第2話 夏

 梅雨が明け7月に入り、だいぶ日差しも強くなってきた。もう直ぐ本格的な蒸し暑さが襲って来る。同時に、かけにいが港南高校で過ごす最後の夏が始まる。スポーツ系のクラブは、最後の大会に向け必死に練習していた。特にサッカー部は、学校の期待を一身に背負っている。グランドでは、修二さんを中心に、セットプレーの練習が行われていた。彼の大きな掛け声が校舎まで響いて来る。美紀は部室の窓から練習風景を撮影していた。

 僕は吸い込まれる様に、彼女の姿を見つめていた。外見とは裏腹に、厳しい目付きでファインダーを覗いている。まるで修二と一緒に、戦っているみたいだ。突然、彼女は「あっ」と言うと、勢い良くドアの方へ走って行った。

「どうしたの?」

 かけ兄の声が、彼女の背中を追って行く。かけ兄は立ち上がり、窓からグランドの方を見た。サッカーゴールの裏側に人が集まっている。どうやら、修二さんの蹴ったボールがゴールポストを逸れ、歩いていた女性徒に当たってしまったらしい。修二さんは、呆然としながらグラウンドの上に立ち尽くしていた。そこへ慌てて走って来る美紀が見える。彼女は、震えている彼の手を握った。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

「えっ」

 彼は辺りを見回しながら「俺はいったい何を」と呟いた。

「お兄ちゃんの蹴ったボールが女性徒に当たってしまって」

 彼女は、人が集まっている方を指差した。それを見た彼は、酷く落胆している。その光景を眺めながら、かけ兄は修二さんの言葉を思い出していた。〝ボールを蹴っている時だけ、何もかも忘れて集中できる〟あの言葉は本当だったのだろうか。倒れていた女性徒が立ち上がると、何もなかった様に再び練習が開始された。しかし修二さんは頭にタオルを掛け、ベンチに座っている。まるで、ノックアウトされたボクサーみたいに、誰も近づけない雰囲気を醸し出していた。

 学校帰り、かけ兄と美紀は自転車を引きながら一緒に歩いていた。時刻は午後の6時を過ぎていたが外はまだ明るい。かけ兄は歩く速度を、美紀に合わしていた。確かに自分ひとりで歩く方が楽かもしれない。自分のペースで歩き、休みたい時に休む事ができる。でも、2人で歩く事によって見えてくる景色もある。

 何が見えるの、かけ兄。

「お兄さん、大丈夫だった?」 

「うん、少し動揺していたみたい」 

 2人は赤い鉄橋付近で立ち止っていた。彼女は揺れる水面を見つめている。鉄橋下は影になって暗いが、その先は反射する光で輝いていた。

「心の中にある光や闇って写真で撮れるのかな?」

「えっ」

 かけ兄は驚きながら、次の言葉を探していた。

「翔先輩が撮った、お兄ちゃんの写真は輝いていた。でもその反対はあるのかな?」

「光と闇は表裏一体だと思う。お互いが隠れていて見えない」

「ひとつって事?」

「そうじゃない。二つの関係性が密接で、切り離す事ができない」

「じゃ、あの写真にも闇が隠れているの?」

「それは僕にも分からないよ」

「なーんだ」

「ただ、光は闇を消す事が出来る。もちろん、その反対もあると思う」

 遠くの方を見つめている美紀を、かけ兄が見つめている。2人が見ている先に、いったい何があるのかな。

 あと少しで日が落ち、暗くなって行く。しかし、人間が作り出した光のおかげで暗闇にはならない。自然の光や暗闇から作り出される世界がある。そんな世界を知らない人達が大勢居る。当たり前の様に刻まれて行く自然のリズムを感じる事が出来ない。ただ忘れているだけなのに思い出せない。美しい自然の風景が載った写真集を見た時、何を感じるだろう。2次元の世界だけで満足し、現実に肌で感じたいと思うのかな。時には、見えない欲望を追いかけ、気が付けば追い回されている。社会という小さな環境が、自身を守ってくれるという安心感はある。でも、自然みたいな大きな環境の前では、誰も守ってくれない。どっちが楽しいとか、正しいとかでは無い様な気がする。

 僕は葵さんが言った言葉を思い出していた。〝あの子も何か抱えていると思う。ちゃんと見てあげて〟

 かけ兄が彼女の横顔を見つめながら考え込んでいる。彼女に惹かれている事は確かだった。

「今、私の横顔に見とれていたでしょう」

「ち、違うよ」

 かけ兄の照れる仕草と、彼女の嬉しそうな顔が見える。その姿は、薄暗くなった水面に光を当てている様だった。

 

 かけ兄がマンションへ戻ると、入り口付近に見覚えのある赤いスポーツカーが止まっていた。母が車から降りてきた。仕事帰りなのか、少し疲れた顔をしている。

「お帰り」

「ただいま」

「今日は夕食を作っていないの。外食するから車に乗って」

 母は僕の返事も聞かず、急ぐ様にして運転席へ戻った。半ば強制的に座っている助手席から、綺麗な港の夜景が見える。親子2人で行く外食なんて何年ぶりだろう。僕の記憶に残っていない思い出は、クローゼットの奥にある古いアルバムを開くしかなかった。長い沈黙が続き、ラジオから流行りの歌が聞こえて来た。重たい空気を何度も吸い、胸が締め付けられている。これから先も、こんな関係性が続くのかな。母ひとり、子ひとりになってから、9年という年月が流れた。

 かけ兄と母がホテルへ入って行く。最上階にある高級レストランで、2人は向かい合う様にして座っていた。横浜港周辺で一番の高さを誇っている。かけ兄達が住んでいるマンションの倍ぐらいはあるだろうか。レストラン内を見渡すと、若いカップルが多かった。女性を綺麗に見せる為の工夫なのか、それとも夜景の為なのか、薄暗い照明がムードを出している。私の脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。以前に駅前のホテルで、母と一緒にいた中年男性。彼は、ここへ来た事があるのかな。

「今日、担任の氷川先生から電話があったの」

「えっ」

 かけ兄は驚いて、食べ様としていた料理を皿に戻した。

「色々と、あなたの進路について話した。相変わらず何も相談してくれないのね」 

「そういう訳じゃ」

「進学コースへ進まないのね。そんなに私から逃げたいの?」

「・・・」

「もし本当にそう思っているのだったら納得できないわね。ひとり暮らしがしたいのなら反対もしないし、大学にだって行けばいい。私のお金で行くのが嫌なら、仕事してから返して。お願いだから、私を理由にして目の前にある事から逃げないでくれる」

 母親としての愛情か、それとも高いプライドから来る言葉なのか、母自身にも分からなかった。親子の関係性を切るのは簡単ではない。例え形で切れたとしても、母親という本能は生き続けている。

「もう少し考えてみる」

 複雑に絡まっていた糸が、少しだけ解けたみたい。自分ひとりでは解けない糸でも、誰かが片方を持つ事によって解けたりもする。

「それと、可愛い子ね」

「えっ、ち、違うよ」 

 久しぶりに母の前で見せる笑顔だった。

 

 今年一番の暑さが、関東地方を襲っていた。かけ兄は日陰にあるベンチに座り、噴水で遊ぶ子供達を眺めている。ここ港ヶ池公園にある水遊び専用の噴水は、夏場になると開放され、昔から住民に愛されていた。かけ兄も幼い頃、私とここで良く遊んだよね。私達の両親も、このベンチに座りながら眺めていたのかな。

