第一節 二 「入学の一歩」




「ごちそーさまでしたっ! ちょっと食器洗ってくるね!」


 テーブル席で朝食を食べ終えたリナは、少し駆け足でカウンターへと入り、直ぐ様キッチンの流し台で洗い物を始めた。

 軽やかにダイニングのドアを開けたリナが「おはよー! 朝ご飯食べたい!」と元気よく朝の挨拶をしてから、約三十分。

 彼女の艶やかな黒髪は、常の如く後ろで括られ右肩へと流されており、寝癖など一切見当たらない。纏う麻色のチュニックも、皺ひとつ無く綺麗なものだ。

 吊り目がちな両目もぱっちりと開いており──むしろ爛々らんらんとすらしている程で──、何一つ寝惚けている様子は見受けられない。


 そんな、鼻歌交じりに皿磨きをしているリナの姿を見て、クレールははてと首を傾げる。……彼は、同じテーブルでにこにこと笑っているキトリーに思わず問うた。


「聞いていた感じと違うな。寝起き、良いじゃないか」


『多分、気付けの魔法薬で無理矢理頭を叩き起こしたんだと思います。目が血走ってますし、ちょっと興奮気味ですし』


「……なんでまたそんなことを」


『新入りさんに格好悪いところを見せたくないんじゃないですか? 結構見栄っ張りなんですよ、リナちゃん』


 くすくすと笑いながら楽しそうに語るキトリーの言葉の意味を、クレールは今一つ飲み込み切れなかった。

 なぜ自分のような大したことの無い人間に対して見栄を張ろうとするのか、その理由にはっきりとは見当がつかなかったからだ。

 他者に対して格好を付けたい、という欲求は分からなくもないのだが、とクレールは首を傾げて独りごちる。


「あれか、乙女心というやつだろうか。よく分からないが」


『えっと……それとはちょっと違うような』


「何が違うの?」


 早々に食器を洗い終えたリナがそう言いつつ、余っていたテーブルの席に腰かける。

『えと、こっちの話です』とキトリー。「なんか弄られた気配を感じたんだけど?」とリナが返せば、キトリーはあはは、と顔を引きつらせながら笑う。


「まったく、相変わらずうちの寮長は嘘つけない性格してるなー。……後でわきゃわきゃの刑ね」


『わきゃ……!? あれだけはやめてください、ほんとに! 毎回毎回息止まりそうになるんですよ!?』


「むーりー、きーこーえーなーい」


 耳を手で押さえながらからかい混じりに言うリナへ、キトリーは『念話なんだから耳塞いでも届くでしょう!?』と必死に声を届けようとする。

 なんだか微笑ましいな、とその光景を眺めていた彼へ「ねえクレール」と声を掛けたのは、キトリーの言葉を右から左へ流し続けるリナだった。


「そろそろ出る準備しない? 今日は行かなきゃいけないところがあるんだよ。入学の手続き、まだ出来てないからさ」


「む、言われてみれば。……そうか、僕はまだ学園生ですらなかったのか」


「そうそう。つまりはボクにとってもクレールはまだ後輩君じゃなくてお客さんなんだよ。だから夕ご飯の時間をぶっちぎられても、寛大な心でゆっくりさせてあげてたわけ!」


「……その点はその、反省している」


 しばらくしたら夕ご飯出来ると思うし、ボクが呼んだら降りて来てね。――これが、昨日クレールが聞いたリナの最後の言葉である。思い出したのはつい先ごろの話であるが。

 彼女の言葉を聞き、ああ、しばし余裕があるのだな、なら少しだけ休むかと、そう安心したのが運の尽きというべきか。寝台の上に寝そべったクレールは、そのまま深い眠りに付いてしまったのだった。

 その点を責められれば、返す言葉も無い。クレールが申し訳なさそうに頭を下げると、リナの方は何故かその様子に慌てたようで、片手をぶんぶんと左右に振った。


「あー違う違う! そこまで責めてるわけじゃなくって! ていうか、あの後すぐ寝たってことはよっぽど疲れてたんだろうし。……ただ、なんていうか、ちょっと心配したから」


