序節 四 「世界と学園」



 二対のひづめが、石造りの道を軽快に叩き鳴らしている。

 キャビンから外を見れば、森の風景が流れゆく様が見えた。木々の間を抜ける風が、葉の擦れる音と共に鳥のさえずりを運んでいる。


 思えばつい数時間ほど前まで、自分はこの森で死にかけていたのか。灰髪の少年クレールは馬車に揺られながら、しみじみと自身が置かれた状況の数奇さに思いを馳せていた。

 今にして思えば、力という力がほぼ枯渇したあの状態でよくぞ生きたまま森を抜けることが出来たものだと、半ば他人事のようにクレールは自身のことを振り返る。

 事実、彼が森を脱することが出来たのは、ほとんど彼以外の人物の尽力によるものだ。具体的には、命の恩人である少女リナ、老女ミシュリーヌの力があってのこと。

 彼自身がしたことと言えば、精々が狼の魔獣とにらめっこをした程度である。今のこの場で自分が生きており、ここまでの厚遇を受けているという現状は、幸運と奇跡に利運と好機が重なった結果に過ぎないと、クレールはそう結論付けていた。


 何とはなしに、服の裾を軽くつまむ。森で目覚めた時から身に着けていたぼろ切れではなく、何のほつれも汚れも無い、白のシャツと黒のズボンだ。加えて、足には灰色の靴。身元不明の男が身に着けるには上質に過ぎる。

 それら上質な服を身に着け、その他生活に必要なものを一式を荷物として与えられ、さらにはその荷物と共に馬車に乗って悠々と街道を辿れている時点で、己の幸運度合は並外れている。故に、というべきか。

 クレールは今、小さくない悩みを頭の中に抱えていた。


「なんでか生き延びたけど、結局いろんなことがよく分かんないままじゃん! ……って顔してるね?」


 その悩みの芯を捉えて言い放ったのは、キャビンの中、彼の正面に座る黒髪の少女、リナである。

 彼と出会った時に纏っていた黒のチュニックはそのままに、軽鎧と弓を外して多少楽な恰好となっているリナは、結って右肩に流している髪の毛先をくるくると指で弄いながら問うた。

 髪を弄るその仕草をクレールが見るのは二度目である。恐らくは彼女の癖なのだろう、とあたりを付けると共に、クレールは一度だけ軽く頷いた。


「わかるよ、それ。ボクも初めはそうだったし」


「……というと、君も」


「そう、異界人。って言っても、混乱度合で言えばキミよりマシだったろうけどね。学園長から念話でいろいろ聞いたけど、記憶、ほとんど無いんでしょ?」


「ああ。正確には、僕自身に関する記憶が全く無い」


「大変だね。異界人の記憶喪失って、ほとんどの場合断片的なもので済むんだけど……運が悪かったってことなのかな?」


 キャビンの座席にゆったりともたれ掛りながらのリナの言葉に、そうなのだろうか、とクレールは声を漏らす。それと同時に、彼女が自分に付き添ってくれている理由も、自ずと理解することが出来た。

 ミシュリーヌとの会談を終えて直ぐ、荷物と馬車と共にリナが迎えとして現れた時には、早い再会を喜ぶとともになぜ彼女が? と首を傾げていたクレールであったが、その疑問は今ようやく氷解した。


 要はこれも、件の老女ミシュリーヌの取り計らいのひとつであるのだろう。つまりは────


「まあ、そんなわけだから、同じ境遇のよしみってことで、クレールくん。疑問とか質問があったらなんでも答えるよ。ボクの分かる範囲で、だけどね」


 説明役、ということである。本当に、何から何まで至れりつくせりだな、とクレールはひとり心中で苦笑った。

 さておき、微笑むリナへ「ありがとう」と笑み返したクレールは、頭に浮かぶ数々の質問の中から一つを選び、口に出す。


「そもそも、ここは一体何処なのだろうか」


 車窓から覗く緑をちらりと横に見つつ問うたクレールに、リナが澱みなく答える。


「森の庭、って呼ばれてる場所。庭っていうのは王立学園が持ってる私有地の俗称みたいなもんで、特に学園生の戦闘訓練とかに使われてる土地のことね。

 森の庭は学園から一番近い庭だし、中に居る魔獣もそこまで強くないから何かと便がよくてさ、わりといつでも訓練してる人が居るんだ。かくいうボクも、弓の訓練目的でこの庭に居たってわけ。ちなみに学園長は、たまたま庭の様子を見に来てたみたい。……ちょっと前にも言ったけど、やっぱキミすごいツいてるよ」


