同じ日の夜だった。自分の小部屋に戻る途中、私は洞穴の奥のほうへと向かっていく、小柄な人影を見かけた。

 薄暗い明かりの下、それも遠目に見ただけで、たしかなことはわからなかった。だが、その後ろ姿は、あの琥珀色の瞳をした娘のように見えた。

 洞穴の奥は危険だから、けして足を踏み入れないように。この洞穴に来てすぐに、私はそう言い含められていた。ここよりも奥には、この洞穴の住人たちも足を踏み入れたりはしないのだと、そういって指し示されたその場所を、娘の足はすでに行き過ぎていた。

 私は慌てて、彼女の後を追った。数日前に話したときの、あの沈んだ表情を思い出すと、何ごとか思いつめているのではないかと、不安にかられたのだった。

 呼び止めようとしたが、彼女の名前を知らなかった。何と声をかけるか迷っているうちにも、娘はどんどん奥にいってしまう。あとを追いかけていった私は、途中で彼女の姿を見失った。通路は途中でゆるやかに曲がり、さらにその先で分岐していたのだ。

 道を曲がると、背後からの光は届かなくなったが、その先の通路にも、小さな明かりが灯されていた。この奥には人が立ち入らないという話が、まるきりの嘘だったことが、それでわかった。

 それでも、禁じられた場所にそれ以上入り込むことには、やはり躊躇ちゅうちょした。それに、危険だから人が立ち入らないという話がそもそも嘘ならば、彼女の身を心配する必要も、はじめからなかったのだろう。

 そう思い、一度は引き返しかけた私の耳に、奇妙な唸り声が飛び込んできた。

 はじめ私はそれを、風の音の乱れか、あるいは反響する外の雨音かと思った。しかし、恐る恐る振り返って耳を澄ませば、それはたしかに、人の声のようだった。

 声は弱々しく、そして苦しげだった。

 誰かがこの奥で怪我でもして、身動きが取れずにいるなどということがあるだろうか。夜ふけに、このような場所で。

 疑問はあったが、放って置けば寝覚めが悪いような気がして、私は再び洞穴の奥のほうへと、足を進めた。引き返して誰かに事情を話すという考えも、頭を掠めないではなかったが、禁じられた場所に立ち入っているという負い目が、つい足を前方に向けたのだった。

 通路はそこで分岐していた。声がどちらから聞こえてきたのか、音のくぐもって反響するその場所では、正確なところは確かめようもなかった。しかたなく、ひとまず右の通路へ、私は足を踏み入れた。

 そこは洞穴の、かなり深い場所にあたるはずだったが、外で降りしきる雨の音は、そこまで届いていた。その音は、遥か後方から響いてくるようでもあったし、逆に、歩いていく先から聞こえるような気もした。常に風が吹いているからには、洞の奥は行き詰まるのではなく、どこかで外に続いているのだろう。

 さして歩かないうちに、薄暗がりの中で、道がまた分かれているようなのが目に入った。そこでようやく、道に迷う可能性が頭をちらついた。

 だが躊躇ためらいながら近づいてみれば、何のことはない、わかれ道のように見えていたのは、小部屋の入り口だった。この国の人々が居室にしているのと同じ、壁をくりぬいて作られたアルコープだ。

 だが、そこには異様なものがあった。

 扉というものの存在しないこの洞穴で、初めて眼にするそれは、鉄格子だった。いや、鉄ではなかったかもしれない。手にふれた感触は金属か、それに近い材質のようだったが、この国で、商人たちが持ち込む以上のおおがかりな鉄製品を、ほかに見かけたことはなかった。

 ともかくそこには、格子があった。それも、かなり大仰な。そのことに気づいたとき、私はまず、ここには罪人が閉じ込められているのだと考えた。それで、よそものを近づけたくなかったのだと。

 だが、暗い牢屋の中をのぞきこんで、私は息を呑んだ。そこにいたのは、イアン、私の話をよく聴きにきていた、悪戯小僧たちのひとりだった。



 ぐったりと目を瞑っていたイアンは、私が漏らした驚きの声に気づいて、小さく肩をふるわせた。

 鉄格子の向こうには底知れない闇がひろがり、その中からイアンの半身が生えるようにして、通路から届くかすかな光の輪の中に突き出している。その腕が、数日前、最後に会ったときから、さらに痩せさらばえていることに、私は気づいた。