 僕は、デジタルカメラで子供達を撮った。ただ遊ぶ事だけに集中しているのが良く分かる。いつ頃からか、頭の中に優先順位みたいな事柄が浮かんで来る。友達、遊び、学校、勉強、家族、大人になると、もっともっと増えて行く。何かを消そうとすると、無性に寂しくなる。できる事であれば全てを失いたくない。誰もがそう思うはずである。しかし現実は、何かを失いながら、何かを補充していくしかない。日陰の下にいても、生暖かな空気が流れて来る。僕は、買っておいた水を飲んだ。心が落ち着いている証拠なのか、おいしいと感じる。ベンチから立ち上がり、自転車を引きながら幹線道路の方へ向かった。大きな建物が並んでいる。その一角に、神奈川県港南署がある。道路を挟んだ横断歩道の前で、僕は警察署を見つめていた。パトカーが並び、警察官がひとり、入り口の前に立っていた。忘れたいけど、忘れられない記憶が、目の前に現われている。

 僕の心から消えない記憶。怖くて、ずっと母の手を握っていた。スーツ姿の刑事が、僕を見て笑っている。やさしく話し掛けられるが、彼らの目は何となく鋭かった。たくさんの質問をされた。舞が着ていた服の事。どこへ遊びに行く予定だったのか。サッカーボールの事。どんなアニメの録画だったのか。それは何時頃、と質問の度に出て来る言葉。

 かけ兄が警察署の入り口を通過して行く。受付の警察官が、カウンター越しに住民と話しをしている。その直ぐ後ろで、かけ兄は順番を待っていた。住民の大きな声が聞えて来る。隣の家で飼っている犬が良く吼えて、迷惑だという苦情だった。第三者から見ればたいした事が無くても、当事者にしか分からない事はある。時より警察官は、後ろで待っている、かけ兄の事を気にしていた。しばらくしてから住民は帰って行った。

「ごめんね。お待たせして」

「いいえ」

「えーと、用件は何かな?」

「9年前に起きた事故の件で聞きたい事があって」

 かけ兄は警察官に学生証明書を見せ、事故の件を説明した。

「ちょっと待っていて」

 しばらく椅子に掛け待っていると、スーツを着た男性が現われた。かけ兄が少し緊張した面持ちで立ち上がると、男性は軽く会釈してから名刺を差し出した。刑事捜査一課の巡査部長と明記してある。会議室に通され、向かい合いながら座っていた。机の上には、捜査資料と思われるファイルが開かれている。もしかすると、かけ兄は9年前も、この部屋に連れてこられたかもしれない。

「これに間違いないよね。2005年6月3日の午後10時頃、港ヶ池公園の北側にある池で、当時7歳だった朝比奈 舞が水死体で発見された」

「はい、間違いありません」

 調書によると、当時9歳だった僕が、家の前で最後に舞と話したのは、午後3時30分頃。そして3時45分頃、僕は舞が居ない事に気付き、家の周辺を探し始めている。4時30分頃、港ヶ池公園に行き、引き続き探してみるが見当たらなかった。僕が自宅に戻って来たのは6時頃。それから僕は、母に事情を説明した。6時35分頃、母から神奈川県港南署に連絡が入る。7時より、捜査員が出動し、10時03分頃に、港ヶ池公園の北側にある池で舞が発見された。事故当日の天気は快晴で、平均気温は23度だった。死亡推定時刻は午後5時前後となっている。襲われた形跡も無く、ただひとつ後頭部辺りに青あざが残っていた。その後の見識結果では、池に入ったサッカーボールを取ろうとし、誤って後ろへ滑り、その時に後頭部を強く打ち(脳内出血)意識が無いまま池へ落ちたという見解になっている。引き続き捜査は行われたが、決定的な証拠が見つからず、事故死として処理された。

「妹は北側にある工場の路地裏から林へ侵入したのでしょうか?」

「えーと、捜査員の記録では、そうなっているね」

「6歳の少女が、勝手にあんな場所へ行くでしょうか?」

「もしかすると、彼女の秘密基地みたいな場所だったとか」

「目撃情報は無かったのですか?」

「無かったみたいだね。ここに書いてある事が全てだよ」

 巡査部長は時計を見ながら時間を気にしている。警察側すれば遠い過去の記録でしかないのかな。かけ兄の脳裏から期待感みたいなものが薄らいで行く。どうやら、あの写真を見せる事はやめたみたい。

「ここに書いてある本間圭介とういのは、担当刑事の名前ですか?」

「えーと、そうだよ」

「この人から話しを聞く事は出来ないのでしょうか?」

「確か5年前、実家の仕事を継ぐとかで退職したよ」

「住所とか分かりますか?」

「分かると思うけど、ちょっと待ってて」

 面倒くさそうに巡査部長が出て行った。しばらくして、住所のメモを持って戻って来た。

「はい、これ」

「ありがとうございました」

 かけ兄は立ち上がると深く一礼をした。巡査部長の社交辞令みたいな言葉が聞こえてきた。

 自動ドアが開くと、かけ兄の唸る声が聞こえた。太陽の熱い日差しが、容赦なく肌に刺激を与える。

 カフェの入り口付近で、かけ兄は誰かを探している。店の奥に座っている、シンペが見えた。どうやら、彼が先に来て席を確保していたみたい。この暑さから逃れる為か、いつもより人が多い。

「ごめん遅れて」

「大丈夫。で、どうだった」

 かけ兄は警察署での内容を話し始めた。

「そうか、写真は見せなかったのか」

「うん、軽く流されそうな感じがしたから。もし9年前に、あの写真を見せていれば、話しは違ったかもしれないけど。でも、担当刑事の名前と住所は教えてくれた。訪ねてみようと思う」

「訪ねるのは良くないと思う。名前は隠して、メールでやり取りするとか」

「うん、良く考えてみるよ」

「あっ、そういえば写真を拡大したって言っていたよね」

「うん、これがそう」

 かけ兄は、鞄からアルバムを取り出し慎平に渡した。白いシャツに、ジーパンを着た私が写っている。次のページをめくると、少年の姿が写っていた。

「少年の蹴ったボールが池に入ったのかな?」

「小学生が蹴って届く様な距離では無いと思う」

「うーん」

 シンペは少年の写真を睨み付けながら考えている。

「この少年が着ている青い服、サッカーのユニフォームじゃないか?背中に少しだけ見える太い線は背番号かな」

「言われてみれば。日本代表のユニフォームかな」

「サッカーなんて全然知らないからな。そうだ、中田さん。確か、お兄さんの影響でサッカーについて詳しかったはずだよ」

「そうか、美紀に聞いてみれば分かるかもな」

「えっ、今なんて言った。名前が呼び捨てだったけど」

「あっ」

「まさか、えー、いつから」

 慎平の大きな声が店内に響いた。周りにいる客が、2人を見ている。かけ兄は恥ずかしそうにしながらも、今まであった事を正直に話した。

「そっか、で、つき合っているのか?」

「告白もしていないし。自分でも分からない」

「事故の件は知ってるの?」

「知らない」

「写真を見せる時、言わない方がいいかもね」

 僕は内心、ほっとしていた。悩みを共有する事は簡単ではない。誰かに聞いてもらいたいという反面、大きな不安も膨らむ。

 かけ兄は暗闇の中を少しずつ前へ進んでいた。その中に見える小さな光は、どこへ導いてくれるのかな。

 「でも凄いよね、写真の力って」

 シンペの力強い言葉が、かけ兄と私の耳に伝わった。

 

 3人は部室にいた。シンペが「暑い」を連呼している。扇風機だけでは、吹き出る汗を止められないみたい。かけ兄と美紀は、写真部の撮影旅行について話をしている。夏休みを利用して行われる、恒例行事になっていた。そして撮った写真は、秋のコンクールへ応募する予定になっている。

