第3話 秋

 町並みが秋の色に変化しようとしている。葉の色、食べ物の色、服の色、それら全てを収める事ができる写真の色。いったい何の色を見つめているのかな。かけにいは、部室の窓から外を眺めていた。ここ最近、元気がない。シンペが声を掛けると〝大丈夫〟と静かに答えるだけだった。美紀が部室に来なくなってから、二ヶ月近く経つ。写真の少年が修二さんと分かってから、2人の間に距離が出来た。かけ兄は、きっと修二さんと話がしたいはずだよね。でも、美紀の事を考えると、それが出来ない。ある程度の理由を知っているシンペは、どうすれば良いか考えていた。

「なあ、翔」

「うん、何?」 

「サッカー部、次は決勝だって」

「そっか、勝てば2年連続で全国大会出場か。いつ?」

「今週の日曜日。それでさ、試合の写真、学校から頼まれている。大丈夫か?」

「うん、分かった」

 本当に大丈夫なのかな。あれから、かけ兄は写真を撮っていない。撮影旅行で撮った写真も、秋のコンクールに出展しなかった。氷川先生から問い詰められても、納得する写真が撮れなかったと答えていた。たった一枚の写真が、かけ兄を追い込んでいる。今の所、どこにも逃げ道が無いみたい。シンペは静かに立ち上がり、部室を後にした。静かな空気が流れ、時を止めている。かけ兄の頬を流れる涙は、私の手を通過した。溢れた涙は自然に消えるが、残された悲しみは心の中に溶け込んで行く。かけ兄の心が、どんどん伝わって来る。でも、私の目から涙は出てこない。どうしてだろうね。

 いっしょに泣きたいのに、ねえ、かけ兄。

 

 私は今、美紀の隣にいる。時刻は朝の6時。今日、サッカー部の決勝戦が行われる。彼女は部屋のカーテンを少し開けた。広く澄み渡った青い空が見える。久しぶりに彼女の笑顔を見た。彼女は用意を済ませ、リビングへ向かった。

「おはよう」

 修二さんが朝のランニングから帰ってきた。

「あっ、お兄ちゃん、おはよう、調子はどう?」

「うん、調子は良いよ。今日の試合、見に来るだろう?」

「うん、綾と一緒に行く」

「そうか。ところで、翔は来ないのか?」

「ごめん、知らないの。最近、部室に行ってないから」

「どうした?何かあったのか?」

「別に、何もないよ」

 修二さんは、思っている事を口に出さなかった。

 横浜市民グラウンドの周りには、大勢の人が集まっていた。もうすぐ高校サッカー選手権大会、神奈川県予選の決勝戦が行われる。2大会連続出場を目指す神奈川県立港南高校に立ち向かうのは、横浜市立南海高校だ。スタンドには、応援団や吹奏楽部の姿が見える。港南高校の垂れ幕には、闘志という大きな言葉が刻まれ、たくさんのメッセージが書かれていた。選手達は、グラウンドに出てウォーミングアップをしている。その中に修二さんの姿が見えた。9年前の事故、彼は覚えているのかな。私へ向かって蹴ったボールは、全てを見ていたはずだよね。

 私は、バス亭へ移動した。

 かけ兄の姿が見える。しばらくすると、1台のバスが到着した。かけ兄は乗客の中からシンペを探している。

「えっ、美紀」

「翔先輩?」

 バスから降りてきたのは、シンペでは無く美紀だった。その時、2人の携帯にメッセージが入った。2人共、画面を見ながら苦い顔になっている。シンペと綾から送られてきたメッセージには〝おせっかいな友達を持ったと思って諦めて下さい〟と書いてあった。きっと、どこかに隠れて見ているかもね。

 本当に良い友達を持ったね、かけ兄。

 スタンド内は、観客や生徒達で埋め尽くされていた。凄い熱気が伝わって来る。2人は学校側が確保している席に座った。いちばん良い席かもしれない。きっと、撮影を頼まれているからだ。

 美紀は、ビデオカメラの画面を真剣に見つめていた。

「どうかした?」

 かけ兄も気になったみたいで、画面を覗き込んだ。

「この人、私の父親」

「そうなんだ。えっ」

 かけ兄の顔が固まっている。間違い無かった。あの夜、この中年男性と母は、寄り添う様にしてホテルへ入って行った。

「ご、ごめん、ちょっとトイレに行って来る」

「うん、分かった」

 かけ兄は、ゆっくり立ち上がり通路へ出た。何だか少し足元が、ふら付いている様に見える。ねえ、大丈夫と私は声を掛けた。その聞こえない声と同時に、かけ兄の体は床へ倒れた。警備員が「大丈夫ですか」と叫んでいる。かけ兄の周りに人が集まって来た。グラウンドから聞こえる大きな歓声と、救急車のサイレンが同時に鳴り響いていた。

 僕は、真っ暗な森の中を歩いていた。薄っすらと光る月明かりが、道を作っている。どうしてここへ迷い込んだのか分からない。どこからか、女の子の声が聞こえて来た。〝こっちだよ、こっちだよ〟と叫んでいる。どこかで聞いた事のある声だった。辺りを見回すが姿は見えない。僕は、声がする方へ進んで行った。森を抜けると、高い丘の上に出て来た。目の前に大きな月が見える。何となく、自由に飛べる様な気がした。すると、また声が聞こえて来た。〝飛べるよ、飛べるよ〟いったい誰の声だろう。僕は思い切って、丘の上から飛んだ。

〝目の前に白い天井が見える。頭がボーとして体が重たい〟

 良かった。目が覚めたみたいだね、かけ兄。

「翔、大丈夫か?」

 慎平が心配そうに、僕を見ていた。美紀、綾、氷川先生もいる。

「僕はいったい・・・」

「横浜市民グラウンドの通路で、突然倒れた。本当にびっくりしたよ。疲れから来る貧血だそうだ。お母さんの方へ連絡したが、留守番電話だったよ」

 氷川先生が、安堵の顔を浮かべながら答えた。

「御迷惑掛けました。あっ、そういえば試合、写真も撮れなかった」

「試合は勝ったよ。写真も撮ったから心配する必要はないから」

 何だか、今日のシンペは頼もしく見える。しばらくしてから、氷川先生が病室から出て行った。気を使っているのか、シンペと綾も先生の後を追った。

「ごめんね、私のせいだね」

「違うよ。僕が引きずっているだけだ。本当の事が分かったとしても、妹は帰って来ない。ただ自分が楽になりたいだけだ」

「私、やっぱり、お兄ちゃんに・・・言う」

 かけ兄が大きく首を振っている。

「もう少しだけ考えたい。だから泣かないでくれよ」

 かけ兄が、美紀の頬を触っている。でも、何だか安心した。ひとりで背負っている荷物が、少し軽くなったみたいだから。

 僕は診断書と薬を受け取ると、タクシーに乗り家へ向かった。頭の中に、新たな疑問が浮かんでいる。母がホテルで会っていた中年男性は、美紀の父親だった。こんな偶然ってあるのだろうか。

 かけ兄の目に写っている景色が、流れる様に移り変わって行く。私の人生も、こんな風に速かったよね。自らの行動により決まって行く人生を、運命という簡単な言葉だけで表していいのかな。難しい意味だけが頭の中に残り、もっと大切な物を忘れている様な気がする。

 ねえ、かけ兄はどう思う。

 マンションのリビングは、静かで心地良かった。僕は、ソファーに倒れ込んでいる。目を閉じて、何も考えない様にしたが、無理だった。

 かけ兄は、鞄から診断書を取り出した。次の瞬間「えっ」という聞き逃してしまいそうな声が聞こえた。下から覗き込む様にして診断書を見たが、全然分からない。

 僕がAB型?そんなはずは無い。僕は父さんと同じ、O型のはずだ。母さんはB型だから、O型との間にAB型は生まれない。どうして?まさか?

