くって。助かります」

 祥子は荷物を奈津美に預けてから、店内をうろうろ歩き回った。奈津実は他の客の相手があるようで、「また、後でね」と言って別のコーナーに駆けていった。

 祥子は奈津実の後姿を見ながら、すっと目を細めた。奈津実とは店の外でもよく会って個人的な付き合いもしていた。けれど、留美の一件があってからは、ばたばたしきりで会えていなかった。このところ電話すらほとんどしていない。こうして会うのはもう数月ぶりになる。

 奈津実は相変わらず素敵な女性だった。一世代上の彼女を見て、「いつか、あんな女性になりたい」と、祥子はひそかに憧れている。

 店ではもちろん、プライベートでも、彼女はいつもお洒落な格好をしている。控えめな服装をしていても、ブローチやネックレスなんかの小物に目の覚めるように鮮やかな色合いの物を使ったり、大人の女性としてのお洒落を楽しんでいる感じだ。見た目だけじゃなくて性格も良くて、仕事ぶりもちゃんとしている。アルバイトながら、店のチーフからも全幅ぜんぷくの信頼を置かれているらしい。

 奈津実が仕事中に身につけている物の多くは店で売られている洋服だ。祥子は奈津実の着こなしを参考にしながら、シャツを数枚選んだ。

 そう言えば、留美がリボンを欲しがっていたわね。

 祥子は髪留めの置かれた台の前に行き、リボンを眺めて留美に似合いそうなものを探した。ピンク色をしたサテンのリボン、クリスマスカラーのタータンチェック、藍色の千鳥格子ちどりごうし、どれも可愛らしくて素敵だった。悩みに悩んでから、赤いシルクのリボンを手に取った。これならきっと留美も喜ぶわね。

 レジに客がいなくなるのを待ってから、祥子は奈津実のもとに向かった。

「あっ、祥子ちゃん。このシャツ買うんだ。いいわよ、これ。着心地もいいし、見た目も上品で、それとリボン? これ、祥子ちゃんが使うの?」

「いいえ、まさか。留美が欲しがっていたのよ」

「ああ、留美ちゃんね。そっか、リボンを欲しがっていたんだ」

 奈津実は少しくぐもった声で言って、寂しそうにうつむいた。

「奈津実さん、どうされたんですか?」

「あっ、いいえ、何でもないわ。それより私ね、一時までで仕事が終わりなのよ。良かったらこれからお茶にでも行かない?」

「良いですね。でも、私ご飯がまだで。三階でランチじゃ駄目ですか」

「祥子ちゃんもまだ食べてないんだ。私も仕事中で食べれてないから、ちょうどいいわ」


11

 祥子は奈津実と二人でスーパー三階のレストラン街に向かった。

 トンカツ、鉄板焼き、すし、ラーメン、パスタ、どの店も美味しそうだったが、奈津美にすすめられてパスタの店に入った。

 店内はなかなかいい雰囲気だった。ピザを焼くかまどのような石模様のタイルが壁を覆っていて、テーブル席の上にはLEDのフェイクキャンドルが置かれている。窓の下の景色けしきが駐車場でさえなければ、本格的なレストランにも引けを取らない内装ないそうだ。

 祥子は和風ツナクリームスパゲティを、奈津実はミートソースを注文した。

「ここのスパゲッテイ、結構美味しいのよ。店長が生パスタに凝ってて、イタリアから直送の材料を使ってるんだって」

「そうなんですか。このお店には入ったことが無かったけど、奈津実さんが美味しいって言うなら間違いないですね。楽しみです」

 二人は他愛たあいも無い会話をしながら、食事が運ばれてくるのを待った。店内にはニンニクやバジルの香りが立ち込めていて、お腹がグーグーと声を上げた。

「お待たせいたしました。こちら、セットのミニサラダとかぼちゃのポタージュスープです。サラダにはこの三種類のドレッシングからお好きなものをご利用ください」

 店員が祥子と奈津実の前にサラダの入った小さなボウルと、スープの入った皿を置いた。ステンレス製のラックに入ったドレッシングが二人の間に置かれた。

 祥子はゴマドレッシングを使い、奈津実はノンオイル青じそドレッシングを使った。シーザードレッシングがさみしそうに取り残されている。

 二人がサラダを食べ、スープを飲んでいると、やっとスパゲティが運ばれてきた。

「うーん。美味しいわ!」

「本当、美味しい。予想していたよりずっと美味しいです。パスタがもちもちで、ソースも手作りって感じですね!」

 最初に一言ずつ感想を言ったきり、二人は皿に向き合って無言になった。奈津実は美味しいものを前にすると無口になる。「本当はおしゃべりしながら食べたいんだけど、駄目なのよ。私って食べるのに夢中になりすぎるみたい」と、奈津実は食事に行くたびに言う。だから、いつからか、祥子も奈津実との食事は無言でするようになった。奈津実が案内してくれる店はどこも美味しかったし、話は食後のお茶のときに出来るので、祥子はその沈黙ちんもくの時間が嫌いではなかった。