「あっ、そうだ、この写真を見てくれないか」

 かけ兄は写真を彼女に見せた。少年の顔は写っておらず、着ている服の部分だけが拡大されている。

「何、この写真」

「着ている服を見て。たぶん、サッカーのユニフォームだと思うけど、知っているかなと思って」

「うーん、どっかで見た事があるような。でもどうして?」

「いや、重要な事じゃないから。思い出したら、また教えて」 

 かけ兄は拡大写真を戻そうとした。その時、アルバムに挟んでいた実際の写真が床へ落ちてしまった。彼女は写真を拾い上げ、じっと見ている。

「はい」

 彼女は何も言わず写真を返した。

「あっ、ありがとう」

「あのー、一緒に夏の花火大会へ行きませんか?」

「えっ」

 かけ兄が驚いている。一瞬だけ部室の中が沈黙になり、扇風機の音だけが静かに響いていた。シンペが部室から出て行こうとしている。

「あっ、小坂先輩も行きませんか?」

「えっ、でも僕は・・・」

「私の友達も一緒です」

「あーそういう事ね。行こう、行こう、行くよな、翔」

 シンペは恥ずかしそうに、かけ兄の肩を掴んだ。

「あっ、うん」

「何だか2人共、変ー」

 2人は顔を合わせながら「全然」と同時に答えた。

 部室のドアが開いた。

「3人一緒か、ちょうど良かった。まあ座ってくれ」

 氷川先生が入って来た。

「えーと、撮影旅行の場所についてなんだか、ちょっと聞いてほしい。私の兄が、軽井沢でペンションを経営している。どう思う?」

 3人は互いに顔を見合わせている。別にこれといって、反対意見はなさそうだ。

「じゃ、決まりだな。日程は追って説明するから」

「あのー、ちょっといいですか?」

「なんだ、中田」

「先生は、どうして写真を撮り始めたのですか?」

「そんな事、聞きたいのか?」

「はい。興味があります」

 かけ兄とシンペは同じ事を思っていた。〝そういえば知らないな〟 

「写真を撮り始めてから、もう20年になるかな・・・」

 先生は元々、山登りの趣味しか持っていなかった。写真を始めたのには、理由があるらしい。

「当時6歳の息子と、山登りへ行く約束をしたんだ。しかし、彼の体調が崩れ、長期入院になってしまった。彼は落ち込み、塞ぎ込んでしまった。そんなある日、彼の絵日記を目にしたんだ。そこには、私と一緒に山登りする絵が描いてあった。私は悩んだ末、ひとりで山へ登った。息子が自分に何かを教えてくれている。そう思いながら頂上を目指し、たくさんの写真を撮った。心が変われば、見る景色や、撮る景色も違って来る。他の人が見れば、普通の写真に見えたかもしれない。でも、息子は喜んでくれた。今でも、あの時の笑顔が忘れられない」

「へぇー、じゃ息子さんは今、26歳ですか?」

「うん、結婚して子供もいるよ」

 先生の笑顔は、3人を包み込んでいた。

 

 かけ兄は、カレンダーを見つめていた。夏休みに入り、時間の流れが遅く感じているみたい。花火大会、撮影旅行、私の墓参り、それ以外は空白になっていた。口から溜息が漏れている。青春という短い期間に訪れる葛藤が、頭から離れないのかな。努力という言葉が、一番嫌いになる時期だろうね。でもきっと、必要だという事も分かっている。例えて言うならば、親孝行は大事だと分かっていても、行動に移す事が出来ない。そんな感じなのかな。

 誰もが強い決意を持って、夢へ向かって歩いている分けではない。でも、心という不思議な力は、誰もが平等に持っている。

 僕は、倉庫代わりにしている部屋の扉を開けた。たくさんの段ボール箱や、使わなくなった雑貨類が積み重なっている。カーテンを開けると、埃が照らし出された。

 撮影旅行用の登山リュックでも探しているのかな。その時、上の方にあった箱が床へ落ちた。たくさんの書類や封筒が散乱している。かけ兄は、思わず溜息を吐いた。

 北川法律事務所という文字が、僕の視界に入って来た。何となく気になり、中身を確かめた。

 かけ兄の顔が、段々と険しくなって行く。いったい何を見ているのかな。私は、かけ兄の背後へ回った。亡くなった父の遺言書が見える。

 僕は遺言書の内容を見て驚いた。生命保険の受取り人が舞になっている。でも、舞が亡くなった為か、受取り人は母に替わっていた。あの時、父と母が言い争っていた事を思い出した。もしかして、という疑問が浮かんだ。

 かけ兄は、携帯電話で書類の写真を撮った。罪悪感みたいな、後ろめたさが伝わって来る。母は、父の保険金で、高級マンションと、自身の店を手に入れたのかな。複雑な想いが絡み合い、部屋の中に充満していた。

 その時、かけ兄の携帯が鳴った。母の番号が表示されている。

「もしもし」

「今、何しているの?」

「いや、別に何もしていない」

 かけ兄は少し慌てながら、見ていた書類をダンボールに入れた。

「あっ、そう。それじゃ今から、カメラを持って、ここの住所に来てくれない?」

「えっ、どうして?」

「ごめん、用件は後で説明するから、急いで来て。お願い」

「う、うん、分かった」

 かけ兄は大通りに出て、タクシーを捕まえた。あの食事以来、かけ兄と母の距離が少しだけ縮まった様な気がする。また、あの日に戻れるのだろうかという期待の裏には、いつも大きな不安が潜んでいた。タクシーは横浜駅に近づいていた。

 母が目的地であるビルの前で待っていた。2人が急いで入り口を通過して行く。ドアを開けると、撮影スタジオが現われた。責任者と思われる男性が、かけ兄に頭を下げながら説明をしている。どうやら、専属カメラマンが病気で来られなくなったらしい。代わりを探していた所、母が、かけ兄の話をしたみたい。

 僕は、初めて訪れる撮影現場を見て緊張していた。すると、モデルと思われる女性が近づいて来た。女性というよりも、女の子かな。綾香という名前らしい。話を聞くと、彼女も現役の高校生らしい。メイクをしている為か、全然そう見えない

 かけ兄は、辺りをキョロキョロしていた。まだ、緊張しているみたい。そんな姿を、綾香さんが見ていた。

「私とカメラマンだけで、撮影したらどうかな?」

 綾香さんが、責任者に言った。メイクと衣装替え以外は、2人だけである。大丈夫なのかな。駄目なら撮り直せば良いという事で、直ぐに了解された。

 撮影が始まった。彼女は、僕に対して良く喋ってくれる。学校生活、友達、音楽やファッションの事。気が付けば、自然にシャッターを押していた。何度も彼女と見つめ合うが恥ずかしくならない。なぜだろうと、自分自身に問い掛けていた。

 ようやく撮影が終わった。かけ兄の写真を、責任者とスタッフが確認している。どうやら、問題は無さそうだね。

 僕は、急いで帰り支度をしていた。すると、綾香さんが近づいて来た。撮影の時とは違い、まだ少し幼さが残っている感じだ。

「あのー、私の心は写せましたか?」

「えっ、心?」

 かけ兄の驚いた顔が、レンズに写っている。

「何となく、そんな気がしたから」

「そんな事、僕には分からないよ」

「そうだよね」

 彼女は、自分を納得させる様に言った。かけ兄が、それを不思議そうに見ている。

 マネージャーが大きな声で、彼女を呼んでいる。「じゃ、またね」と言い残し、笑顔で去って行った。入れ替わるようにして、母が近づいて来た。

「助かったわ。ありがとう。これは、少ないけどバイト代だって」

「えっ、でも」

「いいじゃない、ちゃんと仕事したし、貰っとけば」

「分かった。ありがとう」

 僕は少し興奮していた。今までは、見たものを感じるままに撮っていた。良く言えば自分の感性で、悪く言えば自分よがりだ。でも、今日は何かが違う。そこには、みんなの力が集まっていた。自分ひとりの力だけでは、撮れない物もあると感じた。人間が持つ可能性の大きさを知った様な気がする。しかしそれらは、簡単に引き出せるものでは無い。勇気、夢、努力や挑戦という、キーワードが浮かんで来る。それ以前に必要な事ってなんだろうか。