 かけ兄は、ソファから起き上がり診断書を睨み付けていた。

 僕の頭に、違う新たな疑問が覆いかぶさった。

 玄関から物音が聞こえた。たぶん母が帰って来たのだろう。かけ兄は慌てて診断書を鞄へ戻した。勢い良く、リビングのドアが開いた。

「大丈夫なの?」

 母は少しだけ息を切らしていた。

「うん、軽い貧血だって」

「そう、良かった。今直ぐ何か作るから、お腹空いたでしょ?」

「まだ少し疲れているから、もう寝るよ」

「でも、少しぐらい食べないと」

「大丈夫、点滴したから」

 かけ兄は、鞄を掴み部屋へ入った。外を見ると、小雨が降っていた。そういえば確か、あの日も雨だったね。

 初めて行く遠足の前日だった。かけ兄は私の為に、てるてる坊主を作ってくれたよね。私は喜びながら〝どうして雨は降るのかな〟と質問をした。憶えているかな。人間と一緒で、自然も生きているからだと答えてくれた。さらに、空も色々な顔を持っていて、晴れている時は笑い、雨が降ると泣き、嵐になると怒ると教えてくれた。それに対して私は、いつも晴れで笑っている方が良いよねと言った。それじゃ、てるてる坊主の出番が無くて、かわいそうだろう。そう言いながら、かけ兄は優しく微笑んだ。遠足の日、温かい太陽が私を包んでくれた。

 私は思わず、てるてる坊主の唄を口ずさんだ。その時、かけ兄は夢の中にいた。

 

 次の日、かけ兄は学校を休んだ。母も仕事を休むと言ったが、かけ兄の大丈夫という言葉に押され、いつもの時間に家を出た。しばらくしてから、かけ兄が洋服を選んでいる。どこかへ出かけるのかな。あまり無理しない方がいいのに。

 かけ兄は自転車で川沿いを走っていた。昨晩の雨は、今朝方止んだみたいだね。私の唄が効いたかもしれない。いったいどこへ向かっているのかな。新たな事実が、かけ兄の背中を押している。知らなくても良い事なんて、星の数ほどあるかもしれない。たとえ知ったとしても、何が変わるのかな。私は知るのが怖い。

 ねえ、かけ兄は怖くないの。

 かけ兄が大きなコンクリートの建物に入って行く。もうすぐ走ると、港ヶ池公園が見えるはずだ。建物の門に、神奈川県港南市役所と書いてある。かけ兄は受付番号のチケットを取り、椅子に座った。横から親子の会話が聞こえて来た。母親の膝に、小さな女の子が座っている。来年から通う幼稚園の話をしていた。どこかで聞いた事のある方言が混じっている。引っ越して来たばかりなのかな。かけ兄のチケット番号が表示された。カウンターへ行き、係員の人と話をしている。保険証を見せ、何かの書類に印鑑を押した。また椅子に座り待っている。しばらくしてから、封筒が手渡された。かけ兄は、中身を確認する事無く外へ出た。

 厚い雲から太陽の光が差し込んでいる。全体を照らさない自然の働きが、神秘的な世界を作り出していた。

 かけ兄は、港ヶ池公園のベンチに座っていた。時より、寂しそうな顔が見える。公園にある遊具で幼児達が遊んでいた。悩みなんて、まだ無さそうだ。悩むという感覚は、いつ頃から生まれて来るのかな。あの頃の私も、些細な事で悩んでいたかもしれない。例えば、給食の献立に嫌いな食べ物を見付けた時、着て行く服を決める時とか。たくさんの言葉が浮かんで来る。あの時は、嫌いだからと言って逃げたかもしれない。どっちか分からないから、決めてもらったかもしれない。自分自身の人生なのに、自分で決める事ができない。これって贅沢な悩みなのかな。

 僕は、封筒から書類を取り出した。本籍と書かれた住所の下に、父である孝之の名前が見える。その横に母、僕、そして舞の名前が続く。父と舞の名前には、大きなXが付けられている。死亡しても、名前は残されたままだ。僕は自分の名前である〝翔〟の上側を睨み付けていた。父親の欄に、孝之とは違う名前が記載してある。知らない名前だ。さらには、養子という見慣れない言葉。母親の欄には、小春という名前が見える。母は、僕を連れて父と再婚したんだ。書類を破り捨て様としたが、思いとどまった。そして〝舞〟の上側を見た。心が強く締め付けられて行く。母とは違う、知らない名前が見えた。舞も父の連れ子だった。だとすれば、僕と舞は本当の兄妹では無い。

 本当という意味って何だろう。私の体は消えて無くなったけど、心はどこかにある。かけ兄の心も感じる事が出来る。そして、それは繋がっている様にも思える。これ以上の本当って、どこかに存在するのかな。

 かけ兄は、ベンチから立ち上がり自転車に乗った。駅の方向へ向かっている。大丈夫かな、何だか心配だ。駅に着くと自転車を預け、バスへ乗った。表示に磯子の丘方面と書いてある。もしかして、私の所に行くのかな。

 バスに揺られながら、私は昔の事を思い出していた。かけ兄よりも、かけ兄の事を知っている。あんなに大好きだったサッカーを辞めた事。私が書いた絵を、今でも大切に持っている事。初恋の事。もっともっと知っている。でも、かけ兄は6歳までの私しか知らない。私は、かけ兄の近くで色々な事を見てきた。まるで生きているかの様に、何でも吸収していった。それらは消える事無く、心の中に蓄積されている。だから私は、ひとりぼっちじゃない。

 かけ兄の寂しそうな顔が窓に写っている。ずっと外を眺めているけど、心は何処か違う所を見ていた。

 どうして母は本当の事を教えてくれないのだろう。僕の為、それとも自分の為。家族の意味が分からなくなった。見えない絆は、誰かから与えられる物だと思っていた。例えば家族からとか。そんな物が無くても、簡単に家族は作れるだろう。今は何となくそんな気がする。でもきっと、ガラスみたいに壊れやすいだろう。誰も壊したくて壊している訳じゃない。そんな意味の無い言葉が、どこからか聞こえて来る。全ての想いを言葉にする事は出来ない。どうして多くの言葉が必要なのだろう。人は理由が分からないと、なぜ安心できないのか。

 私は言葉を交わさなくても、相手の気持ちが手に取る様に分かる。でも何の役にも立たない。

 大きなコーナーを曲がると、青い海が視界に入って来た。かけ兄はバスの窓を少し開けた。バスの速度に押されながら、潮の香りが入って来る。かけ兄は心を静める様に、息を大きく吸い込んだ。生きていく上で必要な物の価値観が、段々と分からなくなる。そんな難しい言葉が、かけ兄の口から出てきそうだった。

 かけ兄は、墓苑前という滞留所で降りた。静かな空気が漂い、時より吹く風の音が普段より大きく聞こえる。門を通過すると、レンガ作りの通路に変わる。墓苑に続く長い通路に沿って、イチョウの葉が少しだけ積もっていた。何となく、秋の終わりが近づいて来ると寂しくなる。かけ兄が、墓前で私へ話し掛けて来た。

