第一節 王立学園

第一節 一 「二度目の目覚め」




 黒い夢を見た。遠く遠く、どこまでも続く黒い夢を。

 その黒は厳かでありながら優しさを湛えた、静穏の黒。包み込むように、抱き締めるように、全てを包む安寧の漆黒。

 黒の祈りは安らぎと眠り。彼女は命の燈火を愛しているから、幾度も彼らを煌々こうこうと輝かせたいから、安息の闇に沈んでほしいと願う。

 怖がらなくていい。この闇は貴方を侵したりはしないのだから。再び灯りを点すために、今は心安らかに目を閉じなさい。


 ……それはきっと、決して戻り得ぬ過去への憧憬どうけい

 優しき願いは残滓ざんしに過ぎず、二度とその慈愛があらわれることなどない。だからこそこうして夢に現れるのだ。

 ああ懐かしきあの頃よ願わくば、と。夢の主の少年は、そんな自分の心理がとても滑稽で、そして情けなく思えた。

 美しい過去に縋って夢を見るなど、女々しいにも程がある。彼女は消えた。皆消えたのだ。跡形もなく、一片の欠片すら残さずに。

 それが祈りだった。それが願いだった。望まれたからそうなったのだ。求めよさらば与えられん、と、世の理が指し示した結果が今なのだ。


 だというのに、過去への憧憬は止まらない。

 眠ってほしい。安らいでほしい。どこまでも広がる純粋な黒は、その一心で切に語りかける。優しき言葉に耳を貸す者など、もう誰一人いないというのに。

 虚しく響くその声に、耳を塞いでしまいたくなる。結局何をどうしたところで、全ては元に戻らないのだ。

 だから頼む、お願いだ。これ以上その声を僕の耳に届けないでくれ。これ以上君を思い出させないでくれ。狂おしきその思いを少年が口にしようとした、その時。


 ――――安らいだなら。目が覚めたなら。

 ――――その時はもう一度、その目で私を見つけてほしい。

 ――――待っているから。いつまでも。


 黒が抱く『今』への願いは、透明な少年の夢に響き渡った。 




 ◇




 目が覚めてまず、天井の木目が視界に入った。クレールは二、三度瞬くと、はて、と首を傾げる。……自分はいつ眠ったのだろうか。


 体を起こす。窓から差し込む朝日に、クレールは目を細めた。窓の外には、悠然と青空を泳ぐ真白い雲が見える。朗らかな晴天に、寝惚けた意識も晴れていく。

 寝台に座ったまま軽く伸びをしたクレールは、改めて周囲を見渡す。寝台の他に木製の机と椅子があるだけの、とても簡素な部屋だ。中はあまり広くは無いが、物が少ない分すっきりとした印象がある。机の傍らには、中身の詰まった大きな鞄が無造作に置かれていた。


 この部屋のこと、ひいてはこの建物のことは記憶にあった。昨日、リナにここまで案内されたことを覚えていたからだ。

 南門正面通りから少し逸れた場所。雑貨屋と魔石屋の間にある薄緑屋根の建物。『旅鳥たびがらす梢亭こずえてい』という古びた看板が目印の三階建て。

 元は宿屋であったらしいその建物の二階、五部屋ある内の一番南側の一室。……より端的に言うのならば。


「寮の、僕の部屋、か」


 クレールは頭を掻き、目線をやや下へと遣る。少々皺が寄った白のシャツと黒のズボン、そして灰色の靴が目に入る。昨日身に着けていたものと全く同じだった。

 ふむ、と声を漏らしたクレールは、昨日の自分がどういう状況であったのかおおよその見当を付けた。

 恐らく自分は、案内された部屋に荷物を置き、とりあえずといった具合で寝台に腰を落ち着けたところで、そのまま眠ってしまったのだろう。

 そう考えると、眠る前の記憶がやや曖昧な事にも説明が付く。つまりは。


「余程疲れていたのかな」


 思い返してみれば、昨日は怒濤の展開とも呼べる一日であった。文字通り休む暇など無かったと言える。


 森の庭での一件然り、ミシュリーヌとの会談然り、リナとの問答然り。危急、緊張、興味とそれぞれ趣は違えど、心身とも休まる時では無かったということは共通している。

 精根尽きかけた状態で目覚めてから一日、そのような流れの中に居たのだ。間に一度気絶して眠っているとはいえ、疲労が限界まで溜まるのも当然と言える。

 そして最後、自室に辿り着いたところで一日中続いていた緊張と興奮が一気に解け、気絶するように眠ったのだろう。


 一通りの自問自答を終え、ある程度の現状を把握したところで、クレールはふと己の腹に手をやる。胃のあたりから、ぐるう、と低く唸る音がした。


「……腹が減ったな」


 思えば当然の話だった。昨日一日でクレールが口にしたものと言えば、死にかけていた際にリナから分け与えて貰った水や木の実、干し肉等々。加えて、ミシュリーヌから振舞われた紅茶。その程度である。

