雨の国

朝陽遥


 その土地では、いつも雨が降っていた。

 月の半分は、音を立てて大粒の雨が降りしきり、残りの半分は小雨か、よくて薄曇り。晴れ間など、せいぜい月に一度か二度というところだった。

 そのような土地にも人が暮らしていると聞いて、迷わず向かっていったのは、好奇心にこの背を押されたからだ。

 なぜそのような地で、人が生きてゆけるのか。考えれば考えるほど不思議でならなかった。私の故郷は山あいの、小さな村だ。よそに比べれば、あそこも雨がそれなりによく降る地方ではあるが、それでもせいぜい二、三日に一度といったところだった。何かの拍子に天が乱れ、連日たえまなく雨が降り続くことがあれば、山肌も崩れ、作物も流されよう。川は大河となって氾濫し、家は腐って朽ちてしまうだろう。

 実際に、故郷ではそれに近いことが、稀にあった。十日かそこら雨が止まず、家財を置いて高台に逃げねばならないようなことが。

 ほとんど常に雨の降っているというその土地で、人が暮らしてゆけるというのは、いかなる神の加護か、それとも人知の結晶か。私はそれが知りたかった。そして、もし人の知恵によるものであるのなら、その片鱗なりと身につけて、故郷に伝えることができないかと、そういう思いも胸の片隅にあった。好奇心の影に隠れてしまうほどの、ほんのささやかな心積もりではあったが。



 近隣の町で教わった、その地方への道をゆくにつれて、たしかに空には徐々に、雲がかかりだした。目指す先には高い山の峰々が連なり、複雑な形に空を覆っている。その峰の向こうから、雲がときおりこぼれ出てきて、頂を煙らせている。

 それらの山々に囲まれた、険しい道を縫っていった先に、雨の国はあるという。

 道があるということは、人が行き交うということだ。誰も通らぬ道は、いずれ消える。

 だが、旅慣れている私にとっても、それはいささか、つらい道だった。

 高くそびえる山々を仰ぐ、その手前の道のりまでは、大の男の足にはなんという苦労もなかった。苦難は山道にさしかかってからのことだ。

 まず、煙るような霧雨が降り出した。途中までは谷底の道を通っていたのが、次第に斜面をのぼり、やがては岩肌ばかりが殺風景に連なる、切り立った崖道へと続いていった。

 真実、それほど雨に降り込められているのならば、道などじきに崩れた土砂に埋もれてしまわないものだろうか。行く前にはそのように思っていたのだが、いざ足を踏み入れてみれば、答えはすぐに知れた。そのあたりは土肌など影も形もない、無骨な岩山だったのだ。表面の土などは、とうの昔に流されきってしまったのだろう。

 その岩の道も、長年の風雨に削られてつるつるになっていて、気を緩めると足を滑らせる。運が悪ければ、そのまま真っ逆さまに谷底だ。

 そのような足場で、さらに雨に体力を奪われながらの、苦しい道程だった。岩の刻み目、滑り止めとして誰かが刻んでいるらしい、そのわずかな足がかりを、靴底で探り探りしながら、しっかりと踏みしめて歩く。神経をすり減らし、雨に体力を奪われながらの道ゆきだ。ほんの一刻も歩けば、もうくたくただった。

 ――どうしてこのような土地に、人が、住もうと思ったのだろう。

 途中の洞穴で体を休めながら、ちょうど行き会った隊商の男にそうぼやくと、商人は余裕を見せて、にやりと笑った。

 ――ここは、世界のはじまりというほどの昔から続く、古道なのだそうだよ。

 そういって、男は時の流れを見通そうとするように、目を細めた。かつてこの道ができたころ、この先の土地はまだ、雨の国ではなかったのだそうだ。

 人のほうが、先に住んでいた。そのあとに何かの天変地異があって、一帯の気候が変わり、そこは雨の国になった。それでも人はどうにか生き延び、生き延びた以上はその地にとどまった。そういうことらしい。



 その先の道は、隊商に混ぜてもらって、後尾をついていった。

 細かな雨の中で空を仰ぐと、薄い雲の向こう、太陽がかすかに透けている。雨が弱まったところで足を止めて、ようやく周囲を見渡せば、これほど陽射しの弱い土地でも、眼下には草木が隆々と繁っているのが、なんとも不思議な光景だった。