 そう感じたの、かけ兄。

 

 大勢の人が横浜港周辺に集まっていた。夏休みの大きな目玉、花火大会が開かれる。船上から打ち上げられる花火の数は、約2万発らしい。かけ兄とシンペは、横浜駅の西口付近で、美紀が来るのを待っていた。2人共、大きな鞄を背負っている。もちろん中に入っているのは、デジタルカメラだ。港付近の公園には、特設会場が設けられていた。カップルや、家族連れの姿が見える。

 美紀が、友達と思われる女の子と一緒に歩いて来る。笑顔の彼女に対して、友達は下を向いていた。長い髪と黒縁の眼鏡で、顔を隠している様にも見える。

「ごめん、お待たせ。えーと、こっちが、友達の新庄綾」

「はじめまして」

 綾という友達が、ようやく顔を上げた。

「あっ、どうもはじめまして。朝日奈翔です。そしてこっちが」

「小坂慎平です」

 シンペの元気な声が響いた。綾は、かけ兄を見つめている。

「あのー、僕の顔に何か?」

 かけ兄が怪訝そうに言った。彼女は眼鏡を下げ、前髪を上げた。

「あっ」

 かけ兄は驚きながら「綾香さん?」と叫んだ。美紀とシンペが、2人の顔を交互に見ている。かけ兄は困惑しながらも、撮影現場での出来事を説明した。

「名前も違うよね。その髪も、まさか?」

「うん、綾香はモデル名なの。この髪は、カ・ツ・ラ」

「大変なんだね。そうだ」

 かけ兄が、何かを思い出した。3人に向かって、ある提案をしている。それは、かけ兄が住んでいるマンションの屋上から、花火を見る事だった。

 昨日の昼過ぎ頃、かけ兄がマンションの入り口付近を通った時だった。ひとりの管理業者が、工事道具をエレベーターへ運ぼうとしていた。屋上にある給水タンクの点検を行う為である。汗だくになって作業する業者を見て、かけ兄は思わず「手伝います」と声を掛けた。そして、一緒に屋上まで行った時、扉の鍵が壊れている事を知った。

 彼らは、コンビニで買い物をしてからマンションへ向かった。2台の自転車が、赤い鉄橋を通過して行く。かけ兄の後ろに美紀が、シンペの後ろに綾が乗っている。

 僕らは、エレベーターで最上階へ向かった。そして、非常階段から続いている屋上の扉を開けた。

 4人の歓声が聞こえて来る。150メートルの高さから見る港は輝いていた。いつもより多くの光が見える。敷物の上に食べ物が並べられ、くだらない話で盛り上がっているみたいだね。みんな、確実に青春という言葉が似合う瞬間を味わっている。

「ダブルデートですか?」

 扉の近くに、カメラを持った男性が立っている。

「誰ですか?」

「モデルの綾香さんですよね?」

 かけ兄の言葉を無視し、男性は冷たい口調で質問を続けた。

「整形しているという噂は本当ですか?」

 次の瞬間、かけ兄はデジタルカメラで男性を撮った。

「今直ぐ、警備員を呼ぶ。それとも画像を消して立ち去るか、どっちが良いですか?」

 かけ兄の力強い声が夜空に響いた。男性の顔は怒りに満ちている。しばらく沈黙が続いた後、互いのデジタルカメラを交換した。2人が撮られた写真を削除している。他の3人は黙って、その様子を眺めていた。それから男性は、不気味な笑顔を見せながら扉の向こうへ消えて行った。

「大丈夫?」

 美紀は震えている綾の体を抱き寄せた。

「私・・・」

 彼女の震える唇から、消えそうな声が漏れた。

「さっきの男性が言った事・・・本当なの」

「えっ?」

「整形の事」

「別に無理して本当の事なんて言わなくていいよ」

「いいの、もう」

 港の方から大きな音が聞こえて来た。何万人いう人々が同じ花火を眺めている。いったい何を思い描いているのかな。全ての人が幸せに包まれているとは限らない。一瞬でもいいから、何かを忘れたくて見ている人もいるかもしれない。打ち上げられる牡丹の花火が一瞬で消えて行く。直ぐに何発もの、錦冠や銀冠が打ち上げられた。暗い夜空に鮮やかな色彩が溶け込んで行く。しかし4人の目には、何も写らなかった。

「私は・・・」

 綾の苦しそうな声は、花火の音に掻き消されそうだった。

「私は母子家庭で育ち、未だに父親の顔を知らないの。幼少期は、福岡にある母方の実家で育った。母は幼い頃から顔にコンプレックスを持っていたみたい。そして、必死で整形費用を貯め、美しい美貌を手に入れた。それから直ぐに仕事を辞め、夜の世界へ入ったの。しばらくすると、客の男性と恋に落ち、私が生まれた。でも認知はしてもらえず、男性は母の元から去って行ったわ。

 それから12年が過ぎ、母は店で整形外科医の男性と知り合い、深い関係になって行った。男性は既婚者で、東京と福岡に整形クリニックを経営していた。ある時、母は男性にある相談を持ちかけたの。それは、私の顔を整形するという話だった。成長した娘が、母親の顔に似てくるのは当然だもの。その頃から私も、母と顔が似ていない事を気にしていた。母は私に、全ての事を教えてくれたわ。そして、半ば無理やりに整形させられ、逃げるようにして東京へ引っ越して来たの。

 母の強い勧めで、華やかなモデルの世界へ入った。しかし、雑誌で自身の顔を見る度に孤独感が襲って来るの。父親からは捨てられ、母には愛されていない。本当の自分を愛してくれる人は現われるのかって。雑誌に写っている私は、偽者なの」

「その偽者って外見の事?それとも中身の事?」

「・・・・」

 かけ兄の質問に彼女が黙り込んでいる。

「僕は、色々な風景を撮っていて思う事がある。自然の姿は、四季折々の顔を見せながら日々変化して行く。何気なく見ていても、小さな変化には気付かない。でも、心を研ぎ澄ます事によって見えてくる物もある。目に見える物だけが真実とは限らない。君の写真を撮った時、何かの力を感じた。それは見えないけど、僕には伝わった。この力は、何かを変える事ができるかもしれない。そんな風にも思った。君も分かっているよね?だからあの時、心を写せたかという質問を僕にした」

 かけ兄は、自分自身へ問い掛けている様だった。

「でも、私を応援している全ての人が、そう思っている分けじゃない」

「少なくとも私は思っている」

 美紀は彼女を強く見つめた。

 本当の美しさを手に入れる事は、簡単ではない。例えば、桜の苗を植え、大木になるまで何十年も掛かる。成長して行く過程に、たくさんの問題が出てくる。そういった事を乗り越えて成長して行くからこそ、美しい花が咲く。何の苦労も無く歩んだ人生から、美しさは生まれないかもしれない。

 そうだよね、みんな。

 彼女の眼に美しい花火が写り、一粒の涙が流れ落ちて行く。花火の美しさに負けないぐらい輝いていた。

 人との繋がり無しでは、自身の成長なんて有り得ないかもしれない。かけ兄は、心の中で私に言ったよね。でも、それらの繋がりは、時に弊害を生む事もある。

「僕には分かるような気がする」

 シンペは、いじめに合った時の体験を語った。いじめた方は忘れても、いじめられた方は決して忘れ無いだろう。思春期の多感な時期に、孤独を味わう寂しさ。気が付けば、子供の頃から社会の競争は始まっている。自分を強く見せる為に、見栄を張る人、嘘を付く人。自身の優越感を手に入れる為なら手段は選ばない。人類が誕生してから変わらない、普遍的な物のひとつなのかもしれない。友達との繋がりを優先するあまり、自分という大切な存在を消してしまう事もある。