 とてもではないが、食欲旺盛な若い男の腹が満足に膨れる量ではない。腹が音を上げるのも当然だ。


 ぐるうぐるう、と低い悲鳴を上げ続ける己の腹を労わる様にさすると、ぐるぐるぐるうぐるうぅと敏に反応が返ってくる。撫でてないでさっさと飯を寄越せ、ということなのだろう。

 空腹の体に急かされて、クレールは寝台から立ち上がる。思いの外、体が軽快に動いた。一晩ゆっくりと休息を取ったおかげだろうか、それとも飯への欲求が体に鞭を打っているのか。


 どちらにせよ、元気なのはいいことだ、とどこか他人事めいた感想を抱きつつ、クレールは己の部屋を後にする。

 二度目の目醒めは、一度目とは比べるべくも無く平穏であった。




 ◇




 所変わって朝の食卓である。


 食卓、と言っても家庭的な雰囲気はさほど感じられない。というのもこの場所、一階ダイニングは、元々が宿屋だったころの名残でどこか酒場然とした作りなのである。

 炊事場を囲う様にカウンターテーブルが配されており、他に四人用のテーブルセットが五つある。手入れが細部まで行き届いているのだろうか、室内は清潔感に満ちていた。それがまた、生活臭さを感じさせない要素となっている。


 そんなダイニングでクレールは、テーブル席のひとつに座り、目の前に置かれた朝食をじっと見つめていた。

 皿の上に鎮座しているのは、焼き色の付いた固めのパンに葉野菜と燻製の鳥肉が挟まった、大きめのサンドイッチだ。玉ねぎのソースを絡ませた燻製肉の照りが、食欲を掻き立てる。

 その横には、澄んだ琥珀色のスープが添えられている。肉や野菜のエキスが染み出して色付いているのだろうか。湯気と共に、滋味溢れる香気が立ち上っている。

 副菜にはサラダまで付いていた。緑の葉野菜に加えて赤色の瑞々しい果実、短冊状の白い根野菜等、数種の新鮮そうな野菜類が盛られた器には、チーズあたりが原料なのだろうドレッシングが掛けられている。


 サンドイッチとスープ、サラダ、その三つをそれぞれ食い入る様に見つめている灰色の両目は、やや血走りを見せている。しかしながら、クレールはそれに手を付けようとはせず、何故か我慢をしていた。


『あの、クレール君、食べないんですか?』


 不安そうなその言葉に促される。食事から目を離したクレールは、テーブル席の正面に座るその少女と視線を合わせた。

 簡素なワンピースの上からエプロンを着ている、リナよりも小柄な少女である。肩にやや掛かる程度の艶やかな亜麻色の髪は、楚々とした印象を抱かせる。小さな丸顔に真丸い両の目が特徴的なその容姿からは、やや幼さが感じられた。


 少女の名はキトリーという。クレールとの顔合わせは昨日に済ませており、彼と彼女の対面はこれで二度目となる。

 とはいえ、昨日は名前だけの極々簡単な自己紹介を済ませただけであり、クレールとキトリーは互いのことを全くと言っていい程に知らない。

 故にか、キトリーの表情は何処か固く、緊張した面持ちを見せていた。慣れない相手と共に朝食を摂るのは、年頃の少女としての何か恥じらい、あるいは緊張のようなものがあるのかもしれない。

 まして今朝の朝食はキトリーの手製であり、それを慣れない相手に振舞わなければならない、というのも固い態度の一因であるのかもしれなかった。


 一方のクレールはと言えば、頭の中が朝飯のことでいっぱいいっぱいであったため、緊張など頭の片隅にすら存在していなかった。

 とにかく腹の中に何かを入れたい、その一心で階下に降りたところ偶然キトリーと遭遇し、さらに偶然のタイミングで腹の虫が合唱を始めた為、苦笑いを浮かべたキトリーに朝食を馳走してもらう運びとなったのが十数分前のこと。