 濡れて冷えた手足は、とうに感覚が失せていた。保存食を齧りながら歩いていると、雨が口の中に入る。それでも何か食べていなければ、とても体がもたなかった。

 その場所に近づくにつれ、雨の勢いは増した。悪いことに、風も出てきた。ときおり足を止めてその場にかがみこみ、風が弱まるまで、じっとやり過ごさなければならないようなことまであった。

 足元で轟々と、水のうねる音がしていた。谷間で雨が激流となって、下流に押し寄せていくのだろう。

 やがて雨の厚い垂れ幕の向こうに、淡い明かりが見えた。だが疲れきった私の頭は、ああ、何か光るものがあると、そんなことを漠然と思っただけで、それが何を意味するかということに、思いを馳せるだけの力を残していなかった。

 隊商の面々もまた、何もいわなかった。そもそも彼らは、雨の音に紛れないように声を張り上げて話すのが億劫らしく、ここぞという道の節々で、後続の者にきまった合図の声を上げる以外には、ほとんど口をきかなかったのだが。

 商人たちの合図に従って段差を乗り越え、ずっと見えていた明かりがようやく間近に迫ったとき、ふっと、視界が鮮明になった。そこで私はようやく、雨がもう自分の体を打っていないことに気づいた。

 顔をあげると、岩の天井があった。そこは、洞穴の中だったのだ。

 ――やれ、ようやく着いた。

 口々に安堵の声を漏らす商人たちの間で、私はぽかんとして、阿呆面をさらしていた。

 洞穴の中は温かく、意外なほどに乾いていた。ところどころに火が焚かれている。外から見えたのは、この光だったらしい。

 隊商の代表らしい男は、顔をくしゃくしゃにして笑い、誰かと肩を抱き合って再会を喜んでいた。

 その相手は、小柄な老人だった。これは少ししてから気づいたのだが、かの地の人々は、いずれもずいぶんと体が小さかった。おそらくそれは、彼らの栄養状態の問題なのだろうが、あるいは洞穴の中で暮らしていくなかで、大きな体躯が邪魔になるからなのかもしれなかった。

 商人が珍しい客だといって、その老人に、私を紹介してくれた。雨の国の住人は、ゆっくりと微笑を浮かべると、何ごとか、くぐもった声でいった。訛りがひどく、意味を飲み込むのに時間がかかったが、どうやらそれは、歓迎の意をあらわす言葉のようだった。



 奇妙なことに、洞穴の中にはいつも、緩やかに風が吹いていた。

 洞穴の奥から入り口に向かって、風は、絶え間なく吹き上げてくるようだった。その音が反響して、外から響く雨音と重なり合い、ちょうど大勢の人々の、低い唸り声のように聞こえる。それも中にいるうちにいつの間にか聞きなれて、次第に気にならなくなっていったが、ふとした拍子に、自分が姿の見えない無数の人々に取り囲まれているかのような、妙な錯覚がしたものだ。

 狭い場所でうかつに火を焚けば、悪気あっきもって毒になるという。だがその風のおかげで、あの洞穴に暮らす人々は、心おきなく火を使えるようだった。そしてそのために、洞穴の中のほとんどの場所が、温かく乾いた空気に満たされていた。

 洞穴は、驚くほど入り組んでいた。通路自体はさしたる広さもないのだが、それが延々と奥に続いて、ところどころで分岐し、また合流して、その脇にたくさんの小部屋アルコープがある。自然にできたものではなく、人々が少しずつ削っていって作ったのだろう。

 小部屋の中では誰も灯を使わず、通路から漏れる、あえかな薄明かりだけで過ごす。そのためだろうか、扉、という概念は、彼らにはないようだった。

 通路を歩いていると、いくつか、誰も使っていないようすの小部屋があった。

 何かの都合でたまたま空き部屋ができたのだろうと、はじめはそう思っていたのだが、よく気をつけてみていると、そこは何か、祠のような、特別の場所として扱われているようだった。何も形式ばった祭壇があるわけではないのだが、ただ丁寧に掃き清められていて、人々は軽々しくその小部屋に立ち入ることをしない。その前を通るとき、人々が決まって厳粛な表情を浮かべることに、私はじきに気がついた。