 二人がすべての皿を空にすると、店員がその器を下げに来た。

「よろしければ食後のデザートとお飲み物をお持ちしますが、いかがですか?」

「お願いします。祥子ちゃんも良いわよね?」

「こちらのお皿をお下げしてもよろしいですか?」

「はい、構いません。それからおしぼりを頂けますか?」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 店員は器用に皿をまとめると、二人分の食器を片手で持ち、厨房へ下がって行き、すぐにデザートと紅茶を持って戻ってきた。木苺きいちごのムースと小さなシフォンケーキの乗った皿が目の前に並ぶと、祥子はつばを飲み込んだ。ティーカップからいい香りの湯気が立ち上っている。

「美味しかったですね。それにこのシフォンケーキもふわふわで美味しい」

「そうでしょ。こんなスーパーの中にあるけどね、お勧めの店なのよ。仕事が終わったときにまだ営業していたら、立ち寄ってご飯を食べて帰るの」

 二人はデザートを突きながら、世間せけん話をした。新しく出来た喫茶店の話やペットの話、結婚生活の話など取るに足らないような会話が続いた。

「本当に大変よ、しゅうと夫妻が年を取ってくると。やれご飯の味付けが薄いだの、やれ買い物が出来ないだの。痴呆の気も出てくると更に酷いのよ!」

「そうなんですか。私はまだ同居してないですけど、大変なんですね」

「そうよ。あなたも覚悟しておきなさい。油断しているといつの間にか家に転がり込んできて、介護をさせられる羽目になるのよ」

 奈津実は夫の両親を世話する苦労を話した。

 奈津実の話しぶりに祥子が気圧されていると、奈津実は急に口を閉じ、祥子の気持ちおもんばかるようにじっと祥子の目を見つめた。

「ごめんなさいね。つい話をし過ぎじゃった。それより、祥子ちゃんは大丈夫なの?」

「大丈夫って、何がですか?」

「何がって、その、留美ちゃんのことよ。あんな事になってしまって、本当に大変だったわよね。なんて言って良いのか分からないけど、気になって」

「ああ、その事ですか。大丈夫ですよ。確かに大変ですけど、でも、帰って来てくれただけで十分です。本当に良かったです」

「そりゃあ、まあ、見つからないままよりは良かったでしょうけど。でも、辛いときには言ってね。何もしてあげられないかも知れないけれど」

「本当に大丈夫ですよ。留美だって頑張っているんですから、弱音なんて吐いていられませんよ」

「えっ、頑張って? 留美ちゃんのこと?」

「ええ、最近また小学校にも通い始めたんですよ!」

「小学校に?」

 奈津美は戸惑いながら、引きつった笑みを浮かべた。

「ええ、ちゃんと勉強できてるかどうかは分かりませんけどね」

 そう言って祥子が笑うと、奈津美は青白い顔をし始めた。

「奈津美さん、どうかされましたか?」

「いいえ、何でもないわ。ごめんなさい、私これから予定があるのを忘れていたわ。悪いけどお先に失礼するわね。お釣りはいいから、お会計をしといてもらえるかしら?」

 奈津実は視線を泳がせながら、千円札を三枚テーブルに置いてレストランを出て行った。

 突然どうしたんだろう?

 紅茶も飲みかけのまま店を飛び出していった奈津実を見て、祥子は首を傾げた。


12

「あなたにとって人生最大のピンチはいつですか?」と尋ねられたなら、祥子は間違いなく、三ヶ月前と答えるだろう。あのときの焦りや苛立ち、そして心臓をじりじり握り潰されるようなあの恐怖感は今でも忘れられない。

 事件があったのは、小学校の夏休みが始まる一週間ほど前だった。そのころ留美の通っている小学校は家庭訪問の期間中で、午前中までの短縮授業が行われていた。

 短い授業が嬉しいのか、夏休みが待ち遠しいのか、子どもたちはみな、いつもよりそわそわしていた。夏休みになったら、「毎日友達と遊ぼう」とか、「思い切りゲームをしよう」とか、「サッカーを頑張ろう」とか、「家族で旅行だ」とか、思い思いの期待に胸を膨らませていたのだろう。