「舞、僕達は本当の兄妹じゃ無いみたい」

〝うん、知ってる〟

「どう思う?」

〝そう言われても、何か実感が涌かない〟

「なあ、憶えているか?」

〝何?〟

「舞が大事にしていた絵本に落書きをした時の事」

〝何となく憶えているかな〟

「泣きながら言ったよな。かけ兄なんて、私のお兄ちゃんじゃないって」

〝私そんな事、言ったの〟

「ごめんな」

〝本当の兄妹なんてお互い謝らないもんだよ〟

 かけ兄は、それから私に何度も謝った。何となく気が重い。私達が一緒に過ごした6年間は嘘だったのかな。私は楽しかった。かけ兄は、そう思っていないのかな。

 誰かが入り口の方から歩いてくる。私の驚く声と同時に、かけ兄が振り向いた。美紀が花束を持って歩いて来る。2人共、もう気付いているよね。

「どうして?」

 かけ兄の声は元気が無かった。

「小坂先輩から無理やり、ここの場所を聞いて」

 美紀は申し訳なさそうに答えた。

「そっか」 

「体は大丈夫なの?」

「うん」

 2人の距離が、縮まったり離れたりしている。互いの気持ちを思えば思うほど、磁石の様に引きよせられて行く。

 美紀は墓前に花束を置くと、手を合わせた。私は彼女の耳元で「ありがとうね」と囁いた。私の心へ向かって、何度も謝っている。美紀のせいじゃないのに。何だか息苦しくなってきた。変だな、呼吸なんて出来ないのに。肩が触れそうな距離を保ちながら、ベンチに座っている。目の前に見える海と空は、一本の線で分かれていた。繋がっている様にも見えるけど、繋がっていない。でも私には分かる。目には見えないけど、自然の繋がりは感じる事ができる。まるで、今の2人みたいに。

「どんな妹さんだったの?」

「いつも僕の周りにいて、大きな声で笑っていたかな」

「何だか分かる様な気がする」

「どうして?」

「私もそうだったから。お兄ちゃんには、いつも笑っていてほしかったから」

 かけ兄の目から流れ落ちた涙は、一瞬だけ光った。

「強くなりたい」 

「うん、私も」

 ハンカチを手渡した美紀の目からも涙が落ちた。

「何だよ、今強くなろうって言ったのに」

 かけ兄は手渡されたハンカチで、美紀の涙を拭きながら顔を近づけた。風で揺れたハンカチで、2人の顔は見えなかった。

 

 かけ兄は、パソコンに向かって手紙を書いていた。宛名には本間圭介と書いてある。確か、私の事故を担当していた刑事の名前だよね。現在は警察を辞めて、実家の千葉県に住んでいるらしい。かけ兄は、打った文字を真剣に見つめていた。画面を見ると、事故の詳細に触れながら、いくつか教えてほしい事があると書かれていた。そして、私と修二さんが写っていた写真の事について少しだけ触れている。差出人の名前には、某新聞記者Kと書かれていた。さらにその下には、連絡を取るために用意しておいた、メールアドレスが書かれている。何だか心配になって来た。この手紙は何処へ届くのだろう。かけ兄と一緒に過ごした過去。それとも、私達が知らない遠い未来なのかな。

 手紙を出してから一週間が過ぎた頃、かけ兄は駅前のネットカフェにいた。壁で仕切られた狭い部屋の椅子に座り、ずっとパソコンを見つめている。しばらく考え込んだ後、メールボックスを開いた。私は思わず〝あっ〟と言った。1通の着信が入っている。かけ兄を見ると、思った以上に驚いていない。直ぐに、かけ兄の指先が動いた、そして、画面に文章が現われた。

【よく調べているね。確かに見識では、事故死という結果が出た。しかし、不可解な点もいくつかあった。あなたが持っていると思われる写真も、そのひとつだろうと思う。もう私は警察の人間では無い。言ってみれば自由の身だ。もしあなたが写真を見せてくれるならば、私が知っている情報を教えてもいいだろう】

 かけ兄は、メモリースティックに入れておいた写真を相手へ送った。どうしてそんなに 急いでいるのかな。受け取ったメールの日時を見てみると、今から15分ぐらい前に送られていた。もしかすると、相手はパソコンの前に座っているかもしれない。かけ兄の予測は当たったみたいで、20分ぐらい待った後に相手から返事が来た。

【まさかこんな写真が撮られていたなんて、本当に驚いている。警察は当時、事故という線で調べていた。しかし私には、ひとつだけ気がかりな事があった。それは脳内出血が引き起こされた時間と、窒息しした時間に差があった事だ。私は直属の上司に、それらの疑問を伝えた。しかし決定的な証拠が無いと検証は出来ないと言われた。そして時間だけが経過して行き、私の疑問は闇に消えていったよ。でも、あなたから送られて来た写真を見て、重要な事をひとつ思い出した】

 メールの文章は、そこで終わっていた。かけ兄は直ぐに【重要な事とは何ですか?】と送り返した。

【私の相棒だった先輩刑事に会って確かめたい事がある。少し時間が必要だ。3日後の今日と同じ時間に連絡をする】

【分かりました】

 止まっていた時計の針が少しだけ動いた。そして、意味ありげな言葉だけを残し再び止まった。僕は過去という迷路の中を歩いている。進んだと思ったら、また似たような場所に出て来ている。もしかして人生って、そういう事なのかな。迷いながら進んでいるけど、出口なんて何処にも無い様な気がする。きっと、探している間に人生なんて終わってしまうかもしれない。

 かけ兄が、ネットカフェから出て来た。たくさんの人々が交差する中、かけ兄だけ止まって見える。でも良く見ると、かけ兄の抜け殻だった。

 メールを送ってから、3日が過ぎた。予定では、今日の午後に本間圭介から連絡が来るはずだよね。秋休みに入っているので学校は無い。かけ兄は、パジャマのままリビングへ向かった。

「おはよう」

「あっ、おはよう。仕事に行って来るから」

「うん、分かった」

 入れ替わる様にして、母が急いで出て行った。かけ兄はコップに入れた水を飲むと、溜息を吐いた。少し疲れているみたい。ここ数日間、あまり眠っていないみたいだね。本間圭介の意味ありげな言葉が、気になっているのかな。母が消し忘れたテレビから、ニュースキャスターの規則正しい声が聞こえて来た。

 かけ兄は、ネットカフェでパソコンを睨みつけながら、本間圭介からの連絡を待っていた。店に入ってから、既に3時間が経っている。約束した時間は、とっくに過ぎていた。複雑に組み合わされた歯車は、まだ動かない。どこかで食い違っているのかな。蓋を開ければ見つかるかもしれないけど、鍵が見当たらない。

 それから1週間が過ぎても連絡は無かった。

 前に進む事が出来ない。そんな言葉が顔に出ている。かけ兄は、1枚の紙を見つめていた。本間圭介、千葉県勝浦市浜崎町○○○○○と書いてある。すると突然、パソコンで何かを調べ始めた。電車の路線と時刻?もしかして、本間圭介に会うつもりなのかな。

 そう思っていると、かけ兄は服を着替え、玄関を出て自転車へ飛び乗った。何だか最近、かけ兄の行動には怖いものがある。まるで、獲物を狙う肉食動物みたいに目がギラギラしている。その力を他に使う事はできないのかな。本間圭介は、私の死について何かを調べていた。だけど、それを知ったとしても私は生き返らない。かけ兄は、何の為に探しているのかな。私の為?それとも自分の為なのかな?

