一章 甘い幻覚

 快速電車を降りてすぐ、水城みずしろしんは全力で走った。

 込み合ったエスカレータをけて、となりの階段を駆け上がる。

 急がなければ、また酷い目に会ってしまう。

 タイムリミットは三分、間に合ってくれ!

 人の波をかき分け、西口から駅の外へ出た。

 正面にはタワー型のデパートが、その向こう側には商店街が見える。

 アフターファイブ。夕時の繁華街はんかがいには人々が入り乱れていた。ファッションブランドの馬鹿でかい紙袋を持った女子高生。コーヒースタンドのカップを手に歩き回るカップル。

 スマートフォンをいじっている女と肩がぶつかりそうになる。水城は舌打ちをして、彼らの間をすり抜けた。

 飲み屋の多い一帯はさらに混雑していた。「おっ、この店旨そうじゃん!」。前を歩いていた男が道の真ん中で急に立ち止まった。邪魔だ。水城は男を突き飛ばして走った。背後から怒鳴り声が聞こえたが、取り合っているヒマはない。

 さらに足を進める。すると、急に街の装いが変わる。

 谷底を流れる川のように細く頼りない道。人通りは少ない。両脇に黒々したビルがそびえ、圧迫感あっぱくかんで息苦しくなってくる。ビルの壁面ではパブやらヘルスやらのネオンがギラギラと下品に明滅している。

 脇道わきみちに入りビルの裏手に回る。通りの明かりはもう届かない。湿っぽくて薄暗い路地。生臭い風が吹く。

「おい、水城! てめぇ、今日も遅刻か?」

 どすの利いた声が聞こえた。ギョッとして振り向くと、腕組みをした吉崎よしざき店長が憤怒ふんぬ形相ぎょうそうで立っていた。

 吉崎は体格が良くて、目付きが鋭い。眉間みけんしわを寄せた不機嫌ふきげんそうな顔は、仁王におう像と瓜二つだ。

「今日も遅刻ちこくかと聞いているんだよ!」

 吉崎の低い声。その恫喝どうかつするようなひびきに水城はちぢこまった。

 言い訳をしようにも声にならない。

 口の中の水分が一気に乾上ひあがり、舌も回らない。

 吉崎が拳を振り上げた。

 殴られる!

 水城は歯を食いしばった。

 ゴンッと鈍い音がして、頭頂部とうちょうぶするどい痛みが走った。

 目から火花が出そうだった。

 水城がうめき声を上げると、吉崎は嫌味っぽくあきれた顔をした。

「バカヤロウ! 毎日のように遅刻しやがって。せめて言い訳ぐらいしたらどうだ?」

「すみません。これからは気をつけるんで、勘弁かんべんしてください」

「聞ききたよ。これで何度目だと思っていやがる。だいたい、テメエが借金で首も回らねえって泣きついてきたから拾ってやったってのに。恩をあだで返す気か?」

「いいえ、まさか。本当に感謝してます。吉崎店長のおかげで俺はまだ生きていられるんすから。本当に、本当に、感謝しています」

「本気で言ってんのかよ、あん? それなら仕事で返してもらいたいもんだ」

 吉崎はため息を吐いてから、もう一発水城をぶん殴った。「まあいい、早く入って準備をしろよ」。吉崎はそう指示してからエレベータの中に姿を消した。

 吉崎がいなくなって、水城は肩の力を緩めた。

 殴られたところを触ってみたら、大きなこぶが出来ていた。指先がちょんと触れただけでもしびれるように痛い。くそっ! 水城は唇をめた。


 クラブ「レーヴ」が水城の勤め先だ。水城はこの店のボーイしている。

 レーヴはこの辺りではそこそこ名の知れたクラブだ。キャバクラに近い営業形態けいたいの店で、若いホステスが何人も勤めている。高級クラブとまではいかないものの、評判も良く、繁盛はんじょうしている。それなりの優良ゆうりょう店だ。

 一方で、レーヴに勤めているのは、大なり小なりすねに傷をもつ人間ばかりだ。もと家出少女のホステスや、少年院上がりのボーイ。前科持ちのスタッフもいる。

 自称「人情にんじょう」の吉崎店長は、あえて問題のある人間をばかりを雇っているのだ。「どうせ行く当てもねえんだろ? 俺が面倒を見てやるぜ!」と、困っている若者たちを見つける端から連れてくる。

 しかし、吉崎は決して人情家ではない。それどころか刃傷にんじょう沙汰ざたで二度も服役ふくえきしたことがあるほどの悪漢あっかんだ。腕っ節が強くて、しかも限度を知らない。暴力に物を言わせて、そこいらの不良少年や非行少女を囲い、それぞれの弱みに付け込んで安い金で働かせ暴利ぼうりむさぼる。そんな悪魔のような男なのだ。

 山河さんがビルと言う老朽ろうきゅう化の進んだ五階建ての雑居ざっきょビル。その二階にレーヴはある。ビルには他に九つのテナントが入っているが、二階のフロアはレーヴが独占している。

 水城はビルに入り、裏にある非常階段ひじょうかいだんに回り込んだ。吹きさらしの非常階段には落ち葉や紙くずが積もっている。ゴミに足をとられないように気をつけながら、水城は階段を駆け上がった。

 従業員たちは店内行きのエレベータの使用を禁止されている。

「エレベータを使っていいのは、俺と、お客だけだ。お前らは階段を使え」

 吉崎はそう言って、エレベータを使った従業員をぶん殴る。そのせいで鼻が折れて、仕事に出られなくなったホステスもいる。客を見送りに出るときは例外だが、そのままエレベータで戻ることすら許されない。それほど一貫した圧制を吉崎は従業員に強いている。エレベータの件だけではない。レーヴには様々な決まりがある。どれもが従業員を厳しく管理するルールだ。それらを少しでも犯すと、容赦なく殴られる。

 水城もこれまでに何度となく殴られてきた。頭に、顔に、腹に、あざこぶが絶えることはない。つい半月ほど前に奥歯が折れて病院で歯茎はぐきう羽目になったばかりだ。

 階段を上った先にある非常口。そこが従業員用の入り口だ。

 扉を開けると手狭な廊下がある。

 店長室、ホステス控え室、事務室、ロッカールーム、とプレートをかけられた部屋が廊下の左右に連なっている。水城たちが使うのはロッカールームだ。

 部屋に駆け込んだ水城は、ジーパンと麻のシャツを脱ぎ、艶のあるシルクシャツに袖を通し、黒いテーラードジャケットを羽織はおって、合わせのパンツに馬鹿でかいバックルのついたブランド物のベルトを通した。部屋にえ付けられた姿見にキザったらしい黒服が映る。それを見ながら髪形やえりを整え、仕上げに口臭スプレーを三回する。

 客のいるホールに出るには、廊下を突き進み、厨房ちゅうぼうすみにある通用つうようぐちをくぐるしかない。しかし、毎度のことながら、それがなかなか面倒だ。

 ただでさえ狭い廊下は、雑多に積み重ねられたビールかごや段ボール箱に占拠せんきょされている。何重にも重ねられた箱たちは、ちょっと触れれば倒れてしまいそうだ。

 ダンボールのタワーを崩さないように細心さいしんの注意を払い、水城は厨房を目指した。

「あら。慎くんじゃない」

 水城を呼び止めたのは、アネゴこと美馬みま早苗さなえである。

「あっ、アネゴ。お早うございます」

「今日も遅刻したの?」

 早苗は酒やけし過ぎてハスキーというよりだみ声に近くなった声で尋ねた。

「今日もなんて酷いなあ。それじゃあ、いつも遅刻してるみたいじゃないですか!」

「あら、違ったかしら?」

「いいえ、違いませんけど」

 水城が唇を尖らせると、早苗は悪戯いたずらっぽく笑った。

「ところで、アネゴはこんな所で何してるんですか?」

「見たら分かるでしょ。一人ぼっちで、寂しーく、タバコを吸っているのよ」

 早苗はビール籠を裏返して椅子代わりにし、円柱状の灰皿に左肘を乗せている。指先にタバコをはさむ仕草や、気だるそうに煙を吸い込む唇の動き。物憂ものうげな表情が色っぽい。ゆらゆらと立ち上る紫色の煙からメンソールの匂いがつんと香った。

「店長にどやされますよ。もうお客さん来ちゃってるんでしょう?」

「良いのよ、私はお茶きだから。さっきヘルプに入ったんだけど、おばさんは下がれって言われちゃったもの」

 切なそうな顔をしながら早苗はやや自嘲じちょう的に微笑びしょうした。

 水城は言葉に迷って視線を泳がせた。

 早苗はタバコを唇に当て、思い切り吸い込んで、ゆっくりと煙を吐き出した。

「それはそうと、もし次に遅刻しそうなことがあったら私に電話しなさいよ」

「電話ですか?」

「そうしたら、私がお使いを頼んだことにしておいてあげるから」

「すみません、助かります。でも、良いんですか? そんなことしたら、アネゴが怒られちゃうんじゃ?」

「良くないわよ。遅刻しないように気をつけなさい。けど、毎回のように殴られるのは辛いでしょ?」

 不始末ふしまつには罰金プラス鉄拳制裁せいさいがレーヴの常識だ。それが行き過ぎて、毎月何人かが病院送りになる。血の気の多い若いボーイ達ですらすっかり恐れをなしている。泣きながら謝り、それでもなお殴られ続ける同僚がいても、助けてやることもできない。

 そんなときに従業員たちをかばってくれるのがアネゴだ。暴れる吉崎を前にしてもおくすることなく割って入り、吉崎をピシャリとたしなめてくれる。

 アネゴは店がオープンしたころからずっとレーヴで働いているらしい。吉崎との付き合いはゆうに十年を越えるのだそうだ。客をもてなし、ホステスを育て、陰ながらレーヴを支えて来たのがアネゴである。そのせいか、吉崎もアネゴには頭が上がらないようだ。

 若さが武器のようなこの業界において、年齢はかなりネックだ。さすがのアネゴも最近では指名数が下伸したのびしている。それでもアネゴはみんなからしたわれている。強くて、優しくて、凛々しい。酸いも甘いも知った大人の女。そんなアネゴは従業員たちのあこがれの的だ。

 レーヴで働いていれば、誰もが一度はアネゴに助けられる。

 水城も度々たびたび世話になってきた。

 高価なシャンパンのびんを割ってしまったことがある。

 そのときはただ事ではなかった。吉崎は顔を真っ赤にして怒った。そして、瓶を振り回して襲い掛かってきた。「仕事なめてると、殺されるぞ」。地の底から響くような声でそう言い、割れたガラスの先を首筋に突きつけられた。

 あのとき、騒ぎを聞きつけたアネゴが仲裁に来てくれたおかげで水城は命拾いをした。だが、もしもアネゴがいなければ、吉崎に殺されていたかも知れない。

 命の恩人のアネゴに水城は常々つねづね感謝している。だがその一方で、ときどき心配にもなる。このまま吉崎に逆らい続けていれば、いつかアネゴまで酷い折檻を受けるかも知れない。だから、アネゴが吉崎に食ってかかるのを見るたびに内心ヒヤヒヤしているのだ。


 ホールに出ると、ぐっと気温が下がった。

 肌寒はださむいほど冷房が効いている。

 厨房に背を向けて、水城は誰にともなくお辞儀をした。神社にもうでるときのようなおごそかな面持おももちで、深々と頭を下げた。

 こんなお辞儀じぎなんて、本来は形式的なものに過ぎない。だが、そんな動作一つにも、ここでは緊張感が伴う。態度の悪さを店長に見咎みとがめられたら最後、恐ろしい制裁が待っているからだ。

 イチ、ニ、サン。床を見ながら三秒数え、そっと顔を上げる。

 水城は店内をぐるりと見渡した。きらびやかな間接照明によって彩られたホール。調度品ちょうどひんは赤を基調に整えられている。壁際の棚にはヴィンテージのワインやシャンパンが飾られている。厨房の近くに数席だけ設けられたカウンター席では若い男女が静かに酒を飲んでいた。

 部屋の中央には白金色をした巨木のようなオブジェがある。そのせいで向こうのボックス席が見通せない。だが、大きな声が聞こえてきている。客が入っているようだ。オブジェから伸びる枝をくぐり抜け、水城はボックス席へ向かった。

 席を区切るパーテーションの間から後輩のボーイがパタパタと急がしそうに走り出してきた。皿やグラスをトレンチに乗せて、重そうに抱えている。

「あっ、シンさん。おはようございます」

「おはよう。今日はどう?」

「そっすね、そんなに混んでませんけど、お客さんの注文が多くて」

「大変そうだな」

「まだ夜は長いのに、もうクタクタっす。シンさんも覚悟した方がいいっすよ」

 後輩ボーイは苦笑いをしながら、厨房へ走って行った。

 三つのボックスに客が入っていた。

 手前の席ではどこかの若社長が両手に花で酒を飲んでいた。

 テーブルが酷く散らかっている。かなり派手に飲んでいるようだ。

 若社長の両脇にいるのはアヤナとマリーという若いホステスたちだ。体を使った接客が多いから、お色気担当とか枕ちゃんとか揶揄やゆされている。二人とも二十歳を自称しているが、まだ十代だという噂もある。

 マリーの太股を撫でながら、若社長は鼻の下を伸ばしている。そこへアヤナがおねだりの視線を送った。

「ねえねえ、私、シャンパンが飲みたいなぁ。ローランペリエ」

「アヤナ、シャンパン飲むの? それなら、フォアグラのテリーヌが合うらしいよぉ」

「そうかい。じゃあ、君、そのシャンパンとフォアグラも追加して」

 二人の策略にまんまと乗せられて、若社長は高額なメニューをオーダーした。

 アヤナが彼の手を引き寄せて自分の胸に押し当てた。ご褒美というわけだ。若社長は鼻の下をどんどん伸ばて、さらに何品か追加注文した。

 次の席には深海魚のような顔をした中年男がいた。ホステスを何人も集めて盛大せいだいな宴会を開いている。医者か、弁護士か、学のありそうな雰囲気のする男だった。彼が喋るたびに、ホステスたちが「そうなんですかぁ?」、「すごぉい!」などと黄色い声を上げる。

「やあやあ、キミたち。遠慮せずどんどん飲みなさい」

 男は気を良くして次々にボトルを入れる。テーブルに乗り切らない酒や料理をトレンチに乗せたボーイが、席の前に列を作っている。それでも男は注文を止めない。

 気前のいいピン客のいる席を通り過ぎ、一番奥の席をのぞいた。盛り上がっていた前の二席とは対照的に、しんみりと沈んだ空気がその席には漂っていた。

 客は壮年そうねんの男が一人と若いのが三人だった。その四人をミキというホステスが一人で担当している。

 どうやら会計は壮年の男が持つことになっているらしい。男は額に脂汗を浮かべながら、ときおり財布を気にしている。きっと中間管理職くらいのやつに違いない。ごてごてのブランドのスーツを着込んでいるが、造りが古くてアウトレット感が丸出しだ。たいして金も無いのに、部下の前で見栄みえを張っているのだろう

 まったく、けちな飲み方しやがって。水城は心の中で毒づいた。

 テーブルにあるのは安いグラス酒がほとんどだ。ボトル物はワインが一本しかない。そのうえ、減るのをしむようにチビチビ飲んでいる。

 こんな飲み方をしていて楽しいのだろうか?