 心配? とクレールは首を傾げる。応えたのはキトリーだ。


『いくら呼んでも返事が無かったから、てっきり調子が悪くなっちゃったんじゃないかって。只でさえクレール君、あまり体調が良くなさそうでしたし』


「それで慌てて部屋に飛び込んだら、当の本人はぐーすかぴー、だよ? そりゃあキミ、ちょっとくらい青筋立ててもバチは当たんないでしょ?」


 やや大げさな口振りで言うリナの口元には、茶化すような笑顔が浮かんでいる。「だから、仕返し。しばらくはこのネタでいじってやるから」と意地の悪い含み笑いで言う彼女は、どうやら本気で怒っているわけではないようだ。キトリーも穏やかな微笑を浮かべている。


 しかしながら。とクレールは思う。要らぬ心配をかけたのは事実なのだから、ここはやはり頭を下げなければいけないのではなかろうか。

 そう考えたクレールが目を伏せ、「すまない」と言おうとした、丁度その時だった。ぱちんと小気味の良い音が、彼の額から鳴った。……引っ叩いた人物は言うまでもない。


「かったい、かったいよクレール! 頭がかったい! 考えがかったい! 疲れてたんだから仕方ねーじゃん! って開き直っていい場面だよ、今のは。……もーちょっとフランクにいこうよ、柔らかくさ」


『そうですね。クレール君はちょっと、考え過ぎだと思います』


「毎日イヤでも顔付き合わせることになるんだよ? 細かいとこまでイチイチ遠慮してたらストレスたまってハゲちゃうって」


 そう言って、朗らかに破顔するリナと、柔く微笑むキトリー。二人の言葉にクレールは「そう、だろうか」と曖昧に応える。

 優しさ故の言葉なのだろうが、それに甘えていてばかりでは駄目だろう。彼はそう思う。ましてリナには大きな恩があるし、キトリーにしてもほぼ初対面の自分に快く朝食を作ってくれた。

 その事を考えると、横柄な態度など取れるはずもない。そんな考えを巡らせていると、キトリーが目を細めて、少しばかり呆れた様子で言う。


『そういうところが、考え過ぎ、って言ってるんですよ?』


「……心を読んだのか?」


『まさか。わたしはそこまでの魔法巧者じゃありませんよ』


「ていうか、色々申し訳なさ過ぎてフランクに接するなんて無理ー、ってめちゃめちゃ顔に出てるんだよねー。……クレール、真面目過ぎ」


 苦笑うリナに、思わずクレールは言葉を詰まらせる。……そうか、自分の態度はそんなに分かりやすかったか。


『昨日の今日で難しいとは思いますけど……わたしたち、これから同じ寮の仲間なんですよ? あまりよそよそしくされると、その……』


「逆に気ぃ遣うし、悲しいってこと! ボクらを少しでも気にかけてくれてるんなら、気楽に来てくれた方が嬉しいな!」


「そうか、すまなかっ……」反射的に言いかけて、クレールはかぶりを振る。望まれない謝罪は必要ないのだ。

 ならばとクレールは、リナやキトリーを真似て、己の顔に笑顔を浮かべてみることにした。


「こういう場合はありがとう、だな」


『うん、そういう感じ、いいですよ』


「おおっ、我等がリーダー、キトリー寮長直々のお墨付きが出たね! こりゃあクレールも安泰だ!」


『うっ、それやめてくださいっていつも言ってるじゃないですか。……寮長なんて柄じゃあないんですから、わたし』


「なんでよー、今んとこキトリーがこの寮の最古参じゃん? ならどう考えてもキトリーが寮長じゃん!」


『で、でも、長の資質とかそういうのもあると思いますし……』


 二人のにぎやかな会話を聞きながら、クレールは考える。……フランクに、か。感謝や謝罪の気持ちは今も胸にあるが、それを常に気負い過ぎるのも、よくないのだな。

 ひとつ心の中で頷いたクレールは、二人の話の間を縫って口を開き、キトリーへ向けて深々と頭を下げた。


「未熟者ですが、これからよろしくお願いします。キトリー寮長」


『ううっ……クレール君、順応早いですね』 




 ◇




「こちらが学生証と、学園手帳になります。学生証は身分証代わりとなりますので、大切に保管なさってください。学園手帳には学園内の細かな規則が記載されていますので、ご一読願います」