 横浜から勝浦までは、電車で2時間30分ぐらいだ。僕は、電車に揺られながら外の景色を眺めていた。でも頭の中は、本間圭介の事で一杯だ。彼は、僕が送った写真を見て驚いていた。まるで、何かを知っている様な素振りだった。1週間の間に、何かが動き始めている様な気がする。

 かけ兄は電車を降りると、ローカル線のバスへ乗った。年期の入った古いバスが時間を戻すかの様に、ゆっくりと進んで行く。港方面へ近づくに連れて、家の数が少なくなって行く。多くの人々が、大きな町へ住みたがる。なぜだろう?密集している都会の中で息苦しくなり、たまに新鮮な空気を吸う為に自然の場所を求めて行く。便利差を求めるあまり、人との繋がりが見えなくなる。そんな気もする。不便な事があるからこそ、助け合うという言葉が生まれた様な気がする。

 そう思わない。ねえ、かけ兄。

 かけ兄は、バスから降りると大きく腕を伸ばした。バス停の看板に書いてある勝浦港という文字が、消えかかっている。かけ兄は携帯電話で場所を確認すると、誰も歩いていない静かな道を進んだ。しばらくすると、本間圭介の実家と思われる建物が見えてきた。昔ながらの平屋建てで大きな門がある。かけ兄は、本間という文字が刻まれている表札を見つめていた。そして、インターホーンを押そうとしたが、一瞬ためらった。今なら、まだ引き返す事ができる。このまま門を通過してしまうと、また新たな力が働くかもしれない。でもここには、止めてくれる人なんて誰もいない。インターホーン越しに、女性の声が聞こえて来た。

「どちら様ですか?」

「朝比奈と申します。本間圭介さんは御在宅でしょうか?」

 少し間が空いた後に「お待ちください」という返事が返って来た。大きな門の横にある扉が開いた。年配の女性が、僕に向かって軽い会釈をしている。

「どうぞお入り下さい」

 意外とも思われる言葉が返って来た。僕は不安を感じながらも、女性の後へ付いて行った。床のきしむ音が、歩く度に聞こえて来る。女性は、居間と思われる場所の襖を開けた。目の前に見慣れない光景が現われている。白い布で覆われた大きなテーブルの上に、遺影が飾られていた。

「申し遅れました。圭介の母で、冴と申します」

 本間圭介の母親と名乗った女性は、正座をしながら深々と頭を下げた。

「一週間前、圭介は自らの命を絶ちました」

 信じがたい言葉が、僕の胸を突き刺した。痛みの無い苦しみが、心臓の鼓動を早めて行く。初めて見る本間圭介の顔は、どことなく微笑んでいた。僕は、写真を直視できずに下を向いていた。

「圭介に、こんな若い子の知り合いがいたなんて驚いた。朝比奈さんは、まだ高校生ぐらいかしら?」

「はい、高校3年生です」

 僕は、ようやく顔を上げた。 

「でも、どうして圭介と?」

「9年前に妹が事故で亡くなりました。その時に担当していたのが本間圭介さんでした」 

「そうでしたか。ところで、今日は何の用件で?」

「事故の事で聞きたい事がありました」

「そうだったの。力になれなくて本当に御免なさい」

「いいえ、とんでもないです」

「今でも信じられません。この世に、あの子が居ないなんて。父親が病気で亡くなった後に警察を辞め、水産工場を継いでくれました。確かに会社の借金はありました。でも、前向きに働いていたんです。あっ、ごめんなさい、こんな話をして」

 母親の目に薄っすらと涙が浮かんでいる。僕は必死に言葉を探していた。会った事も無い人の死を、どう受け止めていいか分からない。

「あなたなら、私の気持ちが分かるかもしれないわね」

 母親は微笑む様に、僕の顔を見た。思わず、首を立てに振ってしまった。大事な人の死を受け止めるという事は、他の人に希望を与える事と同じかもしれない。

「あっ、そういえば、圭介の葬式に来てくれた人で、確か・・・同じ部署で働いていたと言っていたわ。もしかして、何か知っているかもしれないわね。ちょっと待ってて」

 そう言って母親は立ち上がり、奥の部屋へ消えて行った。

「これを」

 母親が差し出したのは、1枚の名刺だった。

「牧原探偵事務所?」

 警察という文字が無い名刺を見て驚いた。

「今は警察を退職して、横浜の近くで探偵事務所を開いているらしいわ」

「そうですか」

 僕は、名前と住所をノートに控えた。そして、挨拶を済ませ、本間圭介の実家を後にした。訪ねて来た時の期待感とは違い、何だか足取りが重い。本当に本間圭介は自殺したのかな。自殺したいと思う人間が〝また連絡する〟という言葉を残すだろうか。掻き消したい想像は、僕の頭から消える事は無かった。その時、携帯電話が鳴った。〝慎平〟という文字が見える。

「もしもし・・・うん・・・大丈夫・・・ごめん・・・もう少しだけだから・・・ありがとう・・・じゃまた」

 最近、かけ兄の笑顔を見ていない。過去から未来へ行けない人って、たくさんいるのかな。ただ年齢を重ねて行く未来と、希望を持って進む未来とでは、何かが違う。私の死という過去が、かけ兄の未来を塞いでいる。明日という未来は必ず来る。でも、私には来なかった。公園で遊んだ後、お風呂に入って、夕食を食べ、テレビを見はずだった。私が歩けなかった未来を、かけ兄は苦しみながら歩いている。

 

 僕は次の日、最寄の駅から2つ先にある駅にいた。ポケットから取り出したメモを見つめていた。牧原浩次という名前と住所が書かれている。昨日、本間圭介の母親から教えてもらった人物だ。この先で探偵事務所をやっているらしい。しばらく歩くと商店街が現われた。時代に合わない派手な入り口が目立っている。それとは対象的に、一歩中へ入ると静けさが漂っていた。シャッターが閉まっている店もある。時代の流れに乗り遅れた結果なのか。それとも人々の心が、時代という流れに飲み込まれているのだろうか。短いアーケードを抜け不動産屋の前で立ち止まった。そして、2階の窓を見つめていた。恐らく、この場所かな。入り口だと思われる階段へ向かった。ひとりしか通れない場所を上がって行った。アルミ製のドアに、牧原探偵事務所というサインが見える。僕は、ドアをノックした。応答が無い。ドアノブを回したが閉まっている。階段を下り帰ろうとした時、目の前に喫茶店が見えた。少しだけ待つか。店の窓側に座り、本を読みながら時より観察していた。しばらくすると、薄手のトレンチコートを着た中年男性が歩いて来た。男性の顔を見ると、思わず本で顔を隠した。

 かけ兄は、驚きながらも男性の顔を見つめていた。確かに、美紀の父親が薄暗い階段を上がって行く。そして、直ぐに窓のブラインドが少しだけ開いた。間違いなく探偵事務所へ入っていった。かけ兄は落ち着きを取り戻すかの様に、コップの水を飲んだ。そして鞄から1枚の写真を取り出した。母と美紀の父親が体を寄り添う様にして写っている。5ヶ月前ぐらい前、駅の近くで撮った写真だよね。しばらく写真を見ながら考え込んでいる。