 あの日まで、留美もきっとそうだったに違いない。

 しかし、あの朝、ほんの些細な出来事をきっかけにして、留美の夏休みは悲しい思い出に汚されてしまった。留美はいまだに、あの数日間に彼女の身に起こった出来事を語りたがらない。だが、彼女が口を閉ざせば閉ざすほど、彼女がどれだけ傷ついてしまったのかが良く分かって、そんな様子を見るたびに、祥子は胸が苦しくなった。

 あの一件の原因は、祥子の軽はずみな行動にあった。そのせいで、家出をした留美は、あの事件に巻き込まれて、心に消し去れないほどの傷を負ってしまったのだ。

 あの日、祥子がたった一言「ピピちゃんの人形を捨ててもいい?」と留美に確認さえしていれば、事件は起こらなかったかもしれない。そう思うと、祥子は自責の念に押しつぶされそうになる。けれど、今は後悔している場合ではない。一番苦しいのは留美のはずだ。後悔をしているヒマがあるのなら、彼女にめいっぱい愛情を注いであげなくてはならない。

 祥子は何度も自分にそう言い聞かせて、「過去を悔やむのではない。幸福は未来にある。最大限に今を大切にして、これからを明るく彩ろう」と暗唱あんしょうする。どこかの本で読んだ一節で、その言葉を頼りに祥子は今を生きている。

 それでもときどき、あの朝の出来事を悔やむことがある。そんなことをしても、留美の心から傷が消えるわけではない。分かっているのに、つい考え込んでしまう。

 あの地獄のような数日間を思い出すと、今でも胸が張り裂けそうになる。


 その朝、留美は珍しく寝坊をしていた。寝坊の原因は前の晩にあった。

 それは「本当にあった心霊現象ベストテン」という、ありきたりな心霊特番とくばんだった。夏が近づくと毎年のように放送される番組だから、祥子や康弘にとってはよくある特別番組だったが、幼い留美にとってはかなり刺激が強かったらしい。

「留美ちゃん、そんなに怖いテレビを見てたら、眠れなくなるぞ」

 康弘が留美に注意したが、留美は食い入るようにテレビ画面を眺めていた。

「ほら、お父さんと一緒にお風呂に入って、そろそろ寝よう」

「まだダメ。だって、この後で大変なことになるって、ほら」

「そうだよ、だから見るのを止めて、早く寝ちゃおうな。怖くて眠れなくなるぞ!」

「ううん、大丈夫。だってちゃんと全部見ないと、もっと怖いもん」

 留美は頑としてテレビの前を動かず、怖いシーンのたびに「わあ」とか「ぎゃあ」と悲鳴を上げながらテレビに見入っていた。

 ひき逃げをした車に幽霊が取りいて運転手を呪い殺すという話や、廃墟の中を徘徊する幽霊の話、霊媒れいばい師に少女の亡霊が取り憑くドキュメンタリー、いろいろなホラーストーリーがオムニバス形式で放送されていた。

 留美は心底怖がっているようで、テレビが終わってからしばらくは祥子の服をつかんで放さなかった。祥子はなるべく明るく笑いかけながら、怯える留美の頭を優しくなでた。

「ほらね、留美。康弘さんが言ったように、怖くなっちゃったでしょ?」

「ねえ、ママ、幽霊って本当にいるの?」

「そんなわけ無いでしょ。まあ、留美はまだ子どもだから怖いでしょうけどね。ああいうテレビは怖くするために作られてるのよ」

「そうだぞ、留美ちゃん。それに、もし幽霊が出てきてもお父さんが退治してあげるから大丈夫だ。それよりも、早くお風呂に入っちゃわないと、そろそろ寝る時間だぞ!」

 祥子と康弘は留美を励ましてお風呂に入れた。

 留美は少し安心したようで、いつも通り風呂に入り、歯磨きをし、ベッドに入った。しかし、やっぱり怖がって、「ねえ、ママ。一緒に寝てて」とぐずった。

 祥子は仕方なく、留美に添い寝してやった。留美はなかなか寝付かず、いつもは十一時前には寝るところが、日付が変わる頃になってようやく眠りに落ちた。

 そのせいで、あの朝、留美はなかなか起きてこなかった。通学の時間にはまだ余裕があったので、祥子は留美が起きてくるのを待ちながら、朝食の準備と部屋の片付けをしていた。

 朝食の支度を終え、キッチンを片付けた祥子は、隣のリビングの整理を始めた。

 もうっ、留美も康弘さんも、出したら出しっぱなしで。

 祥子はダイニングテーブルの上に置かれた玩具や雑誌を脇によけ、ソファーの上に置きっぱなしになっていたぬいぐるみを窓際の台の上に置きなおし、テレビの前に散らばっているDVDケースを拾い上げてプレーヤーの中のデスクをしまってから棚に立てた。

