序節 二 「対話と疑念」





 ────黒髪の少女に案内された先は、ダークブラウンの扉の前だった。

 森を抜けた後、開けた場所に立っていた真白く大きな建物に入り、幾つかの階段を上がったことだけは分かった彼であったが、詳しく周囲を観察するだけの余裕は無かった。

 理由は、言わずもがなである。彼は息も絶え絶えに、膝に両手をついていた。


「走ってる途中でおおかたの話は念話で通しといたから、詳しくは中で聞いてね。そんじゃあ、また後で!」


 少女はそう告げると直ぐに踵を返し、再び疾走して何処かへと行ってしまった。

 取り残された彼は、礼を言おうとしたものの息切れから言葉が出ず、せき込みながら少女の背を見送る。


「あ、ありがとう」


 その言葉が果たして少女に届いたのかは定かでないが、それはそれとして、と少年は改めてダークブラウンの扉を見つめる。

 白亜の壁に沈み込んでいるかのような深く重い色には、その奥へと人を誘うような、どこか特別な雰囲気が宿っているように思えた。

 少年は、そんな空気感に気圧されながらも、ここで入らないわけにはいくまいと、銅色のノブに手を掛ける。そして。


「失礼します」

 

 ゆっくりと開いた扉の先には、気品豊かな『応接室』があった。

 重厚な色合いを持つ木の内壁は僅かに艶めき、落ち着いた空気を演出している。一面に敷かれた赤絨毯の上には、内壁と同じ色合いをした長めのテーブル、それを挟んで対面に二人掛けのソファが二つ。テーブルの近くには、ライトブラウンのキッチンワゴンがある。

 それら全てが、天井から吊るされた小ぶりのシャンデリアが放つ橙色の光によって、明るく柔らかに彩られている。華美過ぎず、かと言って暗過ぎず、絶妙な調和でもってその『応接室』は、歓待の雰囲気を醸し出していた。


 彼はその部屋の、視界に入ったあらゆるものに対して、驚愕の色を隠せなかった。そして何より彼が驚いたのは、その応接室の中で────


「いらっしゃい。さあ、そこへ掛けて」


 暗い深紅のローブを纏った老年の女性が、ソファに座って優雅にティーセットを『浮遊』させている光景であった。


 柔和な笑みを浮かべた白髪頭のその女性は、まるで指揮者の様に軽やかに指を動かし、ティーポットやカップを空中にて躍らせている。

 真白いポットは独りでに宙を舞い、その注ぎ口から赤みがかった琥珀色を流れ出させる。重力に従って真直ぐに地面へと落ちるはずの紅琥珀の流れは、その半ばで華麗に軌道を変え、ふわりと廻って楕円を描く。

 その先には、ポットと同じ純白をしたティーカップとソーサー。欠片も雫を跳ねさせず、紅琥珀の飲み物はゆっくりとカップへ注がれる。


 そんな、未だかつて目にしたことの無い光景に彼は、勧められるがままにソファへと座りながらも、しばし言葉を忘れて魅入られていた。


「ミルクとお砂糖は、どういったお加減がお好みかしら?」


 そう問われ、彼はようやく言葉を取り戻す。

 とはいえ目線の方はまだ踊るティーセットに奪われており、返事もやや明瞭さを欠いていた。


「……お任せ、します。そのようなものを、飲み慣れていないもので」


「じゃあ、スプーンで二杯分くらい、お砂糖を入れておきましょうね」


 そう老女が言うや否や、宙に浮いた真白いシュガーポットから、きらきらときらめく砂糖達が一つの軌跡を宙に描き、ティーカップへと流れ落ちた。


「はい、お待たせしました。どうぞお召し上がりくださいな」


 宙を舞っていたティーセット達がテーブル脇のキッチンワゴンへと着地し、彼の眼前には紅茶の注がれたカップとソーサーが音も無く降り立った。気付けば、老女の前にも同じように湯気立つカップが置かれている。


 ……魔法だ。そうであることには違いない。使っていたのは運動操作の類だろう。あれだけの数のものをここまで正確に操ることが出来るとなると、眼前の老女は相当な魔法の使い手に違いない。