 洞穴の中を常に満たしている風の音が、ひときわ強まった。その音は、人の嘆き声に、よく似ていた。

 ――どうしたんだ。

 声を掠れさせながら、かろうじてそう訊いても、イアンはすぐには答えなかった。少年が、望んで口を閉ざしているのか、答えたくとも答えられないほどに弱っているのか、私にはわからなかった。

 暗がりの中で見るからというだけでなく、数日前に見た顔とは、別人のようだった。それほど遠くないうちに大人の仲間入りをするだろう、精悍さをのぞかせはじめた顔。けれどいまはまだ、無邪気に外を跳ね回っているのがいかにも似合う、子どもの顔だ。その頬が痛々しくこけ、唇は力を失って緩んでいる。

 悪さをして閉じ込められているというには、そのようすは、尋常ではなかった。子どもがこのようなしうちをうけなければならないような、どれほどの理由があるというのか。

 イアンは何度か口を開閉させた。どうやら、なかなか声が出ないようだった。

 私はかがみこんで、格子に遮られるぎりぎりまで、耳を少年の顔に近づけた。

 訪れたばかりのときよりは、いくらか彼らの訛りも耳に慣れたものの、たかだか十日かそこらをすごしただけで、すっかり言葉を理解しているわけではない。それでもその言葉の意味することを、取り違えようはなかった。

 ひもじいと、少年はいったのだった。

 ――何も、食べさせてもらっていないのか。

 問うと、イアンは頷いて、軽く頭を振った。口をきいたことで、いくらか頭がはっきりしてきたのか、少年は上体を起こして、布ひとつ敷かれていない牢獄の床に座った。

 みると、水の入った小さな器がひとつきり、格子のそばに置かれているようだった。イアンはそれを手にとって、こぼさないように慎重に、口元まで持ち上げた。その指が、たかだか木の椀ひとつを持ち上げるのに、小さく震えるのを、私は見た。

 ――なにがあったんだ。

 思わず、声を荒げていた。イアンに向かって怒ってみせてもしかたのないことだと、頭ではわかっていたが、噴き出した感情を持っていく場がなかったのだ。

 声はわんわんと反響して、風雨の音とまじり合いながら、どこかへ抜けていった。

 皆は知っているのかと、問い詰めかけて、私は言葉を飲み込んだ。知っているに決まっている。少年たちの居場所を尋ねたとき、あいまいに言葉を濁した人々の、あの奇妙な視線。

 ――決まりだから。

 イアンはそういって、小さく咳き込んだ。彼の祖母の祖母の、そのまた祖母が生きていた頃よりも、もっと昔の時代からの、長く続くしきたりなのだというようなことを、とぎれとぎれに少年は話した。この試練を乗り越えなければ、一族の男のうちには数えてもらえないのだと。

 たったそれだけのことを、少年が話しおえるまでに、ひどく長い時間がかかった。声を出すのにも消耗するのだ。

 何がしきたりだ。

 はじめに胸に浮かんできたのは、その言葉だった。

 ていのいい口減らしだ。すぐにそう思ったのは、故郷を思い出したからだった。

 私の故郷もまた、貧しかった。雨の多い土地で、ともすると水の害が出た。ときに畑が流され、あるいは日射しが足らずに麦が実らなかった。食べてゆくことができずに、子らはしばしば、食い詰めた親に捨てられた。

 ここも同じだ。子どもらを飢えさせて、それを試練だなどと、甘い言葉で言いくるめ、そうやって彼らの何人かが弱って死ぬのを、息をひそめて待っているのだ。

 この地に暮らす男たちはみな、同じ試練を乗り越えて、立派な大人になったのだと、イアンはいった。だが、本当に死んでしまうまで捨て置かれることはないのだとは、少年はいわなかった。

 ――ヤクトは。ほかの子たちもいるのか。

 そう訊くと、イアンは私の背後を、細くなった指でさししめした。

 はっとして振り返ると、たしかにそちら側にも、格子に遮られた小部屋があった。廊下の明かりの届かない、奥の暗闇から、ヤクトの痩せた手だけが、力なく突き出していた。

 ヤクトはほかの子どもらと比べても、ひときわ痩せて体が小さく、いかにも育ちきらない印象があった。いやな予感に襲われて、とっさに名を呼ぶと、格子の向こうで、細い指がぴくりと揺れた。

 まだ生きている。

 私は駆け寄って、格子の間から手を伸ばした。その先に、ヤクトの指が触れた。骨ばかりが尖って肉のない、熱い指先が。その声が細く、いまにも泣き出しそうな響きで、私の名を呼んだ。