「わかりました。ありがとうございます」


 鉄の薄板で出来た学生証と赤い装丁の手帳を受け取り、脇に置いていた革の鞄を肩にかけると、クレールは丁寧に頭を下げた。

 顔を上げると、受付係である女性の微笑が目に入る。事務的な笑顔と分かっていても、何故か心が温かくなる。美人の特権、といったところか。

 内心でそう思いつつ笑顔を返したクレールに、受付係の女性は軽い会釈とともにまた微笑んだ。


「では、頑張ってください」


「はい、頑張ります。ありがとうございました」 


 改めて礼を言うと、クレールは受付を後にする。こつこつと靴裏で床を鳴らしながら待合スペースを縦断すれば、何人か学生らしき人の姿があった。

 王立学園の中心部、例の巨大な『城』の付近一帯を『中央区』と呼び、この『一般事務棟』はその中央区の南寄りの一角にある。その名の通り学園内の事務仕事を担う場所であり、入学や転科の申請、有料授業の受講登録などを行える施設だ。

 用途別に数か所設けられた受付カウンターの前には、長椅子が並べられた待合用の広間がある。その真中を淡々と歩き、クレールは出口のノブに手を掛けた。


 ……入学手続きは、思いの外簡潔に終わってしまった。クレールのやったことと言えば、事前にミシュリーヌから貰っていた手続用の資料数点を受付嬢に渡した程度である。

 その後、学生証が用意されるまでの間は、この王立学園について、六つある『科』の詳細や講義の受講に関する説明を聞いていただけだ。

 特段年齢や出身などを尋ねられることも無く、本人確認のような作業も無かった。個人的な事を聞かれても返答する材料の無いクレールは内心ほっとしていたのだが、同時に、対応が簡素過ぎるのではないだろうか、とも思わざるを得なかった。

 事実、一般事務棟から出た彼と目が合ったリナも、驚愕の様子を見せた。


「え、もう終わり!? 早くない?」


「一応、学生証と学園手帳は頂いた」


 先ほど受け取ったばかりの学生証と手帳を見せると、リナは「うわ、ホントだ……」と言葉を漏らす。


「ボクが入学手続きした時は、受付の奥の応接間みたいなとこに連れてかれて結構いろいろ喋らされたんだけど……こういうこともあるのかな?」


「さて、どうなのだろうか」


 と口にしたクレールであったが、よくよく考えてみればこのような例外措置を施せる人間などそうそう居ないことに気付く。

 ……恐らくは、ミシュリーヌの差配だ。というよりも、現段階ではそれしか考えられない。紅衣の老女の笑みを思いだし、クレールは密かに恐縮する。


「まあともかく、まずはおめでとうクレール。これでキミは正式に王立学園生となり、同時にボクの後輩になったわけだ」


「ご指導の程よろしくおねがいします、先輩」


「うむ! 礼儀正しくって非常によろしい! ということでさっそく超重要な事を指導しちゃおう!」


 薄い胸を張って言うリナに、「おねがいします」と恭しく頭を下げるクレール。

 その彼の様子に一通り満足したのか、もう一度「うむ!」と大きく返事をしたリナは、言葉を続けていく。


「その学生証、事務の人にも言われたかもだけど、絶対失くさないようにしてね。立派な身分証だし、出席確認とか受講登録とかする時に絶対要るから」


「……この板が、か。随分と造りが単純だが、偽造の心配はないのか?」


 クレールは改めて、手に持った学生証を眺める。一見何の変哲も無い鉄の板である。表面には、所持者の名に加え、入学した日付と『総合科所属』の文字が刻まれているだけだ。

 はっきり言って、刻印の型さえ取れば容易に偽造が可能だろう。そんなものを『立派な身分証』として認めていいものなのか。

 そのクレールの疑問に対し、リナはまた誇らしげな様子で胸を張った。


「ふっふーん。実はだね、その学生証にはちょっとばかし凝った仕掛けが施してあるのだよ、クレール君」


「仕掛け、か」


 こんなただの鉄の板に何か、仕掛けがあるというのか。だとすれば、魔法によるものだろうか。……クレールは、己の双眸に魔力を注ぐ。

 灰色の瞳がごく淡い光を帯びると同時に、クレールの視界は冴え渡る。視界に映る学生証、それが帯びる魔の力は、一体何なのか。さらに目へと魔力を混め、結果読み取れたのは。