 ミキは酒を作るのに追われて、客をあしらいきれていない。若い三人は緊張しているのかなかなかしゃべらない。五人の席は静まり返っていた。全員が困ったような苦い笑みを浮かべている。まるで通夜つやの席のようだった。

 ミキが忙しそうにしていても、手を貸すボーイはいない。こんなシケた客の相手などしたくないのだろう。水城だって、こんな席のサービスには入りたくなかった。だが、困った表情のミキを見ていると、どうしても放っておけなかった。

 それに、こういう客を放っておくと、後で吉崎がうるさいに決まっている。水城はため息混じりに厨房へ行き、酒や食器の準備をした。

 この店の接客ルールは「貧乏人ほどよくしぼれ」だ。

 遊びなれた太客は放っておいてもいい。ホステスを指名し、高いボトルを開け、金を落としていく。だが、ケチな客は指名料や酒代を惜しんでなかなかを注文をしない。値切りをしてくることもある。それでは商売上がったりだ。

かねばなれの悪い客にはしこたま酒を飲ませろ」

 閉店後、吉崎はいつもそう怒鳴どなっている。

「安酒でかまわねえから、どんどん飲ませろ。酔わせて財布のひもを緩るめるんだ。そうすりゃ客は気持ちよく金を吐いていく。いいか、貧乏人を見つけたら徹底的に搾り取れ!」

 どんな客からも金を巻き上げるために、この店にはやたらとメニューが多い。

ビールにワインにソフトドリンク。どれも十種類以上ある。

 つまみの種類も豊富だ。他所よそのクラブにあるのはせいぜいホットスナック程度だろう。だがレーヴは違う。和洋中を問わず本格的な料理を出している。

 若くて綺麗なホステスが酒を勧めると、客はつい酒のペースを上げる。すると小腹が減り、料理をつまむ。塩気でまたアルコールが欲しくなる。

 そのスパイラルに陥らせれば、あとはほとんど自動運転だ。

 財布が空になるまで飲み、青い顔をして帰っていく。

 一見すると客足が遠退きそうな酷い店だ。けれども、意外にも客は減らない。むしろ他店よりも客の定着率が良い。それこそが吉崎の狙いでもある。

 酔いがめた客は空っぽの財布を振りながら心底しんそこ後悔する。だが三日も経てばそんな気持ちは薄れてしまう。そして、思い出すのがレーヴでの歓待かんたいだ。

 手厚いもてなし。旨い酒に料理。そして、綺麗に着飾った女たちとのコミュニケーション。身の丈以上の待遇である。

 その快感に病み付きになってしまった客は、給料日になるとまたレーヴにやってくる。何度身ぐるみを剥がされても、中毒性から抜け出せなくなるらしい。

 用意した酒をトレンチに乗せ、水城は厨房を出た。

 レーヴには様々な独自のシステムがある。酒の提供方法もその一つだ。

 ボトルの酒は客の目の前で栓をあけるし、カクテルなどの酒はサービス担当が客の目の前で作る。だから、ホステスはもちろんのこと、ボーイたちを含むホールスタッフ全員が一通りの酒の作り方の手ほどきを受けている。

「失礼いたします。客席係の水城慎です。この席のお手伝いをさせて頂いてもよろしいでしょうか?」

「ああ頼む。ミキちゃんは私のを作るので忙しいから、若い子の用意をしてやってくれ」

「かしこまりました。では皆様のお酒は僭越せんえつながら私が準備させて頂きます」

 水城はブランドスーツの男に一礼し、若い三人の前に移動した。

 コト、コト、コト。テーブルにグラスを並べた。青年たちは目の前に置かれた空のグラスを見て不思議そうに首を傾げた。

「失礼いたします。お飲み物は何になさいますか?」

 三人の注文を聞き、手早く酒を作った。レシピが思い出せないカクテルもあった。だが、何食わぬ顔をしてそれぞれのグラスに注いだ。

 水城がサービスに入ったことで、ミキは安心したようだ。ブランドスーツとの話も盛り上がり始めた。さっきまで通夜のようだった席の雰囲気が、少しずつ明るくなっていく。

 全員分の酒が揃うと、彼らは乾杯をした。

 半分ほどグラスを空けたところで、ブランドスーツが満足そうに頬を緩めた。

「おおっ、良い飲みっぷりだな」

 一人の若手が酒を一気に飲み干した。

 ブランドスーツは愉快そうに笑った。

「ほれ、ほれ、どうだ。もう一杯飲みたいか?」

 若い男が嬉しそうに肯いた。ブランドスーツは目で水城に合図を送る。

 水城は若い男の前に行き、次の注文を聞いた。

 彼はハイボールを注文した。

 ジョッキをテーブルに置き、砕いた氷を入れると、ジョッキの壁面を滑る氷がジャリジャリと豪快な音を立て、そこにウイスキーを注ぎ、さらに炭酸水を加えると、泡が弾け、水面が白く曇る。

 炭酸の泡が落ち着くのを待ってから、カットレモンを軽く絞る。絞ったレモンは氷の上にそっと置く。仕上げにミントを一枚添える。これがレーヴ流ハイボールだ。

 若手たちはじっと水城の手元を見ていた。手際のよさに見蕩れているようだ。

 水城は出来上がったハイボールを男に差し出した。

 あっ、やばい。そう思った時にはもう遅かった。

 手を離れたジョッキが、男の手をすり抜けた。

 水城はジョッキを捉まえようとした。しかし、その手は空を切った。

 グラスはそのままテーブルに落下した。

 ガシャンと高い音が響く。

 ジョッキは砕けて四散した。

 こぼれたハイボールがテーブルから滴り落ち、男のスーツにかかった。

「あっ、失礼いたしました」

 水城は頭を下げた。タオルを取り、男のスーツを拭った。テーブルに散らばった破片をかき集めた。ガラスの先が指に刺さった。鋭い痛みが脳天に突き抜けた。だが、作業の手は止められない。

「おい、キミ、困るじゃないか」

 ブランドスーツが怒鳴った。

「はい、すみません。大変申し訳有りませんでした」

 水城は何度も謝りながら、テーブルを片付けた。

 スーツを濡らされた本人は驚いて目を丸くしている。そう怒ってはいないようだ。だが、安心は出来ない。向かいの席ではブランドスーツが顔を真っ赤にしている。

「キミ、いったいどういうつもりだね?」

「すみません、手が滑ってしまいました。申し訳有りません」

「手が滑ったじゃ無いだろう! 酒をこぼしたうえに、服を濡らして!」

 ブランドスーツが怒鳴り散らす。水城はただ平謝ひらあやまりするしかなかった。

 騒ぎを聞きつけた吉崎が、血相けっそうを変えてやってきた。

「すみませんでした。うちの若い者が、大変なご迷惑をおけしてしまいました」

「本当だよ。おたくは、ボーイにどういう教育をしているの?」

「まことに申し訳有りませんでした」

 吉崎は一頻ひとしきり謝って、酒やスナック類を何品かサービスした。

 ブランドスーツはようやく少し落ち着いて、「まあ、分かればいいんだ」と言った。

「だが、そのボーイ君には粗相そそうの責任を取ってもらわないとね!」

「はい、こいつには何なりとお申し付けください」

 吉崎は水城の腕をひねり上げた。吉崎の握力あくりょくで腕を掴まれたら抵抗すら出来ない。水城はブランドスーツの前に突き出された。

 ブランドスーツは意地いじの悪い笑みを浮かべた。近くにあった空のグラスを取り、酒を注いだ。カクテルを作る時に使うウォッカだった。アルコール度数は六十を超えている。

「さあ、不始末の罰だ。キミも男なら、潔くこれを飲みなさい」

「いや、でも、これはさすがに」

「なんだね、私の酒が飲めないと言うのかな?」

 ブランドスーツが眉間にしわを寄せた。それを見た吉崎が水城を小突いた。

「ほら、水城、お客様からのおごりだ。ありがたく頂戴しろ。失礼の無いように、ちゃんと残さずに飲むんだぞ」

「ささ、飲んで飲んで。ほれ、ほれ」

 はやし立てるブランドスーツ。吉崎が鬼のような形相で水城をにらんでいる。とても断れる雰囲気ではない。二人に追い詰められて、水城はしぶしぶグラスを手に取った。

「水城慎、飲ませて頂きます」

「ああ、飲め。一気でだぞ!」

 ブランドスーツが音頭を取ると、若手たちが一気コールを始めた。

 こんな度数の高い酒を一気だと? 俺を殺す気か?

 横暴おうぼうな男たちに憎しみがこみ上げてくる。しかし、そんな心中はおくびにも出すわけにはいかない。水城は満面の笑みを作った。

「シン、いきます」

 声高に宣言して、グラスに口をつける。そして、勢い良くグラスを傾けた。喉が燃えるように熱い。熱湯を飲んでいるようだった。アルコールが静かに喉を焼いている。

 グラスになみなみ入っていたウォッカが水城の体内に消えた。

「おお、良くやった。さすがは男だな、水城くん」

 ブランドスーツはご満悦だった。吉崎も満足そうだ。愉快そうに笑う男たち。ミキだけが心配そうに水城を見ている。

「では、お客様。コイツには説教をするんで、ちょっと席を外させて頂けますか? 変わりにもう一人、綺麗どころをつけますので」

「ああ、若い子を頼むよ」

 吉崎はホステスをもう一人呼んで、水城を下がらせた。

 水城は吉崎に腕を引かれて、レーヴの裏手の路地に出た。

「なあ、水城。さすがにあの量の原液はやばいよな?」

 吉崎は陰険いんけんな笑みを浮かべた。口元だけの笑みだ。目は残忍ざんにんに輝いている。

 吉崎が詰め寄ってきた。水城は足がすくんで動けない。ジリジリと距離が縮まる。

「アル中でくたばりたくはねえだろ? なっ? だから、吐かせてやるよ!」

 ブンッ。風を切る音がした。バットを振ったような音だ。

 うぐっ。腹に重い衝撃が走る。

 丸太のように太い吉崎の腕が、水城の腹にめり込んでいた。

 水城は嘔吐えずいて、さっき飲んだウォッカを路上に吐き出した。

「ほら、もっとしっかり吐いとけ!」

 ドスッ、ドスッ、ドスッ。

 みぞおちの辺りを繰り返し殴られた。地面に倒れると、次はりが跳んできた。

「すみません。ごめんなさい。許してください」

 水城は弱弱しい声で命乞いをした。しかし、折檻せっかんは続いた。水城はぐったりして地面に伸びた。白目をむいた水城に、吉崎は舌打ちをした。

「良いか、殴られたくなかったら、絶対にミスをするんじゃねえ。気を抜いているから、あんなへまをするんだ。これに懲りたら、店では常に気を張っておきな」

 吉崎はつま先で水城を蹴り上げて、店内へと戻って行った。


 路地裏。水城はボロ雑巾のようになりながら、力なく倒れていた。

 くそっ、体中が痛い。口の中が鉄臭い。酒と胃液に焼かれた喉がイガイガと不快に疼いている。くそっ、くそっ。年甲斐としがいも無く、涙がこぼれ落ちる。

 濁った涙が瞳を覆い、視界が歪んだ。

 街のネオンサインが滲んで見えた。万華鏡まんげきょうを覗いているような光景だった。明滅する赤や青の光が、サイケデリックな模様もようを描いている。

 夜の街。めのようなこの界隈かいわい。この街の色は鮮やか過ぎる。水城は毒々しい光から目を背けるように、固くまぶたを閉じた。穏やかな暗闇が世界を包んだ。

 なんで、俺がこんな目に合うんだ?

 いったい俺が何をしたって言うんだ?