 かけ兄の推測が、どんどん膨らんで行く。すると突然立ち上がり、写真を持ってカウンターの方へ歩いて行った。店のオーナーと思われる男性に話し掛けている。

「ここに写っている男性は、前にある牧原探偵事務所の方ですか?」

「うん、牧原さんだね」

「浩次という名前ですか?」

「どうだったかな?ちょっと待って」

 男性は、カウンターの引き出しから名刺を取り出した。昨日、本間圭介の母親から見せてもらった名刺と同じ物だった。

「どうかしましたか?」

 かけ兄が黙ったまま名刺を見つめている。

「い、いいえ、どうも有難うございました」

 かけ兄は席に戻り、鞄を掴むとレジへ向かった。何となく動揺しているのが見ていても分かる。すると、誤って財布を床へ落としてしまった。大丈夫ですか、と店員が声を掛けている。たぶん、聞こえて無いみたいだね。会計を済ませ、急いで店を出た。来た時よりも更に静かな商店街の間を早歩きしている。前を真っ直ぐ見つめていた。心の中にある自然な気持ちは、人間が作り出した言葉という表現へ変わって行く。それが本当に正しい言葉なのか、分からなくなる時もある。自分の気持ちと言葉が一致しているとは限らない。かけ兄は、混乱している心の中から言葉を探している。誰へ問い掛ける訳でも無く、自分自身へ問い掛けていた。

 気が付くと、僕は横浜駅に来ていた。人々の速い流れに合わせる事なく、ゆっくりと歩いていた。どうして、ここへ来たのだろう。道路の反対側にある、母のセレクトショップを見つめていた。僕は、自分自身に問い掛けていた。母と話がしたいんだろう。何してるんだ、早く行けよ。でも、僕の脚は地面に張り付いて動かなかった。

 かけ兄は、母と繋がりたくて、ここへ来たのかな。私は亡くなって直ぐに、かけ兄の前へ再び現われた。今でも何故だか分からない。事故の後、かけ兄は学校を休んでいた。ある時、本棚から一冊のノートが落ち、開かれたページに、種の絵が描かれていた。日付は亡くなった日の6月3日。あの日、私は友達と一緒に向日葵の種を植えた。徐々に記憶が蘇って来る。次の日、かけ兄は私の研究ノートを持って学校へ行った。そして、花壇から私の名前を見つけた。小さな緑色の葉が見える。かけ兄は、私の先生に〝自分が育てたい〟と頼んだ。その日から学校へ行く様になった。3ヶ月後、クラスの中で一番大きくなった向日葵を持って、私へ会いに来てくれた。その日から、かけ兄と私の心は繋がっている。

 僕は反対側へ行く為に横断歩道の手前で待っていた。その時、母が店から出て来て、何かを探している。すると、店の前に車が止まった。運転しているのは、牧原浩次だった。信号は青に変わり、メロディーが聞こえてくる。僕は立ち止ったまま、ずっと2人を見ていた。どうして人は繋がりたいと思うのだろう。繋がるという安心の裏には、切れたらどうしようという不安が隠れている。それでも人は、なぜ繋がりたいと思うのだろうか。

 かけ兄が見つめていた先には何も見えなかった。


 かけ兄は部室へ来ていた。少しだけ開いている窓から、秋の終わりを告げる様な冷たい風が入って来る。しばらくするとドアが開き、氷川先生が入って来た。

「おはよう、朝日奈」

「おはようございます」

 先生の声が大きいのか、かけ兄の声が小さいのか、時として分からなくなる。先生は笑いながら、かけ兄の前へ座った。そして鞄から水筒を取り出すと「紅茶だ」と言って、コップへ注いだ。相変わらず、生徒思いの優しい先生だね。恩師と思える人に出会う確立ってどれくらいだろう。自分が求めていても出会わない事だってある。反対に、求めていなくても出会う事だってある。

 いずれにしても出会えて良かったね、かけ兄。

「色々と調べてみたよ」

 先生は、何かのパンフレットを机の上へ置いた。アメリカの大学案内?もしかして留学するつもりなのかな。一瞬、私も付いて行けるのかなと考えた。ここ半年で、かけ兄の周りで色々な事が起きた。出会い、別れ、そして運命の糸と言うべきか、私の事故について。過去から送られてきた真実は、再び現在と繋がり、未来へ向かい変化している。

「希望している写真や映像の勉強がしたいなら、この大学がいいかな。学校からの推薦もできる。ところで、母親と話できたのか?」

「いえ、まだです」

「手続きもあるし、早くした方がいいな。でも、進む道が見えてきて良かった」

「はい」

「そういえば、水野葵を覚えているか?朝日奈のひとつ上だったよな」

「あっ、な、何となく」

「彼女から手紙と写真が来たんだ。今は、ミャンマーで頑張っているらしい」

「そうなんですか」

 かけ兄の返事は、嬉しさを押し殺している様だった。

 先生は、葵さんが送って来た写真を、かけ兄へ見せた。現地の子供達が竹馬で遊んでいる姿。本当に楽しそうな顔をしている。そして、写真の裏には〝探していた物が見つかりそうです〟と書いてあった。かけ兄は、思わず微笑んだ。

「写真を始めた頃、ふと考える事があった」

「何ですか?」

「いったい写真って何だろう?きっと答えなんて、いくらでもあると思う。伝えたい、残したい、笑わせたい、表したい、そして人間の心という部分。歳を取るにつれ、考え方も替わって来る。朝比奈は、どう思う?」

「僕は・・・繋がりだと思います。例えば、過去から現在、そして未来へ繋げて行く。それは人間だけで無く、自然や生き物の全てが当てはまると思います。それらの写真を見た人が何かを感じ、そして何かに結ぶ付けながら歩んで行く」

「繋がりか、うん、いい言葉だ」

 先生は嬉しそうだった。私は先生が座右の名にしている言葉を知っている。それはある教育者の言葉で〝真の教育とは、教室で学んだ全ての事を忘れても、なおかつ心に残っているものである〟家族から離れて、学校という教育の場で過ごす期間は、長いようで短いかもしれない。そこで何を学び、何を教えるのか。そして、育むという言葉が示す意味は何なのか。先生は日々、考えていた。

「それじゃ、休み明けに具体的な話をしよう」

「分かりました。あっ、この写真」

「それは、記念にあげるよ。なぜか分からないけど、同じ写真が2枚も入っていた。もしかしたら有名な写真になるかもしれない」

 僕は、誰もいない静かな教室で葵さんの写真を眺めていた。何処と無く懐かしさがあり、それでいて温かさもある。何だか昔の思い出が蘇って来た。

 僕が5年生の時だった。教室では終わりの会が行われていた。もう少しで終了のチャイムが鳴る。女子生徒達の圧力的にも思える声が聞こえて来る。議題に上がっている問題は解決しそうに無い。それは、数人の男子生徒が学校帰りに行っている事。この頃はまだ、学校の近くに小さな田んぼがあり、春になると蛙の鳴き声が響き渡っていた。彼らは小さめの蛙を捕まえた。そして交通量の少ない道路の脇で車を待つ。しばらくすると、前方で待機していた男子生徒が合図を送った。受け取った相手は、車の運転手に見つからない様、そっと蛙を道路へ投げる。走って来た車で、蛙の姿が一瞬だけ見えなくなった。次の瞬間、蛙は飛び跳ねながら道路を渡っていた。やったー、俺の勝ちだー、何だよ、また負けかよ、という声が聞こえて来る。彼らが、ゲームだと言い切った言葉は教室の空気を変えた。お前達だって、蚊やゴキブリを殺すだろうという意見が飛び交う。議論を聞いていると、どこかで線引きをしなければ終わらない様な気がしてきた。まるで人間が命の優先順位を決めているみたいだ。すると、黙って聞いていた担任の先生が口を開いた。「道徳の授業で〝命の重さ〟というテーマで、ひとりずつ意見を発表してもらう。但し、議論はしない。このテーマに関して言えば、色々な考え方があって当前だと思う。だから、それらを共有して自分なりに正しい答えを探してほしいと思う」何となく濁した様な言葉は、人生経験が少ない僕達へ伝わったのだろうか。