 細かいレリーフが彫刻されている北欧風の木棚の中ほどには、所狭しと音楽やCDやDVD、ブルーレイが立てられている。

 下の段にはアルバムが数冊斜めに立っている。康弘さんと出会ってからの写真がほとんどなのでまだ冊数は少ないが、大切な思い出の詰まったアルバムたちだ。

 棚の上段は康弘の趣味のコーナーになっていて、ケースに入った外車のミニカーが陳列されている。

 あら、こんな所に。

 祥子はミニカーの傍らに隠れるようにして置かれている人形に目をとめた。

 ミニカーと対比して見るとまるでゴジラくらいに馬鹿でかいその人形だが、実際には人間の赤ちゃんを一回りか二回り小さくしたくらいの大きさをしている。姿かたちも人間の赤ちゃんのように作られている。

「ピピちゃん人形」というその人形は、幼稚園児くらいの子どもの間で人気の人形だ。着せ替えが出来たり、横に寝かすと目を閉じたり、とても高性能で、セット商品のスプーンを使うと、まるで本当にご飯を食べさせているようなごっこ遊びも出来る。

 康弘と出会うより数年前に、祥子はその人形を留美に買ってやった。留美はそれをとても気に入って小学校に入るくらいまではずっと大切にしていた。しかし、いつからか留美はピピちゃんにあまり興味を示さなくなった。

 髪はかしすぎて解れてチリチリになっているし、幼き日の留美の唾液だえきが染み込んで服は茶色く変色している。みすぼらしくなったピピちゃんはもうあまり愛らしくなく、魅力を感じなくなってしまったのかもしれない。

「そろそろ、この人形も捨てなきゃね」、留美も飽きちゃったみたいだし。

 独り言を言いながら、棚からピピちゃんを取り出すと、ゴミ袋に詰め込んだ。

 祥子は壁掛け時計を見た。時刻は七時五十分。慌ててゴミ袋を抱え、サンダルを突っかけて、家の外に出た。この辺りのごみの回収は早く、八時にはたいてい終わっている。

 祥子はゴミ捨て場にまだゴミ袋が沢山有るのを確認して、安堵の息を吐いて、ゴミ袋の山の上に、自分の持ってきた袋を重ねようとした。すると、その瞬間ゴミの塊がもぞもぞと動いた。

 きゃあ、何?

 祥子がゴミ捨て場から飛び退くと、重なったゴミ袋の影から、一匹の黒いブリティッシュショートヘアが飛び出し来た。首に赤い首輪が巻かれている所を見ると、どうやら飼い猫らしい。

 飼われているのにゴミ漁りなんて、行儀ぎょうぎの悪い猫ね!

 祥子はシッシッと手払いしてから、ゴミ袋を山に重ねた。

 祥子が家に戻ると、留美と康弘が起きてリビングにいた。留美は半泣きのような表情で部屋を駆け回っていて、康弘は小首を傾げながらきょろきょろと部屋の中を見回していた。祥子が部屋に戻ると、二人は揃って祥子を見た。