 どうしてだろうね、みんな。

「僕は・・・孤独と言う闇の中にも、光は必ずあると信じている」

 シンペは、かけ兄の顔を見ながら力強く答えた。

 綾の顔が、少しずつ笑顔に変わって行く。かけ兄と慎平は、デジタルカメラを手に取った。そして、大空高く舞い上がる花火と一緒に、2人の笑顔を思い出に収めた。

 

 僕は自転車に乗って、慎平の家へ向かっていた。太陽の熱い日差しが、容赦なく襲って来る。蝉の鳴く響きで、いっそう暑さが増して行く。お盆に入った事もあり、車の交通量が多い。排気ガスの嫌な匂いがする。3日前、慎平からバーベキューに誘われた。その日は、舞の墓参りへ行く予定にしていたので断った。普通なら、墓参りの日を変えるかもしれない。すると慎太郎さんが、一緒に墓参りへ行きたいと言い出した。

 結局、墓参りした後に、バーベキューをする事になった。

「こんにちは」

 かけ兄は、少し息を切らせながら、慎太郎さんに挨拶をした。

「やあ、こんにちは」

「何か手伝う事はありますか?」

「それじゃ、リキを車に入れてくれるかな」

「分かりました」

 かけ兄は自転車を置き、犬小屋の方へ向かった。リキが尻尾を振りながら走って来る。

「元気だったか?」

 かけ兄の声に、リキが甘えている。

「早くしなさい」

「分かっているよ」

 慎平と咲さんの声が、家の中から聞こえて来た。2人の大きな声に反応し、リキが吼えている。思わず笑ってしまった。恐らく慎平は、持って行くラジコンを選んでいると思う。リキが車の中へ駆け上がった。玄関先で慎平が慌てている。手には一番のお気に入りである、ヘリコプターを持っていた。

「どのラジコンも一緒じゃないの?」

「全然違うよ、ねえ父さん」

 慎平と咲さんの言葉に挟まれ、慎太郎さんが困った顔をしている。僕だけが、小さな幸せの瞬間を感じ取っていた。普通に生活していると、幸せが麻痺して気付かない。子供の頃に、たくさんの玩具を買い与えられて、大切さが分からなくなる。そんな感覚に似ているかもしれない。

 私にも分かるよ、かけ兄。

 車は磯子の丘へ向かっていた。根岸湾が一望できる高台にある。その場所に、父と私は眠っている。そう言っても、私はここにいる。15分ぐらい走ると、目的地である墓園に着いた。外観を美しく保つ為なのか、洋風な形をした同じ墓が均等に並んでいる。何度も見ている光景だ。丘から見える海は、太陽の光で輝いていた。時より吹く潮風が、供えられている数々の花束を揺らしている。3人が芝生の上を歩いて行く。咲さんは、リキと一緒に車で待っているらしい。

「ここです」

 かけ兄の声で、2人が立ち止まった。

 小さめの墓石に『RYOUSUKE ASAHINA AND HIS DAUGHTER MAI』と英語で名前が刻まれている。かけ兄はクマのぬいぐるみを、シンペは花束を墓石の前に置いた。3人は目を瞑り、心の中で言葉を送っている。

 慎太郎さんは、息子を連れて来て良かったと思っていた。死という大きなテーマーを身近に感じる。それが息子の人生に必ず良い影響を与えると信じていた。確かに死を重く受け止めると、自身を追い詰めてしまう事もある。しかし軽んじる事も良くない。常に生と死の中間にいる事が、最も良い状態なのかな。

 シンペは複雑な思いだった。いじめに合った時、死という文字が初めて頭に浮かんだみたい。もちろん本当に死のうと思った分けではない。しかし、孤独という恐怖が彼を死に近づけた。実際の墓前に立つと、不条理な死が重く伸し掛かって来る。死は決して比べたりできるものではない。7歳という私の短い人生に対して、言葉を探していた。

 かけ兄は、ここ数ヶ月で自身の周りで起きた事を私に伝えていた。全て知っている事ばかりだった。美紀との出会い、そして葵さんとの別れ。もし私が生きていたなら、恋愛について色々と聞けたのかな。そして、一番伝えたかった事は、事故の写真について。あの少年は誰なのか、と問い掛けている。何も憶えていない。そう答えたが、聞こえるはずなど無かった。

 何も答えてくれない写真から、真実を見つけ出す事は難しい。言葉という道具を使っても、全ては伝えきれないかもしれない。自分自身でさえ、本当の気持ちが分からなくなる時もある。昔の写真を見て〝どうしてあの時〟と思う事もあるよね。そんな後悔に似たような思いが、写真から伝わって来る。

「有難うございます」

 僕は、2人に向かって軽く頭を下げた。

「そんな水臭い事、言うなよ」

 シンペは嬉しかった。〝友達として何が出来るだろうか〟彼はそう思いながら、ずっと悩んでいた。ここで生まれた強い絆は、苦しい時に必ず助けてくれるに違いない。 

 車は、神奈川県内にある中津川へ向かっていた。横浜から少し離れると、自然豊かな風景が現われる。川沿いを上流に向かって走っていると、釣り人の姿が見えた。夏場の時期だと、何が釣れるのかな。

 僕は美しい風景を見ながら、最後に行った家族旅行の事を思い出していた。初めてのスイカ割りを楽しんでいた時ー。僕は、舞を違う方向に誘導しようとしていた。それに対して父は〝違う、違うぞ〟と言って叫んでいた。母は、いったいどんな気持ちで眺めていたのかな。まさか1年後に父が、この世から居なくなるなんて考えもしなかった。あのスイカ割りは、全て幻だったのかな。机の引き出しに眠っている最後の家族写真。何時になれば、飾る事が出来るのだろうか。

 目的地である愛川橋が見えて来た。自然の中に橋が架かっているだけで、風景が引き締まって見えるのは何故だろう。自然という大きな力が、橋を引き立たしてくれているのかな。都会では聞けない、色々な音が耳に伝わって来る。目には見えない周波数が自然に調和して行く。自然の中には、何ひとつ不必要な物など無いかもしれない。人間が作りだした社会という世界も、その一部に入るのかな。

 どう思う、かけ兄。

 僕らの周りを、リキが嬉しそうに駆け回っている。本当に気持ちがいい。久しぶりに味わう開放感だった。

 慎太郎さんは、忙しくバーベキューの用意をしていた。シンペは、咲さんにラジコンの操作を教えている。

「何か手伝います」

 かけ兄は気を使う様に慎太郎さんへ声を掛けた。

「ありがとう。えーとそれじゃ」

 2人は向かい合いながら、野菜と肉を串に差している。

「あのー、聞きたい事があります」

「何かな?」

「慎平の口から、虐めに合っていた事を聞きました。どうして仕事を休んでまで、慎平の側にいたんですか?」

「そうだな、あの時は・・・〝ただ支えたい〟そう思っただけだよ」

「支えたい?」

「うん。親は子供を支える事が出来ても、引っ張る事は出来ないと思う。やはり最後は自分自身で乗り越えて行くしかない。大事なのは負けない心を持つこと。それをどうしても伝えたかった。本当にそれが正しいかどうかなんて、後になってからじゃないと分からないと思う。難しいかもしれないけど、それが人生だと思う」

 温かくもあり厳しい言葉が、かけ兄の胸へ突き刺さった。思春期という多感な時に、父親の背中が存在しない。多くの人が経験するだろう父親と息子の微妙な距離感さえも分からない。どうして分かってくれないのか。思っている事が伝わらない。それぞれの思いが交差する中、多くの親子が答えを探している。もしかすると、親子の間に答えなんか無いかもしれない。あるとすれば人生の中で生まれた経験から、勝手に答えを導き出しているに違いない。