 道徳の時間が来た。緊張している生徒もいれば、笑っている生徒もいる。僕のノートには、何度も書き直した跡が残っていた。生徒ひとりずつの発表が始まる。自然の恩恵があるからこそ生きていけるという意見。弱肉強食の世界だと言い切る生徒もいた。戦争という観点から見ると命の重さは軽すぎる。そう発表した生徒の祖父は、戦争で命を落としていた。ひとりずつの意見が終わる度に、命という天秤は左右へ傾いていた。僕は立ち上がり先生を見た。そして少しだけ息を吸い込んだ。「テレビから災害や事故で亡くなった人たちのニュースが流れて来ました。聞いていると心が痛くなって来ます。でも次の日、痛みは取れていました。もしこの命が、自分自身に関わっていたとすればどうでしょうか?例えば自分の家族や大切な友達。たぶん心の痛みは簡単に取れないと思います。原因は分かっていても、取り除く事ができない。この違いは何ですか?これが命の重みですか?自分に関わっていない命は軽いのですか?もし命の重みに差があると感じるならば、自身の心に問い掛けるしかないかもしれません。その心によって命は軽くなったり、重くなったりすると思います」先生は目を瞑りながら何度も頷いていた。その後、男子生徒達による放課後のゲームは見なくなった。でも僕は知っている。ゲームの内容が変わっただけで、彼らの心は何も変わっていなかった。命の重さなんて言葉で表す事ができない。人生から学んだ事を自分なりに表現して伝えるしかない。

 かけ兄は写真を鞄へ入れると立ち上がった。引かれた椅子の脚と床が擦れ合う。何千回と聞いた耳障りな音も、いつかは忘れてしまう。私の事も、いつかは忘れてしまうのかな。ある母親がテレビの番組で言っていた。「子供は成長と共に思い出を少しずつ忘れて行きます。特に愛情を注いだ幼少期の記憶は、ほとんど無いでしょう。分かっていても寂しいものです」子供に取って、両親が持っている一方通行の思い出とは何だろう。思い出したくても思い出せない。でも、アルバムの写真を見ると温かさは伝わってくる。忘れているだけで心にはちゃんと蓄積されているのかな。

 かけ兄が校門を出ようとした時「翔」と後ろから呼ぶ声がした。振り向くと、修二さんが自転車を押しながら走って来た。私の心に一瞬、牧原浩次の顔が浮かんだ。かけ兄は、どうだったのだろう。お互いの拳を軽く合わしている。

「練習の帰り?全国大会も近いし」

「ああ、みんな気合い入ってるよ。そっちは?」

「あっ、うん。進路の事で先生と話してた」

「そっか。俺も真剣に考えないとな」

「プロには行かないの?」

「今は・・・まだ迷ってるとしか言えない。確かにプロからの誘いは来てる。でも自分の中に明確な答えが生まれない。いったい何の為にサッカーをしているのか?」

「確か、サッカーを初めたのって、父親が強く要望したからって言ってたよね?」

「俺の父親は小学校から大学までサッカーをやっていた。高校時代は全国大会に出場して国立競技場の芝も踏んでいる。でも怪我を繰り返して、悩んだ末にサッカーは諦めた。だから俺に自分の夢を託している。言わなくても分かるんだ」

 親が子供へ夢を託す。もう少し柔らかい言葉で言うと〝期待〟する。どこの家庭でも一度は耳にする言葉かもしれない。この聞きなれた言葉に立ち向かえば、子供は強くなれるのだろうか。

 ねえ、かけ兄、まだ強くなりたいの。

「どこの高校を卒業したの?」

「予選の決勝で戦った相手、憶えているか?」

「えっ、市立南海高校?」

 かけ兄は驚きながら彼を見た。そんなに驚く事かな。

「うん。昔も強豪高で有名だったらしい。実を言うと、俺も南海から推薦状は貰っていたんだ。でも断った。当然、父親は怒ったよ。向こうの方が、サッカーの環境は整っていたからね。しかも、父親の知り合いもいた」

「何で断ったの?」

「美紀に言われたんだ。もっと楽しんで、サッカーをした方が良いって。小学校から一緒の仲間もいたしな。だから港南を選んだ。チームの団結力は、どこにも負けないよ」

「頑張って、応援してるから」

 僕は話しを切り上げる様にして自転車へ飛び乗った。これ以上続けると、心の中に閉じ込めている気持ちが溢れ出すかもしれない。修二の事を知れば知るほど、苦しくなって行く。

 坂道で得た勢いを緩めず、かけ兄の自転車が加速して行く。何だか凄く急いでいる。そのまま止まらず、未来へ向かって走り続ける事ができたら良いのにね。

 僕は勢い良く玄関のドアを開け、物置きにしている部屋へ向かった。目的の箱を見つけるまで、時間は掛からなかった。夏休み中、偶然見つけた箱ー。中には父親の遺言書が入っている。

 かけ兄は、いったい何を確かめているのだろう。

 僕は箱から、書類を全部取り出した。底の方から本みたいな物が現われた。横浜市立南海高校卒業アルバムという文字が見える。

 この前、箱が落ちた時には気付かなかったけど、かけ兄は、気付いていたんだね。たぶん、母の物かな。

 僕は、アルバムを手に取った。クラスの集合写真を飛ばし、部活動が載っているページを開いて行く。サッカーボールを必須に追いかける選手の姿が見えた。サッカーの強豪高だけあって、2ページに渡り何枚もの写真が載っている。一番大きな写真には、全ての選手達が並んで写っていた。一列目の中央に座っている選手を見つめていた。手には、優勝カップを持っている。その下に牧原浩次という名前が見えた。さらに、若き日の母が左端に立っていた。サッカー部のマネージャーだったんだ。

 かけ兄は、全然驚きもせず何かを深く考え込んでいた。また、推測だけが大きく膨らんでいるのかな。私達が家族になる前から、母と牧原浩次は知り合いだった。2人だけの思い出は、今も消えずに続いているのだろうか。

 私と母の間には、良い思い出しか残ってない。怒られた記憶なんて、ほとんど無い。でも今の母を見ると、あの時とは何かが違う。かけ兄も、そう思っている。人は簡単に変われるものだろうか。それとも、かけ兄と私が勝手に、母という人物像を作り上げているだけなのかな。自分の気持ちを分かってほしいと相手にぶつけても、相手は同じ様な気持ちで跳ね返して来る。心を分かち合うという作業には、ある程度の妥協が必要なのかな。違うとは思っていても、とりあえず受け入れてみる。そこからスタートする事で、相手の違う何かが見えて来るかもしれない。

 かけ兄は、卒業アルバムを元の位置へ戻した。そして、自分の部屋へ向かった。窓からは爽やかに澄み切った秋空が見える。かけ兄の目には、どう写ったのだろうか。きっと今のかけ兄には、空の青さなんて気にならないよね。今、気になっているのは、母と牧原浩次の関係だけだ。