 そして現在、さあどうぞと言わんばかりにテーブルの上に陣取る朝食セットを目の前に、クレールの手はためらいを見せていた。


「本当に、食べても良いんだろうか」


 いざ出された食事の立派さに驚き、クレールの心中には今更ながらに遠慮の念が湧き上がっていたのだ。

 強烈に腹が減っていたこともあり、キトリーの『朝ご飯、簡単なものですけど、一緒に用意しましょうか?』の言葉につい「お願いします」と即答してしまったが、ここまで手の込んだ朝食が出てくるとは彼自身思ってもみなかった。


 焼いたパンとちょっとした付け合せが出てくればそれだけで大喜び、恥も外聞も無くがっつこうと思っていたクレールであるが、キトリーの用意した食事の予想以上の出来を見て、食欲よりも申し訳無さが勝ってしまったのだった。


『えっと……はい、大丈夫ですけど』


 キトリーがそう答えても、クレールは直ぐには朝食に手を出せなかった。

 空腹度合は無論限界であるのだが、この状況で食事を貪るのは流石に無遠慮に過ぎるのではないだろうか、という念を振切れない。


「何か、君にはとても手間を掛けさせてしまった気がする。いや、こんな上等なものが出てくるとは、思っていなくて」


『あ、あの、そんなに大層なものじゃないですよ、これ』


 クレールの遠慮を察してか、キトリーはたどたどしい口調の『念話』でそう告げた。


『これ、ほとんど昨晩の余りものですし。ありあわせのものをちょっと焼いたり温め直したりしただけですから』


「そう、なのか」


 キトリーの言葉が真実なのか、気遣いからの嘘なのかはクレールには分からない。だが、真偽がどちらにせよ彼女の言葉によってクレールの遠慮は揺らいでいた。

 元々腹の空き方が尋常ではないのだ。少々の良心が歯を食いしばったところで、そう長く我慢できるものではない。


『遠慮せず、食べてください。お腹、空いてるでしょう? 味は……たぶん、だいじょうぶですから』


 そして案の定、キトリーのその言葉を切っ掛けとして、クレールの食欲はあっという間に振切れた。




 ◇




 綺麗に空となった食器を片付けやすいよう重ねると、クレールはキトリーへ深々と頭を下げた。


「ご馳走様でした。ありがとう、とても旨かった」


『いえいえ、お粗末様でした』


 口を少しも動かすことなく、キトリーは丁寧にそう答える。その『声』は空気を震わせることなく、クレールの頭の中へと直に流れ込んだ。

 というのも、キトリーは肉声を発することが出来ない。それ故、常の会話を精神魔法の『念話』で代用しているのだ。


 精神に起因する病気の影響、とは昨日リナが密かに語った言葉である。細かいことを詮索するのはナシ、とも忠告したリナに、クレールは首肯で返していた。

 リナが言うところによると、異界人というのは往々にして複雑な事情を抱えているもの、であるらしい。

 そのあたりの機微を察することが得意ではないと自覚するクレールは、素直にリナの忠告に従い、己の好奇心を抑えることにしていた。無論、気になる事は気になるのだが。

 そんな内心を誤魔化すように、という訳ではないが、そういえば、とクレールは口を開く。


「リナはまだ起きていないのだろうか」


『まだ、というか当分は起きてこないと思いますよ。リナちゃん、朝に弱いですから』


「そうなのか?」


 意外だな、とクレールは零す。明朗快活なリナのことだ、朝でもさぞ元気なのだろうと思っていたクレールだったが、どうやらその推測は外れていたようだ。


『昔からなんです。寝起きが悪くて、起き抜けは大抵不機嫌で……早朝から講義が入ってる時なんか大変なんですよ、中々起きてくれないから』


「というと、わざわざ君が起こしているのか?」


『朝が早い時なんかは頼まれるんです。「キトリーの『声』は抜群の目覚ましだから」なんて言って。それでも全然起きてくれないんですけどね。今日だって何度も呼んだのに、もう全く反応してくれなくって』


 苦笑を浮かべながらもどこか楽しそうに発するキトリーを見て、クレールは彼女とリナとの間にある信頼を垣間見る。

 口では困った参ったと言っているものの、それが心からの言葉でないことは明らかだ。ちょっとした悪口を叩き合えるほどには気安い間柄なのだろう。


「昔から、と言っていたが、リナとは長い付き合いになるのか?」


『ええ。といっても昔馴染みというほど長くはないです。付き合い自体はリナちゃんがこの寮に来てからだから、えっと、三年くらいになりますね。

 当時のわたしって人見知りが今以上に激しくって、最初の頃はリナちゃんにも怯えてたくらいなんですけど……ほら、あの子って明るいし、ちょっと強引なところあるじゃないですか。それで、ひっぱられてるうちに仲良くなっていって……』