 だから分からなくても良いと思うよ、かけ兄。

「あっ、そうだ」

 慎太郎さんは鞄から一枚の写真を取り出し、かけ兄へ手渡した。

「これは・・・」

 私も、驚きのあまり次の言葉が見つからなかった。

「あれから少し気になって、バックアップしていたディスクから見付けたんだ」

「舞が倒れている?」

「恐らく、少年が蹴ったサッカーボールが妹さんに当たったのだろう。倒れている近くにボールが転がっている」

「それじゃ、後頭部の青あざは、この時に?」

「それは分からない。でも恐らく、前へ倒れていると思う。これだと後頭部に青あざはできない」

「そうですか」

「もし仮に事故じゃ無かったとしても、今更知る必要があるのだろうか?」

「・・・・」

「自分自身を苦しめるだけじゃないのか?」

「そうかもしれません。でもあの写真を見付けた事によって、何か希望みたいな光が見えたのも事実です」

 力強い言葉が慎太郎さんの耳に響いた。

 かけ兄が愛読している登山家の本がある。どうして山へ登るのですかという質問に対して、山には希望があるからと答えていた。大きな荷物を担いで山頂に辿り付いても、また直ぐに下山しなければいけない。多くの人々が、山を人生に例えている。多分それは、自分自身の足で歩いてみないと分からない事かもしれない。誰もが持っている希望という光は、自然の美しさと似ているのかな。幾多と無く困難を乗り越えた人の心は、山の様に大きく動じない。 

 かけ兄の心は、ゆっくりと頂上へ進もうとしている。

 人生には、ゴールや答えなんて無いかもしれない。人間が持っている欲望に終りが無い様に。多くの登山家達は、さらに大きな山を目指して行く。頂上に登る事は、目的であってゴールでは無い様な気がする。だからこそ、人生の目的を見つけた人達は、ゴールを目指すのでは無く、幸福に向かって歩いて行けるのかな。

 4人は美しい自然に囲まれながら、バーベキューを楽しんでいた。

「モンテ・クリスト伯という小説を知っているかな?」

 慎太郎さんが、かけ兄とシンペの顔を交互に見ながら言った。2人共、首を横に振っている。彼は少し微笑みながら静かに語り始めた。

 この小説は、フランスの文豪アレクサンドル・デュマ・ベールが書いた作品らしい。主人公のエドモン・ダンテスが無実の罪で監獄に送られ、そこで長い年月を過ごした後、脱獄して巨万の富を手に入れる。そしてモンテ・クリスト伯爵と名前を変え、自らを陥れた者たちの前に再び現れ、復讐して行く物語。

 慎太郎さんは大学の時に、この小説と出会った。高校時代の恩師であった先生が亡くなり、形見として頂いたのである。本には、何度も読み返したと思われる跡が、いくつも残っていた。自らが決めた行動により、思わぬ所で何かに出会う。そこに、偶然という言葉は当てはまらないかもしれない。たった数行の文章が、彼に大きな力を与えた。

「私はこの本から多くの事を学んだ」

 慎太郎さんの確信ある言葉が耳に響いた。

 恐らく人間は、言葉を覚えると同時に何かしらの考えが生まれる。そして、成長する過程の中で起きる悩みは、恐らく永遠に尽きることが無い。慎太郎さんも思春期を通り、社会に出て色々な経験を積んできている。仕事、人間関係、恋愛、家族、そして身近な人の死という現実。これらの答えが、全て明確に書かれているわけでは決して無い。でも、物語を深く読む事によって生まれてくる知恵は、時として人生に光を当ててくれる。

「唯一人間が平等に持っている心を繊細に表現している」

〝本当に僕達は、平等な心を持っているのだろうか〟

 慎太郎さんの言葉に対して、僕は心の中で誰かに問い掛けていた。環境によって揺れ動く弱い心は、どこから生まれてくるのかな。

「人間の心って不思議だよね?怯えていた心も、何かのきっかけで強くなれる」

 シンペは、自身が経験した事を思い出しながら母親に言った。

「たとえ答えが見つからないとしても〝不思議〟という言葉は、人生にとって大切なのかもしれない。当たり前の様に生活していると、中々それに気付かないと思う」

 咲さんは、そう答えながら昔の事を思い出していた。

 あの日から、咲さんの頭に不思議という言葉が度々浮かんで来る。自分の息子が虐めに合っていると聞いた時、胸が締め付けられる思いだったに違いない。しかし勇気を持って通い続ける息子を見て、逆に咲さんの方が励まされたのである。それからは、慎太郎さんと一緒に、息子の成長を影で支え続けた。この体験は家族の絆を強め、さらには〝心〟という人間の不思議な世界を肌で感じる事ができた。

 茜色の夕日と青い愛川橋が光で融合している。川の流れは昼間よりも速くなり、水かさが増していた。あともう少しで、自然が作り出す暗闇に変わって行く。ほんの少しだったが、美しい自然に触れ合えた時間だった。

 そうだよね、かけ兄。

 

 8月も中旬に入り、暑さが増していた。

 マンションの自転車置き場に、かけ兄の姿が見える。写真を撮りに外へ出かけていたのかな。担いでいた鞄を下ろすと、背中の汗がTシャツに張り付いていた。

「こんにちは、翔さん」

 真っ黒に日焼けした健太くんが立っている。

「やあ健太君、ずいぶん日焼けしているね。旅行にでも行ってきたの?」

「いいえ、サッカーを習っています」

 健太くんは、肩に担いでいた大きなバックを開け、中身を見せてくれた。サッカーボール、スパイク、そしてユニフォームが入っている。

「そのユニフォームって?」

「ユニフォームがどうかしましたか?」

「いや、何でもない。何て名前のチーム?」

「港南ヴィクトリーです」

「そっか。がんばってね」

「はい」

 元気な声が、コンクリートの壁に響き、跳ね返って来た。

 僕は自分の部屋に戻ると、パソコンを立ち上げた。そして、港南ヴィクトリーという文字を打ち込んだ。ウェーブサイトが現われた。さっきのユニフォームを着た少年達が写っている。設立20年の歴史を持つ、伝統ある少年サッカークラブという、大きな見出しに目が行く。僕は机の引き出しから写真を取り出した。舞の前に立っている少年。そこに同じユニフォームが写っている。

 次の日、僕は河川敷にある港南ヴィクトリーの専用グラウンドへ向かっていた。自転車で15分ぐらい走ると、練習している子供達の声が聞こえて来た。コーチと思われる男性が大きな声で叫んでいる。名門クラブというだけあって、とても厳しそうだ。グラウンドの端で健太君がボールを蹴っている。恐らくまだ、クラブに入ったばかりなので、本格的な練習には参加できないみたいだ。みんな同じユニフォームを着ている。青色に白いストライプが目立っていた。

 僕の脳裏に不思議な感覚が蘇って来た。あの日ー。

「いいか、このサッカーボールは大切にしているから、しっかりと両手で持って、ここでちゃんと待っていろよ」

「はい、了解しました」

 舞が右手を、おでこに当てながら兵隊の真似をしている。僕は、玄関で靴を放り投げると、走ってリビングへ向かった。丁度その時に車のクラクションが鳴ったような。

「翔、おい、翔」

 遠いとこから、僕の名前を呼ぶ声がした。肩を軽く揺さぶられ、振り向くと修二が立っていた。

「何している、こんな所で?」

「あっ、知っている子が、ここのサッカークラブに入ったから」

「そうか。俺の後輩だな」

「えっ、もしかして?」

「そうだよ。港南ヴィクトリーの卒業生だ」

「へぇー」

「あの頃は夢中でボールを蹴っていたな」

「今は違うの?」

「まあ、色々と考える事もあるからな」

「大変だよね」

「それって皮肉か?」

「ち、違うよ」

「冗談だよ。あっそうだ、来週、写真部の撮影旅行で軽井沢へ行くのだろう。俺達、サッカー部も近くで合宿する予定になっている」

「えっ、そうなの」

「妹をよろしく」

 僕が返事をする前に、修二はグラウンドへ走っていった。子供達が彼の周りへ集まって来た。そこに健太くんの姿も見える。ポケットから写真を取り出した。そしてグラウンドの横に重ねて見た。今にも写真の少年が動き出しそうだ。