 言いながら笑むリナに、クレールも軽く頷いて「そうだな、自分でもそう思う」と同意を示す。

 それにしても、戦闘の訓練か。と、クレールは先のリナの説明で気に掛かったその言葉を脳内で繰り返した。


「王立学園というのは、戦う術を子供に教えるための学園なのか?」


「んー、お題目的にはそういうわけじゃあないんだけど……実質的にはそうなる、かもしれないね」


 リナのやけに迂遠な言い回しに、クレールは首を傾げる。その様子を見たリナは、ばつが悪そうに頭を掻いた。


「あーっと、ごめん。人にモノ説明すんのって苦手でさ。どういったら良いものか……。

 えっと、王立学園の役目っていうのは、国の役に立ってくれるような人材を育てること、なんだけど。今の王国が学園に求めてるところの『役に立つ人材』っていうのが、ほとんど戦闘専門の職なんだよ。騎士とか傭兵とか、あと魔道士とかも。だから、魔獣相手の戦い方とかをわりと積極的に教えてるってわけ。あ、魔獣ってわかる? 魔法が使える獣のことね」


 リナの問いにひとつ頷いたクレールは、彼女の言葉を改めて噛み砕く。つまり、学園を出た後の進路に荒事が多いから、戦闘技術を教わる生徒もそれだけ多い、ということなのだろう。

 自分なりに解釈したクレールが得心したようにもう一度頷くと、リナはほっと一息を吐く。意図したところが伝わって安堵したのだろう。彼女はさらに言葉を続ける。


「って言っても、戦う以外のことだっていろいろ教えてくれるよ。読み書き計算から地理歴史、算盤とか秤とか機織り機の使い方もだし、食べられる草花の見分け方とかまでさ。学びたいと思えば大概のことは学べるね」


「なるほど。随分と手広い」


「なんたって天下の王立学園だからね。王国直営は伊達じゃあない、っていうか」


 そう言うリナは少しばかり胸を張り、どことなく誇らしげな様子であるが、クレールにはその理由が今一つ理解できなかった。

 確かに『国家が直営する教育機関』という文言には何とはなしに凄みを感じるが、クレールにはそもそもその国家に対する知識が無かった。故に彼は、正直にそのことを疑問として口に出す。


「また基本的な話になるんだが、王国というのは何なんだ?」


「あー、そういやそこも話さないといけないのか。……ちょっと待ってね、地図使いながら説明するよ」


 そう言うとリナは、足元に置かれていた鞄の口を開け、中身をがさごそと漁りだす。

 その拍子、リナの鞄の中身が視界に入りそうになったクレールであるが、あまりじろじろと見るものではないな、と思い目線を逸らす。

 そうしてしばしの間が空いて、リナが鞄から取り出して広げたのは、色あせた一枚の紙であった。


「これが、今ボクらがいる大陸の、めちゃめちゃ大まかな地図ね」


 中央に大きく描かれているのが、件の大陸であろう。地図中の北を示す上向き矢印が、紙の右上に添えられている。

 大陸は、大まかに言って水滴のような、あるいは玉ねぎのような形をしていた。

 北側には極端に細長い形をした半島が伸びており、そこから南下するにつれて陸地の東西の幅が大きくなっていく。ある程度下ったところで幅の広がりは収まり、そこからさらに南へ行くにつれて弧を描くように収束する。細かな地形はさておき、概形としてはそのような大陸である。


 縮尺は一見したところ不明であるためその大きさを推測することは叶わないが、リナが『大陸』と呼称したことからそれなりに広大な陸地であることはクレールにも容易に想像できた。

 地図をじっと見つめるクレールは、そこから読み取れる情報がさして多くは無いことにすぐ気付く。故に彼は、その少ない情報の中から最も目立ち、かつ特異な部分について口を出した。