 ただの空き部屋に対して、それは奇妙な光景に見えた。だが信仰の形は土地ごとに異なっているものだ。私も彼らに倣って、その前を通るときには、心もち姿勢を正すようになった。

 私は彼らの客として、洞穴の中のほとんどの場所で、自由に過ごしてかまわないといわれていたが、ある場所より奥に足を踏み入れることは許されなかった。その先は危険だからというのが、彼らのげんだったが、どう危険なのかと聞いても、返ってくる説明は、どうにも要領を得なかった。

 声が反響するためだろう、雨の国の人々は、めったに大声を出すということをしなかった。だがあまりに小声だと、外の雨音に負けて相手の言葉が聞き取れない。そのためだろう、人々はいつも、ひどく近い距離で話をした。相手が若い娘だと、こちらが思わぬ誤解をしそうになるほどに。

 人々は、驚くほど人懐こく傍に寄ってきて、遠い国の話を聞きたがった。なるほど、このような土地では、遠方からの客が訪ねてくるのは、さぞ珍しいことだろう。

 広間で私が話し始めると、人々は寄り集まって狭い輪を作り、ともすれば風雨の音に紛れそうになる語りに、熱心に耳を澄ませた。私は彼らに、よその国々で見聞したものごとや、そこで聞き込んできた物語など、さまざまのことを気が向くままに話して聞かせた。

 たとえば、そう、ずっと南のほうでは海がぐらぐらと煮えたぎって、もうもうと白い蒸気を噴き上げているということを。あるいは北の最果てに、一日じゅう陽の沈まない、とこしえの黄昏の国があるという、北方の古い伝説を。またある日には、中央の草原地帯に棲むという、小山のような体躯の犀と、それを三か月に一度の定められた日に一頭だけ狩って、それで暮らしを立てる部族のことを。

 彼らは私の語る遠い異国の話を引き換えに、快く食事を分けてくれた。

 雨の弱まった隙に、男たちが外に出て崖を下り、魚や何かを獲ってくるようだったが、肉のほうは、主として蝙蝠や蛇のそれだ。また、洞穴のどこかで採れるらしい、茸や苔を使った料理もあった。最初の一口を食べるときに、躊躇がなかったといえば嘘になる。しかし贅沢をいえる環境でないのはよくわかったし、食客の分際でわがままをいうのも憚られた。

 それに、慣れてみれば、味は悪くなかった。食べてもちっとも腹いっぱいになった気がしないのが、難点だったが。



 珍しく空が晴れれば、人々は一斉に外に飛び出した。

 もちろん小雨や曇りの日にも、男たちは食べるものを探しに出かける。しかしそうしたときとは違い、晴れた昼間には、老若男女をとわず皆が外の岩場へと飛び出して、燦々と降り注ぐ陽光を浴びるのだった。その日の子どもらのはしゃぎようといったら、ちょっとよその町ではみられないほどだ。

 谷間に響き渡る鳥たちの声さえ、その日は心なしか、嬉しげに弾んでいた。朝にはもやの出ていた景色も、太陽が高く上る頃には晴れ晴れと澄み渡った。

 岩場に腰掛けて周囲を見渡すと、ひとつの洞穴の中に、驚くほど大勢の人々が暮らしていることが、あらためてわかった。そうした洞穴が近隣にいくつかあって、それぞれに、大小の集落を作っているのだった。

 それからこれはそのときようやく気づいたのだが、男の数が、ひどく少なかった。

 洞穴の中では得られない食糧や暮らしに必要な品、魚や肉もそうだが、たとえば断崖にへばりつくように生る滋養のある果物や、乾かすとよく燃える木の枝など、危険をおかしてそうしたものを求めるのは、すべて男の仕事と決まっていた。そのために命を落とすものが多いのだろうと、私は漠然と考えて、感慨深く、彼らの顔を見渡した。

 薄暗い洞穴の中では見なれたつもりの顔ぶれも、明るい日の光のもとでまじまじと眺めてみれば、ずいぶんと印象が違って見えるものだ。到着以来、しばしばはにかみながら声を掛けてくれていた少女が、思っていたほど幼くはない、きれいな娘であることに、私はそこでようやく気がついた。彼女も私の顔を見て、照れくさそうに微笑んだ。その瞳は、透き通った琥珀色をしていた。