「まさかね」

 かけ兄の小さな声は、風と共に消えて行った。

 

 夏休みの校舎は意外と騒がしかった。ボールが金属バットに当たる音、シューズの裏が床に擦れる音、水面を叩く音、これら全ての音が一瞬で消え去って行く。心の奥深くに刻まれる青春の音ばかりだ。騒がしい音とは別に、静かなカメラのシャッター音が、部室から聞こえて来た。

「小坂先輩、来ないね?」

 美紀が校門の方を見つめながら言った。

「まったく、何やってるのかな」

 そう言いながら、僕はカメラの手入れをしていた。今日は写真部の撮影旅行へ出発する日だ。氷川先生の兄弟が経営している、軽井沢のペンションへ行く。ドアが開き、何だか険しい表情の先生が入って来た。そして開口一番に、慎平が風邪で来られなくなった事を告げられた。

 2人の落胆した顔が重なっている。それもそのはずだ。この旅行を一番楽しみにしていたのは、シンペだったからね。かけ兄が、シンペにメッセージを送っている。いつか一緒に行こうな、だって。いいよね、友達って。

 先生が運転する車で、長野県の軽井沢へ向かっている。横浜から3時間ぐらいで行けるらしい。私も初めて行く。都会に住んでいると、時間の流れが速い。忙しくしている人が良く使う言葉だ。一日という時間は同じなのに、それぞれ感じ方が違う。心に余裕が無くなると、環境の変化にも気付きにくい。早送りされている様な感覚を止めるには、心のスイッチを探すしかない。私の肉体は存在しないけど、心に余裕はある。

 軽井沢方面という文字が見えた。夏場になるとオアシスを求める様に、人々がここへ集まって来るらしい。この地で、心のリセットをするのかな。自然から多くの恩恵を受けても、また直ぐに忘れてしまう。ニュースで、共存という言葉を聞いた事がある。何だか自然と人間が、同じ位置に立っているみたいだ。生きていると生かされているとでは、同じ生きるでも違う様な気がする。

 そう思うのは私だけかな。どう思う、氷川先生。

 洋風な建物の前で車が止まった。木製の大きな看板に『ペンションHIKAWA』と書いてある。先生と同じ苗字だ。一匹のセントバーナード犬が起き上がり、ゆっくりと近づいて来る。美紀は思わず、かけ兄の背中に隠れた。先生は笑いながら、犬の頭を撫でている。犬の名前は、バナードと言うらしい。見かけは大きいが、おとなしそうだね。

 ペンションのドアが開き、女性が出て来た。先生は女性に手を振っている。そして、2人の事を紹介した。この女性は先生の姪っ子で、カナさんと言うらしい。カナさんの案内で、みんながペンションの中へ入って行く。大きなリビングに巻きストーブがある。都会では見られない光景だよね。壁には、たくさんの写真が飾られている。この辺りの風景なのかな。

 僕は、壁に掛かっている写真を見つめていた。

「いい写真だろ」

 先生が、僕の横に来て言った。 

「はい」

「全て、カナが撮った写真だ」

「えっ、そうなの」 

 僕は驚きながら、カナさんを見た。楽しそうに美紀と会話している。

「彼女に言った事がある。いい写真だから、コンクールに出したらどうかって。そしたら彼女は首を横に振り、こう言った。写真には興味が無い。ただ自分を守ってくれた自然に恩返しがしたいって」

「恩返し?」

「彼女は小さい時、東京に住んでいてね。でも喘息がひどくて、家族でここへ引っ越して来た。その甲斐あって、だいぶ回復した。軽井沢の美しい自然を守る為に、写真を撮っている。それが彼女なりの答えだ。これらの写真は、地元の店や駅にも飾っている。彼女なりに、何かを伝え様としている。それが写真に表れていると思う」

 人は生まれた時から死ぬまで、自らの役割を探している様な気がする。自分には何が出来るのか。何かを残す事は出来るのか。取り巻く環境の中で、それらの想いを少しずつ形にして行く。形にならなかった想いは、消えて無くなるのかな。もし消えずに誰かの心に残るならば、それは未来へ繋がって行くかもしれない。

 かけ兄も、ずっと探している。

 カナさんの両親が、かけ兄と美紀へ向かって挨拶をしている。先生を少し太らした感じで、長く伸びた髭がペンションのオーナーらしく似合っていた。

 先生が携帯電話で誰かと話している。何だか顔付きが思わしくない。話しが終ったみたいで、みんなの方へ近づいて行く。

「息子からの電話で、何だか妻の調子が悪いみたいなんだ」

「今すぐ帰った方が良いよ。ここは大丈夫だから」

 カナさんの言葉に、みんなが頷いている。先生は、撮影旅行のスケジュール表をカナさんに手渡し、急いで出発した。

 森に囲まれている為か、ペンションの周りは涼しいみたいだね。大きな倉庫の中で、カナさんが何かを探している。

「入って来て」

 カナさんの大きな声が聞こえた。かけ兄と美紀が倉庫へ入って行く。しばらくして3人が、マウンテンバイクを引きながら出て来た。どこへ行くのだろう。

 3人のマウンテンバイクが、舗装されていない砂利道を進んで行く。森の隙間から太陽の光が、ランダムに差し込んでいる。タイヤの擦れる音が、時より森の中に響く。先頭を走るカナさんが止まり、後に続く2人も止まった。

「ここよ」

 カナさんが指差す方向を見た。大きな木製の建物が見える。かなり古そうだが、繊細な彫刻で飾られていた。3人が建物の奥に入って行くと、川が現われた。良く見ると、この建物がステージみたいになっている。

「これは矢倉って言うの」

「矢倉って何?」

「鑑賞用の建物だよ」

 かけ兄が、美紀の質問に答えた。

「そう。昔はこの場所で、たくさんの蛍を見る事ができたの。でも、今はもう生息していない。蛍はね、生きられる環境が決まっているの」

 カナさんは川の水面を見つめている。

「氷川先生から聞きました。喘息の事」

「そうなの。2人共、将来の夢ってある?」

 互いに顔を合わせながら困っている。

「そうだよね。あの頃の私も何もなかった。東京に住んでいた時は、喘息が酷くて大変だったから。それで何となく内気になって友達も作れなかった。でもここへ移り住んで、たくさんの力をもらった。この場所で初めて蛍の話を聞いた時に思ったの。もう一度、みんなに蛍を見せてあげたい」

 夢を思い描く事は誰にでも出来る。夢が叶ったから幸せになれるとは限らない。夢が叶わなかったから不幸せになるとも言えない。でもこれだけは言えると思う。自分を信じていれば必ず道は開ける。

 がんばれ、カナさん。

「また、見られるといいですね」

 かけ兄の優しい言葉が、森の中へ溶け込んで行った。

 次の日、僕と美紀は、カナさんが運転する車に乗って白糸の滝を目指した。カナさんが滝について説明してくれた。幅70メートル、高さ3メートルの崖から絹糸を垂らした様に流れているらしい。そして四季折々の風景が見られる。春には、滝の上一面に新緑が生え、秋になると紅葉に変わり、夏には、滝の天然シャワーが暑さを和らいでくれ、冬になると雪景色が見られる。人間が持っている感情みたいに、様々な表情を見せてくれるらしい。時には癒され、時には自然の厳しさを知ったりもする。カナさんは、そんな言葉を使った。

 3人は車から降りて、日の出前の薄暗い道を歩いている。しばらくすると、川の流れる音がしてきた。カナさんが懐中電灯を当てると、目の前に滝が現われた。かけ兄と美紀が声を上げている。