 

 かけ兄は鞄からノートを取り出し、机へ向かった。ここ最近、ずっと持ち歩いているノートだ。

 2枚の写真と一緒に、詳細が書かれている。【7歳の舞、9歳の中田修二が、向かい合う様にして立っている。彼の足元に、サッカーボールが見える。(父に買ってもらった限定のサッカーボール)彼が着ているのは、当時所属していた少年サッカーチーム(港南ヴィクトリー)のユニフォームだ】もう1枚の写真には【舞が横向きになって倒れている。恐らく、中田修二が蹴ったボールは舞に当たった?これらの時刻は、3時30分から4時30分の間と見られる】次のページには、港ヶ池公園の地図が書かれていた。私と修二さんが立っていた場所に○印が書かれている。私が発見された池の場所に×印が書かれ、○印から×印までを点線で結んでいた。当時、私達が住んでいた家も書いてあり、そこから太い矢印線で池の場所まで結んでいる。北側にある工場の横にある路地を抜け、小さな林を通る形だ。矢印線の横に【舞が歩いたと思われる道のり、約15分】と書いてある。そして西側には、幹線道路を挟んで神奈川県港南署が書かれていた。港ヶ池公園にある大きな池を中心にして円が描かれている。私が住んでいた家、私が亡くなった場所、私の事故を調べていた警察署、これらの全てが小さな円に収まっていた。距離にすれば、半径2キロメートルぐらいになるのかな。事故から9年という月日が経った今、円の中に収まっている町並みも変化している。公園の設備が増え、池の周りには柵が設置され、春になると桜の木が満開になる。時代の流れと共に新しい商業施設も増えた。思い出という変わらない景色だけを心に残し、これからも日々変化して行く。

 さらにノートをめくると、事故当時の詳細が書かれていた。【死亡推定時刻は午後5時前後。事故原因は、池に入ったサッカーボールを取ろうとし、誤って後ろへ滑り、その時に後頭部を強く打ち(脳内出血)意識が無いまま池へ落ちた。死因は窒息死】脳内出血と書かれた文字の横に赤線が引かれている。さらに赤線から出ている矢印は、直ぐ横を指していた。太い字で本間圭介と書かれている。元捜査一課の刑事で、私の事故を担当していた人物。そこには、彼から受け取ったメールの内容が書かれていた。彼が亡くなる前に残した言葉は、かけ兄の心を揺さぶっている。【脳出血が引き起こされた時間と、窒息しした時間に差があった】この言葉の中に、何かが隠されているのだろうか。それとも、言葉だけが一人歩きしているだけなのかな。もう一つ、本間圭介について気になっている事があるらしい。天秤の様な絵が見える。右側には【借金が苦になり自殺】左側には【先輩刑事との接触】と書かれていた。左側にだけ、文字が付け加えられている。【本当に借金が原因で彼は自殺したのか。それとも、メールに書かれていた通り、先輩刑事と会ったのだろうか。もし会っていたならば、舞の事故について話をしているはずだ。そこで新たな証拠が生まれたかもしれない】天秤の絵は平行に書かれていた。でも、かけ兄の心の天秤は左側に傾いている。その証拠に、牧原浩次の写真が貼られていた。この先輩刑事は、彼だと思っている。確かに、本間圭介と接触した事で、牧原浩次の名前が浮かび上がった。そして彼は、美紀と修二さんの父親だった。偶然には思えない繋がりが、かけ兄へ信憑性を与えている。

 そして最後のページには、私達の家族と牧原浩次の家族について書かれていた。三角形の線が見える。一本の線を繋げて生まれる形に何を見ているのだろう。消しゴムで簡単に消せる線は、人の繋がりと一緒なのかな。それとも、消す事のできない線は書けるのだろうか。三角形の上側に牧原浩次がいた。そこに美紀と修二さんが繋がっている。右側には母の小春と、かけ兄が、左側には父の孝之と私が繋がっていた。かけ兄と私は離れている。何だか寂しい。

 父と母の間に【互いに再婚】と書かれている。そして、いくつかの疑問が投げ掛けられていた。【父は3億円の生命保険を掛けていた。家族の為では無く、舞の為だけに。どうしてだろう?母を愛していなかったのだろうか?僕が本当の子供では無かったから?舞が亡くなり、保険金は母の手に入った。偶然と必然が絡んでいる?2人が残した物は、お金よりも軽かったのだろうか?】消化しきれない言葉の数々は、文字に表しても消せなかった。

 牧原浩次と母の間に【恋人】と書かれている。さらに【2人は同じ高校に通い、知り合いだった。いつ頃から、恋人関係になったのだろう?父が亡くなる前、それとも、ずっと前なのか?もしかすると、牧原浩次は保険金の事を知っていたかもしれない】父と牧原浩次の間に【?】マークが書かれ【父は、2人の関係を知っていたかもしれない。だから保険金を家族の為に残そうとはしなかった】と書かれている。

 かけ兄は、ノートの上でペンを走らせていた。頭の中では、とっくに整理が出来ているみたいだね。その考えを文字にする事で、迷路から抜け出したい。そんな想いが、ひしひしと伝わって来る。力を入れすぎなのか、何度もシャーペンの芯が折れた。私は必死に文字を追いかけた。かけ兄の推測が形になり、歩きだそうとしている。

 私は、やっぱり殺されたの?誰に?

 玄関の方から物音がした。母が帰ってきたのかな。かけ兄は慌てて、ノートをベットの下へ隠した。

「翔、入ってもいい?」

「う、うん」

「ちょっと聞きたい事があるの」

「何?」

「昨日の夜、7時頃、私の店へ来た?」

「行ってないよ」

「そう、スタッフが、あなたを見かけたと言っていたから」

「見間違いじゃないの。昨日は慎平の家へ行ってたよ」

「そうなんだ」

 母は、かけ兄の嘘を黙って吞み込んだ。もっと問い詰めたりすれば、何かが見えて来るかもしれない。親子だからこそ、付いてはいけない嘘、付いてもいい嘘。そんな、たくさんの嘘が普通に転がっている。多くの親子たちが、それにつまずきながらも、何とか踏ん張っている。かけ兄と母は、どうなのかな。

 思春期に入ると、多くの子供は自身で壁を作って行く。中心に自分がいて、その周りには、家族、友達、学校、社会といった、大きな壁が立っている。上から見ても出口なんて何処にも無い。自分自身で壁を壊して行くしかない。もし壊さないまま大人になると、どうなるのかな。自らが作った壁に、押し潰されないだろうか。そんな不安が頭をよぎる。壊す方法なんて誰が教えてくれるのかな。


 次の日、かけ兄宛てに手紙が届いた。差出人は、本間圭介の母からだった。かけ兄が首を傾けている。その表情には、少し期待感が見て取れた。とても綺麗な字で『先日は、わざわざ来て頂いて有難うございました。あれから少し気になって、再び圭介の遺品を確認してみました。あなたと出会って、何だか気持ちが楽になった様な気がします。もう遺品なんて見たくも無いと思っていましたから。その中から一枚の書類を見つけ、そこに妹さんの名前が書いてありました。もしかしら、何かの役に立つかもしれないと思ったので、同封しました』