 娘が私に微笑みかけていたのは、ほんのいっときの間のことだった。ふっと目を逸らすと、彼女は同年代の少女たちの間に混じって、何やら言葉を交わしあい、かろやかな笑い声をたてた。洞穴の中で聞くのとは違う、高く澄んだその響きに、私はいっとき聞きほれた。

 場は賑やかだった。洞穴の中ではひっそりと話す人々は、陽射しの下では腹の底から声を出しあって、そしてそのことを、おおいに喜んでいるようだった。

 これもまた、明るい陽の下で目にしてはじめて気づいたことだったが、男たちに比べて、女たちはまだいくらか肉がついているようだった。

 わけても育ち盛りの少年たちは、まさしく骨に皮といった様相をしていた。いつも好奇心に顔を輝かせて話をせがんでくる、顔見知りの少年たちが、それまで思っていたよりもずっと痩せこけていることに、私は気づいた。

 体の育つ盛りに、ああした食事ではとても追いつかないのだろう。そう思えば、哀れなような気がした。だが本人たちは、そんな私の視線には気がつきもしないようすで、楽しそうにはしゃぎ回っている。眼下に遥かな谷底を見下ろす岩棚だというのに、見ているほうがはらはらするほど、そこらじゅうを自在に跳ね回っていた。

 彼らの姿に目を細めながら、久しぶりの陽射しを楽しんでいると、小柄な老女がひとり、危うげな足取りで私のほうにやってきて、澄んだ微笑を浮かべた。

 会釈を返すと、老女はおだやかな声で名乗り、訛りのきつい言葉で何かふたことみこと、口にした。近くでくつろいでいた商人が、驚いたように目を見張り、慌てて腰を低くしながら、私に囁いた。このひとがこの洞穴の人々を束ねる長で、とてもえらい方だから、あまり失礼のないように。

 驚いて見つめると、老女はこぢんまりとした体で座って、気にするなというふうに、小さく片手をふってみせた。ごく気さくなしぐさだった。それでいくらか気が楽になった私は、ようやく名乗り、今度は会釈ではなく、正式な礼をとった。

 老女はもういちど、ゆっくりと言葉を発した。どうやら、この国はどうだと、訊ねているようだった。

 見るものすべてが珍しく興味深いと、私がそのようなことを答えると、老女は鷹揚おうようにうなずいて、あるかなきかのかすかな微笑みを浮かべた。

 先ほどもそうだったが、その笑みはひどく透き通っており、この世に生きるひとの浮かべるものとは思えない、滲み出すような神々しさがあった。年老いた女に対して、こうした言い方をするのも妙かもしれないが、それは、とても美しい笑顔だった。

 老女はのんびりと立ち上がりながら、気のすむまでゆっくりしていくといいと、そういうようなことをいった。その後ろ姿が遠ざかっていくのを、どこか圧倒されたような思いで見送っていると、同じ洞穴の人々が、ほとんどひれ伏すようにして、老女の小さな後ろ姿を拝んでいた。



 そのとき、わっと歓声が上がった。振り向くと、少し離れた岩棚に、ここに来て初めて目にするような、華やかな色彩が飛び込んできた。

 色とりどりの、花、花、花。これだけの数の花を、どこから摘んできたというのだろう。洞穴の中にも植物はあったようだが、ただでさえ雨ばかりのこの地で、そのうえ天井の岩の切れ目からかすかに届くばかりの弱い明かりの下では、あれほどの植物が育つとは考えづらい。ならば、このわずかな時間でそこらじゅうの岩場を駆け回って、かき集めてきたのだろう。

 どこかで女たちが、声高く歌っていた。歌詞はよく聞き取れなかったが、聴いているだけで心弾むような、おそらくは、祝いの歌だった。

 それらの花弁と歌声とに囲まれて、一組の男女が、腕を絡めあうようにして寄り添っていた。

 ふたりとも、遠目にもわかる照れくさそうな笑顔をうかべ、周りを囲む人々に、口々に話しかけられている。

 ――ああ、婚礼のようだ。これはまた、いいところに居合わせた。

 行商の男が、口元を綻ばせながらそういった。

 見れば、さきほどの琥珀色の瞳の娘も、彼女と話していたほかの少女らも、みな頬を紅潮させて、向こうの岩棚に見入っている。そうしたまなざしは、どのような土地でも変わらないものだなと、私は妙に感心して、そのようすに見入っていた。