 そう一人で逡巡している彼を見て、老女は軽く首を傾げる。彼が何かを躊躇っているように見えたのだろう。


「あら? お紅茶が珍しいのかしら。ご覧になるのは初めて?」


「知識としては知っています。……確か、一端発酵を経て乾燥させた茶の木の葉と芽、それを抽出した液体飲料、だったでしょうか」


「ちゅうしゅつ…………。ふふっ、貴方、変わった表現をなさるのねえ」


「すみません。何分、知識でしか物を語れない人間でして。……頂きます」


「はい、どうぞ」


 穏やかに笑う老女に見守られながら、彼は真白いカップの取手にその浅黒い手を掛けた。

 伝わるのは、暖かな熱。……注がれてから経た時間や素材の陶磁のことを鑑みて、この熱は中の紅茶から伝わったものではないと、彼は瞬時に思い至る。

 恐らくは、紅茶を入れる直前まで、何らかの方法で温めていたのだろう。わざわざ茶器を温めるという手間は、客人を大切に扱っている証だ。


 ……素性も知れない人間に、ここまで純な親切を向けることの出来る人は、そう居るものではない。己の内から敬意と感心が湧き上がるのを感じながら、彼は紅茶を口にする。


「旨い、ですね」


「あらあら、お上手ですこと。こんなおばあさんに気を遣わなくってもいいんですよ?」


「いや、世辞などではなく。……葉の豊かな香りが鼻に抜けるのが心地良い。舌の上に感じるほのかな苦みが、砂糖の柔い甘みと実に合っている」


「ふふ、気に入ってもらって何よりです」


 彼が言葉を終えるのを待って、老女は自身のカップに口を付けた。

 そうしてほんの少しの間、二人が紅茶を楽しむ為の沈黙が流れる。穏やかで緩やかなその時間は、彼の心を落ち着かせるに十分な物であった。


 ……それはともすれば、老女の意図の一つであったのかもしれない。静かにカップをソーサーへと置いた老女は、柔らかな笑顔を僅かに引き締め、その居住まいを凛と正した。

 空気の変化を感じ取った彼もまた、己の姿勢を張り詰めさせる。そうして改めて目に入った白髪の老女は、重々しい深紅の外衣も相まって、荘厳な雰囲気を醸し出していた。

 重厚な空気を纏ったままに、老女は穏やかな声色でもって言葉を紡ぐ。


「先ずは、名乗らせて頂きましょうか。……私はミシュリーヌ。当『王立学園』の長を務めております。どうぞお見知りおきを」


「……丁寧な御挨拶、ありがとうございます。ですが僕は────」


「名乗る名前を持ち合わせてはいないのでしょう?」


 思考を読んだかのような老女ミシュリーヌの言葉に、彼は少なからず驚愕する。

 なおもミシュリーヌは、彼の思考をなぞる様に言葉を続けていく。


「そればかりか、自身が何者であるかの記憶も無く、自分がなぜこの場にいるのかも分からない。……申し訳ないけれど、今の間に少し『覗かせて』頂きましたわ」


 精神に介入する類の魔法か、と彼はすぐに思い至る。恐らく、今までの会話の間で、表層意識と記憶の一部を読み取られたのだろう。

 人間の精神へ介入する魔法、特に読心魔法などは相応の技量を必要とする。並の人間が使うには難しい魔法だが、目の前の老女が並の人間だとは彼自身全く思っていなかった。


 ……黒髪の少女に僅かばかり魔力を分け与えられていたとはいえ、その程度の力でもって展開される『心の壁』──生命に備わる心身防衛機構──では、これほどの魔法巧者の精神介入など防げるはずもなかったのだろう。

 彼は心中でそのように思いつつ、僅かながら罪悪感をにじませるように語っていた老女へ向けて口を開く。


「謝って頂くようなことではありません。不審な人間を疑い、調査するのは当然のことかと。それに関して僕が不服を表すのは筋違いだ」


 それは彼の正直な気持ちだった。一般的な観点で言えば恐らく、魔法によって内心を覗かれるというのは不快な行為に当たるだろうが、今回は状況が状況だ。


「まして、素性も何も知れたものではない人間が勝手に私有地に踏み入っている訳ですから。読心でも何でもして情報を得ようとするのは、貴女達の立場としては当然のことでしょう。

 むしろ、ここまでの歓待を頂いていることや、心を読んだと正直に語って頂けていることに、僕の側が感謝させて貰いたいほどです」


 言い切った彼は、真正面から老女の碧眼を見つめる。老女はその真直ぐな視線と言葉に目を見開き、しばしその驚愕の表情のままに言葉を失った。

 程なくしてミシュリーヌは己に還るも、驚きの余韻は消えることなく。

 やや声を強張らせて、老女はその言葉を紡いだ。


「随分と落ち着いているわね、貴方。お紅茶の力、というわけではなさそうだけれど。……とても、己の記憶を失った人だとは思えないわ」


 言われて彼は、確かに、と心中で頷く。現状を改めて俯瞰してみると、気味の悪い程目立つのは自分自身の冷静さだ。

 見知らぬ森で目を覚まし、見知らぬ川辺で魔獣と遭遇し、見知らぬ少女に助けられ、見知らぬ部屋に連れてこられ、見知らぬ老女に紅茶で持て成され、と。

 起こった事態を並べてみれば、普通の人間ですら脳の処理が追いつかないのではないか、と思われる出来事の連続だ。記憶喪失ならばなおさらに、慌てるなり狂うなりするだろう。


 翻って当の彼はどうなのかと言えば、平常心に程近い状態にあった。思えばそれの、何と不自然なことか。

 ……そう思いこそするのだが、彼は同時に『だからどうした』とも感じていた。事実冷静なのだから仕方がない、と。

 だからこそ、ミシュリーヌへ返す彼の言葉は、実に単純にして明快であった。


「貴女自身が、それを確かめたはずです」


「だからこそ、よ。私も長く生きてきて、いろんな人と出会ったけれど……貴方のような子は、初めて」


 困惑の色を隠すことなく、老女ミシュリーヌは彼へ向けてそう告げる。


「記憶とは自我の礎。今の己を成す土台、根幹にあるもの。その核とも言うべき『己自身の記憶』を失えば、人は大なり小なり混乱するものです」


「つまり、記憶を失って尚欠片も混乱した様子を見せてない僕は普通ではない、ということでしょうか」


「……端的に言ってしまえば、そういうことです」


 彼は気付いていた。ミシュリーヌが当初から纏っていた柔和な気配が、いつの間にやら霧散していることに。

 代わりに老女は、静かな警戒と不審を滲ませ始める。それはまるで、お前は一体何者だと、不気味にも程があるのではないかと、言外に責め立てているかのよう。

 応接室の空気は、徐々に澱みを見せ始めていた。


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