序節 三 「答えと叱責」




 ごく小さな敵意すら感じさせるミシュリーヌのその視線を受け、彼は考える。ここで何か答えを示さなければ、自分はさらなる疑念を向けられるだろう。

 とはいえ、彼自身に出来ることは多くなかった。そも自分が冷静である理由など、己の記憶を持たない彼には示しようがない。ならば、とクレールは、一つの予想と覚悟をもって口を開いた。


「仕方ない、のか」


 老女の視線を真直ぐに受け止めながら、彼は己の中の魔力の流れを操作する。

 残る魔力量が乏しいためか、制御は非常に容易であった。魔の流れは彼の意図した方向・場所へと僅かの狂いなく流れゆく。

 想像するのは渦潮。自我・精神の中心を『目』として旋回する魔の奔流は、目まぐるしく彼の脳を巡っていく。

 そして、活性した彼の魔力がひとつの魔法となったことを悟ったのか、ミシュリーヌの双眸が驚愕に見開かれる。


「何、を」


 老女が驚いたのは、突如として目の前の少年と、深い領域で意識が繋がったからだだろう。

 繋がり、とはいってもそれは双方向のものではない。彼からミシュリーヌへ、一方的に情報が流れゆく類のものだ。

 ミシュリーヌとほぼ同時にその意識の繋がりを感じた彼は、自身の打った手が成功したことを悟る。


 現在、彼女は自分に対して少なくない疑念を抱いている筈だ。であれば、その疑念を解消するために何らかの方法で情報を引き出そうとしていることだろう。……つまり、ミシュリーヌはこの瞬間も、読心魔法を行使し続けているに違いない。


 彼はそう推測を出したが故に────自らその読心を受け入れたのだ。


 魔力渦の目、魔力の密度が極限まで薄まる点を自分自身の手によって作り出すことで。


「どう、でしょう。深くまで、視えました、か?」


「貴方まさか…………壁を、解いたと言うの?」


 俗に『心の壁』、と呼ばれる心身の防衛機構。その実態は、他者の魔法干渉から自身の肉体・精神を守護し、己のカタチを保つため、本能によって展開される魔法の障壁である。

 別の側面から言えば、外部からの魔法干渉に反応して強力な防壁を展開する、生体反射の一種とも言える。そんな『心の壁』は、残存する魔力の多寡によって防壁の厚薄が変化するものの、平均的な実力を持つ魔術師の精神干渉程度であれば難なく防ぎ切る。

 相手が魔法の巧者──例えばミシュリーヌのような──であれば、心の壁を掻い潜ってある程度表層の心理を覗くことも可能であるが、それでも深層に至ることは決して出来ないだろう。それ程の強度を『心の壁』は持っているのだ。


 その壁に彼は、魔法によって強引に『穴』を開けたのだ。ミシュリーヌの読心を受け入れる、ただそれだけの為に。


「これが、何も持たない今の僕が出来る、精一杯の、誠心誠意、です」


 心の壁という名の条件反射を理性によって無理矢理に押し込み、他者の精神干渉を受け入れるその行為は、相応の苦痛を伴う。

 深層心理とは過敏にして脆弱である。そもそも誰にも触れ得ぬようにするために深くに在るのだから、それが強靭である筈などない。往々にして、内にある物ほど脆いものだ。

 自身で触れることさえ躊躇われる程に敏感なその心理。それを良く知りもしない他人の好きなように触れられることなど、苦痛以外の何と表現できるのか。

 煮え湯に手を浸す痛みすらこれに比べれば甘温い。単なる生体反射の抑制よりも、遥かに辛い苦行であると言える。

 苦痛に顔を歪める彼の様子を目の当たりにしたミシュリーヌの行動は、非常に機敏であった。


「────やめなさい!」


 読心の精神干渉を解くと共に、ミシュリーヌは己の魔力を衝撃力に変えて放つ。

 心の壁に穴を空けることに傾注していた彼は、突然の事態に反応することすら出来ず、放たれた衝撃波を真面に受け、息を詰まらせて仰け反った。その驚愕によって精神集中が乱れ、展開していた魔法が霧散する。