 水城は目を瞑ったまま自問した。

 走馬灯そうまとうのように、過去の記憶が脳裏をよぎった。退学。借金。美人局。思い出すのは嫌なことばかりだった。そして、そのどれもに女の姿がちらついていた。

 女に関してはろくな目にあったことが無い。女難じょなんの相とでも言えば良いのだろうか、とにかく女運が無いのだ。女性と関わるたびに、災難に見舞われる。

 女がらみで身を滅ぼす。さもクラブのボーイらしい人生ではある。

 水城は苦笑した。わき腹がずきりと痛んだ。


 女にまつわる不幸話を挙げればきりが無い。何度となく酷い目に遭ってきた。騙されたり、殴られたり、捨てられたり。そんな繰り返しだったから、あまり細かなことは覚えていない。だが、一つだけ、どうしても忘れられない出来事がある。

 五、六年前、あの酷く蒸し暑い夏。水城は人生最悪の経験をした。今にして思えば、あの一件が、全てのけちの付き始めだった。

 その年の春、水城は東京の大学に入学した。それほど偏差値の高い大学ではなかったが、一応は第一志望の大学だった。志望校に合格し、新しい生活が始まり、少なからず浮き足立っていた。

「水城、今度合コンするんだけどさ、お前も参加する?」

「いつだよ? 今度の休み? ああ、ゴールデンウィークか」

 水城は友達に誘われて合同コンパに参加した。

 会場は小さなバーだった。まだ未成年だった水城は、バーも合コンも初めてだった。薄暗い大人の雰囲気に心躍らせながら、カウンター席の脇を通り抜け、奥のソファー席に向かった。

 テーブルを挟んで男女が別れて席に着いた。男子の参加者は水城のいる大学の連中だった。女子たちは、近くのファッションビルで働くショップ店員とのことだった。

 各々が酒を注文して、幹事をしている友人が乾杯の音頭を取った。それから、自己紹介が始まった。水城たち未成年は年齢を誤魔化ごまかして挨拶をした。

 このときから既に、彼女は水城のことばかり見ていた。

「ねえ、水城君だっけ?」

「あっ、はい。水城慎です」

「じゃあ、シン君でいいかな? シン君ってかっこいいよね。大学でモテるでしょ?」

「いえ、ぜんぜんです。かっこいいなんて初めて言われました。ありがとうございます」

「ウソでしょ。僕はモテモテですって顔に書いてあるもん」

「そんなこと無いですよ。それにそんなナルシストみたいなヤツはモテないですよ」

「あはは、たしかにそうかもね。じゃあシン君はモテないナルシストなんだ」

「違いますって、ナルシストでも無いですよ!」

 彼女は沢村さわむら祥子しょうこという名前だった。会話をするうちに、水城は彼女に心を奪われた。黒くて長い髪の毛も、パッチリとした大きな目も、まさに水城のタイプだった。服装のセンスも良く、スタイルもまあまあ。貴婦人がするような真っ白の手袋をしているのだけは違和感があったが、見慣れてくると、そこがまたセクシーに思えた。

「ねえ、アドレス教えてよ!」

「えっ、あっ、はい」

 祥子も水城に気があるようだった。二人はメールアドレスを交換し、合コンがお開きになるまで二人で話した。

「いいよな、お前だけだぜ、彼女ができたのは」

「ただメールアドレスを交換しただけだよ」

「何言ってんだよ! お前、祥子ちゃんといい感じになってたじゃんかよ!」

 水城は友達に冷やかされながら、帰り道を歩いていた。酔って火照った頬に夜風が当たるとひんやりして心地よかった。

「じゃあな、また明日!」

 友達と別れてから、アパートへ向けて歩いていると、祥子からメールが来た。「今日は楽しかった」とか「今度二人で遊びに行こう」とか、そういう内容だった。

 翌日からも、祥子は頻繁ひんぱんにメールをしてきた。

 二人の距離はすぐに縮まっていき、ほどなくして交際を始めた。

 ランチに行ったり、映画を見たり、週末が来るたびに二人で遊んだ。

 いつからか、デート後に祥子が水城のアパートに来るのが習慣になった。祥子は二人部屋の社員寮に住んでいるらしく、二人きりになれる場所が水城の部屋しかなかったのだ。

 二人の関係は順調に続き、その間に季節は夏へと移ろった。

 東京の夏はヒートアイランド現象でやたらと熱い。四十度近い猛暑が何日も続いていた。路上にゆらゆらと陽炎が立ち、窓越しに見ているだけで汗が噴き出してくるようだった。

 安アパートの冷房は利きが悪くて、部屋の中にいても汗ばむほどだった。濡れたシーツがペトペトと体に張り付いて心地悪いので、水城は体を起こしてベッドに座った。

「暑い。クーラー最強にしてるのに」

「そうかしら?」

 隣で寝ていた祥子も起き上がった。

 クーラーの効きは悪いし、風通しも良くない。夏を過ごすには向いていない部屋に、水城はうんざりしていた。ベッドも、祥子と二人で寝るには狭すぎる。

「あーあ、どっか、もっといい部屋に引っ越したいな!」

「引っ越せばいいじゃない」

「でも、家賃とかかかるし」

「ねえ、それじゃあさ、私たち二人で住むのはどうかな?」

「えっ、なに。どういうこと?」

「だからね、このアパートを出て、二人で住める家を借りない?」

 祥子は水城のベッドに腰掛けながら、隣に座っている水城の顔を覗き込んだ。

 えっ、つまり、同棲しようって事かよ?

 水城はしばらく目をぱちくりさせていた。祥子はじれったそうに水城の太ももを摩った。

「ここはやっぱり学生用のアパートでしょ。二人で住むには窮屈きゅうくつだし。私の寮は女子寮だからシン君は住めないし。もう少し広い部屋を借りて一緒に住もうよ!」

「突然そんな事言われても。俺だってずっと祥子と一緒にいたいけど。準備をしないと」

「なら準備をしましょうよ。家賃はここと同じだけ出してくれたら、あとは私が払うから」

「でも、親父になんて言おう?」

 未成年の水城が部屋を解約するには、父の同意が必要だ。

「部屋の住み心地が悪いって言えば?」

「うーん。まあ、いいか。じゃあ、そうしよう」

 祥子に押し切られる形で、水城は同棲を決めた。

 まずは二人で住むための部屋を探した。そして、都心から少し離れたところに手ごろな賃貸マンションを見つけた。

 現在の部屋の解約と、新しい契約には親の同意が必要だった。そこで契約書類を実家に送り、父に電話をした。

「もしもし。ああ、慎か。どうした?」

 しばらくぶりに聞く父の声は、やはり野太のぶとくて、どこかかた苦しかった。

 水城は緊張しながら転居の予定について父に説明した。

「高そうなマンションだな。家賃はいくらだ?」

「都心からは離れるからそんなに高くないよ」

「仕送りだけで足りるのか?」

「バイトを始めたから、それもあわせれば余裕だよ!」

「そうか。私はてっきり、仕送りを増やせとでも言うのかと思ったよ」

「そう言ったら、増やしてくれるのか?」

「馬鹿を言うな! 足りない分は自分で稼ぎなさい」

「はいはい、分かってるって。だから、バイトを始めたんだろ!」

「まあ、それなら同意書に判を押してやろう。明日、封筒に入れて返送するから、届くのは明後日になるな」

 水城は祥子のことはふせたまま適当に言い訳をした。父は急な転居をいぶかしがっていたが、バイトを始めたと言ったらすぐに認めてくれた。

 バイトをしているというのは真っ赤な嘘だ。家賃の大半を祥子に負担してもらう予定だった。それがばれたら厳格げんかくな父は転居を認めはしなかっただろうが、ばれなければ問題ない。契約書さえ送ってもらえばこっちのものだ。

 これで新しい部屋に移れる!

 祥子と一緒に暮らせる!

 水城は勢い込んで祥子に連絡した。祥子は電話口で歓声を上げた。

 それからさっそく部屋を片付け、一人暮らしの部屋を引き払う手続きをした。翌週には自分の家具を新たな部屋へ移動させた。水城が移ると、祥子もすぐに引っ越してきた。

 祥子との出会いからわずか三ヶ月で、大学が夏休みに入るのとほぼ同時に、水城は同棲し始めた。


 安アパートとは違って、マンションは快適だった。部屋は広くて綺麗だし、冷房の利きもいい。新しく買い換えた広いベッドはふかふかで、雲の上で寝ているようだった。

「引っ越してよかったね!」

 祥子はベッドに横になる水城の頭をでながらそう言った。

「そうだな、二人で暮らすのがこんなにいいなんて思わなかった」

「どういうこと? 私とは住みたくなかったの?」

「そうじゃなくてさ、予想以上に毎日が幸せだってこと」

「そうね、私もよ!」

 水城は祥子におぼれるように毎日を過ごしていた。祥子はいつも優しくて、家事のほとんどをしてくれた。料理も上手だった。

 八畳の部屋が二つと、ダイニングキッチンのあるマンション。部屋の一つを寝室に使い、もう一方にテレビを置いて、昼間はそちらで過ごしていた。

 仕事のある祥子は、日中ほとんど家にいないので、水城は一人で家でゴロゴロしていることが多かった。だから、水城の活動時間は夕方を過ぎてからだ。たいていは仕事から帰った祥子と一緒に食事をしたり、デートに出かけたりした。

「ねえ、シン君。ちょっと気になってることがあるんだけど」

「んっ? 何のこと?」

 八月の中ごろ、夕食の席で、祥子が呟いた。

 口の中のハンバーグを麦茶で胃に流し込みながら、水城は首を傾げた。

「最近ちゃんと友達と遊んでる?」

「いや、夏休みに入ってからは祥子といるのがほとんどだけど」

「じゃあ、もう二週間も、他の子と遊んでないの?」

「そうなるな」

「駄目よ、そんなことしてたら大学で浮いちゃうよ!」

「別にいいよ。俺は祥子がいれば満足だし」

「友達付き合いも大切よ。これから四年も大学で過ごすんだもの。明日は私も帰りが遅くなるから、誰か友達と一緒に出かけてきなよ!」

 三つ年上の祥子はしっかりしていて、世話せわ焼き女房みたいだった。水城の分まで家事をしてくれるだけではない。生活習慣の管理や友達付き合いの心配までしてくれた。二人はいつの間にか、カップルというより、姉と弟か、下手をすれば母子のような関係になっていた。


 スパイ映画を気取って注文したマティーニは、アルコールが強くて、ツンとした後味が喉に刺さった。それをチビチビ飲んではときおり咽ながら、水城は友達数人と話していた。場所は洒落た雰囲気のカジュアルバーだった。薄暗い店内にはタバコとアルコールの匂いが充満していた。

「で、彼女とはどうよ?」

 友達の一人が水城を見た。合コンのときに幹事をしてくれていたやつだ。彼は気だるそうにテーブルに肘を突き、指先でカクテルをかき回していた。

「どうって何だよ?」

「上手く行ってんの?」

「ああ、今は二人で住んでるし、ほとんど毎日一緒に生活してるぜ!」

「ほとんどって何だ?」

「仕事が忙しいらしくて、たまに家に帰ってこない日もあるんだけどさ、そんな日は晩飯とか準備しておいてくれるんだぜ!」

「同棲してるのに帰ってこないってどういうことだよ?」

「浮気でもしてるんじゃねーの?」

 対面でビールを飲んでいた別の友達が口を挟んできた。

「そんなこと無いだろ」

「いや、分からないぞ。こうしてる間にも別の男と会ってたりして!」

 友達の言葉に、急に不安が押し寄せてきた。

「そうなのかな? 今日もさ、祥子に言われて家を留守にしてるんだよ」

「言われて?」

「たまには友達と遊んで来たほうがいいって言われてさ」

「ほら、それ完全に浮気フラグだろ!」

「止せよ、水城たちがせっかく仲良く暮らしてるのに、そうやって水を差してやるなよ」

 カクテルを飲んでいる方の友達が、ビールの方の頭を小突いた。

「ああ、からかい過ぎたかな。悪い悪い。冗談だから気にするなよ」

 ビールの方は笑いながら謝った。

 しかし、水城は気が気ではなくなっていた。

 一度疑いだすと、どんどん考えが悪いほうに進んでいった。そして、祥子が自分を好きでいてくれる理由が分からなくなってしまった。

 顔はいいほうだと自負しているが、俳優やアイドルほどではない。仕送りに頼りきりだから、金も無い。性格はわりと内弁慶うちべんけいで、特別優しいわけでもない。

 祥子は俺の何を好きになったんだ?

 考えても答えは出なかった。冷たい汗が額を伝った。

「悪い、俺もう帰るわ」

 水城はマティーニを一息で飲み干した。枯れ木のような匂いが鼻を突き抜ける。気化したアルコールが肺に上がってきて咽そうになるが、どうにかこらえた。

 勘定を払って店を出た水城は、すっかり酔っていた。足元がふらふら覚束なかった。それでも、懸命に家へと走った。


 家の中は外よりもさらに蒸し暑かった。

「ただいま、祥子」

 念のため部屋に向かって叫んでみたが、返事は無かった。ざっと部屋の中を探してみたが、祥子の姿は見当たらなかった。そこで彼女の携帯に電話をかけた。

「もしもし、どうしたのシン君?」

 数回のコール音が鳴った後、祥子が電話口に出た。

 耳をそばだてて、受話器の向こうの音を聞いた。ヒップホップのような音楽に混じって、ときおりガラスの触れ合う音が聞こえた。

「祥子、今どこにいるの?」

「仕事中。残業が入ったって言ったでしょ!」

「もう十時だぜ、服屋は閉まってる時間だろ?」

「それは、在庫の整理とかをしてるのよ」

「なあ、今日だけでいいから残業を抜けて帰ってきてくれよ」

「どうかしたの?」

 祥子の声に困惑の色が滲んだ。

「話したいことがあるんだ」

「分かった。今から帰るね」

 それから三十分ほどで、祥子は帰ってきた。

「ただいま。急に帰ってきて欲しいって、何かあったの?」

 そう言う祥子の口から、微かに酒の匂いがした。普段はしない香水の匂いも混じっている。水城の疑いは確信へと変わっていった。

「お前さ、さっきまで誰と会ってたんだよ?」

「えっ?」

「さっき電話したときも、向こうからガラスの当る音がしてたし。誰か他の男と飲んでたんだろ?」

「なんでそんなこと言うの?」

「二人で暮らしてるのに、家に帰らない日があるなんておかしいだろ」

「搬入が重なると、夜通し作業しなくちゃいけないこともあるのよ。服ってただ並べればいいわけじゃないでしょ。棚を作ったり、マネキンに着せたり。それで、忙しくて帰れないことがあったのよ!」

「じゃあ、何で酒の匂いがするんだよ!」

「今日は帰れないとは言ってないでしょ。仕事後に飲み会があったのよ。夏の恒例こうれい行事なの。何なら、私の同僚に電話して聞いてみる?」

「本当にそうなのか?」

「そうよ。でも、良く分かったわ。シン君は私が浮気うわきしてるって疑ってたのね!」

「ごめん、祥子の行動が怪しいんじゃないかって友達に言われて」

「そんな理由で、私のことを疑ったの?」

 祥子は目に涙を浮かべた。

「ごめん。俺が悪かった」

「酷いよ。やっと一緒に暮らし始めたばっかりなのに、浮気なんてするはず無いじゃない」

 祥子は床にしゃがみ込んで、手で顔をおおった。水城は慌てて何度も謝ったが、彼女はそのままずっと俯き続けた。

 長い沈黙ちんもくが続いた。水城はどうしていいのかも分からず、あたふたするばかりだった。すると、祥子が突然立ち上がった。そして、無言のまま風呂場へと走っていった。

 シャワーを浴び、服を着替え、祥子はベッドに潜り込んだ。その間は一言も口を開かなかった。しばらくすると、祥子は寝息を立て始めた。水城は仕方なく、シャワーを浴び、眠る支度をした。


 目覚めたとき、部屋に祥子の姿は無かった。

 あれっ?

「祥子、おーい」

 動悸どうきがする。脈拍が速くなってくる。

「祥子、いるんだろ、返事をしてくれよ!」

 大声で呼びかけながら、水城は祥子の姿を探した。クローゼットの中も、風呂場も、浴槽の中も、トイレも、便器の中までも探した。しかし、祥子はどこにもいなかった。

 祥子のやつ、どこに行ったんだ?

 まさか、昨日ので怒って出て行ったのか?