 ――ここでは、婚礼は、晴れた日にだけ執り行なわれるんだよ。

 そう教えてくれた商人は、眩しげに目を細めて、空を仰いだ。なるほど、岩場を照らす明るい陽射しは、雨に閉ざされてばかりのこの土地で、祝福としてこのうえなくふさわしい演出だった。

 重ねて男が教えてくれたところによると、同じ洞穴に住むのは、基本的には血縁によって結ばれる一族なのだそうだ。その中に、違う洞穴から婿が迎えられるのだという。同じ洞穴に暮らすものとの婚姻は、禁じられている。

 なるほど、親族どうしで婚姻を繰り返して血が濃くなりすぎれば、生まれてくる子に思わぬ障りの出ることがあるというから、それは彼らの長い歴史の中で培われてきた、知恵のひとつなのだろう。

 琥珀色の瞳の娘は、周囲にいた少女たちに声をかけると、ぱっと身を翻した。陽射しに温められた岩を裸足で踏んで、かろやかに駆けてゆく。あっという間に姿が見えなくなったかと思えば、もう向こう側の岩棚によじのぼっている。どこをどう通ったのか、目にもとまらぬ早わざだった。

 娘は花婿に、ついで花嫁に、あふれんばかりの笑顔で話しかけた。そのどちらかが、彼女にとって親しい者なのだろう。それで祝福を述べるために、いそいで駆けていったというわけだ。

 誰かが高いところの岩棚から、花びらを振りまいた。それが風に流されて、こちらの岩棚まで舞いおりてくる。

 皆から口々に祝福を受け、あるいはひやかされながら、二人はやがて洞穴の中に姿を消すまで、ぴったりと寄り添いあっていた。



 その晴れの日以降、あらためて意識してみると、男たちの数はいかにも少なかった。

 男のほうが命を落とすことが多いにしても、その差は、あまりに極端だった。女腹、男腹というのがあるのと同じで、男の生まれにくい土地なのかもしれない。そのときの私は、漠然とそんなふうに考えた。

 さらにある時期になると、それまでしばしば顔を合わせていた少年たちが、姿を見せなくなった。

 ある日、いつものように広間で話をしていた私は、語りに一区切りついたところで、首をかしげた。いつも目を輝かせて話に聞き入っていた二人の少年が、前の日から一度も顔を見せていないことに気がついたのだった。

 ――イアンは、今日は来ないのかな。ヤクトはどうしたんだろう。

 彼らの名を挙げて、そんなふうに訊くと、人々は少しばかり困ったような顔になって、あいまいに笑い、あるいは表情を曇らせた。

 ――あの子らは、しばらく来ないよ。

 老婆の一人が、そんなふうに呟いた。その声の調子はどこか寂しげで、それでいてよそよそしい響きがあった。それまで気さくに話をしてくれていた彼女の、突然の態度のかわりように、私は慌てた。何か悪いことを訊いたのだろうかと思ったのだ。

 ――病気でもしたのかい。それとも怪我とか。

 そう聞くと、人々はみな首を振って、そういうことではないから安心するようにと、口々にいった。

 では、何か悪さをしでかして、仕置きでも受けているのか。困惑しながらそう訊ねたのは、その二人がお調子者で、いかにも悪戯のひとつやふたつ、しでかしそうな子どもらだったからだ。人々はさざめくような笑い声をもらしたが、その響きも何か、妙にぎこちなかった。