「なあ祥子、留美がピピちゃんがいなくなったって言うんだけど、知らないか?」

「ねえ、ママ。汚れないようにお父さんの棚に置いておいてもらったはずなのに、ピピちゃんがいないの!」

「えっ、あの人形まだいるんだったの?」

 祥子は驚きの声を上げた。留美はその声から何かを感じ取ったようで、まさか、という風に目を丸くしながら、祥子の顔を見上げた。


13

 祥子はピピちゃんを捨ててしまったことを留美と康弘に打ち明けて、何度も謝った。しかし、普段は聞き分けのいい留美が、このときはなかなかおさまらなかった。

「ひどい。大切だから汚れないように置いてたのに」

「留美にも一言聞いてから、捨てるかどうか決めたほうが良かったんじゃないか?」

 康弘に言われて、祥子は反省し、すぐにごみ捨て場に走った。しかし、ごみはすでに回収された後だった。

 ごみが回収されていたことを話すと、留美は目に涙をめながら、悲しそうに俯いた。

「もう、お母さんなんか大っ嫌い」

 ふて腐れる留美と祥子を見比べて、康弘は肩をすくめた。

「まあ、とりあえず、留美。ご飯を食べて学校に行くぞ。今日は送ってやるからな」

「うん。分かった」

 康弘の言葉には聞き分けよくうなずき、留美はしょんぼりしながらご飯を食べ始めた。

 留美と康弘を送り出した後、祥子は留美へのお詫びを考えた。

 そして、昼食に大好物のオムライスを作ってやることに決めた。

 今日は短縮授業のため、留美がお昼までで帰ってくる。

 それまでにオムライスの準備をしておかなくちゃ。

 祥子はスーパーに行き、たまねぎとソーセージ、卵を買った。お昼が近づいてくるまでは部屋の掃除や洗濯をして、十一時過ぎに特製のケチャップライスを作り始めた。

 よしっ、後は留美が帰ったら薄焼き卵を作って完成ね。

 祥子は付け合せにコブサラダとスープを作って、留美が帰ってくるのを待った。しかし、その日、留美はいつまでも帰ってこなかった。

「どうしよう、留美が、留美がまだ帰ってこないのよ!」

 祥子は帰宅した康弘にすがりつきながら、涙ながらに現状を伝えた。

 留美は朝出て行ったきり、昼が過ぎても帰って来なかった。短縮授業で昼食を食べていないはずなのに連絡も無い。外はもう暗くなり出しているのに、まだ戻らない。学校に電話して、同級生たちの家にいないか確認してもらったが、留美は見つからなかった。

「それで、警察には相談したのかい?」

「ええしたわ。でも、家出じゃないかって言われただけだったわ」

「今朝のことを思うと家出って言うのも考えられるね」

「でも、何かの事件とかだったら、私はいったいどうしたらいいの?」

「気持ちは分かるけど、一旦落ち着きなよ。心当たりを調べて、手がかりを探すしかないだろう。それに事件や事故じゃなくて、どこかで拗ねているだけってこともあるだろうから、待っていたらひょっこり帰ってくるかもしれないじゃないか」

「何で? 何で、康弘さんはそんなに落ち着いてるのよ? 留美が本当の子どもじゃないから、いなくなって清々してるんじゃないの」

 祥子は苛立ち紛れについ、康弘に暴言を吐いてしまった。

 康弘はそれを聞いて、とても悲しそうにひとみを曇らせた。

「僕は、留美ちゃんを自分の娘だと思っている。それに君にそっくりな可愛い子だ。大切に思わない訳がないじゃないか。でも、焦って苛立っていても、何も解決しないだろ。こういうときこそ落ち着いて考えないといけないんだよ」

 康弘は祥子の言葉に憤慨ふんがいすることなく、落ち着いた声で祥子に諭した。

 祥子は康弘の言葉と表情にハッとして「ごめんなさい、私、酷いことを言っちゃった」と謝った。康弘は穏やかに微笑むと「気にしないでくれよ。留美ちゃんの事が心配で、君も冷静じゃないだろうからさ」と祥子を気遣った。

「とりあえず、心当たりをしらみつぶしに探してみよう。留美が帰ったら分かるように、机の上には留美に当てたメモを残しておこう」

 康弘はキッチンテーブルの上に大きな広告を広げ、裏の白紙に、大きな文字で「留美へ、お父さんもお母さんもとてもしんぱいしています。家にかえったら、お父さんに電話をしてください。電話番号はこれです。」と書いて下向きの矢印を書き、その先に自分の電話番号を書きつけた。

 留美がこの書置かきおきを見れば、きっと電話をしてくれるだろう。家を空けていても、留美が帰宅すれば康弘の電話に留美から電話が掛かってくる。

 祥子と康弘は二人連れ立って家を出た。

 まずは近くの公園へ向かった。次によく行くコンビニ、そしてスーパーマーケット、それから街を分断する川の河川敷。留美と行ったことのある場所を手当たり次第に探した。しかし、その何処にも、留美の姿は無かった。

 一時間が経ち、二時間が経ち、日はすっかり暮れて、街は暗闇に包まれた。

「一旦家に帰ろう。もしかすると、留美が帰っているかも知れないし」

「でもし帰ってなかったらどうするのよ! もう少し探したら見つかるかも知れないじゃない!」

 取り乱した祥子を康弘は強く抱きしめた。「じゃあ、僕が探すよ。だから、君は家に帰って、少し休みなよ」と言った。この時期の風は酷く蒸し暑くて、そんな中を息を切らして走り回ったために、康弘も祥子もシャツがぐっしょりするほど汗をかいていた。

 祥子を抱きしめた康弘のワイシャツから、男臭い汗の臭いが立ち上った。その濃い臭いからは、康弘の必死さと力強さがひしひしと伝わってきた。祥子はそれを嗅いで少し落ち着きを取り戻した。

 康弘に言われたとおり、一旦家に帰って、祥子はリビングのソファーに腰を下ろした。真夏なのに何故か体が冷え切っていたので、お湯をかし、湯飲みを三つ用意して、温かなお茶を注いだ。

 どうすればいいの? 留美、どこにいるの?