 水城は祥子の携帯電話にダイアルしたが、圏外のアナウンスが聞こえるだけだった。そこで、おびを書きしたためたメールを送ったが返信は無かった。

 翌日になっても祥子は帰って来なかった。電話は何度かけても圏外のままで、メールを送っても返信が来ることは無かった。

 一週間ほどすると、「おかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになっておかけ直しください」というメッセージが祥子の番号から返ってくるようになった。メールも宛先不明で戻ってきた。どうやら携帯を解約されたようだ。

 どうしよう。あのまま別れるなんて寂しすぎる。

 水城はなんとか祥子と連絡を取る方法を考えた。だが、思いつかなかった。考えてみれば、彼女について知っているのは名前と電話番号くらいだった。

 俺は祥子のことを何も知らなかった。水城はそのころようやくそれに気付いた。職場も、住所も、出身地も、いくら思い返してもちゃんと聞いた覚えが無い。どこかのファッションビルで店員をしているらしいが、それがどのビルなのかも知らない。携帯を解約されてしまったら、祥子との繋がりは何も無い。

 水城は合コン幹事の友達を呼び出した。

「マジで? 彼女が出て言っちゃったのかよ?」

「ああ、浮気してるんじゃないかって問い詰めたら、泣かれちゃってさ。その翌朝にはいなくなってた」

「あのときの話を真に受けて話したのか?」

「つい気になって……」

「あんなのただの冗談なのに」

「分かってるけどさ」

「要するに、お前はただ安心したかったんだろ」

「そうかも知れない」

「彼女が傷つくとか考えなかったわけ?」

「今は反省してる」

「それで、俺を呼び出したのは何の用なんだ?」

「合コンの時の女の子たちに連絡して、祥子の居場所を聞き出して欲しいんだ」

「はあ? 止めとけよ。そんなストーカーみたいなこと。女を泣かせたのを反省して、次の女は大切にしてやれよ」

「うるさいな。女ったらしのお前に説教されたくないよ。それより、合コン幹事として責任を取れよな。祥子の居場所を聞いてくれるだけで良いんだからさ」

「でもなあ」

 彼は気が進まなそうに、眉を曲げた。

「会って、ちゃんと謝りたいんだ。それくらいいだろ?」

「そうだな。謝るのは大事かもな。分かった、祥子ちゃんの居場所を探してみるよ」

「ありがとう、頼んだよ」

 祥子と会えたら、ちゃんと謝ろう。そして、もしも祥子が許してくれたら、もう一度やり直そう。今度こそ祥子を大切にしよう。水城はそう決めていた。


「なあ、水城、ちょっと話したいことがあるんだけど」

 翌日、合コンの幹事をしていた友人に呼び出された。水城はてっきり祥子が見つかったものだと思っていた。しかし、友人は申し訳なさそうに頭を下げた。

「ごめん。俺もみんなに聞いてみたんだけど、誰も彼女の素性を知らないみたいなんだ」

「素性を知らないって、だって、みんな同じビルで働いてたんだろ?」

「それが、沢村さんだけは、違うところで働いてたんだって。ほら、あのビル近くって飲み屋が多いだろ。その辺りのガールズバーに勤めてたんだって」

「つまり、俺はだまされていたのか?」

「別に騙そうと思ってたわけじゃないんだろうけどな。言い出せなかったんだろ」

「どうして?」

「そりゃあ、水商売だからな。気後きおくれしてたんじゃないのか?」

「そんな、言ってくれれば良かったのに」

「まあ、言い出しづらい気持ちも分かってやれよ」

 水城は祥子の気持ちを想像してみた。彼氏に言えないことがある後ろめたさ。それを感じている最中に、浮気まで疑われた祥子は、さぞショックを受けたに違いない。浮気の汚名を晴らそうにも、本当のことは言えない。きっと苦しかったことだろう。

「なおさらちゃんと祥子に謝らないと。そのバーに行けば会えるのか?」

 水城は彼女の職業が何であれ、それを責めようという気は無かった。ガールズバーで働いていたとしても、祥子は祥子だ。彼女を大切に思う気持ちは変わらない。それだけに、彼女を疑ってしまったことへの罪悪感が募った。

「いや、俺も話を聞いてすぐその店に問い合わせたんだけどさ……」

 彼は言い出し辛そうに言葉を濁した。

「問い合わせて、どうなったんだよ?」

「一週間くらい前から出勤していないらしい。何の連絡も無いまま来なくなったってさ」

「じゃあ、まさか」

「ごめん、祥子ちゃんは見つからなかった」

 水城は愕然がくぜんとした。もう祥子とは会えないのか?

 せめて、もう一度だけでも会いたかった。会ってちゃんと謝りたかった。

 だが、もうそれもできない。

「本当にごめん」

「いや、しょうがないよ」

「お詫びに今日はおごるから、これから飲みに行かないか?」

「ううん、今日は止めとくよ」

「いいじゃんか、付き合えよ!」

「そんな気分じゃないんだ」

「そりゃあ、分かるけどさ。辛いときこそ、友達と飲んだ方がいいって。一人で家に帰っても暗くなるだけだからさ」

「分かったよ。行けばいいんだろ!」

 しつこく誘われたので断りきれず、水城はしぶしぶそう答えた。

「このまま行けるか? 今夜はおごってやるからさ」

「いいよ、悪いから。銀行に言って金を下ろしてくるよ」

「そうか? 別に遠慮えんりょしなくていいぞ」

 水城は家に帰り、通帳を探した。

「この引き出しに仕舞ってあったはずなんだけどな」

 独り言を言いながら、クロゼットの中やチェストの引き出し、鞄の中、服のポケットを引っかき回した。ジーパンのポケットの中から銀行のキャッシュディスペンサーカードが出てきた。しかし、どこを探しても通帳が見つからない。通帳と一緒に置いてあったはずの印鑑も見当たらなかった。

「まあいいか。銀行のカードは見つけたし、これで下ろせるからな」

 水城は通帳を探すのを諦めて部屋を出た。

 近くのコンビニに立ち寄って、ATMにカードを入れた。

 とりあえず、二万だけ引き出そう。

 暗証番号を押して二万円と入力した。すると、画面にはお辞儀をする女性の絵が表示された。女性の下には「申し訳ありませんが、お取引出来ません」と表示されていた。

 同じ操作を何回か繰り返してもお金は引き出せなかった。コンビニじゃ駄目なのかな? 

 水城は仕方なく銀行へと足を伸ばした。

 ATMにカードを挿入し、暗証番号を入力し、先ほどと同様に二万円と入力する。銀行のATMだから問題は無いはずだった。水城は恐る恐る確認ボタンを押した。しかし、やはりお金が出てこない。「お取り扱い出来ません」の画面が表示され、その下に小さく「残高が不足しております」と書かれていた。

 おかしい。この通帳には来年の学費も入っていたはずだ。たった二万円に足りないはずがない。機械のエラーだろう。そこで今度は残高照会をした。

 表示された残高は七百六十円だった。

 どういうことだ?

 水城は予想だにしない出来事に困惑して、ATMの前に立ち尽くした。夕方という時間帯もあって、ATMには長い列が出来ていた。後ろの主婦が迷惑そうに咳払いしている。だが、水城はポカンと口を空けたまま、ATMの画面を見下ろしていた。

 なんで、貯金が無くなってるんだ?

 まさか! いや、そんなはずは。

 でも、そうとしか考えられない。

 祥子が持っていったんだ!

 家に通帳と印鑑が無かったのは、きっとそのせいだ。

 どうして、彼女がそんなことを?

 気持ちの整理が付かないまま、とりあえず友人に電話をした。

「ごめん、今夜はやっぱり行けない」

「んっ? どうしたんだよ? 何かあったのか?」

「銀行に預けてたお金が無くなってたんだ」

「無くなってたってどういうことだよ?」

「祥子に盗まれたのかも……」

「マジかよ! いくらだ?」

「えっと、たぶん、百万ちょっとくらい」

「とりあえず警察に行けよ。ああ、それより先に親に電話したほうが良いのか?」

「うん、ああ」

 水城は力ない返事をした。頭の中が真っ白だった。

「それで、他は何も取られていなかったのか?」

「分からないけど、たぶん」

 友人たちには警察に行くように勧められた。しかし、水城はこの件をみ消すことに決め、事情を知る友人には堅く口止めをした。

 一年分の学費くらいならバイトでもすれば取り戻せる。当面の生活費は友人たちに無心すれば良い。それに、もしかしたら、祥子が金を返しに来るかも知れない。

 失って初めて、大切さに気づくということもある。祥子が出て行ってから、水城は自分がどれだけ彼女を愛おしく思っていたのか痛感していた。だから、金を盗まれてもなお、祥子のことを嫌いになれなかった。


 水城はすぐにバイトを始めた。夜中のコンビニでのバイトだ。夜間は時給がいいため、続ければ、取られた分の金くらいは稼げるはずだった。

 だが、その翌月。見知らぬ催告状が水城の元に届いて状況が変わった。祥子は同棲を始めた当初から、「水城慎」の名義であちこちの消費者金融から金を借り漁っていたらしい。その返済期限が過ぎて催告さいこく状が送られてきたのだ。

 水城は大学を休学して、日中のバイトも掛け持ちし、借金返済のための金策に追われた。だが、いくらバイトに勤しんでも借金は減らなかった。それどころか利子がどんどん膨れ上がっていった。

 一年ほどそんな生活が続き、ついには家にまで取り立て業者が訪れるようになった。

「なあ坊ちゃん。借りた金は、ちゃんと返さんとな。坊ちゃんもそう思うよな?」

「はい、思います。でも、彼女が勝手に借りたから知らなかったんです」

「ああ? 知らなかっただと。それで何や? だから返さんって言う気か?」

「いえ、まさか。ただちょっと待って欲しいんです」

「待てやと! ワシらずっと待ってたんじゃ。これ以上待てるかボケ」

 取り立て業者は鬼のような形相で水城を責め、脅しをかけて、「じゃ、まあ、今日はこれくらいで失礼するわ。また来週よろしくな」と去っていった。

 水城は恐ろしい取り立てに縮み上がって、父に電話をした。

「五百万だと、無理に決まっているだろう!」

「でも、やばい所のサラ金なんだよ。そこに五百万も借りてるんだ。とりあえず、何十万かだけでも返さないと。ヤクザみたいな奴が取り立てに来るんだよ」

「そもそも、未成年のお前では借金なんて出来ないはずだろうが?」

「親父の同意書を使われたらしいんだ」

「賃貸契約のときのか。なるほどな。だが、使われたとは、どういうことだ?」

「借金をしたのは俺じゃないんだよ。同棲していた彼女なんだ」

 水城は事情を説明して父に泣きついた。しかし、父はあきれ返って、ほとんど取り合ってくれなかった。水城はそれでも毎日のように電話をして、懇願こんがんを続けた。

「さすがに見殺しにするわけにもいかんか。人様に金を借りて返さないというのも良くない。その金は私が何とかしてやろう」

「親父、助けてくれるのか?」

「ああ、だがこれっきりだ。今日からお前は私の息子ではない。金輪際こんりんざい、家の敷居をまたぐな。いいか、分かったな?」

 頼み込んだ末に父はしぶしぶ借金を肩代わりしてくれた。だが、その結果、勘当かんどうされてしまった。

 借金は無いが、学費を払う余裕も無い。水城は大学を中退してアルバイトを始めた。様々な物を失って、抜け殻のようになりながらも、体だけは動かし続けた。若さをフル活用して働けば、バイトでもかなりの金額が稼げた。

 一年ほどで貯金は百万円を超えた。もう少しお金を貯めたら、もう一度大学に入りなおそう。そんな前向きな気持ちが芽生えだしたころ、水城は新たな女性と出会った。

 頭の切り替えが早い。それは悪く言えば、過去の教訓に学ばないということである。女のほうから言い寄ってくる場合、その女は危険だということを、水城は身をもって体験したはずだ。それにもかかわらず、水城はその女に騙されてしまった。

 それほどに女が器用だったというのもある。男を騙しなれていたのだろう。彼女は水城が警戒心を抱く前に、心の隙間にするりと入ってきた。

 最初は食事に誘われただけだった。それ以上のことは無く、思わせぶりな態度も無かった。だから余計に、彼女に対する警戒をおこたった。そして、何度目かに食事に行った帰り、水城はつい彼女をホテルに連れ込んでしまった。

「俺の女に手を出しやがったな!」

 女がシャワーを浴びに行ったのと入れ替えで、こわもての男が数人で部屋に乗り込んできた。そして、血まみれになるまで殴られた。

「ごめんなさい、許してください」

「じゃあ、誠意を見せてもらおうか」

 男たちは金を要求してきた。せっかく貯金した金は全て奪われ、そのうえ、消費者金融に借金までさせられた。警察に相談しても「まあ、よくある話ですね」などと冷笑されるばかりで、助けてはくれなかった。

 似たような経験はその後も何度かした。

 骨折した箇所の骨が再び折れやすくなるように、騙されると騙されぐせのようなものが付くのかも知れない。今度こそは信じてもいいはずだなどと、人を信じてみたくなるのだ。次こそは当るはずだとギャンブルに金をつぎ込む感覚とも似ている。

 そうして騙され続けた結果、借金は途方も無い金額にまで膨らんでしまった。取立て業者が家に来るようになり、それから逃げ回る暮らが始まった。こっそりアパートを借りて細々と生活していても、取立て業者はすぐに水城を嗅ぎつけて追ってきた。そのたびに水城は転居を繰り返し、鬼のような借金取りたちから逃げ続けた。

 そうして借金地獄を彷徨っているうちに、水城はレーヴに流れ着いた。掃き溜めのような街で、ボーイを始めて三年になる。

 レーヴに来てからは、定期的に借金を返済しているので、取立て業者が来ることは無くなった。だが、借金の金額が多すぎて、いつになったら完済できるのかの目処は立っていない。生活も苦しいままで、改善する見通しはない。

 女に騙されたのも、借金を背負ったのも、全ては自業自得だ。それは分かっている。だが、それにしたって酷すぎると思う。大学に入ったら、多かれ少なかれみんな浮かれるものだろう。少しくらいのアバンチュールは誰でも経験するはずだ。その代償が今の生活だと思うと、余りにも割に合わない気がする。


 本当に俺は運が無いな。運と言うより女運か。会う女、会う女、軒並み悪い女ばかりだなんて、普通では考えられない。その都度騙される自分にも問題があるのだろうが、ここまで転落するなんてよっぽどだ。

 水城はわき腹を押さえながら、自嘲的に笑った。

 目を開いて上を見上げると、ビルに切り取られた狭い空があった。夜中だと言うのに空はぼんやりと明るい。濁った灰色をしている。

「おい、水城。そんなとこでいつまでも寝てないで、早く店の中を手伝いやがれ」

 ビルの二階にある小さな窓から、吉崎の顔が飛び出している。つい数分前に、人のことをボコボコに殴っておいて、次は働けと叱咤する。悪魔のような男だ。

 水城は歯を食いしばりながら立ち上がった。顔にはほとんど怪我けがをしていないようだが、腹や腕は痣だらけに違いない。体のあちこちが脈打つように痛んでいる。


 どうにか仕事を終え、水城は重たい足取りでレーヴを出た。

 時刻は午前三時過ぎ。もう電車は動いていない。

 通りへ出てタクシーをつかまえた。簡単に家の場所を説明し、後部座席に乗り込んだ。車内ではほとんど会話をしなかった。五分ほど、浅く眠った。

 家に帰り着き、ベッドに倒れ込んだ。身も心も疲れきっていた。安物のベッドがぎぎぎと耳障みみざわりな音を立てて軋んだ。そのまま眠ろうと目を閉じたが、思うように寝付けなかった。

ただでさえ不眠症の気があるうえ、今日は熱帯夜。クーラーの無いこの部屋はサウナのように蒸し暑い。窓を開けても吹き込んでくるのは生温なまぬるい風だけ。こんな部屋で寝付けるはずが無い。

 水城はベッドの上でごろごろ転がった。吉崎に殴られた体の痛みはだいぶ薄れたが、肘や背中はまだ痛んでいる。

 やがて窓の外が白み始めた。薄いカーテン越しに朝日が差し込んで来る。

「はぁー、今日も眠れない……」

 水城は嘆息した。このところずっとこうだ。疲れているのに眠れない。問題は連日の猛暑だけではない。目を閉じると嫌な事ばかり思い出す。それが入眠の邪魔じゃまをするのだ。

 このまま生きていて、良いことがあるのだろうか?