 部屋の隅で繕いをしていたひとりの少女が、ふいに顔を上げて、口を開いた。

 ――そういう、しきたりなんです。

 ――しきたり。

 私が阿呆のように繰り返すと、声の主は視線を逸らして、うつむいてしまった。あの、琥珀色の瞳の娘だ。

 今は二人とも、人前に姿を出してはならない時期なのだと、そういったきり、娘はかたく唇を結んだ。このことは、もう訊いてくれるなというように。

 陽光の下で見たとき、あれほどきらきらと輝いていたその瞳は、いまは伏せられて、沈鬱に沈んでいた。

 広間に満ちた奇妙な沈黙に、私は戸惑った。人々はどういうわけか、彼女を咎めるような、あるいは諌めるような表情をしていた。

 戸惑いながらも、重ねて娘に話しかけようとしたとき、一人の老人が、すっと立ち上がった。老人は娘のもとへ歩み寄り、その手を取ると、苦い表情で口を開いた。

 エクドゥラァラ。そういうような音に聞こえた。意味はわからなかったが、その声には、彼女に何かを促すような響きがあった。

 それに答えて、娘もまた何事かを、小声で呟いた。それから首を振って、口元を手で覆った。

 老人はそのまま娘の手を引いて、部屋の外に連れ出してしまった。彼女がやりかけていた針仕事の道具も、その場に残したまま。

 そのとき、雨の音が急に強まって、轟々とうねりながら、洞内に反響した。それで皆、なんとなく口をつぐみ、気まずい沈黙が小部屋に満ちた。

 気にはなったが、わざわざ彼らを追いかけるのもためらわれた。迷っているうちに、先ほど声を上げた老婆が、他の話はないのかいといって、私の袖を引いた。

 促されるままに、先ほどとは別の話を語りながら、私は何度か、扉のない戸口へと視線を向けた。

 しかし娘はその日、それきり広間には戻ってこなかった。



 それから数日が経ち、雨の上がった薄曇りの朝に、商人たちは雨の国を発っていった。

 彼らは満足のゆく取引を終えたようで、持ってきた荷の多くを下ろし、それと引き換えに、このあたりでしか採れないという珍しい薬草や香木、見ただけでは何かよくわからない干物などを、それぞれに厳重に包んで、しっかりと背負っていった。

 荷馬の類をつれてくることさえできない、この土地までのひどい悪路を、人の足で延々と歩きとおしてまで商売に来るのだから、あれらの妙な品々も、よほど高価な薬になるのだろう。

 隊商の出立を見送ったあと、男たちが外に狩りにいくというので、私もついていこうとしたのだが、よほど私の足取りが危なっかしかったのか、足手まといになるから帰れと、すぐに追い払われてしまった。

 それでしかたなく、女や年寄りたちの集まって、繕いやら手仕事をしている広間に出向くと、彼らは蝋燭の明かりの下で、ぱっと明るく目を輝かせた。今日はどんな珍しい話が聞けるのかというように。

 私はその日、人の言葉を話す鳥の伝説について、彼らに話して聞かせることにした。西国に古くから伝わる話だ。

 そのあたりは豊かな森に囲まれた地域で、鳥たちの楽園とも呼ばれている。じつに様々な種類の鳥たちが空を飛び交い、いつもそこらじゅうで賑やかにさえずりを交わしているのだが、その中に、人語を話す鳥がいるという。

 ある町ではその鳥が、神の化身として語られていて、森に迷い込んだ子どもらへ、帰り道を教えて飛び去っていったという。また別の町に伝わる話では、同じ鳥が、人を殺して森に逃げ込んだ男に、嘘の道を教えて崖から足を踏み外させてしまう。

 いくつもの物語を、すっかり話し終えた頃には、男たちが水の引いた崖下に降りて、芋を採ってきていた。それを煮込んで丁寧に潰した、粥のような料理をわけてもらいながら、私はあらためて、彼らの痩せた手足を見つめた。

 芋の粥は、美味かった。雨に流されないよう、地中深くに根を張るというその芋は、味が濃く、少しの量でも滋養があるようだった。そう、この不毛の岩山を離れて、遥か下方に広がる森に、ただ足を踏み入れさえすれば、この国は本来、豊かなのだ。

 だがその森は、いつどこが氾濫した川に飲まれ、あるいは崩れた山肌に埋もれるとも知れない、危うい土地でもあるのだった。そこまでただ降りて歩き回るだけでも、大きな危険が伴う。雨が続くうちは、とても崖下まで降りられるものではなかった。

 そのような不便を強いられてまで、この土地にこだわり続ける理由が、果たしてあるものだろうか。私はあの国に滞在している間、何度となく、そのことを考えた。

 だが、生まれたときからそこで暮らしている人々にとっては、不便は不便ではなく、当然の日常なのだろう。

 たしかに、彼らは嬉々として私に異国の話をせがみ、目を輝かせてそれらを聴いた。だが後になって思い返せば、そこに行ってみたいとは、彼らはいわなかった。そのような国で暮らしたいとは、誰ひとりとして口にしなかったのだ。

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