「なるほど」


 昔のことを思い出しながら話しているのだろう、時折目線を上に遣りながら話すキトリーは、やはりどこか楽しげだ。

 親友という奴だろうか、とクレールは思う。ただ四年来の友人というだけではなく、共に生活を送ってきた仲間なのだ。距離感としては家族というものに近いのかもしれない。

 リナのことを笑顔で話すキトリーからは、その友愛の情が漏れ出しているようだった。

 そうやってしばしキトリーの話に聞き入っていると、ふと彼女が『あっ……』と気まずそうに言葉を漏らし、その蒼い瞳を伏せた。


『ご、ごめんなさい、聞かれても無いことをぺらぺらと……つまらなかったですよね』


「いや、そんなことはない。とても興味深い話だった」


 キトリーの言葉を即座に否定したクレールは、その灰色の瞳で真直ぐに彼女を見つめる。その否定の言葉は、彼の本心から出た科白であった。


「僕は君やリナの人となりを知りたいし、知らなければいけないと思う。ここが寮である以上、共に生活をする上で互いを理解していくことは絶対に必要だ。

 そう言った面において、先の君の話はとてもためになった……と、このような言い方は少し不適切か。そうだな……とても、面白かった」


『そう、ですか?』


「ああ。リナの性格が明るいのは昔からだと知れて良かったし、彼女の弱点が朝だということが分かってなにやら少し得をした気分になった。

 それに、キトリーさんが友人想いの優しい人だということがよく理解できた」


『えっ!? あ、いや、その……ありがとう、ございます』


「どういたしまして」


 少し顔を赤らめつつ礼を述べたキトリーに、クレールは真顔で真直ぐに返す。

 ややあって「互いを理解するという意味では、僕もそういった話をしなければならないんだろうが……」とクレール。続く言葉は言わずもがなである。記憶が無い者に思い出は語れない。

 キトリーも何かを察したようで『い、いえ、そんな』と言葉を濁す。恐らく、リナからある程度事情は伝わっているのだろう。


 しばし気まずい沈黙が続く。少し言葉を間違えてしまったか、とクレールが少しばかり後悔していると、キトリーが先に自身の思いを発した。その顔には、柔らかな笑みが浮かんでいる。


『……こうやって何気なく話しているだけでも、わたしは十分だと思います。思い出話だけが、お互いを分かり合う方法ではないですよ』


「そう、だろうか」


『はい。現にわたし、今こういう風にお喋りしてて、ちょっとだけクレール君のことが分かった気がしますし』


 少し自信あり気に胸を張るキトリー。愛嬌のあるその仕草に和みつつも、彼女の言葉にクレールは目を見開く。


「む、そうなのか」


『ええ。ほんとにちょっとだけですけど』


「ちなみにどのようなことが分かった? 参考までに教えてほしい」


 性格や話し方、立ち居振る舞いにはその人物の歴史が表れる。もしかすると彼女の抱いた印象が、己の記憶についてのヒントになり得るかもしれない。

 そんな期待を抱きつつクレールがそう問うと、キトリーは言葉を探すように思案に入る。そして、ややあって。


『そうですね、まっすぐな人というか、純粋というか、好奇心が凄いというか……うーん、一言で言うと』


「言うと?」


『ちょっと変わってる人、ですね』


「む……」と思わずクレールは顔をしかめる。すると、キトリーが慌てて念話を紡いだ。


『あっ、その、ごめんなさい、別に貶してるとか、そういうわけじゃないんですけど』


「いや、大丈夫だ、それは解っている。ただその、あれだ」


 怒りを買ったと勘違いしたらしいキトリーを言葉で宥めながら、クレールは至極真面目な顔で思案する。


「昨日リナにも同じことを言われたものだから、つい考え込んでしまって。……会って一日で分かるほど、僕は変人なのだろうか」


 その言葉を聞いたキトリーは、そのつぶらな碧眼を二、三度瞬かせる。そして少しの間があって、ちいさくぷっ、と吹き出した。

 何かを堪えるようにくつくつと笑うキトリーを、クレールは不思議そうな目で見つめる。何か僕は面白いことを言ったのだろうか。

 小首を傾げる灰髪灰目の少年へ、声を無くした少女は、微笑を浮かべながらこう言った。


『やっぱりクレール君、変わってる人です』

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