 座っているのに激しい動悸がして、呼吸が乱れた。

 締め上げられているみたいに苦しくて、首筋をかきむしりながら喘いだ。

 留美、どうか無事でいて。

 祥子はひたすらそう祈り続けた。

 留美が無事に帰ってくるのなら、私はどうなっても構わない。

 体を引き裂かれても平気よ。

 どうな痛苦にだって耐えてみせる。

 だから、留美、お願いよ、帰って来て。

 祥子は何度も何度も心の中で叫んだ。


14

 一週間が経っても、留美は見つからなかった。捜索願を出し、新聞の地方欄では留美の行方不明が報道され、情報提供を募集する呼びかけもしてもらった。しかし、有力な情報は一つとして集まらなかった。

 新聞の報道は時間経過とともに少なくなり、何の進展しんてんも無いまま、ついに留美の記事は載らなくなってしまった。地方欄には地元の高校の運動部の戦績やボヤ騒ぎ、暴力団関係者の事件などの見出しが並ぶようになった。

「お願いします。もっと留美の記事を載せてください。もっと大きく記事にしてもらえたら、きっとあの子の情報が集まるはずです。だから、お願いします。他の事件は後回しにして、留美のことを調べてください」

 祥子はすがるような思いで新聞社に電話をしたが、「新聞記事は記者と編集者が責任を持って製作しております。申し訳ありませんが、誰か一人の都合に合わせて作ることは出来ません」と断られてしまった。

 祥子はたった一週間にして、げっそりとやつれた。

 康弘は憔悴してゆく祥子を心配して、会社を休んで身の回りの世話をしてくれた。

「留美のことは心配だけどさ、留美が帰ってきたときのためにも、君が元気でいなくちゃいけないだろう?」

「でも、留美が帰ってこないのよ。平然へいぜんとなんて出来ないわ」

「きっと留美は無事帰ってくるさ。僕も探してみるし、同僚も何人か手伝ってくれることになっている。だから、君はちゃんとご飯を食べて、しっかり眠らないと。体を悪くしちゃいけないだろう」

 康弘がどんなに言っても、祥子は取り合おうとせず、ほとんど食事も食べず、夜もあまり眠らなかった。祥子は日に日に弱っていった。

 留美がいなくなってから、半月が過ぎた。

 小学校は夏休みの真っ最中、会社によってはお盆休みが始まっている頃だった。世間は帰省ラッシュだとか、海水浴だとか、海外旅行だとか、うわついた話題で持ちきりだった。

 その頃になっても、留美は帰ってこなかった。

 祥子は一層やつれていた。覇気はきの無い死んだ魚の目をしていて、吹きさらされた髪はボサボサだった。すっかり頬がこけて顔は骸骨がいこつのようになっていた。

 祥子にはもはや留美を探しにいく体力すら残っておらず、日がな一日ソファーに身をうずめていることが多くなっていた。

「私がいけないのよ。あの子の大切な人形を捨てたりしたから」

 祥子はうわ言のように呟いた。

「人形が無いから、留美は帰ってこないのよ」

 そうよ、きっとどこかでねてるのよ。

 あの人形があれば、きっと留美は戻ってくる。

 人形を買ってこなくっちゃ。

 祥子の瞳が妖しく輝いた。

 祥子はソファーから立ち上がり、ふらふらと玄関を出た。筋肉が削げ落ちて力の入らない手足を無理やり動かして自転車に乗り、大型スーパーまでの道を急いだ。

 真夏の日差しが祥子を照らし、干草のように萎れた祥子の体から、水分がどんどん絞られていった。体力がどんどん奪われて、意識が朦朧となっていく。

 街路樹は緑色の葉を広げて、地面に影を落としていたが、その影で涼むことすらせず、祥子は自転車をこぎ続けた。スーパーに付くと、エスカレーターを一段飛ばしで駆け上がり、二階の玩具売り場に行った。

 玩具売り場には戦隊ヒーローのグッズや魔法少女の衣装、パズルなどいろいろな玩具が雑多に並べられていた。祥子は棚をかき分けて、幼児用玩具のコーナーへ行った。

 幼児用の玩具コーナーには、動物のぬいぐるみやドールハウス、タンバリンや小さなピアノなどが置かれていた。祥子は周囲をぐるりと見回して、隅っこにおままごとグッズがあるのを見つけた。その中に目的の「ピピちゃん人形」が陳列ちんれつされていた。