 僕は、撮影ポイントを必死に探していた。美紀は、川の水面を手で触っている。カナさんが、反対方向へ歩いて行く。そして大きな石の上に乗り、腕時計を見つめている。しばらくすると、当たり一面が朝日の光で包み込まれた。カナさんは目を瞑りながら、全身で光を受け止めていた。首から掛けたカメラを両手で持っている。その様子を、僕はずっと見つめていた。そして、カナさんがいる方向へ歩いて行った。

「撮った写真を見せてもらえますか?」

 かけ兄が尋ねている。でも、いつ撮ったのだろう。私には分からなかった。カナさんはカメラを、かけ兄へ手渡した。同じ風景とは思えない写真が見える。空中に舞った細かい滝の水しぶきが光と融合していた。恐らく、滝の写真と言わなければ分からないかもしれない。

「この背景に隠れている物って何でしょうか?」

 かけ兄は画面を見つめながら言った。

「そうね、人と人が交わって生まれる力に似ているかな」

「交わる力?」

「自然と自然が融合する事によって、新たな力が生まれる。普段は見えない力が、突如として現われる」

 美紀が、2人へ近寄って来た。そして、かけ兄が持っているカメラの画面を覗き込んでいる。

「綺麗な写真だね。どこの場所?」

 美紀の言葉に、思わず2人が笑った。

 それからも3人は、色々な場所を回り、たくさんの写真を撮った。都会育ちの2人に取って、どこも美しかった。人が作り出した環境は、時に癒しの空間を与えてくれる。でも、自然の環境が与えてくれる物とは、何かが違う。人それぞれ、自然と向き合う形は違うかもしれない。けれど、自分自身も環境の一部だと思う事ができたならば、その違いに気付くかもしれないね。

「あっ、そう言えば、スケジュールでは、サッカー部の合宿所へ行く予定になっているけど、どうする?ここから車で15分ぐらいだけど」 

「行きます。行くよな、美紀?」

「あっ、うん」

 何となく元気のない返事だった。いつもだったら、もっと率先して言うのに。それから3人は、車でサッカー部の合宿所へ向かった。

「それじゃ、2時間ぐらいしたら迎えに来るから」

 カナさんは、2人を残して走り去った。

 かけ兄と美紀が、グランドの方へ歩いて行く。サッカー部員達の声が聞こえて来た。照り付ける太陽の下で、汗だくになって練習している。しばらくすると休憩時間になり、2人の元に修二さんが近づいて来た。

「調子はどうだ?」

 真っ黒に日焼けした顔から、笑みがこぼれている。

「自然豊かな場所で撮影しているから何も困らないよ」

 かけ兄は、スポーツドリンクを手渡しながら答えた。

「ありがとう。俺達も練習に集中できて助かっているよ。本当に良い場所だ。どうしたんだ、美紀?元気が無いみたいだな?」

「そんな事ないよ」

 図星だったみたい。何だか、ソワソワしているよね。

「あっ、そうだ。修二に見てほしい写真があるんだ」

 かけ兄が、カバンの中を探している。あの写真を見せるのかな。

「そうだ、撮った写真のチェック」

 美紀が叫びながら、かけ兄の手を引っ張っている。

「どうしたの急に」

 かけ兄が困惑している。その言葉を遮る様に「じゃ、またね」という彼女の大きな声が響いた。2人の姿を見て、修二さんが笑っている。

 美紀は、僕の手を強く握りしめながら、何も言わず歩いていた。彼女の歩くスピードが早くなって行く。僕は思わず「何なんだよ」と叫びながら、握っている手を離した。彼女は振り向きもせずに再び歩き出した。彼女の肩を掴もうとしたら、今度は走り出した。道を逸れ、森の中へ入って行く。やっとの思いで捕まえた。彼女の荒い呼吸が聞こえて来る。力尽きたのか、地面へ座り込んだ。初めて見る彼女の泣き顔は何となく力強かった。言葉を掛けたいのか、言葉を待っているのか、自分でも分からなかった。僕の心が宙に浮いている。

「ごめんなさい」

「どうして謝るの?」

「・・・・」

 言葉にすると何かを背負う事になる。でも、言葉にしないと何かが崩れてしまう。 大丈夫なのかな、かけ兄と美紀。

「あの・・・あの写真の少年は・・・私のお兄ちゃん」

「えっ、今何て?」

 聞き間違いじゃないかと思う言葉が、私達の耳へ伝わった。

「兄はよく、父と一緒に、あの場所でサッカーの練習をしていた。たぶん秘密の場所だったと思う。私はいつも、木の陰に隠れて練習を見ていた。あの日も、見に行くつもりだった。私が家を出ようとした時、兄が帰って来たの。いつもより早い時間だった。その日から、兄は、あの場所へ行かなくなったの。あの写真を見た時は、本当に驚いた。あの日に起こった事故の事なんて、私の耳には入って来なかった。妹さんの事も。あれから自分で調べて見たの、あの日に何があったのか」

 私は9年前に、修二さんと出会っていた。何も憶えていない。かけ兄と私に突き刺さった言葉が、じわじわと効いてきた。

 遠くの方から声が聞こえる。カナさん?きっと2人を探していると思う。美紀は涙を拭き立ち上がった。そして何も言わず、声がする方向へ歩いて行った。かけ兄が一定の距離を保ちながら、彼女の後へ付いて行く。

「何かあったの?」

 カナさんが慌てながら、美紀へ近づいて行く。

「い、いえ、大丈夫です」

 美紀は下を向いていた。それでも、赤くなった目が目立っている。カナさんは、かけ兄の方を見たが何も言わなかった。2人にしか分からない空気を感じ取ったのかな。

 ここで過ごす最後の夜が過ぎようとしている。

 カナさんは、美紀をテラスへ誘った。ステンドガラス製のペンダントライトが、温かい光を出している。水色に塗られた木製の床に、バナードが寝そべっている。

「明日で終わりか。何だか寂しいよね」

「うん」

 美紀の短い返事に寂しさが凝縮されていた。

「翔くんと、付き合っているの?」

 少し驚いた様子で美紀は軽く首を振った。

「気持ちはあるけど、少し距離があって」

「そっか。でも羨ましいな」

「えっ、どうして?」

「あなた達だけしか知らない秘密があるからかな。お互いの気持ちを共有するからこそ、喧嘩もするし、励まし合ったりもする。その中で生まれる感情は、2人だけにしか分からない。当たり前の事だけど何だか羨ましいな」

「でも、苦しくなる事もある」

「だから人は優しくなるし、強くもなる」

 カナさんは、包み込む様な温かい目で美紀を見た。頭では理解しにくい事も、色々な経験を重ねていくうちに、少しずつ何かが見えて来るかもしれない。

「もしかしたら、自分に自信が無いから、翔先輩の事を応援したいだけかも。それって、好きという事とは違うかもしれない」

「大丈夫だよ。人を応援していると、いつか自分自身の事が見えて来る。その時になれば、きっと答えは出て来る」

 翌日、かけ兄と美紀は目を合わそうとしなかった。2人にしか分からない重たい空気が、互いの胸を締め付けている。カナさんが気を使って、2人の間へ入ってきた。

「また来てくれるよね?」

「あっ、はい」「はい」

 ほぼ返事が同時に聞こえた。カナさんは、2人の肩を同時に掴みながら引き寄せた。

「待ってるからね。私も夢に向かって全力で頑張るから」

 2人の顔に、少しだけ笑顔が戻った。

 長かった夏が終わろうとしている。色々な思い出が記憶として残って行く。忘れたい事もあるのに、忘れられない。ずっと心の中に留めておきたいのに、いつの間にか消えてしまう。バランス良く進もうとしているのに、どちらかへ偏ってしまう。

 かけ兄と美紀は、必死にバランスを取りながら歩こうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る