 かけ兄が、その書類を手にしている。鑑識結果のコピーだと思う。内容を見てみると、私達が知っている事ばかりっだった。でも、かけ兄は釘いる様に書類のある部分を見つめている。本間圭介が書いたと思われる走り書きの文字があった。『もう一度、鑑識結果の詳細を渡辺さんに聞くべきか?もう退職していて非常勤講師をしているらしい。電話番号は、XXX0586XXX』かけ兄は考えた末、その番号へ連絡してみた。渡辺という人物は、かけ兄の話を聞いてくれ、会ってくれる事になった。

 2日後、僕は警視庁の訓練センターにいた。応接室で待っていると、白髪に黒縁の眼鏡を掛けた男性が入って来た。

「こんにちは。君が朝日奈さんですか?」

「はい、そうです。今日は忙しい中、時間を取って頂き有難うございます」

「気にしなくても良いよ。大体のことは、先日の話で理解しているから」

「はい」

「9年前の事故で、妹さんを亡くしてしまい、本当に気の毒でしたね」

「これを見て下さい」

 かけ兄は小さく頷きながら、鑑識結果のコピーを見せた。

「確かに、この書類を提出したのは私だね。良く覚えている」

「本間圭介という刑事を知っていますか?」

「それが’ね、あまり良く覚えていないんだ。いつも、牧原君の後ろでメモを取っているだけだったからね」

「そうですか」

「彼が何か?」

「以前、本間さんに連絡を取った時、こう言っていました。脳出血が引き起こされた時間と、窒息しした時間に差があったと」

「それは少し変だな。確かに私は、その様な疑問を持っていた。でも現場での証拠が不十分だったので結論は出せなかった。だから秘密にしていたんだ。その事を知っていたのは、牧原君と彼の上司だけだった。彼らが話を漏らしたのかな」

「本間さんと牧原さんの関係はどうでしたか?」

「部署が違ったから私には分からないな」

「そうですか、分かりました」

 彼は、かけ兄の落胆した顔を見つめていた。

「君は、妹さんが何かの事件に巻き込まれたと思っているのかな?」

「・・・・」

「図星だったみたいだね。何か根拠でもあるのかな?」

「渡辺さんは、どうして妹の死に疑問を持ったのですか?」

「確かに、妹さんの死因には時間差があった。でも値としては、ギリギリの範囲だった。足りなかったのは、その事を裏付ける証拠だけだった」

「目に見える物だけを追い掛けすぎると、本当の真実は良く見えないかも。少しでも疑問を持ったという事は、何かしらの見えない力が働いたかもしれません。それらを追い掛けようとはしないんでしょうか?」

「私達の捜査結果によって、人生が変わる人も沢山いる。例え見えない力が働いていたとしても、見える物に執着しなければいけない。それが現実だよ」

「それで本当に法は人を裁けるのでしょうか?」

「難しい質問だね。人間が作った物に正解なんてないと思えば、きっと裁く事なんて出来ないかもしれない。君は、どう思うかね?」

「今は分かりません」

「これからの人生で見つけられるといいね」

「はい」

 かけ兄の強い決意が何処かへ行こうとしている。人間の気持ちなんて一瞬で変わってしまう。それを持ち続ける為には、どうすれば良いのだろう。世間で良く耳にする言葉が浮かんで来る。誰かの支えがあったから。守りたい人がいた。夢があったから。これらの言葉は突き詰めて行くと、どこかで繋がっているのかな。きっと、遠い宇宙の果てまで続いていて、見る事は出来ないかもしれない。でも、感じる事は出来ると思う。そして、人から人へ伝える事も。その繋がりは、人の決意を強くして行くかもしれない。

 かけ兄は外へ出ると携帯を取り出し、シンペに【大事な話しがある。明日の10時に家へ行ってもいいかな】というメッセージを送った。しばらくしてから【分かった】という返事が送られて来た。大事な話ってなんだろう。留学の事?それとも・・・・。私の考えを伝え様とした時、かけ兄はベランダに出ていた。手には、デジタルカメラを持っている。久しぶりに見る光景かもしれない。ゆっくりとした速度で日が沈んで行く。何が起ころうとも変わらない法則のひとつ。多くの人は、変わりたいと努力をする。そのままで十分という言葉を返しても、あまり通じない。なぜだろう。

 次の日、かけ兄は予定通り、シンペの家へ来ていた。

「大事な話って?」

 シンペの顔に不安という文字が書いてある。

「まずは、これを見てほしい」

 かけ兄は、ノートを手渡した。私の人生も、このノートみたいに薄かったのかな。シンペは、真剣な眼差しで文字を追っていた。時より、険しい顔を作っている。全て読み終わると、大きく息を吐いた。

「どうだった?」

「よくこんなに調べたね。でも、殺されたという証拠は何処にも無い。可能性があるとすれば、ここで見つけた写真だけだと思う」

「うん、分かってる」

「分かってないよ。翔は確信している。舞ちゃんは誰かに殺された。いや、もう既に犯人は、自分の中で決めている」

「・・・・」

「こんな事、もう辞めよう」

「慎平には分からないよ」

 始めて見たかもしれない。かけ兄が、シンペに対して感情を露にした姿。

「分からないよ。でも、分かりたいんだ」

 2人は涙を堪えていた。友達って何だろう。私にも友達はいた。一緒に遊んだり、勉強したり、今でも楽しい思い出が心に残っている。もし私が生きていたなら、友達と喧嘩したり、時には悩みを打ち明けたりしたのかな。

 2人共、初めて出会った時の事は憶えてるかな。高校の入学式が終わり、2人は本屋へ向かっていた。まだ、互いに顔も名前も知らない。その日は、海外で有名な写真家の本が発売される日だった。幸運にも一冊だけ本は残っていた。2人が、本を挟む様にして近づいて行く。そして、ほぼ同時に2人の手が伸びた。その時、初めて互いの存在に気付いたよね。新しい制服を見て、互いに驚いている。同じ制服、という小さな声が聞こえた。2人共、本から手を離し、ちゅうちょしている。その時、ひとりの男性が、「あった」と言いながら本を掴み取り、直ぐに立ち去った。2人は呆然としながらも、互いの顔を見て笑っていた。あの日から、2年以上の月日が経っている。

 私には、2人の気持ちが分かる。

 かけ兄は過去の自分と戦っている。今までは、見えない相手から逃げていた。自分の気持ちなんて誰も分かってくれない。そんな風に決め付けていた。でも、シンペや美紀と出会い、少しずつ変わり始めた。自分の過去を打ち明ける事で何かが見えて来た。それでも迷う事はある。シンペにだって、僕の気持ちは分からない。そんな風に想う自分が嫌いだった。

 シンペの心にも変化はあった。かけ兄から過去を打ち明けられ、日々悩んでいる。もっと自分が、積極的になるべきだと思っていた。でも気を使って、なかなか勇気が涌いてこない。そんな不甲斐ない自分が嫌いだった。

「僕、翔と出会って変わった事がある」

 シンペの言葉で、かけ兄が顔を上げた。

「自分に自信が付いた。こんな僕の事を考えてくれる友達がいる。そう思うと、何だか力が涌いてくるんだ」

 かけ兄の顔に少し笑顔が戻った。

「ひとつだけ言っておきたい。危険な事だけは、しないでほしい」

 シンペの真剣な眼差しは、かけ兄の目を捉えていた。

「うん、分かった」

 互いの分からない所なんて、たくさんあるよね。でも、私はそれでいいと思う。 だって、それを知りたいと思うから、相手の事をもっと考える。

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