 死にたいと思うことばかりの毎日。

 最後に笑ったのはいつだろう?

 水城は再び目を閉じた。少しだけ意識が薄れ始める。

 このまま永久に目が覚めなければどんなにいいだろう。

 未来なんていらない。

 もしも明るい未来が待っているのなら、それを代償にくれてやる。

 だから、今すぐ俺を殺してくれ!

 そう祈りながら、浅い眠りに落ちた。


 水城は昼過ぎにベッドをい出し、シャワーを浴びた。鏡に映った体には、そこら中に紫色の痣ができていた。痛む所にシップを張り、赤いシャツにそでを通した。

 部屋にはテレビもパソコンも無い。そこで、とりあえず外へ出た。快速電車に乗り、三つ目の駅で降りる。駅を出ると、夏の日差しが水城を突き刺した。

 街はいつもどおりの喧騒に包まれていた。ごみごみした街の中を人々が不規則に行き交っている。駅前の歓楽かんらく街を抜け、国道に出た。

 片側四車線の広い道路沿いにはオフィスビルのほか、ファーストフードや消費者金融などの店が野放図のほうずに立ち並んでいる。少し歩くと、まず牛丼屋があって、その向こうに銀行、さらに向こうにパチンコ屋があった。

 水城は通りがかった順番で店に入った。まず腹ごしらえをし、次に金を下ろし、最後にパチンコ屋のドアをくぐった。

 パチンコ屋に入ると、いい具合に空調が効いていた。立ち込めているタバコの煙も悪くないし、機械から聞こえてくる音も心地よかった。

 店内に百台ほどあるパチスロ台の三分の一ほどに客がいた。客のいない席を一つ一つ舐める様に見ながら、水城は店内を一周した。

 水城は下ろしたばかりの一万円札を二枚取り出して銀球に変え、入念に台を選び、上皿にじゃらじゃらと玉を流し込んだ。ハンドルを捻り、銀球の行方を目で追いかける。

 小さな当たりは何度かあった。だが、それを超えるスピードで、玉が台に吸い込まれていった。逆転を祈りつつ、さらに一万円分の玉を追加した。だが、大きな当たりは無く、二時間ほどでドル箱は空になってしまった。

 くそっ、ついてない! 

 腹いせにパチンコ台を殴りつけた。鈍い音が思いの外よく響いた。近くにいた店員が水城を睨みつけた。水城はそそくさと席を立ち、空のドル箱を返却し、パチンコ屋を出た。

 ああ、もう死にたい。俺の人生はこんなことばかりだ。下落相場。尻すぼみの人生。何をやっても上手くいかない。

 水城は憂鬱ゆううつな気分で夕方の街を徘徊はいかいした。気晴らしに百貨店を覗いてみたり、電気屋のビルに入ってみたりした。だが、気分は沈んででいく一方だった。

 通り過ぎる人々の笑い声が、自分に向けられているような気がする。みんなして俺をせせら笑っていやがる。水城は逃げるように駅に戻った。

 家に帰る気にはなれなかった。だが、行きたい場所も無い。

 適当な値段の切符を買い、タイミングよく駅に到着した逆方向の中央線に乗った。電車はほとんど満席だった。満員とまではいかないが、つり革につかまっている人の数も多い。乗っているのは大半がサラリーマンで、次に老人が多かった。学生はまだ学校に行っているのだろう。車内に若者の姿は無い。

 水城は一箇所だけ空いていた席に体をうずめた。赤いしま模様の背もたれに灰色のシートがつけられた席だった。そこだけ空いていたのは優先座席であるためらしい。

 席に着くなり目を閉じた。ベッドではなかなか寝付けないのに、電車の中ではすんなりと眠ることができた。車内の騒々しさも気にならなかった。

 夢は見なかった。まぶたの裏の暗闇の中に水城はいた。絶望感だけが脳裏に残っていた。眠りが浅いため、電車の走る音が遠くから聞こえていた。その音を聞きながら、暗闇を漂い続けた。

 電車の走る音は、その周波数が脳に作用して、気分を安らげるのだそうだ。そのおかげだろうか。次第に嫌な感覚が薄れていき、それに合わせて電車の音も静かになっていった。やがて全ての感覚が淡くなり、眠りは深くなっていった。


 あまり聞き馴染なじみの無い駅名のアナウンスで水城は目を覚ました。

 車窓から見渡せる景色は、東京らしくないものになっていた。田舎と言うと語弊ごへいがあるが、緑の多さが印象的で、少し遠くにさびれた商店街が見えていた。

 水城は何の気なしに席を立った。「あっ、降ります!」。乗り合いバスでもあるまいし。電車は止まってくれないが、反射的にそう叫びながら、空席の目立つ車内を走り、閉まるドアをすり抜けた。

 金網のフェンスで囲まれただけの簡素なホーム。改札口は駅の北側に一ヶ所しかなく、そこに自動改札機が二台設置されている。横の駅員室では制服を着た三人の男たちがヒマそうに茶を啜っていた。

 改札の上に掲げられた時計が狂っていなければ、現在は夕方の五時過ぎ。いつもなら出勤の準備を焦っている頃合だが、今日はオフだから心配ない。

「すみません。この辺りに面白い場所ってありますか?」

 駅員室に向かって尋ねると、水城の声に気づいた若い駅員が振り向いた。

「はい? なんでしょう?」

「何ていうか、ちょっと乗り過ごしちゃって。でも、せっかくだからこの辺りを見てから帰ろうと思って。それで、この辺りに何か名所はありせんか?」

「うーん、名所と言われてもねえ。見ての通り、この辺りはすっかり寂れてしまっていて、これと言って思いつきませんね」

「そうですか。それじゃあ散歩でもして帰ります」

 美味そうな定食屋でも見つかれば見っけもんだ。

 久しぶりに熟睡じゅくすいできたおかげで、やけに清々しい気分だった。

「お客さんも、ずいぶんおかしな方ですね」

 はははっ、と豪快に笑いながら、年配の駅員が話しかけてきた。若い駅員とのやり取りを聞いていたらしい。

「珍しいものはありませんが、そこの通りを少し行くと公園がありますよ。小さな池があって、野鳥の会がバードウォッチングに訪れるくらい、沢山の水鳥が棲んでいます。気が向いたら行ってみてください」

「なるほど、公園ですか。そういう公園って都心には無いから、行ってみようかな」

「街にある公園みたいに綺麗きれいな物じゃありませんけどね。通りがかりに一息つくには手ごろな所だと思いますよ」

 水城は駅員たちに礼を言い、改札を出た。

 乗り過ごしたと言ったにもかかわらず、切符の料金は間に合っていた。だが、それをいぶかしがる駅員はいなかった。

 水城は中年の駅員に言われたとおり、駅前の通りを真っ直ぐ進んだ。しばらく進むと公園の方向を示す看板が見えてきた。

 おどろおどろしい看板だった。朽ちた板目いために赤黒いペンキの文字。色あせた文字が所々がれて、「あらそイノいずみその」と書かれているように見える。パチンコ屋の電飾でんしょく看板のパの字が消えていてチンコ屋に見えるのと同じだ。剥がれた部分を補いながら読むと「浄化じょうかの泉公園」と書かれていたことが分かった。

 水城は公園に入り、散策路を歩いた。一周するのに徒歩五分程の広さだった。沢山の木々に視界をさえぎられ、実際以上に広く感じる公園だった。

 公園の中央に池があった。ごく小さな池で、対岸までは難なく泳いでいけそうだ。

 池には数羽の水鳥がいた。風呂に浮かべるアヒルの人形のように、のんびりと水面を漂っている。

「あれは、カイツブリと言うんですよ!」

 背後で鳥を眺めていた老婦人がそう呟いた。

「カイツブリって、何ですか?」

「あの泳いでいる鳥たちですよ。ほら、黒っぽい体に、赤茶色いえりのような模様のある鳥がいるでしょう。あれが、カイツブリ。それでね、あっちの茶色でうろこ模様の鳥、ほら、あのくちばしの先が黄色い子、あれがカルガモですよ」

「へえ、いろいろな種類があるんですね」

 水城はアヒルと白鳥くらいしか知らなかった。

「そうですよ。ほら、あっちがアマサギ。だいだい色の頭が可愛いでしょう?」

 老婦人は目を細めた。

「鳥はのんびりしていて楽しそうですね」

「そうですわね。でも、ああ見えて水鳥も大変なんですよ」

「どういうことですか?」

「たとえば、あのカイツブリね。彼らは飛ぶのも走るのも苦手なの。だからその分、一生懸命に泳いでいるのよ。外からは見えないけれど、こうやって、水の中で懸命に足を動かしているの」

 老婦人は手を水鳥の足に見立ててパタパタ動かした。

「そうなんですか」

「ええ、こうしてみていると優雅に泳いでいるようにみえるけれどね」

 そうだよな、苦労って、人からは見えないものなんだよな。

 水城はふと、鳥たちに奇妙な親近感を覚えた。

 走るのも飛ぶのも苦手な鳥。泳ぎだって魚に比べれば下手糞へたくそだろう。

 それでも、見えない場所で懸命に頑張っている。

 それが報われるかどうかは分からない。でも、休むことなく足を動かしている。

 頑張れよ。俺も頑張るから。

 柄にも無く、そんなエールを鳥たちに送りたくなった。

「あら、少し元気なお顔になりましたね?」

「えっ、何ですか?」

「ごめんなさいね、失礼なことを言って。でも、先ほどは何だか辛そうなご様子に見えたものだから」

「そんなに暗い顔をしてましたか?」

「いいえ、でも分かるんです。あなた、何かお悩みでしょう?」

「まあ、それなりに」

 見透かしたようなことを言う老婦人に、水城は少し警戒した。

「私はもう少し若い頃、いろいろな人の相談を受ける仕事をしていたのよ」

「カウンセラーとかですか?」

「いいえ、そんなに高尚な物じゃないわ。ちょっとしたお店を経営していたの。スナックとも違うのだけど。そこへは、いろいろなお客さんが来たわ。みんなが仕事とか家庭とか、いろいろなことの愚痴ぐちを溢していくようなお店だったの」

 品のいい老婦人の外見からは、そのような水商売の気配は全く感じられなかった。

「これでも、若い頃は沢山苦労してきたのよ!」

「本当ですか?」

「ええ、お兄さんも大変でしょうけど、気落ちせずに頑張ってくださいな。きっと素敵な未来が待っているわ」

「なかなか、そうは思えないですけどね」

「あら、どうして?」

「俺の人生、ろくなことが無いんです。少しいいことがあると、その倍は悪いことがある。そんなことの繰り返しで」

「どんなことがあったのか聞いてもいいかしら?」

「つまらない話ですよ。彼女ができて舞い上がっていたら、その彼女にお金を盗まれたり。仕事を見つけたと思ったら、その店がつぶれて給料が未払いになったり」

「まあ、それは大変でしょうね。きっと、あなたは人が良すぎるのね」

「そんなこと無いです。たぶん、詰めが甘いんですよ。今の店でもミスばっかりだし」

「あらあら、それは困ったわね」

 老婦人はまゆを曲げながら笑った。

「でも、きっといいことがあるわ。ほら、あの鳥を見て!」

「カイツブリでしたっけ?」

「何羽か潜ってるでしょう」

 池には三つの波紋ができていた。どうやら三羽のカイツブリがもぐっているようだ。深くまで潜っているのか、なかなか浮かんでこない。

 波紋が広がって立ち消えた頃、ようやく一羽が顔を出した。続いて二羽目も顔を上げたが、三羽目はずっと沈んだままだった。

「あれ、まだ浮かんでこない」

「そのままよくご覧になっててね」

 老婦人にそう言われて、水城は水面に目を凝らし続けた。すると、波紋のあった位置からずいぶん離れた所から、最後のカイツブリがヒョコッと顔を出した。嘴に大きな魚を咥えていた。

「水鳥が魚を取るのって、水に潜らなくちゃならないでしょ。そのためには息を止めないといけない。それは苦しいことよね。でもね、それに耐えて頑張れば、ああしてちゃんと獲物を取ることができるの。私たち人間だってそう。苦しい時間が長いほど、待っている幸せも大きいはずよ」

「そうでしょうか?」

「ええ、だから安心していいわ。きっとあなたは幸せになれるから」

 老婦人は水城から目を逸らし、水鳥たちを眺めた。

 長い沈黙があった。

 バサバサバサ。池を泳いでいたカイツブリが一斉いっせいに飛び立った。

 不器用に羽ばたきながら、夕日に向かって飛んでいく。

「さあ、私もそろそろ帰ろうかしら」

 老婦人は水城に向き直り、会釈し、その場から去っていった。

 公園のベンチに座ったまま、水城は老婦人との会話を思い出していた。

 それにしても不思議な人だった。

 ただ話をしただけなのに、心がずいぶん軽くなっている。

 彼女はカウンセラーではないと言っていた。

 本職のカウンセラーと話をしたら、もっと劇的げきてきに気分が良くなるものなのだろうか?