「……色分けがされている」


 北側の先細りの半島、全体から見れば極々小さな区域は白色。

 西側の部分、およそ大陸の半分は占めるであろう大きな区域は赤色。

 そしてその反対、残る東側の部分には黒。その計三色が、地図上の大陸をはっきりと三分していた。


「その色が、それぞれの国の土地を示してるんだよ。北のちっこいのが『白の皇国』。西のでっかいのが『赤の帝国』。で、東のでっかいのが、ボクらが今いる『黒の王国』」


「……黒だとか白だとかが、そのまま国名なのか」


「そうだよ。由来は良く知らないけど、覚えやすいよね」


 単に視覚的な解り易さを求めての色分けかと思いきや、それがそのまま国の名称にも通じていたらしい。クレールは納得したように一つ頷く。

 大陸にはそれぞれ色の名を冠した三国がある。その中で、王立学園の支持母体であるところの王国とは、大陸東部の大国『黒の王国』のことを指す。その事を頭に刻み込んだクレールは、続くリナの説明に耳を傾ける。


「この大陸には黒と白と赤、三つの国しかない。元々はもっと多かったらしいけど、戦争とかなんやかんやで吸収併呑が繰り返されて今の形になったんだってさ。で、今んところはこの状態で安定してる。なんでも、力関係のバランスがうまく取れてるらしいよ」


「地図を見る限り、明らかに白の領土が小さく見えるが」


「白の皇国はちょっと特別。国家そのものが『聖約教』っていうものすごい大きな宗教の総本山なんだよ。他の二国にも信者が山ほどいるんだ。だから絶対攻められないし、逆に攻めもしない」


「宗教、か。その辺りはあまりよく分からない。……ああ、といっても概念自体を理解できないわけじゃない。けれども……」


 言葉の意味は理解できる。宗教が人の心の柱足り得る概念であるということはクレールも分かっていたが、それは単なる知識に過ぎない。

 平易に言うならば『人から聞いたからそうだと知っている』状態に近いだろうか。つまりは情報に対して実感、共感が伴っていない。だから深い意味での理解にまでは届かない。

 そんな彼の様子を察したのか、リナは少しばかり眉尻を下げ、やや同情の籠った同意の言葉を口に出した。


「あー、言わんとしてることはわかるよ、うん。まあでも、宗教の影響力って言うのはそれを身近に感じてる人じゃないと分かんないだろうし、仮に詳しく説明しても理解できないと思う。かくいうボクも、『ここ』に来る前は宗教とかには縁遠い人だったみたいだし」


 髪を弄いながら、自身のことを他人事のように語るリナ。その俯瞰具合をクレールはやや不思議に思うが、直後、彼女もまた異界人なのだということを思い出し納得する。


 異界人は必ず、己自身の記憶がどこかしら欠けている。クレールの様な全喪失では無いにせよ、彼女もやはり自分と同類なのかと、彼は説明に頷きながらそう感じ入っていた。

 そんなクレールの微かな感傷など知る由もないリナは、つらつらと説明を続けている。


「今はとりあえず、白の柱は『宗教』にある、っていうことだけ覚えててくれればいいかな。……んで、話戻すけど、白以外の二国もそれぞれ独自の強み、柱を持ってるんだよ。赤の帝国なら『産業』、特に軍産ね。その関係で国軍もかなり精強らしいよ」


「軍事産業……言葉だけで聞くと随分と好戦的な印象を受けるな」


「昔はそうだったらしいけど、今はそうでもないよ。国境なんて随分平和なもんだし。まあ、年々と魔獣の数が増えてきてるのもあるから、対人対国家に力を傾ける余裕が無くなった、ってのも理由としてあるのかもね」


 のんびりとした口調のリナではあるが、語った中で『魔獣が増えている』という言葉を発した時、クレールはふと気づいた。彼女の言に少なくない実感が乗っているということに。

 それが彼の思い違いでなければリナは、魔獣の増加を実感できる程度には、それらとの対峙を重ねている、ということになる。

 恐らくは齢二十にすら届いていないであろう少女が、どうしてそこまで。……クレールはリナの説明を聞きながら、彼女の歩んできた足跡がどのようなものなのか、少しばかり気になり始めていた。

 そんなクレールの興味を余所に、リナによる世界の解説はまだ続く。


「そんでもって、ようやくだけど黒の王国。この国の柱はね、『学術』なんだ」


「学術……専門的な研究、ということか?」


「そういうこと。もっと言えば、学問と芸術、それに関する研究や開発、教育なんかも全部コミコミ。まるごとひっくるめての『学術』ね。これを追及することが黒の王国の国是であって、その象徴がつまるところ、ボクらが所属する『王立学園』ってわけだ」


 なるほど、とクレールは深く頷いて得心する。ここでようやく、リナが先ほど言った『王国直営は伊達ではない』という言葉の意味が理解できた。

 あれは単に、国家という大きな母体を持っている王立学園は凄い、ということだけではなく、学術という柱を持つ黒の王国における中心的施設であるから凄い、という意味合いも含んでいたのだ。