 いっとき言葉が出てこず、ただ無言で、その手を握っていた。暗がりの奥で、少年の白目がかすかに潤んで光っているのを、私は見た。



 さらに奥の通路にも、似たようなつくりの小部屋がいくつかあったが、覗き込めば、そこは無人のようだった。たった二人きり、しかもそれぞれ別の牢に閉じ込められて、いったい何日の間を、この暗がりの中で過ごしているのだろう。それを思えば、胸がひどくふさいだ。

 ――どうにかして食べる物を、持ってくる。それまでなんとか、

 私がそういいかけたとたん、背後でイアンがばっと飛び起きて、格子を掴んだ。その激しさ、思わぬ強い反応に、とっさに呑まれて、私は振り返ったまま呆然と立ち尽くした。イアンはほとんど格子をゆさぶらんばかりにして、怒りに満ちた声を上げた。

 ――馬鹿なことをいうな。

 その後に続いた早口の罵りは、たしかには聞き取れなかったが、彼らの間で魔物だとか、邪悪なものを意味する単語が混じっていたことだけが、かろうじてわかった。

 はじめはその剣幕に、ただ呑まれていた私だったが、徐々に少年のいわんとすることを飲み込んだ。この断食は、厳しい試練には違いないが、それを乗り越えて彼らははじめて人になれる。激しい飢えに苦しみながら耐え忍んでいる彼らにとって、私はおそろしい誘惑を持ち込む魔物と、そういうわけだ。

 大声を出したことで疲れたのだろう、イアンはぐったりと、格子にもたれかかっていた。

 腹の底から湧き上がってきた怒りを、飲み込みそこねて、私は低く唸った。

 子どもらにそのような観念を植え付けたのは、誰だ。

 試練などという言葉で飾って、このようなおそろしい間引きを、黙って耐えさせて、生きて乗り越えられねば人でさえないと、そのようなことをもっともらしく言い聞かせてきたのは、いったい誰だ。

 言葉もなく振り返り、背後の暗がりを覗き込めば、ヤクトはイアンほどの激しい反応をこそ見せていなかったが、その目が、同じ種類の非難と、不安を含んでいるのがわかった。

 私は言葉を失い、もう一度手を伸ばして、その指先を強く握った。ヤクトは安心したように、その手を握り返してくれたが、その力は、ひどく弱かった。

 暗闇の中で光る、ヤクトの目を見つめ返しながら、私は言葉を詰まらせた。彼らにどう言い聞かせれば、納得させることができるのだろうか。

 お前たちのいいきかされてきたことは、何もかも間違っていると?

 試練などという口上は、口減らしのための都合のいい言い訳で、お前たちの親や同族はみな、己らが飢えに苦しまないために、お前たちが弱って死ぬのを、息をひそめてじっと待っているのだと?

 私はほとんど逃げ出すようにして、暗闇の牢獄に背を向けた。離れてゆくきわに、二人に何か、声をかけた記憶があるのだが、自分がなんといったのだったか、どうしても思い出せない。

 ほんの少しその場所から遠ざかっただけで、洞穴中に絶え間なく反響する風雨の音が、彼らの立てる物音を包み、押し流してしまった。



 己に貸し与えられた小部屋に戻り、暗闇の中で毛布に包まっても、眠りは少しも訪れなかった。

 耳の奥に、飢えた子らの呻き声が、こびりついて離れなかった。いつも人の話し声のように聞こえる風の音が、その夜はわけても、暗い悪意を含んでいるようだった。

 間違っている。

 頭の中には、その言葉が、ぐるぐると回っていた。生まれてきた子らすべてを育てきれるほど、この土地は、豊かではないのだろう。説明されずとも、それはわかった。

 だからああやって、数を減らしているのだ。飢えさせ、弱るのを待っている。体の強くないもの、生きる力の足らぬものから、先に死んでゆく。彼らにとって、それは決まりごとなのだ。

 弱いものから先に死ぬのは、道理か。

 だがそれは、獣の道理ではないのか。

 それぞれの部屋で、飢えた子供らの声も聴かずに、安穏と眠っているのだろう大人たちを、片端からたたき起こして、その胸倉を掴んでやりたかった。こんなことは間違っている、お前らはそう思わないのかと。

 だが私は、そうしなかった。

 ここでひとり騒ぎ立てて、何になるだろう。長い長い歳月の間を、そうやって頑なに掟を守って暮らしてきた人々なのだ。見知らぬ土地からやってきたばかりのよそものが、彼らの意に沿わぬ道理を説いたところで、人々がそれを聞き入れるとは、思えなかった。