 白い大きな看板の前で水城は足を止めた。「樋野ひのクリニック」と書かれてた下に、「眠れぬ夜にお困りではありませんか?」という疑問文が添えられている。その横に「直進300m」と矢印がある。

 不眠症ふみんしょうのことを相談したら、少しは改善するのだろうか?

 いまさら急いで帰る必要もない。ためしに行ってみよう。

 水城は矢印の方向に体を向け、「直進300m」を小走りした。

 住宅街。食事の準備をする匂いや子どもたちの足音がする。

 少年たちが野球道具を持ちながら駆けている。ママチャリにまたがった主婦が水城を追い越した。目の前を黒猫が横切った。

 人通りの多い小道の先、白っぽい建物が見えてきた。珪藻けいそうの壁に覆われた、四角形の建物だった。入り口のドアに樋野クリニックと書かれている。大きな木を挟んで、樋野家の住居らしき木造の建物が隣接りんせつしている。

「すみません。予約とかしていないんですが、診察できますか?」

 ドアを押し開くと、受付と待合室があった。白衣を着た若い男がスリッパや雑誌の整理をしていた。年齢はおよそ水城と同じくらいだろうが、威厳いげんがある感じの男だった。

「ええと、患者さんですか?」

「不眠症というか、そういう相談できたんですが」

「申し訳ありません。ついさっき診察時間を終えてしまって」

「そうですか。では、また出直してきます」

 水城はきびすを返した。ドアには確かに「診察時間十時から十八時」とある。日が長いために気づかなかったが、すでに十九時近い。とっくに診察時間を過ぎている。

 ドアを閉めようとすると、白衣の男が閉まりかけたドアを手で押さえた。男は苦笑交じりに「どうぞ、中へお入りください」と言った。

 入り口にはスノコが敷かれていた。水城はそこでスリッパに履きかえ、観葉植物の置かれた待合室を通り抜け、診察室に入った。

偶然ぐうぜん通りがかったからいらっしゃったんですか? そんなラーメンでも食べに来たみたいな患者さんは初めてですよ!」

「すみません」

「いえ、謝られることは無いのですが」

 水城は診察室の丸椅子に腰を下ろした。

 白衣の男は樋野俊憲としのりと名乗り、簡単に自己紹介をした。彼はここの院長の息子で、数年前に医学部を卒業し、現在は近くの小学校でスクールカウンセラーをしつつ、午後はこのクリニックで働いているのだそうだ。

 樋野医師は終始にこやかだった。

「樋野俊憲って、やたらめったら画数の多い名前でしょう?」

「夜のお仕事だと、寝辛いでしょうね」

「クーラーが無くて窓は開けっ放しなんですか? 無用心じゃありませんか?」

 樋野はやけに親しげに、雑談のような問診を進めた。

「なるほど、分かりました」

 しばらく話をしたあと、樋野はノートにペンを走らせた。

 まるで心の中をCTスキャンでもしたみたいだった。ノートには水城が抱えている悩みや、負っている心の傷について、詳細に書き出されていた。

「このようなストレッサーが原因で、不眠症が引き起こされているのでしょう」

「何ですかそれ?」

「ストレッサーとは、ストレスの原因の事です。病は気からなんて言いますよね。ストレスは体にも大きな負担をかけるんですよ。人がストレスを感じると、まず交感神経が活発になります。そして、アドレナリンなどのストレスホルモンが分泌されます。このホルモンは闘争とうそう逃走とうそうか、つまり戦うか逃げるかのときに、一時的に分泌ぶんぴつされるホルモンなんです。ですが、ストレスが強いと、このホルモンが出っぱなしになるんです」

「へえ、それは、忙しいですね」

「普通は戦うのも逃げるのも数分とか、長くて数時間ですよね。でも人間社会には長期化する問題が多いでしょう。だから、ストレスホルモンが出っぱなしになるんですよ。それが続くと、胃腸や血圧の異常、免疫力の低下を引き起こすんです」

 樋野はストレスと内科症状の関連性について熱く語った。途中からはかなり専門的な話になり、水城はぽかんと口を開いた

「あっ、いけない、いけない。話が長くなりました」

「いえ、難しい話で頭がついていけなくて、すみません」

「とにかくですね、それらのストレス応答の一つが過覚醒かかくせい、つまり不眠症なんです」

「それで、それは良くなるんですか?」

「睡眠障害はれっきとした病気ですから、薬で治療ができます。不安を和らげるお薬と睡眠導入剤を試してみてはいかがでしょう?」

 慌しい診察が終わり、水城は処方箋を受け取った。診察費は三千円。手痛い出費だが、これで良くなるのなら妥当な額だとも思えた。


 治療は効果てきめんだった。睡眠薬のおかげで眠れるようになり、水城の体調は日に日に良くなっていった。精神安定剤も良く効いた。毎日が輝きだしたような気さえした。

 薬を飲み始めてからの数日、寝過ごしてしまったり、仕事中にボーッとしてしまったり、何度か吉崎にぶん殴られた。だが、薬に慣れてくると、遅刻も無くなり、久しぶりに好調な日々が訪れた。

 レーヴでの一日が終わり、ホールの掃除をし、洗い場を片付け、水城はソファーに座って一休みしていた。

「よう、お疲れさん。水城よう。お前、最近は良くやってるじゃねえか!」

「はい、ありがとうございます」

 吉崎は珍しく水城をめてから、「ホールの戸締りはしておけよ」と言い残し、ホール裏手の事務室に入って行った。

 消灯された薄暗いホール。非常灯がぼんやり灯っている。巨木のようなオブジェがその光を反射して緑色に輝いている。

 水城はソファーに転がりうとうとした。

 しばらくして、カツカツとハイヒールの足音が近づいてきた。

 なんだろう? 店長? そんなわけないし。でも、ホステスは接客が済めば掃除なんてせずに帰るはずだ。ソファーから上半身を起こし、室内を見渡した。

「あっ、シンくん。ごめんね、起こしちゃった?」

 酒に焼かれた掠れ声が優しく響いた。

「あっ、アネゴ! まだ残ってたんですか?」

「そうよ、いけないかしら?」

「いえ、もう帰って、お休みの頃かと思ってました」

「今日はちょっと飲みたい気分だったのよ。お店にあるような良いお酒じゃないけど、良かったら、シンくんも飲む?」

「はい、遠慮なく頂きます」

 早苗は水城が寝転んでいるソファーの隅、水城の足元辺りに腰を下ろした。

 水城は早苗を蹴らないように気をつけながら膝を曲げ、足を床に下ろし、ソファーに座りなおした。

「どれがいいかしら? 好きなのを取ってね」

 早苗はコンビニのレジ袋をテーブルの上に置き、中身を広げて見せた。ビールが二本とチューハイが三本、それから、あたりめと、焼き鳥の缶詰が入っていた。

「じゃあ、そのレモンのチューハイもらっていいですか?」

「これ? どうぞ。ふふ、最近は、とりあえずビール、じゃないのよね」

「なんですか?」

「ちょっと前までなら、一杯目はビールっていうのがお決まりだったじゃない」

「とりあえずビールと、それから、うーん。みたいな感じですよね」

「でも、最近はそうじゃないのよね。こういうのをジェネレーションギャップっていうのかしら?」

「そんなおばさんになったみたいに言わないでくださいよ。俺だって、居酒屋ではとりあえずビールですよ。ビールを飲んだほうが良かったですか?」

「ふふ、そんなに気を使わないで良いわよ。シンくんは、女に気を使いすぎよ」

「そりゃ、まあ、そうかも知れません。いろいろありましたから」

「いろいろって? こっぴどく捨てられたとかかしら?」

 早苗は悪戯っぽく笑いながら、勘ぐるように水城の顔を覗き込んだ。

 水城はチューハイを一口だけ飲み、「聞いても面白くないですよ。駄目な男の、憐れな恋物語なんて」と言った。

「いいじゃない。もうみんな帰ったんだし! 二人で暴露ばくろ大会をしましょうよ」

 早苗に押し切られ、水城は大学時代の話を始めた。

 合コンで祥子に出会った所まで聞いた早苗は、「こういう女は危ないわね。最初からシンくんに近づこうとしてるみたいじゃない」と眉間にしわを寄せた。「お金が目当てかしら?」さすがは酸いも甘いも噛み分けたレーヴのアネゴだ。こういうかんは驚くほど鋭い。

「その通りですよ」

 水城はそう答えてから続きを話した。祥子が貯金を盗み、借金を残して出て行った所まで話し終えると、早苗は悔しそうに顔をしかめた。

「そういう女に限って、どこかでいい男をつかまえて、何食わぬ顔で月並みの幸せに浸っていたりするのよね」

「そうかも知れませんね」

「シンくんも大変だったわね。悪い女には気をつけなさい」

「まあ女絡みでの失敗はそれだけじゃないですけどね」

「女で苦労するのって、いかにもクラブのボーイらしいわね」

「そうですね。自分でもそう思います」

 二人は枯れた笑い声で、クスクスと静かに笑った。

 水城はチューハイを飲み終え、空き缶を捻った。すると、早苗が酒の入った袋を差し出してきた。次の酒を選べということらしい。

 水城はビールを取り出し、無造作むぞうさにタブを開けた。缶の口から溢れてくる泡を吸い取ってから、あたりめを一切れつまむ。

「今度はアネゴの番ですよ。暴露大会なんでしょ?」

「ええ、そうだったわね。私のは、とーっても悲惨ひさんよ。聞く覚悟はあるのかしら? やだ、そんなに目を輝かせないでよ。人の不幸に期待するなんて悪趣味よ」

「それはお互い様ですよ。さあ、話してください」

 早苗は遠い目をして、天井にある非常灯の辺りを見た。過去を回想しているのかもしれない。物憂ものうげな表情で深いため息を吐き、ビールの缶に口をつけると、熱いお茶でも飲むみたいにゆっくりと缶を傾けた。

 早苗はくたびれた様な、それでいて艶っぽい大人の女性の顔をした。悲しそうな目をし、口元には穏やかな微笑ほほえみを浮かべて、彼女はもう一度、深く息を吐いた。

「私もね、酷い男に騙されたことがあるの。その男はね……」

 早苗の口から語られた話は、水城がした想像以上に悲惨だった。

 早苗は昔、麻薬の売人をしていた男と付き合っていた。彼が売人をしていることをしらずに、彼との交際を始めたのだそうだ。「野蛮やばん粗野そやな男だったけど、それが頼りがいと言うか、男らしさに見えたのよ」と早苗は自嘲じちょう的に笑った。

「付き合っている間に薬漬けにされたわ。するときにおかしなお香を焚いていたのが始まりだったかしら。それから、変な錠剤を飲まされたり、知らないうちに腕に注射されていたこともあったわね」

「それは、酷いですね。自分の彼女にドラッグなんて」

「それでも、二人でいた頃はまだ良かったわ。幸せだと思ってた。でもね、付き合いだして二年ほどたったころ、彼が蒸発じょうはつしたのよ。借金のようなものを残してね」

「借金のようなもの、ですか?」

「ええ、借金では無かったわ。麻薬を売りさばいたお金ね。麻薬密売の元締めをしている組に上納するはずだったお金を彼が持ち逃げしたのよ」

「それで、アネゴはどうなったんですか?」

「彼がいなくなってすぐ、家にヤクザの人たちが乗り込んできてね、彼が持ち逃げしたお金を代わりに払うように言われたわ。私が担保たんぽのようなものだったのね」

「彼氏が勝手にしたことなら、アネゴは関係ないじゃないですか!」

「そんな理屈が通用する相手だと思う?」

「でも、いくら何でも、アネゴが責任を取らされるなんて、おかしいですよ」

 早苗は一旦話を切り、ビールを飲み干した。そして焼き鳥の缶詰を封切り、一切れつまんだ。水城は彼女の指先を見るとも無しに見ていた。早苗は薄笑いを浮かべた。

「シンくんの言う通りよ。相手のヤクザもさすがにお金の立替えを強要はしなかったわ。私が払わなければ、彼を見つけ出して責任を取らせるだけだって」

「それなら、アネゴが払わなくても済んだんですか?」

「彼に責任を取らせるって、つまり彼を殺すってことじゃない。私がお金を払えば、彼の命が助かる。そう思ったら、払わないなんて言えなかった。酷い男だけど一度は好きになった人よ。見捨てるなんて出来なかったわ。彼はきっと、そんな私の気持ちも見越していたんでしょうけどね」

 早苗はため息ともつかない長めの息ぎをした。

「都合のいい女よね。酷い男にいいように利用されて。でもね、それでもつい彼のいい所ばかり探そうとしちゃうのよ。荷物を持ってくれたとか、風邪の時に芯の残ったへたくそなおかゆを作ってくれただとかね」

 早苗は呟くように言うと、巨峰きょほう味のチューハイを手に取った。

「お金はどうしたんですか? その男が持ち逃げしたのって、結構な金額だったんでしょう?」

「ええ、とても払える額じゃなかったわ。シンくんがした借金の十倍近くだったもの。でも、何年かかっても必ず払うからって頼み込んだの。それで、毎月しっかり利子もつけて支払うという条件で、どうにか許してもらえたの」