「固定化と、蓄光付与、か?」


「そのとおり! ……って、え!? 何で分かったの!?」


 リナの驚きの声はしかし、精神を集中させているクレールには届かなかった。


 ……固定化。蓄光付与。どちらも比較的容易な部類に入る物質操作魔法だ。

 固定化は、物質操作の基礎である。個々の物質がもつ性質について、その形状変化や劣化等を抑制する魔法だ。より正確に言えば、施術したその時点における性質・状態を保ち続ける、というべきか。

 そして蓄光付与は、その名の通り物質に対して蓄光の特性を付与する。周囲に光があればそれを吸収して溜め込み、暗くなれば溜めた光を放出する、という能力を物質に追加する魔法だ。


 固定化魔法は学生証の全体に、蓄光付与魔法は一部分だけに施されている。さらに目を凝らすと、蓄光付与された部分は、どうやら数字と文字の列を形作っているようだった。


「なるほど、この印字で学生証の真贋を確かめる訳か」


 偽造防止を兼ねた識別番号の印字だろう。クレールはそう推論した。

 この蓄光付与部分は、肉眼では捉えられない特殊な光を出している。恐らくは専用の照合器具があり、それで番号を確認するのだ。それ故にただ形だけを真似て学生証を作っても、偽物だとすぐに判明する。

 これは確かに『凝った仕掛け』だ。クレールが感心していると、リナがとんとん、と彼の肩を叩いた。彼女の表情は、何故か瞠目している。


「ねえクレール。今、何したの?」


「目に魔力を込めて、少しばかり学生証を調べていた。……見た目は普通だが、中々に凄い仕掛けが施されている。興味深いな」


「ちょっと待って。……クレール、もしかしてキミ、もう魔法が使えたりするの?」


「ん? ああ。ある程度は使える、と思う」


 断言は出来なかった。知識として様々な魔法の使用法を知ってはいるが、それを実践する機会が無かったからだ。

 何故か先ほどの『光る目』の魔法に関しては、息をするように自在に扱えるものである、という認識があったのだが。思えばそれもおかしな話だ、とクレールは内心で疑問符を浮かべる。


「そういえば、昨日話してても魔法とか魔獣とかいう言葉をやけにすんなり受け入れてた気が……。なるほど、異界人ってこういうパターンもあるのか、初めっから魔法使えた人って、聞いたことなかったけど」


「……普通は使えないものなのか?」


「使えないっていうより知らない、ってのが近いかな。そもそも魔法や魔力が一体なんなのか、そこから分かんないんだよ」


 リナ曰く、その事実がまた、異界人が異界人たる所以なのだという。

 そもこの世界において『魔法や魔力を知り得ない環境』など存在しない。普段の生活、人間の営みに溶け込んでいる魔法に『触れない』という状況がまずもってあり得ないからだ。クレールの周囲を例にとれば、キトリーが料理を温め直すために魔法を利用している。

 一般人であれば最低でも数種類の魔法を扱える、というのが常識であるこの世界で、魔法を知らない存在が如何に特異であるか。論ずるまでも無い。


「まあ、こことは違う別世界から来た人間、ってのが異界人だから、知らないのも当然っちゃあ当然なんだけどね」


「そうなのか……なら、僕は何故こんなことを知っているんだろう」


「さあね? そもそも異界人自体がはっきりどういう存在なのか分かってないし。今は、そういうこともある、って具合に考えたらいいんじゃない?」


 先ほどの驚愕の表情から打って変わってあっけらかんとした様子で言うリナの態度に、クレールは少しばかりの疑問を持つ。


「随分あっさりとしているんだな。今までなかったことなんだろう?」


「あー、なんていうか、慣れ? 常識が覆されたり前例が翻ったりって、魔法の勉強とか研究してるとかなり頻繁にあるからさ。今起きてることをあるがままに受け止めるのが重要なんだ、って先生が言ってた」


 言いながら、リナは歩き出す。クレールも彼女に続いて歩を進める。向かう先は、寮からここまで来た道とはまた別の方向であった。

 次はどこに行くのだろうか。クレールが内心で思っていると、それを察したのか否か、リナが朗らかに口を開いた。


「というわけで、今ならまだ一限間に合うから……よし、今からクレールの魔法知識がどんなもんか、確かめに行こう!」


「行く、とは何処に?」


「『魔法学基礎』の講義に、だよ!」




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