 それともそれは、自身の臆病さへの、言い訳だっただろうか。己らの子さえ、それが掟だからと、あのような暗闇の牢獄に閉じ込めて、飢えて死ぬのを待つような人々だ。私は彼らのことが、恐ろしかった。

 夜明け頃、ようやくうとうととしては、風の音で何度も目を覚ました。

 いつも洞穴の中を満たしている、この風。人の唸り声のような音を立てる風は、本当に死者の怨嗟えんさではないのか。疲れた頭の片隅を、何度となく、そんな考えが掠めていった。あの暗い牢獄につながれて、定められた日まで生き抜くことのできなかった、数知れぬ少年たちの。



 私はその翌日から、昼間に人々と語りあう場所を、奥の通路にもっとも近い広間へ移した。

 このような土地はさっさとあとにして、何もかも忘れてしまいたいと、そう思わなかったわけではない。だが逃げ出したところで、あの風の音に、どこまでもつきまとわれるような気がした。何より、ヤクトの手を握った感触が、手のひらのなかに残っていた。あの痩せた、熱い指。

 洞穴は広く、そこで暮らす人の数は多い。これまでは話を聴きにくるのを遠慮していた奥の部屋の人々は、私の気まぐれを喜んで迎えてくれた。その好奇心に満ちた顔は、いずれもごく善良な人々のそれと見えて、私は混乱した。

 放浪の旅人に無邪気に話をねだる、素朴な辺境の人々。そして飢えぬために子どもらを間引きする、恐ろしい風習を頑なに守り続ける人々。それが頭の中で、うまく重ならなかった。

 それでも平静をよそおって、彼らに話を語りきかせながら、私は耳を澄まして奥の様子をうかがった。

 話のあいまに彼らがわけてくれる食事の、たとえば焼いた干し魚だったり、よく煮込んだ根菜だったりといったものを、食べた振りをして懐に隠しながら、私は機をうかがった。

 そのようなものを持っていったところで、また少年たちの怒りを買うだけではないか。そう思わないわけではなかったが、それでも何もしないではいられなかった。

 しかし、好機はなかなか訪れなかった。

 人々はそれとなく、奥の通路を見張っているようだった。はじめのあのときは、誰もいなかったが、そうと意識して近づくと、いつもそのあたりの通路には誰か人がいて、明かりの下で繕いをしていたり、雑談を交わしていたりするのだった。

 午後、用を足すふりをして人々の輪を外れ、人目を気にしながら奥の通路に近づくと、小部屋から小柄な人影がひとり、ゆっくりと歩み出てきた。

 それは、この洞穴の人々を束ねる長だという、あの老女だった。

 私はぎくりとして立ち止まり、何かうまい言い訳がないものかと、必死に頭をめぐらせた。

 だが老女は、何かを問いただすわけでもなく、ただゆっくりと振り返って、私を見た。そして、かすかな笑みを顔に浮かべた。

 それは、あの晴れの日に見たのと同じ、ひどく静かな、神々しい微笑だった。

 気がつけば、踵を返してその場を逃げ出していた。背中をいやな、つめたい汗が濡らしていた。老女の浮かべた笑顔が、眼に焼きついて離れなかった。あの美しい、穏やかな、どこまでも澄んだ微笑。