「でも、返済できたんですか? 俺なんか、今の借金だけでも首が回りませんし。十倍って言ったら利子だけですごい金額ですよね?」

「ええ、すぐに利子すら支払えなくなったわ。そしたら、男が数人で乗り込んできてね、割のいい仕事を紹介してやるって、違法営業の風俗店で働かされそうになったわね」

「そうになった、ってことは大丈夫だったんですか?」

「吉崎さんが助けてくれたからね。それがなかったら、今ごろ私は日の光の下を歩いていられなかったでしょうけど」

「えっ、店長が助けたんですか?」

「あなたたちにとっては意外でしょうけど、吉崎さんは優しい人なのよ。私を助けるために、あんな風にしているの。だから、出来ればあんまり恨まないであげてね」

 早苗は申し訳なさそうに眉尻を下げた。泣き出しそうな表情だった。

「あなたたちには本当に申し訳ないと思っているわ」

 彼女は細い声で謝った。

「私が危ない店に売られかけていたとき、吉崎さんが尋ねてきたの。以前から私の家にはちょくちょく寄って、差し入れをしてくれていたんだけどね」

「あの店長がですか? まるで別人の話みたいじゃないですか!」

「吉崎さんとは幼馴染だったのよ。それで、気にかけていてくれたんだけど」

 早苗は言いかけて、何か迷ったような顔をした。

「いいえ、違うわ。吉崎さんは、私に好意を持ってくれていたの。私はそんな彼の気持ちに付け込んで、彼を頼って、利用したのよ。私も酷い女よね」

 早苗はまた自嘲的な笑みを見せ、それからの出来事を語った。

 早苗を助けに乗り込んで来た吉崎は、下っ端のチンピラたちを軽々と投げ飛ばしたそうだ。殴り合いは吉崎の圧勝だった。

 しかし、喧嘩では勝てないと悟った一人のチンピラがポケットからナイフを取り出したことで、状況は変わった。

「いえ、それも吉崎さんの圧勝だったわ。彼は相手のナイフをもぎ取って、相手の太ももにそれを突き立てたの。だけど、そのせいで彼は傷害罪になっちゃったの」

「その後、アネゴはどうしたんです?」

「吉崎さんが逮捕される前に、組の幹部と話をつけてくれたみたい。金は自分が必ず返すから、もう少し待ってくれって。おかげで、私の元に回収屋が来ることは無くなったわ」

 吉崎が出所してから、二人は協力し合いながら、レーヴを盛り立てたのだそうだ。

 それ以前から、吉崎はレーヴを経営していたが、そのままの状態ではとても返済額をまかなえなかったのだという。

「店の賃貸ちんたい料も安くはないし、返済額も毎月百万円以上あったからね。電気代とか水道代とか、そんな所まで切り詰めたわ」

「だから店長はエレベータを使ったり食器を割ったりしたらあそこまで怒るのか!」

「本当にごめんなさい。もとを正せば私のせいなのよ」

 早苗は深刻そうに瞳を揺らしながら、何度も頭を下げた。

「遅刻とか早退のときの罰金がやたらと高いのもそのせいですか?」

「ええ、そうよ。あなたたちには嫌な思いばかりさせてるわね。許してくれなんて言えないけど、これから贖罪しょくざいをしていくつもりよ」

「これからって、どういうことですか?」

「今日ね、やっと全ての返済が終わったのよ」

「本当ですか? それは、良かったですね。おめでとうございます!」

 借金の苦しみは知っている。だから、水城は自分のことのように嬉しかった。

「もうっ、何でシンくんがそんなに喜ぶのよ」

「えっ、変ですか?」

「だって、私たちの借金なんて勝手な理由で、シン君にはいっぱい嫌な思いをさせてきたでしょ。それなのに、どうして喜んでくれるのよ?」

「そう言われると、どうしてでしょう? 女に騙された俺と、男に騙されたアネゴ、似た境遇だったから、シンパシーを感じているのかも知れません」

 早苗は拍子ひょうし抜けしたように微笑んで、愛おしそうに水城を見つめた。。

「シンくんは、本当に優しいのね」

 巨峰のチューハイを飲み終えた早苗は、三本目の缶に手を伸ばした。

 プシュッ、甘いりんごの香りが彼女の手元にただよった。

「長かったわ、十二年もかかっちゃった」

 早苗は誰の耳にも届かないようなほんの小さな声で呟いた。


 缶に残った酒をちびちびとすすり、水城たちはあたりめと焼き鳥をつついた。

 二人とも無言だった。次の言葉に迷っているようでもあった。

「ごめんね、シンくん。こんな話、あなたたちに聞かせるべきじゃないって分かってるんだけど。ずっと隠してきたから、今日は誰かに聞いてほしかったのね、きっと」

 あなたたちというのはレーヴの従業員を指しているのだろう。

 早苗のした話には同情の余地がある。だが、このレーヴで働く従業員たちだって、大なり小なり苦しみや不幸を背負っている。水城や早苗よりも過酷かこくな運命と戦っている者もいるかもしれない。「勝手な都合を押し付けるな」と言って、吉崎やレーヴに対する不満を爆発させる者もいるだろう。

「でも、俺は聞けて良かったです。何て言うか。俺の借金も返せるんじゃないかって、人生も捨てた物じゃないかもって、未来への希望になりました」

「そう言ってもらえると、本当に救われるわ。きっとシンくんじゃなかったら、私もこの話をしなかった思う。あなたは素敵な人よ。きっとこれから幸せな人生が開けてくるわ」

「ありがとうございます。アネゴにそう言ってもらえると光栄です」

「明日、話してみなさい」

「えっ、何をですか?」

「だから、あなたの借金の話をよ。改めて吉崎さんに相談してみなさい。やっと、私たちは自由になれたから、きっと今度はちゃんと力を貸してくれるわ」

 レーヴでの勤務が長いため、水城は何度も吉崎に泣かされてきた。早苗の話を聞いてもなお、吉崎が鬼か悪魔に見えてしまう。だから、どうしても半信半疑はんしんはんぎな表情になる。

 釈然しゃくぜんとしない顔の水城を見た早苗は、肩を落としながら笑った。

「あなたたちにしたら、吉崎さんは極悪人でしょうね」

「いっぱい殴られてきましたから」

「借金返済のことで頭がいっぱいで、あなたたちに辛く当ってたのね。吉崎さんにはそういう所があるのよ」

「あの暴力だけは、なかなか忘れられませんよ」

「それはそうよね。でも、彼ったら昨日ね、明日からは優しい吉崎おじさんになるんだって息巻いてたのよ」

「あの図体で優しいおじさんですか? ちょっと笑える台詞ですね」

「でしょ? 選手宣誓みたいに片手を挙げて、優しいおじさんになるんだ、だって。まるでキングコングみたいだったわよ。エンパイアステートビルに上ったコングが、アンを守るために戦闘機を払いのけるシーンがあったでしょ」

 早苗は冗談めかして笑った。

 そこからは明るい話題が増えた。水城もあれやこれやとくだらない話をした。酒がなくなると、「吉崎さんには秘密よ」と言って、早苗は店の棚にあるウイスキーを持ち出してきた。それを水で割って飲みながら、二人はレーヴでのことや、苦い失恋話、過去の失敗談などを明け方まで話し続けた。

 途中で吉崎が厨房に来て、ドアの影からホールの水城たちを見ていた。水城は不意に視線を感じて振り返り、ドアにもたれている吉崎を見つけた。早苗は話に夢中で彼には気づいていないようだった。

 酒を勝手に飲んでいることを見咎められるのではないかと水城は身構えたが、吉崎はホールには入ってこなかった。ドアに背中を預けたまま、黙ってこちらを見ていた。早苗が楽しそうに笑い声を上げると、彼は微笑を浮かべ、事務室へ戻っていった。

 やがて日が昇ってきたのか、レーヴの店内がうっすらと明るくなってきた。

「あら、いけない。もう朝ね。シンくん今晩もシフトが入っているでしょ? 帰って寝なきゃ、体が辛いわよね」

「そうですね。そろそろ帰ります」

「ごめんなさいね、話につき合わせちゃって。借金完済かんさいのささやかなお祝いをするつもりだったんだけど、シンくんと話しているのが楽しくって」

「俺も楽しかったです。いま帰れば十分に寝られますから、気にしないでください」

「もし遅刻したときには、吉崎さんには私が言い訳しといてあげるわね」

 二人はソファーを立ち、テーブルを片付け、使った食器を洗った。

 ホールをしっかり戸締りして、裏口からレーヴのビルを出ると、朝日がさんさんと二人を照らした。裏の階段は狭く、二人で並んで下りるのは危険だ。早苗が先に階段を下り、その後を水城が追った。

 階段を下りてすぐのところで、早苗が立ち止まっていた。

「アネゴ、どうしたんですか?」

 後ろから呼びかけるが返事が無い。

「ねえ、アネゴ」

 水城は早苗の隣に立った。すると、早苗の正面に見知らぬ男がいた。

 いかにも柄の悪そうな男だった。丈の余ったジーパンに鎖をじゃらじゃら吊るし、派手な模様の入ったシャツを着ている。かなり蒸し暑いのに、メタリックブルーのジャケットまで羽織っていた。

「ジュンジ? 順治じゅんじなのね?」

 早苗のしわがれ声が、少女の声のようにか細く聞こえた。

「ああ、早苗。俺だぜ!」

「どうして、どうして帰ってきたの? 帰ってきて大丈夫なの?」

「早苗のおかげでな。下手すりゃ殺されるとこだったけどよ。ケケ。もう大丈夫だ」

会話の断片から、水城は状況を理解した。つまり、彼は早苗を薬漬けにしたという、あの元彼なのだろう。早苗は彼に酷く怯えているようだった。水城は早苗と男の間に割って入り、順治ににらみを効かせた。

「あん? 何だ? 何か用でもあんの?」

「レーヴはもう閉店しました。お引取りください」

「っるせえ。俺は早苗に用があるの! お前は邪魔なんだよ。帰りな、ぼうや!」

 順治は水城を押しのけ、早苗の腕をつかんだ。

「なあ、早苗。また一緒に暮らそうや。つぎはまともな仕事を見つけてきたからよ」

「また前みたいになるに決まってるじゃない。何度も繰り返してきたでしょ」

 早苗の声は、幼い子どものように弱弱しい。

「本人も嫌がってるでしょう。帰ってください!」

 水城は順治の腕を掴んで、早苗から引き離した。

「うるせえって言ってんだろうが!」

 順治は額に青筋を浮かべると、力任せに水城の頬を殴りつけた。

 ブチブチブチ、口の中で血管が破裂する音が聞こえ、体がふわりと浮き上がったかと思うと、激しい勢いでビルの壁にたたき付けられ、水城は腰と頭を強打した。

「うぐっ」

 水城は呻きながら地面に倒れこんだ。

 順治はケケケと気味の悪い声で笑いながら、倒れている水城の所に詰め寄った。

「邪魔しやがって! ぶっ殺してやろうか、ああん」

 順治は水城のみぞおちを何度も蹴り上げた。

 早苗ががらがら声で悲鳴を上げた。

 発情した野良猫のような声が路地に響いた。

 それでも順治は蹴る足を止めなかった。

 水城はぐったりと地面に伸びた。

「おっと、いやいや、殺しは良くねえな!」

 順治はようやく蹴るのを止め、嫌味いやみな薄ら笑いを浮かべた。

「おい、ぼうや、お前にいい物をくれてやる。ケケ。喜べよ。」

 順治は水城の口を開かせ、上着のポケットから青いカプセル薬を取り出し、それをのどの奥に押し込んだ。ほこり臭い男の指が口に入ってきて不快だったが、水城には抵抗する力も無かった。カプセルは喉を滑り、胃の中に落ちていった。

「ケケ。薬が欲しくなったら、ここに電話しな。」

 順治は水城のポケットに電話番号の書かれたカードを差し入れた。

「それにしても、俺様は商売熱心だなあ。いい彼氏だろ?」

 順治に見つめられた早苗は、足がすくんで動けないようだった。怯える早苗に、順治がゆっくりと近づいていく。


10

 順治が早苗に顔を近づけた。早苗は顔をそらそうとするが、順治は彼女の髪をつかんで押さえつけた。髪を引っ張られた早苗は小さな悲鳴を上げた。


「おい、お前。どの面下げてここへ来やがった?」

 早苗の背後から、どすの利いた声が響いた。

 地獄の底から聞こえてくるような、低くて恐ろしい声だった。

 順治は目を白黒させながら、早苗の後ろを見た。

 そこには吉崎が立っていた。

 顔を真っ赤にして、全身の血管を怒張どちょうさせている。

 仁王像のような顔どころではない、いかれる阿修羅あしゅらの形相だ。

「金を持ち逃げして、その責任を早苗に押し付けて。今度は何をする気だ?」

 吉崎は一歩、二歩と順治に詰め寄る。

 地響きが聞こえてきそうなほど重い歩みだった。

 順治はすっかり縮み上がって、数歩後退し、壁に背中をぶつけた。

 吉崎と順治の間の距離が詰まっていく。

「早苗はともかく、お前にはうらみがあるんだよ」

 順治はスカジャンの内側から、小ぶりのナイフを取り出した。

「うおぉぉ」

 順治がナイフをまっすぐかまえて吉崎に飛びかかった。

 ナイフが一直線に空を切り、手ごたえも無いほどあっさりと、吉崎のわき腹に突き刺さった。吉崎は痛そうに顔をしかめた。

「ざまあ見やがれ。ナイフでぶっ刺されるのは痛てぇだろ? ひゃはは!」

「うるせえよ。それより、ここまで飛び込んできたのは大間違いだぜ!」

 吉崎は腹にナイフが刺さったままの状態でニッと笑い、順治の顔面をぶん殴った。

 順治は軽々と宙に舞い上がり、二メートルくらい吹き飛んだ。

 吉崎の腹からナイフが抜けて、地面に転がった。鋭利えいりな刃にはべっとりと血が付いていて、鍔元まで赤黒く染まっていた。吉崎は激痛に顔を歪めながら、それでもしっかりと大またを開いて仁王立ちしていた。腹からは止め処なく血液が流れ出しているが、ふらつく様子すらない。

「おい順治よう、てめえ、刺し違える覚悟は出来てるんだろうな!」

 吉崎は野太い声を張り上げて凄んだ。

 十秒ほど順治は動かなかった。

 吉崎はもはや人間とは思えないほど恐ろしい顔つきをしていた。

 腹を刺されているのに、弱った気配すらない。

 地面から起き上がった順治は、屹立する吉崎を見て、すっかり怖気づいたようだった。しばらくそのまま居竦んでいたが、急に立ち上がったかと思うと、一目散に逃げて行った。

 順治の姿が見えなくなると、吉崎の体から力が抜けて、彼は地面に崩れ落ちた。


 そのころようやく水城は意識を取り戻した。水城は周囲を見回した。少し向こうの地面に早苗が座わっているのが見えた。早苗の周りには赤黒い血溜ちだまりが出来ていた。

 水城は慌てて立ち上がると、早苗に駆け寄った。

 早苗に怪我は無く、血を流していたのは吉崎だった。

「おう、水城。ありがとよ、早苗を守ってくれたみたいだな。あと、すまなかったな」

 吉崎は血の気の無い顔に薄っすらと笑みを浮べた。

 もう虫の息だった。早苗のひざの上に頭を乗せて横たわり、半分白目を剥いていた。

「悪いな水城。今夜からは、お前のことも、みんなの事も、大事にしてやる予定だったんだが。上手く行かねえもんだな。悪かったな、何にもしてやれなくてよ」

 吉崎はそこまで喋ると、もう何も言わなくなった。

 吉崎の腹からはどくどくと血が流れ続けている。血が赤黒いところを見ると、肝臓の辺りをやられたらしい。おそらくもう助からない。それは水城にも分かった。

「シンくんは行きなさい! きっとすぐ警察が来るわ。さっき順治に薬を飲まされた薬ね、あれはきっと麻薬よ! いま警察が来たら、あなたまで面倒なことに巻き込まれるわ」

 警察にとっては、水城も順治も変わらない。彼らはここにいる全員を「ろくでなし」と一括りにするだろう。そうなれば、いくら水城が無実を訴えたところで、麻薬使用の容疑で逮捕されてしまうに違いない。