 衝撃波自体に殺傷能力は込められていなかったのだろう。彼は無傷のまま、呆然とした様子で二、三度瞬いた。

 一方のミシュリーヌは憤慨した様子で立ち上がり、己の感情を絞り出すかのように声を上げる。


「無謀にも程があります、己の心を壊す気ですか!?」


「……では、他に何を差し出せば、僕は貴女の不信を拭えるというのですか」


 叱責を続けようとしたミシュリーヌは、彼のその言葉に思わず声を詰まらせた。

 彼の瞳からは、無機物のような冷徹さが覗いている。しかしながら、紡いだ言葉には確かな感情が込められていた。


「僕には今、何も無い。だから何も出来ないんです。貴女の抱く疑念を晴らすことも、貴女の歓待に応えることも、恩人に礼を返すことすらも」


 一言で言えば、悔いだ。己はなぜこうも無力なのか、なぜ人に頼ることしか出来ないのか、なぜそれに報いることが出来ないのか。

 せめて欠片でも記憶が残っていれば、有用な情報を覚えていれば、体力が、魔力が潤沢であれば、このような恥を晒すことも無かったかもしれないというのに。

 無力故に何も為せず、結果として不義理を行ってしまう。そのような自分自身の弱さが、彼には受け入れられなかった。


 だから、ひたすらに頭を下げるしかなかった。態度で礼を尽くすしかなかった。それで足りなければ、苦痛を味わってまで己を理解してもらうしかなかった。


「何も持たぬ者が何かを為そうとするのなら、己自身を削る以外に方法は無い。違いますか」


 彼は問い返す。己の身を対価とする以外、今の自分に一体何が出来るというのかと。

 対し、ミシュリーヌは目を伏せる。荒立っていた感情を潜めるように、そしてやや悲しげに。


「……確かに、その言には理があるのかもしれません」


 先の彼の行動を、未だ蛮行だと断じているのには違いないだろう。

 しかしながら、その動機は頭から否定できるものではない。だから認めざるを得ない。そのような想いを滲ませての、老女の言葉。

 ……だがそれは、彼の言葉に心の底から納得した故のものでは、当然無くて。


「けれどね」


 老女は改めて言葉を紡ぐ。穏やかに、しかし頑なな意志を感じさせる口調で。

 面を上げたミシュリーヌは、先程以上に真摯な面持ちで、彼の双眸を見つめていた。



「『仕方ないか』と。その程度の感情で以て差し出されるものに、一体どれ程の価値があるというの?」



 今度は、彼の方が息を呑む番であった。逡巡する間も無く、彼は、己が放った言葉の意味を思い知らされる。

 反論が出来なかった。他がないから仕方ないかと、そのような気持ちで放られるものに誠意など宿る筈がない。そんな当然のことを言われて初めて気付くとは、情けないにも程がある。何が精一杯の誠心誠意か。

 何も持たぬからと、失うものなどないからと、安易に己を切売りする者が果たして信を置くに値するか。

 そんなものは、問うまでもない。


「片手間で捨てられるもので買える程、人の信頼は安くありませんよ」


 その言葉は、何一つ否定出来ない正真正銘の正論で。 

 故に彼は、唇を噛み締め、唯々己の不明を恥じ入ることしか出来なかった。

 他人にこれほどまでに世話になった上に、それに報いようとした行動が却って不快を生むなど論外だ。

 たちまちに膨れた自責の念に突き動かされるかのように、彼は深々と頭を下げていた。


「申し訳、ありません。無礼を働いてしまっ────」


「クレール」


 そうやって実にあっさりと彼の言葉を遮ったのは、他の誰でもないミシュリーヌである。

 思わず彼は顔を上げ、惚けた様子で声を漏らす。彼女が放った単語の意味が、直ぐには理解できなかった。


「……は?」


「クレール。貴方の名前ですよ。名乗るべき名前がないと、この先面倒なことが多いでしょうからね」


「え、っと……あの」


「不服ですか? 直感で名付けた割には、響きも意味合いも気に入っているのだけれど」


 クレール。透明、あるいは純真を意味する言葉であることを後に彼は聞く事となり、自分には綺麗過ぎる名だと恐縮することになるのだがそれはさておき。

 目の前の老女による唐突な名付けに、彼――クレールはしばし呆然とならざるを得なかった。

 そして、ミシュリーヌがさらに続けて放つ言葉に、クレールは呆然の度合いをさらに強めることとなる。


「さて、クレール。貴方がこの先、この地で生活していくための基盤を、王立学園長ミシュリーヌの名の下に保証しましょう。……その代わりと言っては何ですが、貴方には本学園へ編入学して頂きます」