 やっと見つけた。祥子はピピちゃん人形に手を伸ばした。

「ねえ、ママ」

 不意に、祥子を呼ぶ声が聞こえた。

「ねえ、ママ。やっと見つけてくれたね」

「留美、あなたなの?」

 祥子は嬉しさの余り目に涙を浮べながら、声のする方向に手を伸ばした。


 あの日、留美が帰ってきてくれて、本当に良かったと思う。産まれてこないで欲しかったと留美を憎んだこともあったが、今では留美が一番の宝物になっている。

 ああ、私は何て幸せなんだろう。康弘さんがいて、留美がいて、こんなに素敵な家に住んる。毎日が幸せで仕方ない。

 買い物から帰った祥子は、荷物を整理しながら、改めて幸せを噛み締めていた。

 留美がいなくなってからの数日間は生き地獄だった。けれども、留美はちゃんと帰ってきてくれた。家出していた間、どうやら留美はおかしな男の家に軟禁なんきんされていたらしい。その後すぐに男が逮捕されたので、もう留美に危険が及ぶ心配は無い。

 男の家で留美は何かされたのかも知れないし、怖い思いをしたのかも知れない。何があったのかは分からないけれど、そのせいで留美は心を閉ざしてほとんど何も喋らなくなってしまった。

 留美が元通り元気になるまでにどれくらいの時間を要するのか、見当けんとうも付かない。それでも、留美は生きている。今はそれだけで十分だ。留美の傷は私が一生をかけていやしていく。残りの人生を全てささげてでも、きっと留美を幸せにしてみせる。留美さえ幸せになれるのなら、私は何も怖くない。

 祥子は買ってきた食材を冷蔵庫に入れ終えると、雑貨店で購入したシャツやリボンを取り出しタグを外した。

 このリボンなら、きっと留美も喜ぶわね。

 祥子は赤いリボンを眺めて満足そうに微笑んだ。リボンの生地には上品な艶があり、繊細な刺繍ししゅうが美しかった。シャツとリボンを棚にしまうと、祥子は夕食の準備に取り掛かった。

 さあ、今日は留美のために、キノコ入りのオムライスを作りましょう。

 祥子はわくわくしながら料理を始めた。

 土鍋でご飯を炊いて、ケチャップライスを作る。

 オムライスが大好きな留美。喜んだ顔が目に浮かぶ。

 祥子は鼻歌を歌いながら、料理を続けた。


15

 祥子が夕食の支度を終えたころ、康弘と留美が帰ってきた。

 康弘は留美の手を引きながら、リビングに入ってきた。

「おっ、いい匂いだな。今日の晩御飯はなんだい?」

 康弘が鼻をひくひくさせる。

「今日はね、オムライスよ。留美はオムライスが好きでしょ」

「そうか、オムライスか」

 康弘は苦虫にがむしを噛み潰したような顔をした。

「ごめんなさいね。晩御飯にオムライスじゃ、康弘さんにはちょっと物足ものたりないわよね」

「いや、良いんだ。けど、昨日の夜もオムライスだっただろ」

「えっ、そうだったかしら?」

「卵を全部使ったって言ってたろ。それにケチャップも」

 康弘は嘆息たんそくしてから、リビングを出て行った。

「とりあえず、僕はお風呂に入ってくるよ」

 康弘はドア越しにそう言った。

「留美もお風呂に入れてあげてくれないかしら?」

 祥子は大きな声で尋ねたが、返事は無かった。

 仕方ないわね。留美はもう四年生だから、そろそろお父さんとのお風呂は卒業する年齢かも知れないわね。まして、留美と康弘さんは血がつながっていないのだから。

 祥子は留美をソファーに座らせたまま、夕食の盛り付けをした。食器をダイニングテーブルに並べてから、留美を食卓に着かせる。

「早く食べたいの? もうっ、留美ったらがっついて。すぐに康弘さんもお風呂を上がって来るでしょうから、それから、ねっ」

 祥子はくすくす笑いながら、三人分の湯のみを食卓に置いた。お湯を沸かして急須に注ぎ、ちょうど抽出が終わったとき、タイミングよく康弘が部屋に戻ってきた。

「あら、康弘さん。ちょうど良かったわ。今、お茶を入れたから、ご飯にしましょうよ」

 祥子は首にタオルを下げながらリビングに入ってきた康弘に声をかけた。

 康弘は「ああ」と言いながらテレビの横の棚から雑誌を取り、憂鬱そうに顔をしかめながら、留美の前の席に腰を下ろした。「さあ、みんな揃ったから頂きましょう」と、祥子は明るい声で言うが、康弘はそれを無視しえ雑誌を開き、黙って食事を始めた。

 祥子は無言で食事を続ける康弘を脇目で見ながら、留美の食事を手伝った。

「ほら、留美っ、あーんってして。今日はキノコのオムライスよ。美味しい? そう。良かったわ! スープはクラムチャウダーよ。もう、そんなに溢して。ほら、落ち着いて飲みなさい」