 だから、俺は今すぐここを離れなければならない。それは分かる。

「でも、店長が、アネゴも」

「あなたが気にすることじゃないわ! 早く逃げなさい!」

 早苗は目に涙を溜めながら、無理やり微笑んで見せた。

「本当はもっとこれから、みんなで、レーヴで楽しくやっていきたかったんだけど」

 早苗はひざに乗せた吉崎の頭をそっとなで、涙を溢した。

「それはもう無理かも知れないわね」


11

 水城は吉崎と早苗をレーヴの前に残して、その場を離れた。大通りに一歩踏み出す。早朝の通りは喧騒けんそうに包まれていた。学生服を着た若者や、会社員風の男女が行き交っている。水城は彼らの中に溶け込むように雑踏ざっとうに混ざった。

 幽霊のようにふらふらと駅へ歩いた。アネゴたちを見捨ててきたという後ろめたさを感じながら、電車に乗った。

 どうやって帰ってきたのかすら分からない。気が付くと、いつの間にか家のベッドに横たわっていた。つい一時間ほど前の出来事が、悪い夢だったのではないかと思える。

 頭がぼーっとしている。ふわふわと浮遊感ふゆうかんがある。

 現実感が薄れ、世界が遠く曖昧あいまいになってゆく。

 うとうとしているようでいて、五感がやけにえ渡っている。。

 経験したことも無いような、不思議な感覚だった。

 それからすぐ、激しい吐き気が水城を襲った。

 あの男に飲まされた薬の影響か!

 水城はハッとして我に返ったが、そんな自我じがは数分と持たなかった。

 心地よい感覚の波が打ち寄せてきた。

 暖かな水の中を漂っているような感覚。

 甘い快感で心が満たされていくようだった。

 赤ん坊が胎内たいないで眠っているときには、こんな感覚なのかも知れない。きっとそうだ。だから、産まれてきた赤ん坊は泣くのだ。出て来たくはなかったと、温かな羊水ようすいが恋しいと、声を上げて泣くのだ。そんなことを考えていると、急に視界が暗くなった。

 そこから最悪な感覚に襲われた。

 不安感、焦燥しょうそう感、絶望。

 どす黒い感情が心を占拠し始めた。

「死ね、死んじゃえ。くたばれ、消えろ。この社会のくずが!」

 父親の声か、それとも吉崎の声か、あるいは祥子の声か。どこかで聞いたような声が、水城をののしりり続けた。

「止めてくれ。ごめん。謝るから、許してくれ!」

 水城は両手で耳を塞ぎながら、夢中で謝った。

 気がつくと目の前に、鎧兜よろいかぶとを来た吉崎が立っていた。その鎧兜には見覚えがあった。

 子どもの頃、家に飾られていた五月人形が着ていたものだ。その五月人形が怖くて、幼い頃の水城は人形を見るたびに泣いていたらしい。

「俺を見殺しにしやがったな! 殺してやる!」

 吉崎は背中の筒から矢を取り、水城に狙いを定めた。

「ごめんなさい。でも。アネゴが、逃げろって」

「ああん。それで、許されるとでも思ってんのか!」

 鎧武者は、借金取りの男に姿を変えて、水城に詰め寄った。

「助けてくれ」

 すると、目の前を一羽のアヒルが横切った。後光が差し、輪郭りんかくが輝いていた。

 水城はわらにもすがるような思いでそのアヒルに飛び乗った。

 アヒルはばさばさと不器用に羽ばたき、空へと舞い上がった。

 再び快楽の波が打ち寄せてきた。

 甘いりんごの香り。

 暖かな陽だまりにいるような安息。

 激しく抱き合っているような本能的な充足じゅうそく感。


 それからずいぶん長い間、天国のような快感と地獄のような幻覚に翻弄ほんろうされ続けた。やがて、それらに疲れきった水城は、深い眠りに落ちていった。

 

 煙の匂いが染み付いた狭い1DKワンディーケー。部屋の中に、ピピピッとアラームが響いた。

 音は鉄筋コンクリート造の薄い壁に跳ね返って、金属音のようにやや高く響きながら、鼓膜こまくを激しく振動させた。

 水城はその音に叩き起こされ、不愉快そうに眉間にしわを寄せた。

 目が冷めてすぐ、酷い不快感に襲われた。意識ははっきりしているのに瞼が重くて、気だるい感覚に体が脱力してしまう。

 胃に重油でも流し込まれたみたいに胸がむかつくし、大音量のへヴィメタルを聞いてるみたいに頭が痛かった。背筋までもがぞわぞわしている。まるで体の中を虫が這いずり回っているようだった。肩や背中には、内側でバッタが跳ねているような断続的な刺激があり、酷く煩わしい。

 気分も最悪だった。憂鬱。いっそ死んでしまいたい。

 自分の名前を書いた藁人形に自ら五寸釘を打ち付けているような感覚だった。

 水城はベッドサイドに置いたテーブルに手を伸ばし、その上から携帯電話を取った。携帯は電池が切れ掛かっていた。

 画面には七月十五日と表示されていた。

 レーヴでの一件があったのは、十三日、いや十四日の早朝だったはずだ。つまり、順治に飲まされた薬のせいで、水城は丸一日以上も寝込んでいたことになる。

 一通のメールが入っていた。差出人はアネゴだった。

「シンくん。おかしなことに巻き込んでごめんなさい。体は大丈夫? 吉崎はお昼に息を引き取りました。残念だけどレーヴは閉店です。たくさん迷惑をかけてごめんなさい。お詫びというわけじゃないけど、吉崎の生命保険が下りたらいくらかをあなたの口座に振り込んでおくから、借金返済に役立ててね。せめてシンくんだけは幸せになれるよう祈っています。さようなら。お元気で。美馬早苗」

「追伸、順治には絶対に連絡しては駄目よ。どんなに辛くても耐えるのよ。自分から薬に手を出したら一生苦しむことになるわよ。あなたはちゃんと次の人生を歩みなさい。」

 メールを読み終えて、水城は悔しさに歯噛みした。

「くそっ、あの野郎」

 怒りで脳みそが沸騰しそうだった。

 そんな水城の頭を冷やさせようとでもするかのように、さわやかな風が窓から吹き込んできた。その風に乗って柔らかな甘い香りが漂ってきた。

 不意に視線を感じた。刺す様な鋭い視線だった。首だけ動かして周囲を見回した。だが、部屋の中には人の気配は無い。窓の外から覗かれているというわけでもなさそうだ。窓からは赤い夕日が差し込んでいるが、カーテンには人の影など映っていない。

「気のせいか?」

 水城は誰にとも無くたずねた。もちろん返事は返ってこない。だが、違和感がある。動悸がして、得体の知れない不安が頭の中をかき乱す。

 薬の影響がまだ残っているのだろうか?

 幻覚や幻聴が現れる前触れなのだろうか? 

 ベッドに座ったまま布団をぎゅっと握り締め、身を硬くした。

 窓の外から、カラスの鳴き声が間抜けな調子で聞こえてくる。

 夕日はいっそう赤みを増し、凄惨せいさんな赤が部屋の中を血の色に染め上げていく。

 しかし、一向に何も起こらない。

 恐ろしい幻覚も見えなければ、気味の悪いお経のような幻聴も聞こえてこない。

 先ほど感じた柔らかな香りだけがどんどん濃くなっていく。ミルクのような甘さと、レモンのような酸っぱさのある匂いだった。懐かしいような、温かいような、そんな感じがした。


12

 水城が匂いの元を探して左右に首を振ると、匂いは掠れてしまった。上を向いても同じだった。少しうつむくと、匂いはやや強まった。匂いはベッドの下から香っているらしい。

 水城は足元に視線を落とした。

 部屋の中には、ベッドのほかに小さな座卓ざたくが一つと、吸殻が詰まったビール缶が数本と、雑誌、座布団、雑多な物がそこかしこに無秩序むちつじょに散らばっている。テレビやラジオの類はない。したがって、定位置があるのはベッドくらいな物で、他は使うたびに位置が変わる。片付けなどほとんどしなので、そこら中にゴミが落ちている。

 水城は日頃、床をなるべく見ないようにして過ごしている。その惨状を見ると気分が悪くなるからだ。床に目を落とすとしたら何か探し物をするときくらいだった。

 酷く散らかった床。潰れた柿の種や、煙草の吸殻、ティッシュのくず、アダルト本、脱ぎ捨てた靴下、抜け落ちた陰毛、見知らぬ少女など、ごちゃごちゃに散らばっていた。いつも通りの光景である。

 いや、違う! 

 水城は違和感を覚えてもう一度床を見た。

 違和感の正体はすぐに分かった。床に、見知らぬ少女が転がっていたのだ。

 少女はフローリングの上にだらりと横たわっていた。

 ランドセルの似合いそうな幼い目鼻立。アタッシュケースにでも詰め込んでしまえば、まるっと収まってしまいそうな小さい体。そんな彼女が半目を開いて、妖艶な表情で水城を見上げていた。とろんと蕩けた目つきは水城を誘っているようだった。

 少女は赤いワンピースを着ていた。髪をくくったゴムにも小さな赤い花がついている。ワンピースの裾に黒っぽい染みがあり、肌蹴はだけたスカートの下にある足は、太ももからふくらはぎまで、真っ青に鬱血うっけつしていた。首の辺りにも痣がある。

 可愛らしい少女が、青白い顔をして、床の上に転がっている。それも、変なポーズで固まっている。そんなキャラクターがいるわけでも、ギャグやポーズがある訳でもないが、少女のポーズを形容するには「」と言うがぴったりというような、変な格好だった。

「おったまげるのは俺の方だ!」

 水城は少女に向かって毒づいた。

 突然部屋に死体が転がっていて、驚くのは、どう考えても部屋の主の方だ。

 水城はしばらく、どうするべきか考えた。警察に行くべきか、それとも少女をどこかに隠すか。本当なら、すぐにでも警察を呼ぶべきだ。だが、水城の体にはまだ麻薬の成分が残っているはずだ。薬物中毒のクラブボーイの家に、幼い少女の死体と言う状況。殺人犯の濡れ衣を着せられるかも知れない。

 身に覚えの無い殺人なんかで捕まってたまるか!

 だが、自分の身の潔白にも自信が無かった。

 もしかすると、薬を飲まされて朦朧もうろうとし、何かの弾みで少女を殺してしまったのかも知れない。記憶には曖昧な部分も多い。ハイになっていた勢いで小さな女の子を誘拐し、殺害していたとしたら。恐ろしい考えに思い至り、水城はぶるっと身震いをした。

 水城はカーテンを硬く閉じ、蛍光灯をつけた。少女は相変わらず、おったまげ丸をやっている。足があらぬ方向にじ曲がっていて不気味だが、どこか官能的でもあった。

 舐めてみたい。

 甘い香りのする少女に浮かび上がった青い痣を見ているうちに、そんな衝動が芽生えた。表皮が捲れ上がって出来た傷口は、れた桃のように瑞々しく鮮やかな光彩を放っている。固まった血の雫は飴玉のように艶めいている。

 舐めてみたい。

 いけないと思いながらも、抑えがたい欲求にき動かされて、水城は少女の足にそっと舌を這わせた。

 少女の体はほんのりと甘く、そのうえ柑橘かんきつ系の風味がして、後味が爽やかだった。それでいて、どんな高級ワインよりも奥深い味わいだった。甘露かんろの一滴を飲み下したような至福が口の中いっぱいに広がっていく。

 水城は少女に馬乗りになって少女の匂いを確かめた。首筋、胸、太もも。まるで、どこを嗅いでも心地よい香りがした。

 麻薬の影響か、それとも少女のせいなのか、夢心地の快感が水城を包んだ。わずかに残っていた理性もしだいに鈍くなっていった。

 人形みたいだな。水城は硬直こうちょくした少女の体を力ずくで動かしてみた。少女にさまざまなポーズを取らせたり、関節を捻り上げてみたりしながら悦に浸った。

 背徳はいとく的な喜びに水城は高揚した。

 本当に人形みたいだな。

 服の下は機械仕掛けだったりして。

 SFのような妄想に駆られて、水城は少女の服を脱がした。

 少女の服の下には、水城たちと変わらぬ人間の肌があった。奇異きいな点と言えば、下腹部に大きな穴が開いていて、所々が青黒く変色している所くらいだった。

 裸になった少女は服を来ていたときよりも一層幼く見えた。

 水城は裸の少女はそのままに、彼女の服をまさぐった。

 ポケットからハンカチが出てきた。裏面にマジックで「みき」と書かれていた。

「みきちゃんって言うんだ!」

 水城は少女に向けて微笑みかけた。それから、水城は狂ったように少女の死体を弄んだ。殴りったり、蹴りったり、いたり。ついには少女の体に食いついた。壊れゆく少女。弱いものを征服している感覚が心地よかった。


 部屋の中に少女の死体がある。これが現実のはずが無い。

 俺の屈折した欲望が、少女の幻覚を作り出しているに違いない。

 毎日がストレスの塊だった。嗜虐しぎゃく的な情動の一つくらい芽生えて当然だ。

 誰だって一度や二度、想像の中で人を殺したり、傷つけたことがあるだろう。それと同じだ。飲まされた麻薬のせいで、想像したものがリアルに見えているだけだ。

「それなら、せいぜい楽しめば良い!」

 水城は狂気をはらんだ目をして、にやりと笑った。

 麻薬なんて二度とするつもりはない。だから、今は楽しもう。

 薬がめたら、あとは普通に暮らせば良い。

 借金を返すあてもついた。恐れるものは何も無い。

 目の前に転がる少女は、ただの幻影げんえいだ。たとえ、彼女がどんなにリアルでも、俺が彼女にどんな罪を働こうとも、明日には全て消え、何もなかったことになっているだろう。


 そう、これは小さな問題だ。


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