 途中、無人の小部屋の前を通りかかったとき、私ははっとして、足を止めた。

 誰も使わない部屋。物の置かれていない室内は、寒々しく、がらんとしている。それなのに、いつでも丁寧に清められて、人々が厳粛な表情で頭を垂れる場所。

 変わった信仰の形だと、それまではただ、そんなふうに思っていた。だが、その意味するところを唐突に理解して、私は震えた。

 かつて、あの奥の牢へと押し込められて、そのまま飢えて力尽き、戻らなかった少年たち。空けられたままの部屋は、彼らの居室だったのではないか。



 ようやく機会を捉えたのは、三日後の夜だった。

 通路に人影がないことを確認し、例の通路に足を踏み入れたとき、ちょうど風の音が高まって、私の立てる物音をかくしてくれた。

 分岐のあたりまで辿りついたところで、私ははっとした。

 静かだった。ここまで近づいても、風雨の音しかしないのだ。

 ぞっとして、私は足早に牢まで駆け寄った。

 ――ヤクト。イアン。

 少年たちの名を呼んでも、返事は返ってこない。彼らが閉じ込められて、何日めになるのか。私は間に合わなかったのだろうか。

 恐怖に襲われながら、何度目かに名前を呼んだところで、かすかに呻き声がした。

 ――イアン。

 名を呼ぶと、少年は牢の奥の闇から、にじるようにして、明かりの下に這い出してきた。次いでヤクトの入っている牢からも、弱々しく私の名を呼ぶ、細い声が聞こえてきた。

 よかった。私は安堵の息を漏らして、ほとんどへたり込むように、薄暗い通路にかがみこんだ。そしてようやく、イアンが私の胸元に強い視線を向けていることに気づいた。

 その鼻が動いて、食べ物のにおいをかぎあてたのが、はっきりとわかった。

 イアンは低い唸り声を立てた。

 それはまるで、獣の声だった。ぞっとして、私はあとじさった。イアンは這ってこちらにじりより、格子を掴んだ。どこにそのような力が残っていたのかと思うような、力強さで。

 とって食われるのではないかという、理にかなわない恐怖におされて、私はいっとき、その場に立ちすくんでいた。だがはっと我にかえると、彼の牢の前に歩み寄って、袖口に隠していた夕食の残りを、もどかしく取り出した。

 イアンの手が、格子の隙間から伸び出てきた。通路の明かりに照らされたその指は、節くれだって、骸骨のようだった。

 その手が異様な力強さで、私の手のひらから、ちいさな魚の欠片をひったくった。伸びかけた爪が、私の手にひっかき傷を残して、格子の向こうへと引っ込んでゆく。私は半ば恐怖にかられ、半ば安堵しながら、少年の口元を、じっと見つめていた。

 だがイアンは、手を止めた。

 わずかばかりの食糧を、まさに口に入れようかというその寸前で、イアンのやせ細った指は、ぶるぶると震えていた。

 本能の叫びと、掟との間で、彼は、葛藤しているのだった。

 自分が残酷なことをしているという罪悪感と、どうか食べてくれと願う気持ちが、私の中でも、ひとしくせめぎあった。頼むから、それを食べてくれ。

 その姿勢のまま、イアンは長い間、震えていた。

 手の震えはやがて、腕に、肩に、全身に広がっていった。やがてイアンは叫び声を上げて、手のひらの中の魚を、投げ捨てた。格子の隙間から、こちら側へと。ほんの小さな、けれどここではとても希少な魚。それが細かく千切れて、通路の薄明かりに照らされながら、飛び散った。

 イアンは格子を掴んで、低く唸った。それは、呪詛の声だった。

 私は何かをいいかけて、けれど結局、何もいえなかった。どうしてと、イアンを責める思いもあった。どうして食べてくれない。掟がなんだというのだ。生きることよりも、それは本当に大事なのか。

 呪詛はいつの間にか、低い嗚咽に変わっていた。その声が、引きちぎれるような声が、彼の父の名を、母の名を呼んでいるのがわかった。

 助けを求めているのか。助けに来ない彼らを呪っているのか。それくらいならば、どうしていま、食べようとしない。そんな声をあげるくらいなら、なぜ。

 胸から突き上げてきた問いかけは、私の口からこぼれることはなかった。

 やりきれない思いで彼に背を向け、私はヤクトの牢を見つめた。暗闇の奥でじっと横たわる、小さな体を。

 ――ヤクト。

 名前を呼ぶと、暗闇の中で、ヤクトがゆっくりと瞬きするのがわかった。私は顔を伏せた。彼の目を、直視できなかった。

 彼は立ち上がらなかったし、イアンのように、這い寄ってもこなかった。その力が残っていないのかもしれなかった。

 私はかがみこみ、懐に残っていたわずかな食べ物のかけらを、格子の向こう側に、そっと滑り込ませた。それからようやく顔を上げて、ヤクトの目を見た。

 少年は、身じろぎひとつしなかった。ただ静かなまなざしを、私に投げかけていた。

 彼が何かいうのを待たずに、私は立ち上がり、その場に背を向けた。ヤクトの選択を、見届けるのが恐ろしかった。

 歩き出したときには、イアンの嗚咽は、すでに止んでいた。背後から、そのほかの物音は、何も聞こえてこなかった。それが二人が身動きをしなかったためなのか、それとも風の音に飲み込まれてしまっただけなのか、私にはわからなかった。

 あのときイアンは、何を呪っていたのだろう。あとになって、そのことを何度も考えた。私をか。飢えをか。彼に飢えを強いている、掟をだろうか。それとも、掟を守るために自分を見捨てようとしている、大人たちをか。風の強い夜に、雨の降りしきる朝に。私自身が食べはぐれて、空腹にさいなまれる日に。何度も、何度も考えた。

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