 祥子はスプーンにご飯をすくっては、留美の口元へ持って言った。

 留美の洋服にはこぼれ落ちた米粒やスープが赤い染みを作っていた。

「いい加減にして、君もちゃんと自分の食事を食べなさい」

 康弘は雑誌から視線を上げ、祥子に言った。

「分かってるけど、でも留美は一人で食べれないから。私がちゃんとしてあげないと」

 祥子はそう応えて、ふふふと笑った。

 祥子の笑みを見て、康弘は不気味そうに顔をしかめた。

 祥子は自分の分の食事を数口食べてから、再び留美の世話を始めた。

「はい、あーん。ほら、今度はサラダよ。留美はサーモンも好きでしょ? 美味しい? そう、美味しいのね。留美が喜んでくれて嬉しいわ」

 祥子はスプーンからはしに持ち帰ると、シーザーサラダのボウルからスモークサーモンをつまみ上げて、留美の口へと運んだ。留美が飲み込むくらいの時間を待ってから、今度はまたオムライスを口元に運ぶ。

「留美ったら、もっと上手に食べれないの。ふふ。ねえ、康弘さん。留美ったら、がっついて、ほら、床にまでこぼれちゃってるわ!」

 祥子は笑いながら康弘に声を掛けた。すると、康弘はたまりかねた様子で机をバンと叩いて立ち上がった。

 眉間に皺を寄せた康弘。怒っているというよりも、苦しんでいるような表情だった。

「いい加減にしないか!」

「えっ、なに? どうしたの? 康弘さん?」

「だから、いい加減にしろと言っているんだ!」

「ごめんなさい。でも、留美を責めないであげて。留美は夏のことがあって、それで少しわがままが多くなってるけど、いつかはきっと直るはずよ。本当はいい子なのよ。だから、もう少し優しく見守ってあげて」

「そうじゃない。僕は君に言ってるんだ!」

 康弘が声をあららげるので、祥子はおびえて身をちぢこまらせた。

「ほら、祥子。よく見るんだ。これは、留美じゃない」

「何を言っているの?」

「よく見ろ。これは留美が大切にしていた人形だろ!」

「留美に乱暴しないであげて。泣いてるじゃない」

「泣いてないだろう。これは人形だ」

「留美は留美よ!」

「床を見なさい。君が作った食事だって、一口も食べていない。全部床に散らばっているだけだろう!」

 祥子は床を見た。床にはぐちゃぐちゃになったオムライスやサーモンが落ちていた。

「思い出すんだ。留美はあの事件で死んだんだ。もういないんだよ。若い男が逮捕されたのを覚えているだろう!」

 康弘は体を震わして必死に叫んだ。

 祥子は怯えながら、康弘とその手の中にいる留美を見上げた。

 祥子の目の前で、康弘に掴み上げられている留美。その姿が歪んで、ケチャップで汚れたピピちゃん人形に姿を変えた。しかし、すぐに祥子は首を横に振った。

 そんなはずが無いわ。

 すると、人形はすぐ、もとの留美に戻った。

「止めて、留美が痛がってるわ。私になら何をしてもいいから、留美に乱暴をしないで!」

 祥子は泣きながら、康弘の腕にしがみ付いた。

 康弘は冷静さを取り戻して、留美を椅子に下ろした。

「すまない、感情的になった。でも、良く見るんだ、それは留美じゃない」

 康弘は力の無い声でそう言い残し、俯き加減にリビングを出て行った。


 祥子は隣の席にいる留美を見た。

 留美は口の周りにケチャップをいっぱい付けながら、ニコニコ楽しそうに笑っていた。

 この子が人形のはずが無いじゃない。

 さっきは確かに一瞬、ピピちゃん人形に見えた。

 だけど、きっとあれは目の錯覚さっかくよ。

 留美はここにいるわ。あの日、無事に帰ってきてくれたのよ。

 だから、私は今、とっても幸せ。

 優しい夫、可愛い娘、温かな家庭。

 祥子は今の幸せを噛み締めて、心から感謝した。

 それでもときどき急に悲しくなるのは、きっとあの康弘のせいだろう。

 康弘さんはたまに変になる。

 留美が人形だなんて言いだして、怒鳴り声を上げる。

 でも、普段の康弘さんは優しいし、怒鳴ったときにだって決して暴力は振るわない。

 突然怒り出すのは怖いけど、一頻ひとしきり怒ったら元の優しい康弘さんに戻ってくれる。

 だから、大丈夫。私とってもは幸せよ。たまに変なことがあったって良いじゃない。


 そう、これは小さな問題よ。

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