 そう告げられた瞬間の彼の様子は、最早唖然愕然の域にあった。

 突然すぎて言葉も出ない。表情すら動かすこともままならない。急激な話題転換と一方的な決定通知に、クレールは理解が追い付かない。

 そんな彼の様子を解った上であろうか、ミシュリーヌは皺の刻まれた顔に、少し意地の悪い笑みを浮かべる。


「理由が欲しい。そんな顔をしているわね」


 ミシュリーヌのその問いに、クレールは言葉を返すこともままならず、かろうじてという様子で首肯する。

 それを確認し微笑で返したミシュリーヌは、表情を真剣なものに戻して語り始めた。


「実はね、貴方のような身の上の人は然程珍しくないのよ。……何もない場所から降って湧いたかのように現れる、記憶を失った人々。貴方のように自分のことを欠片も覚えていない人は、流石に前例が無いですけれどね。

 そういった人々は、この世界の常識を全くといっていい程知らない。価値観や感覚もどこかずれている。けれど、妙なところで博識さを見せたり、今ある技術や知識の一歩先を予見したりするのよ。……彼らと直接対話した人間は大抵こう言うわ、『同じ世界に生きる人間とは思えない』と。

 そして、当の彼らもまた言うの。『この世界は、自分たちが暮らしていた場所とは全く違う』、とね」


「……ああ、だから、『異界人』」


「そう。リナ──貴方を助けた学園生──が貴方を指してそう呼び、私の下に連れてきたのは、貴方がその異界人である可能性が高かったから」


 先の読心魔法がクレールの深層まで行き届いた影響だろうか、クレールが『異界人』という彼にとって未知であるはずの言葉を発しても、ミシュリーヌは表情を変えなかった。

 クレールも、自身が持つほぼ全ての記憶・情報が目の前の老女に知られていることを理解している。よって彼も、余計な口を挟むことはしなかった。

 というよりも、そのような余裕が今の彼には無かった、という方が正しい。今の彼は、自身が置かれている状況を正確に理解しようと必死であった。


「国の決まりでね、王立学園は可能な限り異界人を保護・教育するという役目を負っているの。だから、異界人と思しき人は、例外なく王立学園の庇護の下に入ってもらっているわ。貴方の生活をこちらで預かるというのは、そういう理由があってのことなの」


 つまりミシュリーヌは、王立学園の決まり事、ひいては国で定められた法に従ってクレールの身柄を保護するのだという。

 リナという少女もまた、学園の規則に従ってクレールを学園長の下へ案内したということだろう。ようやく自身の扱いに得心がいったと、クレールは浅く頷く。


「一応、異界人の自由意思も認められているから、話を断ることも出来るけれど……」


「いえ、願っても無いことです。正面を切って言うのも情けなくはありますが……是非、お願いしたいと思います」


 本音を語れば、これ程までに世話になってもいいのだろうか、と思わなくもないクレールであったが、提案を断る理由が彼の側には無かった。

 生活基盤の保証、ということはある程度の衣食住を用意してくれるということだろう。さらに学園での教育も受けられるというのは、文無し宿無しの身からすればこれ以上ない好環境である。

 二つ返事で頷いたクレールに対し、ミシュリーヌは満足げに表情を和らげた。


「良かった。では早速、手続きを進めておくよう学務の方へ伝えておくわね」


 柔和な表情で以てそう告げたミシュリーヌの顔を、クレールはしかと目に焼き付けようと、じっと見つめる。

 この先何があろうとも、老女の顔を忘れるわけにはいかなかった。先の黒髪の少女、リナのことも同様に、である。

 命を拾われた、長らえることが出来た。その喜びを噛み締めると共に、彼は彼女ら二人に、深い感謝の念を抱いていた。

 クレールは深々と、その灰色の頭を下げる。


「ありがとうございます。この恩は、決して忘れません。何かの折に、必ずお礼をさせて頂きます」


「あらあら、そんなに重く受け止めなくてもいいのですよ? …………けれど、そうね、そこまで言うならひとつ、お願いをしておこうかしら」


 そう前置いて、ミシュリーヌは少し間を置いた。カップを手に取り、僅かに残っていた紅茶を飲み干す。

 カップを音も無くソーサーへ置き戻し、穏やかな表情のままに紅衣の老女は、こう言った。


「貴方は一体何者なのか。思い出したら教えてくださいな」


 含みを持たされたその言葉の意味を、果たして彼は一分の誤解も無く受け取って。


「はい、必ず」


 確かな声と真直ぐな意志で以て、その約束を結んだのだった。


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