「学術が王国の柱、というのは分かった。なら、学園生の進路に戦闘の用向きが多いというのはどういうことだ? 学びが国是なんだろう?」


「あー、それにはいろいろと世知辛い理由が在ったりするんだけど……まあ、要するにコレ絡みの話なんだよね」


 言うとリナは、右手の親指と人差し指で円を作った。その手振りの意味を理解しかねたクレールは、はて、と首を傾げる。

 その純な反応が意外だったのだろうか、リナはぱちくり、と二度ほど瞬きをしたあと、やや困りながらの微笑を浮かべた。


「分かんないんなら、別にいっかな。あえて教える話でもないだろうし」


 リナがそう告げた時だった。車窓から覗いていた色彩ががらりと一変する。その変化にクレールの目線は一瞬で奪われた。

 生気に満ち充ちた一面の深緑から、風を思わせる爽やかな薄緑と、目映いばかりの広大な蒼へ。

 馬車は森を抜け、広大な草原へと出ていた。キャビンを満たしていた湿り気のある植物の気配が、野原を駆ける一陣の風によって一気に掻き消される。まるで世界が変わったかのように。


「お、もう平原に出たの? さっすが馬車、速いねー。……御者さーん! 学園見えてるー!?」


 リナの呼びかけに、綺麗に見えていますよ、とキャビンの外から青年の声が響いた。少女の顔に笑みが浮かぶ。

 ありがとう、と大声で御者に告げたリナは、キャビンの窓を指差して、どこか楽しげな様子でクレールへと声を掛けた。


「だってさ、見てみなよ。ここからなら、正面に見えるから」


 言われるがまま、クレールは窓の外に顔を出して外を見ようとする。が、風が真正面から吹きつけ、思わず目を瞑ってしまう。


 ――――数瞬後に目を開いたとき。思わず彼は、息を呑んだ。


 果てなく青い空の下。風に波打つ草の海の上。あせた石畳の街道が続くその先に、灰色の外壁に囲まれた、大きな大きな街があった。

 距離はまだ離れている。辿り着くまであと二十分前後は掛かるだろう。遥か遠くまで見通すことの出来る草原故に常人ならば距離感が狂うかもしれないが、ことクレールに限ってはそのような事は有り得ない。


 目的の街までは遠い。それが理解できたからこそ、クレールは大きく驚いた。灰の外壁は、驚くほど長く続いている。その奥には、遠目から見て解るほどに立派な城や尖塔が覗いている。

 ……ここまで離れているというのに、あれほどにも大きく見えるというのか。クレールはしばし、その街の大きさに感嘆の息を漏らすことしか出来なかった。


「これは、随分と、大きいな……」


「でしょ? あれが王立学園だよ」


 ようやく言葉を発したクレールにリナはそう返したが、当の彼はその言葉に首を傾げることとなった。……あれ、とは一体どの建物を指しているのだろうか。

 そもそも距離がある上に外壁に囲まれている街の為、建物の姿はさほど多く確認できない。外壁の高さを超える建物が、いくらか見えるだけだ。

 その中では、街の中央に大きくそびえる城のような建造物が一番目に付く。城以外では尖塔のようなものが一番数が多く、次いで何かの屋敷の屋根らしいものがいくつか見えている。

 順当に考えれば最も目立つ中央のあの城が学園、ということになるのだろうが……一応のことクレールは尋ねる。


「…………どれのことだ?」


「どれ、って……そんなにいくつも見えないでしょ?」


 問い返されたクレールは、さらに頭に疑問符を浮かべることとなる。街なのだから、建物がいくつも見えるのは道理ではなかろうか。


「灰色の壁に囲まれているが、そこから突き出ている建物はいくつか見える」


「……あっ、あ、あーあーあー、そういうことか! そういや説明してなかったね」


 何かに気付いたように声を上げたリナは、ぱん、と一つ手を叩いた。

 何事か、と思ったクレールが窓から乗り出していた上半身をキャビンへと引っ込めようとする、その前に。さらりと軽く、リナはそれを告げた。



「あの街の名前が、『王立学園』っていうんだよ」



「おお………………………………それは、なんとも」


 予想外だった。クレールの呟いた驚愕の言葉は、清い風と高い蹄の音に呑まれ、軽々と草原を駆けて行った。


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